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菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

井の中から見上げた先の由自の深さを知る。 『ブルータリスト』

2025年03月02日 11時56分23秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2411回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

『ブルータリスト』

 

 

 

 

1940年代、ホロコーストを逃れてアメリカへ渡ったハンガリー系ユダヤ人の建築家が新しい言葉と国で新たな人生を構築していこうとするドラマ。

 

 

 

物語。

1940年代ハンガリー。
1940年代初頭に、ハンガリー系ユダヤ人の建築家ラースロー・トートはナチスの手を逃れ、アメリカへ脱出する。
だが、妻のエルジェーベトと姪のジョーフィアはつかまり、ナチスの手に落ちたものの戦争の終わりは近く、なんとか生き延びることに成功した。
妻エルジェーベトは、その無事を報せる手紙を伯父ラースローに向け、アメリカで家具屋をしているエルジェーベトの兄宛てに送った。
しかし、姪のジョーフィアは病弱で、二人はパスポートもなく、とてもアメリカには渡れそうもない。

1947年アメリカ、ペンシルバニア州ドイルスタウン。
義兄の家具屋に、実業家のハリソン・リー・ヴァン・ビューレンの息子ハリーから、サプライズで実家の休憩室を図書室にデザインから起こしてリフォームして欲しいという依頼が来る。
モダニズムを学んだラースローは戦前は欧州では名が知れ始めていた建築家だった。
彼は、アメリカではまだ新し過ぎる、装飾を排して機能美を前面に出した発想でデザインをする。

 

 

監督と共同脚本は、『シークレット・オブ・モンスター』『ポップスター』のブラディ・コーベット。

主演は、『戦場のピアニスト』『クリーン ある殺し屋の献身』のエイドリアン・ブロディ。
共演は、フェリシティ・ジョーンズ、ガイ・ピアース、アレッサンドロ・ニヴォラ。

 

2024年の第81回ヴェネツィア国際映画祭でブラディ・コーベットは銀獅子賞(監督賞)を受賞。
2025年の第82回ゴールデングローブ賞で作品賞(ドラマ部門)、主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)、監督賞を受賞。
アカデミー賞にて、作品賞を含む10部門でノミネート中。

 

 

撮影は、フィルムでしかもカメラはヴィスタビジョン(35mmフィルムを横に使い、70mm扱いにする機構)で撮影されている。
建築を扱う映画は予算がかかるのだが、そこをうまく見せている。(『片目のジャック』以来60年ぶりの使用)
こういう過去の特殊な撮影方法をとる映画はたまにあって、『ヘイトフル・エイト』が1996年以来のウルトラパナビジョン70方式、『ザ・マスター』は65mmフィルムで撮影。逆に当時風なのに当時は存在してなかったIMAX白黒65mmフィルムを開発して撮影というのもある。
つまりは、金のかかる撮影方式であり、しかもそれを200分(再現風映像で16mmや35mmも使用)の本編分撮影しているのだ。とはいえ、予算は約13~16億円くらい。(『関心領域』でも約20億円。ただし日本だと『るろうに剣心』の『2』『3』合わせたのと同じくらい)
というわけで、今作は、いわば低予算超大作といえる。

 

来場者には、展覧会時の作品の解説書のようなミニ冊子が配られる。
これは、始まる前にも読めるが、オススメはインターミッション(15分)中に読むとよいと思われる。
この、ある冊子も映画の一部といえる。

 

 

 

