日蓮正宗 聞正寺支部

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『柔和忍辱衣』

2014年11月17日 | ブログ
『柔和忍辱衣』


 柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)とは、法華経の『法師品』等に説かれる衣座室(えざしつ)の三軌の一つであります。
 衣座室の三軌とは、釈尊が薬王菩薩に対して、滅後に法華経を弘通する時の三種類の心得を説いたものであり、弘経の三軌ともいいます。
 法華経『法師品第十』に、
「若し人此の経を説かば 応に如来の室に入り 如来の衣を著 而も如来の座に坐して 衆に処して畏るる所無く 広く為に分別して説くべし 大慈悲を室と為し 柔和忍辱を衣とし 諸法空を座と為す 此に処して為に法を説け」(開結三三一~二頁)
と、仏の滅後に法華経を説く者は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して法を説くよう示され、この如来の衣が「柔和忍辱衣」であります。
 「柔和(にゅうわ)」とは、一般的に顔つきや性格が優しくゆったりとした様子をいいます。すなわち仏と自分との関係において、自分の心中に深く仏の教えを観じ、教えに随順していくことをいいます。柔らかで純真な気持ちを持つことであります。
 日蓮大聖人様は『義浄房御書』に、
「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり。法華経の御為に身をも捨て命をも惜しまざれと強盛に申せしは是なり」
と御教示であります。自分自身の心・無知蒙昧、慢心や我が儘な自分の心を師とするのではなく、師匠である日蓮大聖人様の教え、御法主上人猊下様の御指南に素直に随順して、実践していくことが肝要であります。
 また、「忍辱(にんにく)」とは苦悩・迫害・侮辱に耐え忍ぶ不動心をいいます。
 南無妙法蓮華経の正法を受持し弘宣していくならば、必ず増上慢の謗法の人から憎まれ謗られ、辱めを受けます。このような困難や迫害にあった時に、どこまでも耐え忍んでいくのであります。決して相手に対して感情的に怒ることなく、慈悲をもって接していく。心を込めて相手の幸せを思って忍んでいくのであります。
 また衣とは、身体を覆い、寒暖より身を護り、命を護るものであります。
 『法師品第十』には、
「如来の衣とは柔和忍辱の心是なり」          (開結三二九頁)
と説かれ、柔和忍辱の心や振る舞いは、仏の法と功徳を覆って護る姿であり、これを如来の衣といいます。
 すなわち柔和忍辱衣とは仏法における衣の用きとして、仏法の功徳とその行者を護る強い不動心であります。衣が我が身を飾るように、この柔和忍辱衣は信心する功徳によって、我々の心身が荘厳されるのであります。
 御法主日如上人猊下様は、
「折伏をしていけば非難中傷を受けるのは当然でありますけれども、そこで挫けてしまって臆病風を吹かせてはだめなんです。どんなことがあっても、それを乗り切っていくという、勇気ある行動が必要なのです」(折伏要文九頁)
と、南無妙法蓮華経の正法を弘めるに当たり、どんなに辛く苦しくとも耐え忍び、勇気をもって折伏し続けることの大切さを御指南であります。
 また『教機時国抄』には、
「謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し」
と仰せであります。
 南無妙法蓮華経を信じない謗法の人には、とにかく法華経を強いて説いていくことが肝要であり、たとえ相手が誹謗してもそれが毒鼓の縁となって必ず救われていくのであります。これは過去の不軽菩薩の但行礼拝行と同じ修行であります。
 すなわち不軽菩薩は威音王仏の滅後像法時代に出現して、二十四字の法華経を説いて人々の仏性を礼拝しましたが、礼拝された人々はこれを憎み軽しめ、杖木瓦石をもって難を加えたのであります。しかし不軽菩薩は柔和忍辱衣をもってこれを耐え忍び、礼拝行を全うして成仏を遂げるのであります。そして、この不軽菩薩に迫害を加えた衆生は、一度は地獄に堕ちて大変な苦しみに沈みましたが、これが縁となり、逆縁の功徳によって罪を終え已った後に、成仏を遂げることが出来たのであります。
 御法主上人猊下様は、
「我々は、相手が耳を塞ごうが何をしようが、この妙法蓮華経が尊いということを語っていく。つまり「この御本尊様以外に幸せになる道はありませんよ」ということを、きちっと言わなければだめなのです。自分で勝手に「あの人は言ってもだめよ」などと決めつけてはいけないのです。それでは「だめなのは、あなたの方ですよ」となってしまいます。ですから、自分勝手な解釈をしないことです。大聖人様の御妙判をよく拝すれば、いかにこの逆縁と言うことが、大切な一つの縁であるかということが、よく判ると思います。」(折伏要文五四~五頁)
と仰せであります。
 相手が誹謗して背き続けようとも、これが逆に功徳となるのであります。法華経の不思議な功徳は計り知れないのでありまして、この逆縁成仏を確信して、慈悲をもって折伏を行ずることが大切なのであります。
 本門戒壇の大御本尊様への絶対の確信をもって、常に南無妙法蓮華経とお題目を唱え、自己の怯弱な命、己心の魔を、確信と実践の功徳をもって打ち破って行くことが肝要なのであります。
 今の時代は、この破邪顕正の折伏行が最も大切であり、柔和忍辱衣、本当に相手を思う慈悲の心が養われ、成長があり、感謝があり、自他共に大きな功徳を享受することが出来るのであります。
(聞正寺支部)

