五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

阿蘇道場行所感

2009-01-28 06:44:09 | 五高の歴史
阿蘇道場の建設は阿蘇登山のための快足場ということで建設されたものであったが、当時の世情もまたそれを許さず、その上禅の修行者、添野信校長の赴任もあり、そのため道場の性格も全く変わり五高生の修養の場に変わった。添野校長の禅思想に基づく修養の思想は「寮の生活は只無意味な群集生活、集団生活であってはならない。自覚した各自が其処にしかりしたものを把握し、統制ある団体の下に人格練成の根底を作っていく道場の生活と通じるものでなくてはならない。生活即、修養であり、寮即道場の理念がある」と阿蘇道場の完成はこのような思想の実践に役たった。道場は内牧駅より3粁、風望絶佳直ちに阿蘇の5岳を望み清涼雄大で極めて秀麗の地であり、寮の上級生の合宿修練もここで行われた、新入生にはクラス単位に同道場に登って修練を行った。添野校長の感化と奨励指導により禅思想の普及は目覚しいものがあり阿蘇道場の修練法も禅の方式に則った。そのため習学寮に於いても座禅会が発起され、また精神科学研究会が生れた。以下同窓会報から「道場行所感」を転載し道場生活の様子を偲ぶことにする。

二千六百年はいろいろ思い出の多い年であった。忙しい月日が過ぎて終って最後を道場でしっかり固めることの出来た事を喜ばしく思っている。静坐をしたり掃除をしたりした事も懐かしい想い出になることであろう。大阿蘇の雄姿を朝夕眺めていて、何時も変わる様に思われるが、その大きさだけは変わらない。大きさを求める心は常に持っていたい。一日道場の裏から兜岩へ登り白皚々の外輪山上を吹雪を浴び乍ら大観奉へ着いた。大観奉からも大阿蘇の姿をつくつぐと思った。小さな土地を耕しても大自然の大きさを思う。道場は良い。和やかである。謙遜である。美しい、大自然そのままであり、吾々のあるべき姿である。二年の諸君が特に五日間の道場生活のために奉仕的に努めてくれた事は感謝に堪えない。私は今与えられたことに感謝する心のみである。(昭和一五、十二,三〇理三乙 釘宮)
朝まだき板木音と共に起床し、只静坐すること半刻にして東の空が白み始める。眼前にくっきり浮かび上がってくるのは
影絵の如き阿蘇五岳の涅槃像である。厳然な寒気の中に崇高な此の姿を拝して、おのずから敬虔の念に打たれひとしお身の引き締まる思いがする。私は此の大阿蘇の姿を愛敬して止まない。黎明には柔和な相貌を呈し中天の陽光を浴びては白雪燦として輝き人をして峻厳の感に襟を正さしめ、静寂そのものの如き黄昏の姿に釈尊入寂の時もかくやと思わしめる。実に質実剛毅木訥を愛する龍南人の範として仰ぐべき姿である。此の数日に渡る生活にはやがて思い出となるであろう数々の事もあるが、然し道場生活の真意義は生活即修養、学即業を体得する所にあると思う。吾々は平素或は真理を求め或は体系を打樹てんと机前に呻吟すれども自ら真理なりとする所脆くも現実に直面して崩壊し去って亡羊の嘆之を久うする。然し真理は空々裡の思索に求むるも亦一策なれども現々の実践に握るも亦一策ではあるまいか、「教育の意義は人々に知らざることを知るように教えるにあらずして人々が日常の行動を一新せしむるにある」という西哲ラスキンの言は之を暗示するものではなかろうか。箸を取るにも箒を持つにも行坐臥はては一挙手一投足にも気を入れ心をこめるならば退屈焦慄、放心、懊悩に任すべき時はない。僅かに五十年の人生なりとも必ず為す所であろう。私は此の五日間の道場生活を終るに当り従来忘れ去られていた貴きものを再び心に蘇へらしめた歓喜を抑えることが出来ず、又此の得難き体験と楽しき思い出を全龍南人が享受し得る機会に恵まれている事を心から喜ぶものである。 (昭和一五,一二,三〇 文三甲一  山下)
冬季後期合宿十二月三十日―――十六年一月六日
  全期滞在者三名五泊一名三泊三名一泊十名(内七名は教授)何泊か不明二名計十九名