架空伝記で、リアルにつくりあげた人物の半生を描き出す。
ドストエフスキー作品風ともいえる内容。
方向性としては、ベルナルド・ベルトリッチやイングマール・ベルイマン、マーティン・スコセッシ、P・T・アンダーソン、ジュゼッペ・トルナトーレなどの作家なども多く手掛けている叙事詩的な内容で、モダニスト建築家のハンガリー系ユダヤ人の夫婦の半生を描く。
話題になっている3時間35分(215分)の上映時間は、二章でそれぞれ100分ずつの前後編を15分のインターミッション(休憩)を含んでの時間(なので、映画の上映自体は200分)となっているので、普通に2本立てや1と2をいっぺんに見る感じなので、3時間の大作インド映画一本見するより大変ではない。(インド映画はインターミッションの表示はあるが日本の上映では入ってくれないことが多いからね。『バーフバリ』シリーズは前後編で279分、完全版は326分だし。ちなみに『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』はインターミッションなしの192分)
このインターミッションも映画の一部なので、この上映時間となっている。そのための音楽がつくられ、音響効果が入り、映される画像にも意味があり、映画の一部としているのもニクい。(家で見ていたら、飛ばされてしまうだろう)
超大作のようで、実は、そこまでの大予算ではない(日本の超大作ぐらい)が、その分、非常うまくロケとセットとCGを組み合わせて、ヨーロッパ映画のように構成と凝った組み立てと上質な映画文法で見せてくる。
スペクタクルやザ・ドラマチックというタイプではない。
だが、他の大作映画をしのぐのは、まさかの60年ぶりのヴィスタビジョン撮影(70mmフィルム撮影)など、いくつかある。
そこに、2つの面のデザイン性と音楽で一段上のセンスをぶつけてくるので、そこらの対策の数倍大作の衣を纏っている。
ザクっというと、オモシロ偉人伝のまとめを読んでいるような内容。読み応えのある知られてない偉人のウィキペディアをページをセンスと意図深い映像で見ていく感じ。
なので、いくつもテーマとコンセプトはあるけど、あえて、凸凹させて、キレイにまとめないことで、リアルを生み出している。
その時代のある人物の観た世界の中に没入させてくる。
タイトルに引きずられているが、この荒々しいという意味を持つブルータリズム建築はモダン建築の発展形であり、劇中でもモダン建築を学び、主人公はその旗手の一人とされているので、映画全体のテーマを含んだタイトルになっている。そりゃ『モダニスト』より『ブルータリスト』の方がタイトルのパワーが圧倒的にあるし、その言葉のままの意味である『荒ぶる者』の方でも伝えようとしているが読める。荒らしいとブルータリズム建築は機能美に特化した節煙し売れば大人しいもので、華美でないとはいえ削ぎ落されたデザイン性は現代でいえば、スタイリッシュとされて、今は再評価されてもいる。
この見た目からの名づけと中身ののズレのようなものが、物語の中でも描かれる。
荒々しさとその静寂、そして弱さ。架空伝記のスタイルだが、その中には、複数の人物による点が線となって形作る強い意図が浮かび上がり、巨大な思考の渦の中に観る者を叩きこむのよね。
伝記映画は、映画が長編化したところから一つの王道ながら、ダイジェスト的になり映画が持つうねりが欠けがちではある。そこに挑んで新しい伝記映画につくられ続けている。(ある出来事に焦点を当てて、まとめただけなのは伝記とはしない(『グリーンブック』など)
さまざまなタイプの無名人物、知られた人物のきれいごとを排したリアルな姿(死後や昔の人だからできたなど)や別の人物との関係に焦点を当てたもの、語り直しなどもある。
小説や大河ドラマと違い、映画は伝記を語るには時間が短い、王道でありながら、映画ならではの手法が必要になる。最近では、『オッペンハイマー』が伝記映画に新しい語りを生み出した。(コンセプトのもとにまとめられた集合偉人絵画のようでもある)