七宝の宝塔

2014年11月17日 | ブログ
七宝の宝塔

 法華経『見宝塔品第十一』には、多宝如来の七宝で荘厳した宝塔の涌現が説かれております。この七宝とは、金・銀・瑠璃・蝦蛄・瑪瑙・真珠・まい瑰等の金銀財宝をいいます。
 日蓮大聖人様は、この七宝を、
「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり」
と仰せであり、大聖人様のいう七宝とは、七つの功徳の財であることを御教示であります。
 すなわち、はじめの「聞(もん)」とは、聞くことであり、正法を素直に聞くことであります。今末法はすべて聞法下種であり、正法を聞くことが功徳を得る一番の元となります。
 次に、「信(しん)」とは信ずること。わだかまりのない澄んだ心をもって信じ切ること。疑い無き信をいいます。
 次の「戒(かい)」とはいましめ。悪を捨てて善を勧めること。謗法厳誡を旨とする本門の大戒をいいます。
 次の「定(じょう)」とは禅定。心を不動にして定めること。修行によって迷いや苦しみがなくなり、真の心の安定を得ることであります。
 次の「進(しん)」とは精進。懈怠の心や退転なく真っ直ぐ道を進むことであり、勇猛精進をいいます。
 次の「捨(しゃ)」とは、惜しむことなく、執着心を捨て去ること。一切のとらわれを無くすことをいいます。
 最後の「慙(ざん)」とは、慙愧(ざんき)。増上慢を戒め恥じる心をいい、自らの悪心、悪業を恥じ、高徳の人の姿や振る舞いを見て自らの不徳を恥じ、正法の道理に照らして己の邪心を恥じることをいいます。この慙(ざん)、恥じる心が仏道修行を成就する要因となるのであります。
 これら聞・信・戒・定・進・捨・慙の七つの宝をもって、我が心を飾ることが肝要となります。
 一に「聞(もん)」聞く、二に「信(しん)」信を生じ、三に「戒(かい)」戒め、四に「定(じょう)」心を定め、五に「進(しん)」精進し、六に「捨(しゃ)」執着を捨て、七に「慙(ざん)」慢心を戒め恥じる心をもつ。これこそが真の清浄なる心の財であります。
 大聖人様は『阿仏房御書』に、
「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝を以てかざりたる宝塔なり」
と、大御本尊様を受持信行して南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、妙法蓮華経の宝塔であり、聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝を以て荘厳された宝塔であると御教示であります。
 私達・末法の三毒強盛の荒凡夫は、本門戒壇の大御本尊様を唯一無二に信じて、自行化他に亘り南無妙法蓮華経と唱え奉る処に、はじめて即身成仏の大利益を得ることが出来るのであります。ここにしか真の成仏はあり得ないのであります。
 また、この七宝は、はじめに「聞」とありますが、どのような人にでも、大聖人様の正法を説き聞かせていくことが肝要であり、この聞くことによってはじめて信を生ずるのであります。『法華初心成仏抄』に、
「法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」
との仰せのままであります。
 御法主日如上人猊下様は、
「我々は、とにかく折伏をしなければだめだということです。「やれるときにやる」というのではだめなんです。とにかく法華経を強いて説き聞かせていくということです。これは摂受ではなく折伏をしなければだめなんですね。
 もし、そのときに「信ぜん人」、すなわち順縁の人がいれば、その人は仏になりますよと。それから「謗ぜん者」、すなわち我々が折伏すると反対する人。そのような人がいたとしても、その人は「毒鼓の縁」となって仏に成ると、このようにおっしゃっているのです。(中略)この大聖人様の教えというのは、本当にすごいのです。大聖人様の偉大なる功徳によって、人々がたとえ反対しても、それが縁となって必ず成仏をしていくのです。ですから、皆さん方には自信を持って折伏に励んでいただきたいと思います」
(折伏要文二一三~四頁)
と、順縁、逆縁共に、どのような人々でも救いきる日蓮大聖人様の偉大なる正法を確信して、折伏に邁進する大事を御指南であります。
 ここに徹底して唱題に励み、その功徳と歓喜をもって、ご縁の方々に慈悲の折伏を行じ続けていくのであります。
 日蓮正宗の自行化他に亘る信心修行によって、我が身が七宝の宝塔となり、即身成仏の大功徳に浴することが出来るのであります。
(聞正寺支部) 