 この合宿では元旦には田中竹内二教授が徒歩一同を伴って宮地の阿蘇神社を参拝されたり池田(長)教授が青少年学徒に賜りし勅語の謹解をされたりその他何かと諸教授の御世話になりましたが、前例とは異なり一泊交代であったため全体として日一日と気分も引き締ってくるというわけにも行かず道場としては考え直さなければならぬ点もありました。
春季前期合宿昭和十六年三月十一日――――三月十五日
全期滞在十一名三泊九名二泊三名 計二十三名
日課、六時起床、洗面、掃除神前へ並びに礼拝朝の挨拶、静坐三十分、国旗掲揚宮城遥拝、青少年に賜りたる勅語奉読、体操朝食、
 八,三〇-九,三〇(自由時間主として読書)九,三〇-一一,〇〇作業、十二、昼食 午後一時、-三、作業 三-五自由時間(入浴等)五-六,三〇掃除国旗降納静坐三十分、食事、六,三〇-八自由時間(主として読書)八-九、三〇静坐十時就寝
 此の合宿は夜など降雨の時もありましたが大体、上の日課表の通り行うのに支障はありませんでした。唯到着した晩は就寝前の静坐を三十分しまして夕食後か顔合わせの集まりをなし解散の前晩も同様静坐の時間を少し割って合宿感想を述べ合う集まりにしました。合宿中の俳句なり和歌なりを各自持ち寄って私やかな最後の晩でした。合宿二日目には和田教授も来場最後まで御世話をかけました。笑い種に一つ二つ添えて置きます。
      渾身の力を込めて鍬を振る足に冷たき春の土かな
      鶯の鳴くや坐禅の人しじま
      つとめ終えていで湯懐かし梅薫る
 道場の地面も約一万坪内牧町から提供された事になって居りますが浅井池田ご両人の実測では6千坪程だそうです。此処の合宿ではこれまでの開墾(芝起し)の後を整理して一反歩余り春巻きの畑の用意も出来ました、玉葱黍豆、トマト、試作として少し許り植えて植えて見ようとしている甘藷、その他の野菜類凡て来場者の供えらるる日も遠くあるまいと思います。
春休後期合宿 昭和十六年四月二日―――四月六日
  全期滞在一名二泊二名一泊三名 計十名
 此の合宿には道場を中心に登山のコースを定める為に宿泊した二名の山岳員もありその他の参加学生四名に過ぎません。
 然し小島伊佐美先生は三泊、藤井相原両教授は二泊竹内教授一泊と言う様に比較的多くの教授達の御支援を受けることが出来ました。 土曜日一泊道場行
 以上で昨年夏以来の七回に渡る合宿の模様を大体述べたのでありますが、溯って
夏休み三回の合宿に続いて行われ初めた土曜一泊道場行の事を申し上げねばなりません。秋の二学期は九月六日より始まりましたが九月七日第一土曜日は参りません第二土曜日からは大抵何人かは行く様になりましたが進んで道場行を企てたものが多く企てのない場合はこちらから奨めると言う様な塩梅でありました。
  第二土曜日(九月十四日)蒼龍社一行六名、それに池田(一幸)さんと私、午後四,三〇道場着、直ちに国旗掲揚、ふき掃除など七,三〇――九、三〇打座、一〇、就寝
翌朝五時起床国旗掲揚、ふき掃除など五、三〇――七打座、七――八食事、八――一〇打座、十時頃添野校長道場着、風呂その他の残り工事の御世話に建設委員会の増永さんも御一緒、今日は内牧町の請負に依頼せし洗足場も工事中、
一一-一二、蒼龍者一行のために校長、大燈国師遺誠を講ぜらる、爾後一-二時過ぎ作業、途中池の端、田の中のを浴びて四、二〇内牧発帰熊
  第三土曜(九、二一)総務部十名それに浅井さん池田さんと私、小使も一人、凡て開場式に就いての準備のため也
  第四土曜(九、二八)私が保証人になっている二年生十人許り誘い置きしも、雨のため来れるもの僅か三人、日曜も少雨
  第五土曜(一〇,五)浅井さん、自分の保証している各学年の学生十六人同伴道場行、内牧駅ではバスの方へ足を向ける学生もあったが止めて一同徒歩、四時半道場着、着早々一同手を清め国旗掲揚宮城遥拝黙祷戸外の行事を終わり続いて櫓の間で大神宮を拝し東の間に落ち着いて茶礼をして十分間坐禅、その後下の温泉にゆく者、散歩に出かける者、黄金の波の彼方に夕陽を浴びた荘厳な五岳を此処から望んで去りやらぬ者もあった。暫くにして爐の間に食事の準備も出来一同挨拶して頂く、健喫七杯又八杯というものもある。八時より茶菓をとり乍ら座談会、主として経験談旅行談戦局に関する談話に終った。十時就寝
