ちょうど波のように新年度&エイプリルフールがキタぁーーー。さよならと同じで人は運ばれるね。こういう時、暦や時計が鬱陶しい。それがなければ人は老いていくことを感じないから、死から逃れられる。
昔、ペット犬の大介が手術することになったとき、驚いた。入院翌日にはもうピンピンで滑る床の廊下を大介がかけてきた。医師曰く「動物には『死』の概念がないから、手術した翌日にはもう動き回れる・・・」。ホントにそうだった(笑)。おいらは「死ぬ」とは思わなったけど、首がいたむしまだ皮膚がピリピリする。死の概念があるからなんだろう。動物は死ぬと感じて、死なないのだ。これは人間だけが感じているって訊いたけど・・・。どうかな??
・・・・家の中がちょっとしたカオス。
もう誰も親父に「手術するなぁー」とは言わない。そんなヘソクリがあるのなら、別の場面で家族を助けろよ―――って不満は皆が持っているけど、もう口にしない。あんまりいうと自分たちが汚れる気がするし。父と違う自分ばかりを探してしまう。
果たして、してもしなくても良い手術をさも必要な手術のようにウソぶいていて、家族中を騙していたまんまならば、手術費用を母に渡しただろうか?本人は蓄膿で手術をした経験者に費用や術後の経過を訊いているけれど、医師の話では”蓄膿”ではなさそうだったけど・・・。蓄膿って膿であって、腫瘍じゃないし。蓄膿の人ならば膿がたまれば頭痛もするし、鼻水も垂れるし、手術して膿をとれば楽になるだろうけど、父の場合は楽にならないかもしれない。でも痛む鼻がカン違いで左右逆だったくせに、痛みや鼻のジュクジュク感をねつ造した人だから、思い込みで心は蓄膿なんだろう。腫瘍ならば考えないといけないんだけど・・・・。
なんで、あんなに手術したいんだろう?なんで、あんなに病気じゃないと困るんだろう?
「なんで・・・、なんで・・・・」ばっかりだった。そんな感じの一年をおいらも、母も、姉も送る気なんて、もうないのに・・・・。本当に情けないダメおやじ。今風に言うならばモラハラおやじですかね。
とにかく気に入らないと怒鳴る。
恫喝する。
気に食わないと、飛び出す・・・・・・・。
しかし小心者で薄情で人に無関心な自己中男。
ただし、80の爺の身体に泣き虫な幼い子供がいるから、思ったことが具現化しちゃう。
もう手術を認めてくれて、情けない自分を許してくれないのが、たまらなく嫌なんだと思う。でも、言葉じゃ謝れない。人に頭を下げたり、感謝の意を述べるのは負けだと思っている。人生に一度も勝った事ないくせに、負け方も知らないんだ。だから、もう顔真っ赤でイライラしてて、とにかく笑って許されることだけを待ってる。もう、その気持ちが重たくて、家じゅうヘンな負荷がかかってる。成仏したはずの身内や家に掛けられてる呪いが形状化してくる。終わったはずの過去が再現される。子供には常識は通じない。子供なんだ、クソおやじ。
まあ、許すも許さないもない。生物学的な親ではあるけれど、実際に心を痛めてやる価値のない人だと思う。除霊して、少しづつ良くなって、おいらも手術して楽になって、これからだという矢先の”父のねつ造した病”の発覚!
正直凹みます。あれはもう精神病の範疇です。あれを憑きもんのせいにはできないなぁ。病気じゃない自分を愛せないセルフイメージって、理解できない。病気じゃないと、構ってもらえないと思ってる。ミューヒハウゼン症候群なのかな?病気で可哀想な自分を愛してる。
おいらはサイコパス神主に呪われているは、ブラック会社に嫌がらせ受けるは、失業するは、体調悪くなって、病院たらいまわしにされて、腫瘍が見つかった。この流れなら悪性腫瘍かもと思い、死を覚悟した。でも並行していろんなことを試したり、人生初の除霊をして貰ったり、だから悪い道すじから『逸れた』気がしたし、『逸らして』もらった気がする。でも親父は思えないようだ。
膿でも腫瘍でも、それが今すぐ癌化して、もう死んでしまうと恐怖におののいている。しかし、そんなことはありえないのだ。ありえないのに、もう病に憑りつかれてる。これは憑きモノじゃない。親父の心が生んだ”ありえない病”の恐怖だ。でももう誰も父の心配はしない。長年家族が心を痛めていた重篤だったはずの父の病は薬を飲んでさえいれば身体を蝕むような悪いモノではなかったのだ。他の臓器の数値だって、どれもおいらの方が悪いと来てる。全部、見事に、まるっとばれたのに、まだ己の病気で、恐怖で、自分を家族を支配しようとする。
バレテることに気が付いてもいない。これは心の病じゃない。
病の心だ。。。。。。。。
新年度だし、神社へお礼にも行ったし、今日は何か変化が訪れるかなと思ったけど、やっぱりそうそう都合よく行かないね。
もう、おいらはおいらの事だけ考える。
父はもういないものだと諦める。
これは親孝行だ。
昔、ペット犬の大介が手術することになったとき、驚いた。入院翌日にはもうピンピンで滑る床の廊下を大介がかけてきた。医師曰く「動物には『死』の概念がないから、手術した翌日にはもう動き回れる・・・」。ホントにそうだった(笑)。おいらは「死ぬ」とは思わなったけど、首がいたむしまだ皮膚がピリピリする。死の概念があるからなんだろう。動物は死ぬと感じて、死なないのだ。これは人間だけが感じているって訊いたけど・・・。どうかな??