御法主日如上人猊下御指南  (平成二十五年一月二十三日 災害復興新築落慶法要の砌)

2014年11月17日 | ブログ
御法主日如上人猊下御指南  (平成二十五年一月二十三日 災害復興新築落慶法要の砌)

 私達の達成を願うところは、広宣流布であります。そして、その中に仏国土実現というすばらしい理念が含まれているのでありますから、一人一人の折伏はわずかなものではあるけれども、しかし、それが重なれば、数え切れない程の大きな力になるのであります。そもそも折伏というのは、一人一人がしっかりと行じていくところに大事な意義がありまして、大聖人が、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり」と仰せでありますが、この大聖人様の御化導と同じように、私達一人一人が多くの人達にしっかりと下種折伏していくということが、今私達に課せられた大事な使命ではないかと思います。
 そもそも折伏は、仏様から与えられた尊い使命であります。また、仏祖三宝尊への最高の報恩行であります。さらにまた、一切衆生救済の最高の慈悲行であります。そして何よりも、この折伏こそ広宣流布達成の為の最大の、欠くべからざるところの我々の修行であります。同時にまた、一人一人の根本的な仏道修行であります。
 このように、折伏を行ずる中には、数多くの功徳が含まれているのでありますから、一人一人がこの折伏を大事にして、本年もまた精進して頂きたいと思います。