  十月六日午前六時板木の合図に一同起床、此の日霧深く道場は霧に包まる。直ちに清掃国旗掲揚一方爐の間に食事の準備をする学生もあり、板木の合図に一同集まり、大神宮を拝し後直食の席につく、食後に場内を雑巾でふき七時五十分道場発、霧の道を兜岩へ約一時間、霧漸くはれ眼下に内牧の町も指呼され次第に視界は開け展望よし、小憩の後吾先にと秋の高原をゆく、一面にウメバチソウ、アキノキリンソウ、ヤマラツキヤウ、トリカブトも混じり、色とりどりにて花毛氈の見事さ、ある学生はシラヒゲソウを採る此の辺には一寸珍しい、センブリを教えられ口にして顔をしかめる者もある。的石の材を眼下に見る邉で、外輪壁に近く出て、憩う、鞍ケ岳は行く手右に高原の彼方に盛り上がり次の機会には是非あの山へという者もある。一行元気で十二時少し前、二重の峠にきて弁当を開く、ここから下山して約一時間半赤水駅着、振り返って今一度外輪を眺めて今日の行を喜び二時八分赤水より立田口へ、龍田口にてはバスを尻目に一健脚を叩いて打連れ家路に向った
  第六土曜(一〇,一二)道場行の申込者なく一時間目に授業に出た文二甲一を誘う、一行九人、行事例の如く唯晩の座談会が新体制の要求と自由主義的態度学生生活の萎靡、映画、娯楽、学生が積極的に生くべき方向という様な問題ではずむ
  第七土曜(一〇,一九)四寮生道場行-当時の寮総代の感想―「団体的訓練と行的生活の欠如は確に従来の高校生活の短所であった、時代は正にそれを吾々に要求している自分は寮に於ける生活を更に強化すべく雄大な自然の下に於いて真摯な規則正しき生活を求めて全四寮生を一丸とする阿蘇道場行を試みた。種々の都合によって参加者は全四寮生の半数強なる二五名(此の時は夜具も二十人分でしたが工夫して寝ました。)に過ぎなかったが大体予期した如き成績を挙げたことは嬉しい。道場に於いてこれまでにない多人数の一行なるが故に生活の概略を記す
 午後四時半道場着、雨のため国旗を掲揚せず神前に礼拝直ちに全員にてふき掃除、夕食まで約一時間、坐り方の手引と静坐、六時半夕食、当番を定めて食卓の用意、食事の初め終りは拍子木を以て一斉に為し食事中正坐、食後十一時迄座談会
、各自のこれ迄の生活に対する反省、現在の高校生活に対する批判、竹原教授の北支邦見学談等々、十一時就寝翌二十日六時起床ふき掃除国旗掲揚宮城遥拝体操七時半の朝食迄正坐八,三〇-一〇、開墾作業一〇.-一二、有志兜岩登在場者は静坐約一時間、正午中食、零時四十分掃除後出発
 一から十まで規則蓋しの生活は確かに辛いところもある、然し団体の一員としてそれをやる時には又別の愉快さがある吾々上級生で便所掃除を引受けたが日頃汚いと思っていた便所もやって見ると反って他の所より励みが出る。何事も自分達の手でというので食事も御飯と味噌汁つくって貰うだけで凡て相互の手でやった。僅かに二十七八人分の食器を並べたり片つけたりするのに随分ひまどったが寮の賄諸君の日に三度、年中二百数十名の食器をあけさけするだけでも並大抵でないであろう食事の後二三十分火鉢を囲んで語り合うのも又実に愉快であった。ここに本当の休息の感じもわかる様な気がした、団体生活には和気朗々たる気分が大切である例は無言の静坐の場合に於いても共に坐るという励みの気持ちになってくる、個人が全体の一部としてうける制約に対し少しの不満も感じないばかりでなく進んでよりよき一部たらんとする時こそ理想的な社会が生まれるかような団体訓練はその理想に近づく一歩ではなかろうか、 昨年夏道場建設の議が公表されたとき、総務たちが叫ぶが如き理想が果たして実現されるか、単に阿蘇登山又は外輪跋渉の根城となる位が精々だろうと危うんでいたのだが今度の道場行で堅苦しくもなく 愉快に而も理想に近き生活を為し得た事によって少なくとも前の杞憂は消えた。