ならばという発想の転換は、映画化に向いた人物の歴史を、伝記映画に寄せて語る、架空伝記の方法だ。(小説では、時代小説や大河小説と言われたりする。これは主人公が変わることも多い。実は今作にもそういう仕掛けがある)
これは、『フォレスト・ガンプ』『風と共に去りぬ』『市民ケーン』など、傑作を生み出した架空伝記である。ただ、これにもいくつか理由があり、実際に人物を描くのがいろんな事情で難しいなんて場合もある。(韓国映画に多い印象がある)
『三国志演義』など現実を面白く盛るのは、物語の当たり前の方法。
他にも、複数の人物をまとめて一人にしたり、時代を描くために、そこにいうたあの可能性がある知られていない人物の歴史をでっちあげたりする。
実は、今作は、それらを複数組み合わせたモデルにした人物が複数(二人のハンガリー建築家をモデルにしているという)で、そこに別の小説からのイメージ(インタビューでその小説の誰かも答えている)も入れ、国のある層を象徴させる特徴を一人に人物(家族)に集約し、その上で現代を描くという伝記映画の手法を複合させて、架空伝記にしている。
それは映画的な何かを加えようとしたからだと言うのが伝わる。
そして、この映画は、建築映画でもある。まぁタイトルにさえあるわけだから。
この建築映画は3つの意味がある。それは、建築物が物語と密接な関係がある映画(『パラサイト 半地下の家族』『タワーリング・インフェルノ』『ダイ・ハード』『ウィンチェスターハウス/アメリカで最も呪われた屋敷』など)、建築しているのを見せる映画(『グッドモーニング・バビロン!』『エッフェル塔 〜創造者の愛〜』『みんなの家』など)、映画のために建築をした映画(『ベン・ハー』『プレイタイム』『哀れなるものたち』など)
今作は、建築をする映画ではあるが、そこは一部分なのだが、映画そのものを建築としてとらえる映画となっている。
これは時折ある別の構造を使って物語を構成する手法で、古くは列車の行き帰りの構造を持つ『キートン将軍』や雑誌の構造を持つ『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』などがある。
こういった説明が長くなったのは、今作がまさに、まとめ過ぎないのにまとめている構成と構造(まさにブルータリズム建築)であることが一番のポイントであるからなのだが、それを支える映像表現の映画的な目論見が素晴らしいのだ。
それをさらに壁としてみせるキャスト陣の演技がまた見事。全キャストに拍手を送りたい。特に、無意識に出てしまうその人物が抱えているもの(怪我や病気、心の障害、差別意識、指向)が見事に表現されている。
しかも、それを映像とイメージで伝えていることこそ、この映画の白眉。例は、天窓の破壊とある出来事のイメージの連鎖。上を見上げるくりかえしと地下に降りていく上下の運動。カメラと人物の距離感など。
しかも、それが建築的なものと一致させているあたりの貫き方が凄まじく、巨大なものを丸ごと受け止める映画ならではのパワーを見せてくれる。
それになんといっても、映画館は建築物である。
建築の中で建築の映画を見ることを意識している。映画館で見ることをこのように意識させた映画は多くはないが、時折つくられてきたが、特に最近、増えてきたように見える。(『枯れ葉』『キノ・ライカ 小さな町の映画館』『バビロン』『時々、私は考える』『ザ・マスター』などなど)
映画をつくるだけでなく、映画館にまでかける、映画館に見に行く話が増えてきたのだ。
これは、映画ではなく映画館への危機意識の表れであると思う。
いづれ、「この時代には映画館が危機を迎えた」と俯瞰して語られる未来がくる。
その時、「ああ、だから今、映画館がないんだな」と思われるのか、「そこを乗り越えて今があるんだな」と思われるのだろうか。
過去と今、今と未来、夫と妻、加害と被害、支配と服従、罪と罰、今作は二つを繋げていく。
アメリカでは、若者がこの映画を支持したという。
歴史がつながり、未来につなげようとする意志を感じられるのだ。
そして、貴方と映画を繋げる一本。