心の財

2014年11月17日 | ブログ
「心の財」

 日蓮大聖人様は『崇峻天皇御書』に、
「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給べし」
と仰せであります。
 はじめに「蔵の財」とは、これは現世において蔵に蓄えることのできる物をいい、米穀等の食料及び金銀財宝をいいます。これは人間の幸福の観点から言えば、大事な要件の一つではありますが、実は浅く、はかないものであります。むしろ現代のように物質的な豊かさが、逆に欲にとらわれ、心を無くし、人間としての本当の豊かさを損なう原因となっております。
 次の「身の財」とは、身の健康や身につけた技術、社会的地位や名誉等をいいます。これらも当然幸福の条件ではありますが、これが全てではなく、最終的に死によって消滅してしまうものであります。蔵の財よりはすぐれますが、蔵の財同様に永続性のないものであります。
 また大聖人様は『持妙法華問答抄』に、
「只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだし也。嗚呼、恥べし恥べし、恐べし恐べし」
と仰せであり、慢心や怒り、名聞名利や我見執着は、成仏の妨げとなる大変恐るべきものであるとの御教示であり、本当に気をつけ誡めなければなりません。
 そして、最後に示される「心の財」が真に大切な財となります。
 すなわち、これは人間の命の内に築いた本当の豊かさをいいます。人々の為にどれだけ尽くしたか、自己を精神的に、人間的にどれだけ成長させたかということであり、人としての尊さ・尊厳をいいます。命の荘厳であります。
 つまり「心の財」とは、いかなる状況下にあっても正しい心の用きが出てくる命をいうのであります。この財こそ第一であり、生涯積むべき本当の財であります。これは未来世に継続されていきます。
 そして、この財は、本門戒壇の大御本尊様への絶対の信心によってはじめて備わるのであります。
 総本山第二十六世日寛上人様は、
「かならすかならす身のまづしきをなけくへからず。唯信心のまつしき事をなけくへきにて候」
と仰せであり、ここに物理的な蔵の財・身の財と、精神的な心の財を端的に示されております。
 すなわち物理的な貧しさは、現世だけのものである故にそう嘆くことではなく、未来永遠に所持できる財を持つことが大切となります。その財こそ大御本尊様への信心であります。この信心がないことを何よりも嘆くべきであるとの御教示なのであります。
 すなわち本門戒壇の大御本尊様への絶対の確信と、血脈付法の御法主上人猊下様への信伏随従の信心を根本に、唱題と折伏によって、無上の心の財を得るのであります。
 また、この大御本尊様と血脈への「絶対信」そのものが根源の「心の財」なのであります。
 自行化他にわたる信心、常に御本尊様に向かって南無妙法蓮華経と唱え奉るとともに、大聖人様の尊い教えを語り伝え相手に受持せしめていくことを深める中に、真の「心の財」が積まれ、蔵の財、身の財が生かされ、より一層充実し、豊かな人生を営むことができるのであります。
 『崇峻天皇御書』においては、苦境に陥った四条金吾殿に対して日蓮大聖人様は、たとえ自分に非はなく周りの怨嫉によって起きた苦難であったとしても、讒言した同僚や主君を恨んだり、愚痴を言っては返って自分の恥となる故に、どこまでも慈悲をもととして耐え忍んでいくよう誡められております。
 これは実に大変な事でありますが、大聖人様の御金言のままに、自らの宿業を見つめ、罪障消滅の為、また試練として自己を磨き、信心を根本として大きな成長を期することこそ真実の生き方なのであります。
 すなわち「師弟相対の信心」、師匠の御心を我が心として、師匠の説き示すとおりにどこまでも実践することが、現当二世に亘る成仏の直道であり、真の心の財を積むことになるのであります。

 平成二十七年、三十三年の御命題達成に向けて全力で精進して参りましょう。
(聞正寺支部)

