五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

初期の野球の練習風景

2010-02-10 04:49:52 | 五高の歴史
ここに後藤文夫氏(法科一部で明治三十七年卒業)の野球の思い出が書かれた資料があったのでそれを転載し、当時の野球の練習風景を覗いて見よう。

「私たちがやっていた時代の野球は、今から考えると随分無茶なものだった。道具は一通り揃ってはいたが、グローブを使うより体で球を受けた方が多かったように思う。丁度私が三年の時、其れまで中止されて居た対山口高校戦を復活して博多で行なう事になったので、我々も正規のチームを編成して練習を始めたが、困った事には当時部員は八名しかなく、今度の高校野球連盟の力を尽された大村一蔵君等,其の時柔道を止めさせて無理に野球部に入れ全く球の見えなくなるまで鍛え抜いて、どうやら一人前に仕上げたものだ。
 私達の練習は「攻撃は最上の防御なり」を主義として、守備よりも打撃に専ら力を注いだ。その結果愈々試合となると、彼我の得点23対18? 四球を二八出して、午後二時から日の暮れ方迄かかって漸く我が軍の勝利に帰したのだが以て技術の程も想像がつくであろう。私はライトを守っていたが打順は三番だった。
 兎に角私たちの時代は、高等学校のゲームは技術の末等問題とせず、飽く迄意気と熱を以て戦い抜いたものだ。
 母校野球部の諸君も、今度の第一回高校野球大会に於いては、我々の時代の指導精神を忘れず、果敢な攻撃精神、純真な青年の意気を遺憾なく発揮して敗勝を超越して「自己の全霊全能を尽す」法悦境に終始して貰いたい。」

後藤文夫(1887-1980)について
大分県出身、五高卒業後東大に進む、卒業後内務省へ、所謂典型的な内務官僚である。岡田内閣では内務大臣を務めた。二・二六事件で岡田首相が襲われたときは臨時首相代理を務めた。その他大政翼賛会の副総裁を務めたり東条内閣の国務大臣をも勤めた。そのため戦後は公職追放になり巣鴨の収容生活も経験した。しかし解除後は参議院議員に復帰し緑風会に所属し活躍した。(tH)