 

原題:『THE BRUTALIST』(『ブルータリズム建築家』、『殺伐者』、『荒ぶる者』)

タイトルの「ブルータリスト」とは、1950年代に見られるようになった建築様式「ブルータリズム」の建築家のことであり、広くとれば「殺伐者」の意味にも取れる。

ブルータリズム (brutalism) またはニュー・ブルータリズム (new brutalism) は、1950年代に見られるようになった建築様式で、文化的要素が低く無骨な意匠を建物の外観に多用する。建築資材の質感が強調され、塗装や化粧板は使わない。荒々しさを残した打放しコンクリートなどを用いた彫塑的な表現(ベトン・ブリュット/生のコンクリート)を特徴とする。
1940年代に新折衷主義などの懐古的な動きが生まれ、モダニズム建築のインターナショナル・スタイルが形骸化したことに対し、モダニズム建築の機能主義の原点に立ち返ることを目指してスミッソン夫妻(英語版)らにより主唱された。1970年代にポストモダン建築が現れると衰退したが、現代では再評価もされている。コンクリート製のものがほとんどで寿命は100年ほど(補修で延ばせるが)といわれている。(wikiなどより)

 

 

制作年:2024年
製作国:アメリカ、イギリス、ハンガリー
上映時間: 215分(劇場上映での15分のインターミッションを含む。ソフト版ではインターミッションは1分なので201分)
映倫:R15+指定。

 

 

 

スタッフ。

監督:ブラディ・コーベット
製作:ブラディ・コーベット、トレヴァー・マシューズ、ニック・ゴードン、ブライアン・ヤング、アンドリュー・モリソン、D・J・グゲンハイム
脚本:ブラディ・コーベット、モナ・ファストヴォールド
撮影:ロル・クロウリー
プロダクションデザイン:ジュディ・ベッカー
衣装デザイン:ケイト・フォーブス
編集:ダーヴィド・ヤンチョ
音楽:ダニエル・ブルームバーグ
音楽監修:ジェームズ・A・テイラー

配給:パルコ、ユニバーサル映画

 

 

 

出演。

エイドリアン・ブロディ (ラースロー・トート/建築家)
フェリシティ・ジョーンズ (エルジェーベト・トート/妻)
ラフィー・キャシディ (ジョーフィア/姪)

ガイ・ピアース (ハリソン・リー・ヴァン・ビューレン)
ジョー・アルウィン (ハリー・リー・ヴァン・ビューレン)
ステイシー・マーティン (マギー・リー・ヴァン・ビューレン)
イザック・ド・バンコレ (ゴードン)
チャーリー・エソコ (幼いウィリアム)
ゼファン・ハンソン・アミッサ (10代のウィリアム)
アレッサンドロ・ニヴォラ (アティラ・ミラー)
エマ・ライド (オードリー・ミラー)
アリアナ・ラベッド (中年のジョーフィア)

ジョナサン・ハイド (レスリー・ウッドロウ)
マイケル・エップ (ジム・シンプソン)

 

 

ブルータリスト : A Story of A

ブルータリスト : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com

 

 

 

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

トートのモデルは、二人のハンガリー人建築家で、マルセル・プロイヤーとエルノ・ゴールドフィンガーだそう。

インタビューによると、【アイン・ランドの小説『泉源』(1943)に登場する建築家ハワード・ロークの辿った旅】から今作はインスピレーションを得たという。

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

何カットか、時制を飛び越えているカットがある。
トートが食事の列に並ぶシーンは、家具店を追い出される前に入っていたり、起工式の時点での工事の進み具合とその後のカットでは明らかにまだ進んでいなかったりする。
そもそも、第一章『到着の謎』でで表示される1947-1952で、すでに物語の始まりであろう時間は違って表示されている。
妻と姪はまだナチスに捕まっているので、1944年頃に手紙を書いているはず。

 

今作は、劇中建築の構造を使って構成されている。
・プレリュード(序章)
・第一章『到着の謎』(主人公はラースロー・トート)
・インターミッション(休憩)
・第二章『美の核心』(主人公はラースローとエルジェーベト・トート)
・エピローグ(主人公は姪のジョーフィア)
という対照的構造を持っている。
劇中でつくられるマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターも4つの施設を一つの建物に入れたもので、中心にある礼拝堂がありながら二つの建物を廊下でつないだ構造だそう。
今作は、建物の構造を使った映画である。
その二つの建物はラースローがいた収容所とエルジェーベト(とジョーフィア)がいた収容所を模したもの。
入口と出口は、姪のジョーフィアの映像。
礼拝堂(休憩部分)は、ハリソン・リー・ヴァン・ビューレンともいえる。