正直に実践する

2014年11月17日 | ブログ
「正直に実践する」
 
中国の格言に「忠言耳に逆らいて行いに利あり」とあります。
 真実の良い忠告は、とかく耳ざわりで、すなおに聞き入れにくいものでありますが、それを謙虚に聞いて、実際に行うならば、大きな利益があるということであります。
 これは我々も含めまして、全ての人に当てはまることでありますが、特に長と名の付く役員の方々には、講員さんの育成に当たり常に激励を続けると共に、講員さんからの建設的な意見や、思いを聞いて、十分な対応をしていくところに必ず大きな発展があると思います。また、お互いが尊敬し合い、信頼しあって、一結の和をもって、広宣流布へ前進していくことが大切であります。
 御報恩の折伏を成就するためには、まず師弟相対の信心に住することであります。常に唱題し、お題目を唱え抜いていく。そして、あらゆる可能性を求め実行し、また発想の転換、幅の広い受け入れ体制を心がけ、正直に精進を重ねていくところに、必ず仏天のご加護を頂いて誓願が成就されると確信致します。
 大聖人様は『立正安国論』に、
「主人の曰く、予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさゞらんや。その上涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨」の責めを遁れんが為に唯大綱を撮って粗一端を示す」                      (御書二四三頁)
と仰せであります。
 この御文は有名な御文でありますが、『立正安国論』第六問答中、主人の答えの所であります。すなわち、
「私は非常に器量の少ない者でありますが、しかし忝なくも仏教の深い教えを篭めた大乗の教えを学んでいる故に、自己中心的な小さな我見を言うのではありません。
 例えば青ばえのような小さなものでも、驥という天空を翔る勝れた動物の尻尾についていけば、自らの力を労せずして万里の道を往くことが出来ます。また、蔦葛のような蔓植物で、柔らかく自力では立ち上がり、伸びることが出来ないようなものでも、松のようにしっかりとした堅い木に巻きついていけば一番上の、千尋の高さまで伸びることが出来るのであります」と。
 すなわち、器量の少ない者であったとしても、尊いもの、勝れたものに依ることで、本当の正しいところに到達し、優れた意義を顕すことができるのであります。ここは御本尊様に絶対の確信を持ちなさいとの御指南であります。
 続いて、
「弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさゞらんや」と。
 これは一往、大聖人様が、釈尊の仏教中の仏子としての立場をとられ、このように仰せです。
 仏の子として「諸経の王に事ふ」ということは、最極の法たる法華経に仕えているということであります。しかもその御経に仕えている時に、念仏等の邪義邪法によって、仏の出世の本懐たる法華経の教えが衰えている姿を見た時、法華経の正しい教えを惜しみ、またその衰微を悲しむ心が起こらないはずがあろうか、否、私は心から哀しんでいるとの述懐であります。
 まさに、現代において、大聖人様の御法が、あらゆる邪義・邪宗教によって、行く手を阻まれる姿を見て、これを憂い、また危機感を持たないで見過ごすということは、大聖人様の真の仏弟子に非ずということであり、いよいよ正法の広宣流布に心血を注いでいきなさいとの御指南であります。
 また「その上涅槃経に云はく」と、
 ここからは大聖人様が邪義邪法に対して、しっかりとけじめをつけるべきであると、経文・涅槃経を挙げられて、裁かれるところであります。
「『若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり』と」
 この「善比丘」とは仏様の教えを聞いて、その戒を破ることなく、正しく修行をしている人(僧侶)をいいます。即ち、たとえ善比丘と言われるような徳の高い者であったとしても、もし法を壊る者を見た時に、それをそのまま放置していると、これは真実の行者にはならないと言うことであります。逆に、仏法の中においてその怨敵となって罪障を積むということであります。
 まことの行者とは、破法の者を見た時に、呵責し駈遣し挙処しなければならないと言われているのであります。
 ここの「呵責(かしゃく)」とは、法を壊る者を見たならば、言論をもってしっかりと悪を責めよということであります。
 次に「駈遣(くけん)」とは、呵責して悪を改めなければ、その者を追い払うということであります。
 また「挙処(こしょ)」とは、その謗法の罪を挙げて、その罪に対して処置をするということであります。
 このように法を壊る者に対し、よく呵責し駈遣し挙処するものが我が弟子であり、真の声聞、すなわち、仏の教えを正しく聞く行者であるという誡めであります。
 ここは謗法を決して見逃してはならないという厳しい御指南であります。
「余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨」の責めを遁れんが為に唯大綱を撮って粗一端を示す」と。
 大聖人様は、私は善比丘の身ではないけれども、仏様が説かれた、この「仏法中怨」(仏法の中の怨なり)との呵責を遁れんが為に、ただ大綱の一端をここに示すと謙遜して仰せになられるのであります。
 「仏法の中の怨なり」との謗法与同の咎を免れる為には、何よりも折伏を行じ、どこまでも慈悲を本として謗法の害毒の恐ろしさを説き、大聖人様の正法を受持せしめていくことが、肝要なのであります。
 これよりも真の法華講衆として慈悲の折伏を行じ、謗法の害毒によって苦しむ人々を一人でも多く救い、共々に、本当の幸せを築いて参りましょう。
 『四条金吾殿御返事』にのたまわく、
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし。「諸余怨敵皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず。兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶ふべからず候」 (御書一四〇七頁)
と。
 いよいよの御精進と御健勝を心よりお祈り申し上げます。(聞正寺支部)