・・・・家の中がちょっとしたカオス。
もう誰も親父に「手術するなぁー」とは言わない。そんなヘソクリがあるのなら、別の場面で家族を助けろよ―――って不満は皆が持っているけど、もう口にしない。あんまりいうと自分たちが汚れる気がするし。父と違う自分ばかりを探してしまう。
果たして、してもしなくても良い手術をさも必要な手術のようにウソぶいていて、家族中を騙していたまんまならば、手術費用を母に渡しただろうか?本人は蓄膿で手術をした経験者に費用や術後の経過を訊いているけれど、医師の話では”蓄膿”ではなさそうだったけど・・・。蓄膿って膿であって、腫瘍じゃないし。蓄膿の人ならば膿がたまれば頭痛もするし、鼻水も垂れるし、手術して膿をとれば楽になるだろうけど、父の場合は楽にならないかもしれない。でも痛む鼻がカン違いで左右逆だったくせに、痛みや鼻のジュクジュク感をねつ造した人だから、思い込みで心は蓄膿なんだろう。腫瘍ならば考えないといけないんだけど・・・・。
なんで、あんなに手術したいんだろう?なんで、あんなに病気じゃないと困るんだろう?
「なんで・・・、なんで・・・・」ばっかりだった。そんな感じの一年をおいらも、母も、姉も送る気なんて、もうないのに・・・・。本当に情けないダメおやじ。今風に言うならばモラハラおやじですかね。
とにかく気に入らないと怒鳴る。
恫喝する。
気に食わないと、飛び出す・・・・・・・。
しかし小心者で薄情で人に無関心な自己中男。
ただし、80の爺の身体に泣き虫な幼い子供がいるから、思ったことが具現化しちゃう。
もう手術を認めてくれて、情けない自分を許してくれないのが、たまらなく嫌なんだと思う。でも、言葉じゃ謝れない。人に頭を下げたり、感謝の意を述べるのは負けだと思っている。人生に一度も勝った事ないくせに、負け方も知らないんだ。だから、もう顔真っ赤でイライラしてて、とにかく笑って許されることだけを待ってる。もう、その気持ちが重たくて、家じゅうヘンな負荷がかかってる。成仏したはずの身内や家に掛けられてる呪いが形状化してくる。終わったはずの過去が再現される。子供には常識は通じない。子供なんだ、クソおやじ。
まあ、許すも許さないもない。生物学的な親ではあるけれど、実際に心を痛めてやる価値のない人だと思う。除霊して、少しづつ良くなって、おいらも手術して楽になって、これからだという矢先の”父のねつ造した病”の発覚!
正直凹みます。あれはもう精神病の範疇です。あれを憑きもんのせいにはできないなぁ。病気じゃない自分を愛せないセルフイメージって、理解できない。病気じゃないと、構ってもらえないと思ってる。ミューヒハウゼン症候群なのかな?病気で可哀想な自分を愛してる。
おいらはサイコパス神主に呪われているは、ブラック会社に嫌がらせ受けるは、失業するは、体調悪くなって、病院たらいまわしにされて、腫瘍が見つかった。この流れなら悪性腫瘍かもと思い、死を覚悟した。でも並行していろんなことを試したり、人生初の除霊をして貰ったり、だから悪い道すじから『逸れた』気がしたし、『逸らして』もらった気がする。でも親父は思えないようだ。
膿でも腫瘍でも、それが今すぐ癌化して、もう死んでしまうと恐怖におののいている。しかし、そんなことはありえないのだ。ありえないのに、もう病に憑りつかれてる。これは憑きモノじゃない。親父の心が生んだ”ありえない病”の恐怖だ。でももう誰も父の心配はしない。長年家族が心を痛めていた重篤だったはずの父の病は薬を飲んでさえいれば身体を蝕むような悪いモノではなかったのだ。他の臓器の数値だって、どれもおいらの方が悪いと来てる。全部、見事に、まるっとばれたのに、まだ己の病気で、恐怖で、自分を家族を支配しようとする。
バレテることに気が付いてもいない。これは心の病じゃない。
病の心だ。。。。。。。。
新年度だし、神社へお礼にも行ったし、今日は何か変化が訪れるかなと思ったけど、やっぱりそうそう都合よく行かないね。
もう、おいらはおいらの事だけ考える。
父はもういないものだと諦める。
これは親孝行だ。
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