この構造的な映画技法は、時折使われており、『キートン将軍』(往復の構造)がよく知られている。(キートンの作品では『文化生活一週間』も一週間という構造を使っている)
現代ではウェス・アンダーソンの『ムーンライズ・キングダム』(劇中曲の構造)や『 フレンチ・ディスパッチ/ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(雑誌の構造)がある。

それぞれの章題は、二つの意味があるのではないか。
第一章『到着の謎』は、まずはラースローのアメリカ到着。
もう一つは、突然帰ってきたハリソンの到着のことも含むのではないか。
木曜まで戻らないはずだったが、急に帰ってきたからこそあの事件は起きた。
第二章『美の核心』は、ラースローの美の核心は己の道程と妻エリザーベトであろうと見せていく。
もう一つは、ハリソンの美での核心であり、彼は美よりもすぐ外からの影響受ける。礼拝堂の大理石はイタリア産でそれは建物つまり母(の名を持つ建物の中の礼拝堂)への愛であり、家族への愛。だが、その愛は、どうやら歪みまくっている。
そして、エリザーベトの攻撃によりハリソンは姿を消す。

四つの突起は、あの焼却炉を思わせる。

映画内でも、この二つを繋いで一つにしたようなものやアクションや構図が繰り返される。
画面配置も考えられているが、それを意識させるために、時折、わざとかあまり美しくない編集が入る。(同サイズ編集が2~3か所ある)これは、映画を綺麗なだけにしないようにという意図も感じる。こういうのがあると、映画に強いと目が覚めると言う効果も狙ったりしているのかもしれない。
最初の編集である長いディゾルブは前述の『片目のジャック』や『アラビアのロレンス』で使われており、手前みそだが、追いrなお映画でもたまに使っている技法で、少ない編集で心情と時間を表現できる。
話を戻すと、この二つが連動した構図は、最初のアメリカでの説明者と通訳から始まり、ラースローがつくるモダンなデザインの金属パイプの椅子、図書室の扉、建築中のクレーン、ハリーとマギーの双子、車いすの取っ手など随所に出てくる。
今作独自のライトモチーフ演出になっており、他にも主観で前や上といった奥の方を見せるカットでもそれがある。

 

ヴァン・ビューレン宅の天窓の形は、フランク・ロイド作の天窓からインスパイアされているが、あるものを連想させる。
それを落としてしまうのも象徴的。
ラースローは、アメリカに入ってすぐに娼館に行っていて、同性愛傾向がないことを伝えている。

 

最後は、イタリアで評価されて物語は終わるが、これも皮肉である。
それは、故郷のかつての敵国である。
ハンガリー、ドイツ、アメリカ、イスラエル、イタリアという土地が劇中では出てくる。

 

今作からは、加害と被害、その反撃の連鎖が見えてくる。



見えるテーマでくくられていくようだが、伝記のようにすることで、まず出来事があり、それを語り手のテーマ集約によって紡がれたことで、テーマに入らない現実味のようなものがにじみ出るようにしたのではないか。
それは、『市民ケーン』が実在の新聞王ハーストをモデルにしながらもあくまでフィクションであるように。

 

 

何度かある、同じ人物を同サイズで少しポジションを変えたショットを編集(ジャンプショットぎみ)を入れるのはどうとらえるか。
上下左右の配置で、関係示して言うrので、そのために行っているのかしら?

 

加害(嫉妬含む)や支配欲に人は強く反応し反撃をする(イスラエルもまた迫害を行っている現実)という加害の連鎖と謝罪による反転(ハリソンは攻撃後にすぐ謝罪(失踪も謝罪と同義にとらえて)、ハンガリーの敵国イタリアでの賞賛されつつもジョーフィアはナチスを思い出す)、そういった歴史の反復について描いているともいえる。

 

 

物語の盛り上がり線が、
序章・一章・二章・終章
ー/\ー
で建物の形になっている。

 

 

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