私たちの目指すもの

2014年11月17日 | ブログ
私たちの目指すもの

私たち日蓮正宗を信仰する者は正しい仏法によって自分自身の幸福な境界を確立するとともに、真の平和社会を築いていくことをめざしています。
仏教では、人間として真実の幸せは成仏するところにあると説いています。成仏とは、死後の成仏のみを願ったり、人間とかけ離れた存在になることではなく、現実生活のなかで私たち自身が、仏のような理想的な人格を形成し、安穏な境地にいたることをいうのです。

仏には、法身・般若・解脱という三つの徳が具わっています。この三徳とは、清らかな生命と、物事を正しく判断する智慧、そして悩みや苦しみを克服する自在の境地をいいます。私たちも、正法を信仰することによって、自然にこれらの徳を身に具え、いかなる困難をも乗り越え、人生を強く歩んでいくことができるのです。

末法の御本仏日蓮大聖人は、すべての人々に幸福をもたらすため、南無妙法蓮華経という正しい教えを解き明かしました。そして弟子・信徒に対して、この仏法を世界に弘めて真の平和社会を実現するようご遺命されたのです。このご遺命の実現を「広布流布」といいます。
このように、一人ひとりの成仏と広布流布を目的として、日蓮大聖人の教えを正しく実践しているのが日蓮正宗の信仰です。(『法華講員の心得』より)

さまざまな宗教があるけれども

2014年11月17日 | ブログ
さまざまな宗教があるけれども

世の中にはたくさんの宗教があります。では、宗教なら何でも良いかといえば、けっしてそうではありません。”信仰する”ということ は、拝む対象と一体になろうとする行為ですから、拝む対象が私たちの生命の奥にまで入り込み、私たちの人格や行動までも 左右するのです。また、宗教の及ぼす影響というものは、たとえ本人が「自分は無宗教であるから 関係ない」と思っていても、そうはいきません。私たちの生命は、両親(ひいては先祖)の身心を分けて生まれてきたものですから、過去に先祖が信仰していた 宗教の影響は、確実に私たちの生命へと引き継がれ、各々の人生の上に、その家の宗旨の影響が必ず現われます。
ですから、宗教は何でも良いのではなく、まず、正しい宗教を選ばなければ、世の中や家の中に、いろいろな 悪い影響や問題が起こってくるのです。                    (『絵で見る日蓮正宗e="3">
の信仰』より)

真実の幸福とは

2014年11月17日 | ブログ
真実の幸福とは

人は、苦しいことや悲しいこと、また困難なことに出会ったとき、それを解決し克服する方法について思めぐらします。しかし、その解決方法を見いだすことは容易なことではありません。           
仏法では、生・老・病・死など人間だれもが直面する人生の本質的な苦悩を根本的に解決する道を説き示しています。そして、その本質的な苦悩を解決せずして、 真の幸福はありえないと説いています。真の幸福とは、観念的なものではなく、因果の道理をもととした正し信仰によって、自己の内面にある健全な生命を確立し、深い智慧と強い心を養うことに よってはじめてもたらされるものです。 
どのようなことにも、けっして揺らぐことのない安穏な境界、それが真実の幸福 なのです。(リーフレット『日蓮正宗』より)