モゲログ

汎発性脱毛症になりましたが元気です。自分のこと、家族のこと、子どものこと。家づくり育児ブログ??になってきました。

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引き算して自分らしさに気がつくかも・・・

2009-08-31 23:27:03 | なか
8月31日(月)

 8月だというのに、遠い空の向こうには秋の気配を感じさせる薄い雲がかかっているようにも見え、朝晩の冷え込みは明らかに自分の育った地域のそれとは異質なもので、油断をすればすぐ体に変調をきたすような気さえします。みなさん御自愛ください。このブログは免疫の病気だと思われる脱毛症を発症したひとのブログです。最近更新をしていなかったので、少しまた初心にかえって頑張っていきたいと思います。何も書くことが思いつかなくてもとりあえず書いて、そして写真をアップし自分の歴史を刻んでいこうと思います。

 人間前向きな方がいいにこしたことはないんですが、やっぱりカラ元気ならぬカラ前向き姿勢ではその生き方そのものがフラストレーションとなってしまうことがあります。そんな簡単にポジティブな自分が実現すればこの世は躁状態が続くバブル期の日本経済のような異様な世界が広がってしまう。前向きであるということはどんな時もただがむしゃらであることとは少し違うようです。なすべき時を見極める力、なすべき時にベストを尽くせる力、この二つの力が前向きであることを下支えしてくれます。そして、大切なのはその二つの力に支えられる向上心であると私は思います。

 いつも緊張しっぱなしでがんばり続ければ心も体も疲弊していくのは当然です。マグロは泳ぐのをやめたら死んでしまうそうです。自転車もこぐのをやめれば倒れてしまう。でも私たちはそうなっては困る。もしカラ前向き姿勢をやめた瞬間に、体も心もあらゆる感覚が伸びきってしまっては元も子もありません。適度な緊張と弛緩を繰り返しながら私たちはその時々の最良を見極めたり、力を発揮するべき時に最大限の力を出せるようにしなければなりません。

 いってみれば躁鬱が私たちの感情を支配しています。気分と言ってもいいかもしれない。簡単ではないけれど喜怒哀楽はげしめに自分を楽しめるようになればそれは豊かな生き方です。そして、やっぱりその陰には「向上心」という前向きさがあって自分の生きる時間軸に何かしらのマーキングをしてくれると思うんですよね。


 昔、いい曲は引き算によって生まれると聞いたことがあります。やりたいことすべてを詰め込んであとは取捨選択していく。本当に楽曲に必要な音を精査していく。これが曲作りに大切なことだそうです。
 前向きに、ポジティブに生きることは本当はとてもとても難しいことです。自分なりの前向きな生き方の理想があれば、いろんな人間的な弱さや本質的な欲求を引き算して、本当の自分らしさが見つかるような気になるんですよね。

 眠たいと話がまとまらない・・・・

今日の頭皮 かわらず
明日の予想 わき毛ぬける
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中途半端な正義が一番の悪や!!

2009-08-30 23:41:42 | なか
8月30日(日)

 民主党が歴史的な勝利をおさめようとしている日曜の夜です。モゲログなかなか更新できなくてご心配おかけしています。このブログは臓器特異的自己免疫疾患になった人のハゲログです。
 
 もう少しで10か月なんですよね、ハゲはじめて。髪を全部剃ったときに極端な話、自分は一回死んだような気持になりました。世界の中で自分だけが異常な存在に思えたり、逆に自分だけが正常であるような不思議な感覚です。そこからブログを通じて世界を知ったかぶりすることで、自分のコンプレックスになることを最小限の傷で抑えようと自己防衛していたような。だからあまり自分の書いた文章を読み返すことはしません。

 昨日からの24時間テレビ。いろいろ賛否があるものだとおもうけど、その番組内でソフトボールの代表選手からヒットを打つというような企画があって、片腕を失った野球選手にタレントが「どのくらいで克服できたんですか?」と軽率な質問をしていた。なんだか妙に違和感と腹立たしさが残った。質問された彼は、「どのくらいってことはありません・・・一年ごと、すこしづつ・・」何かをかみ殺すように静かに応対する彼の姿がなんとも言えない感慨をもたらせてくれる。
 癒える傷と癒えない傷があるとして、癒えない傷は時間がすこしずつ癒してくれることもあるし、人の愛情や環境が作用して自分から遠い所に痛みを置いてきてくれることもあるだろう。でも、そうでないこともある。時間がその傷口を広げ破傷風のようなひどい痛みに代わっていくこともあるだろうし、いろいろな生活体験や人とのかかわりから絶えずその傷と向き合ってダメになってしまいそうになるかもしれない。

 『癒えない傷』とはそういう繊細なものだ。

 「24時間テレビは偽善だ」なんていう人もいるけれど、本当はあんなにタレントたちが苦しそうに生放送でやるんではなくて、その趣旨に賛同する者たちがギャランティーとか、視聴率とか、ジャニーズなんかにとらわれないで、やさしい時間を作り上げるようなものであってほしいと願う。偽善と善なんてものは本当は普通の人には推し量れないものだから簡単に言えることではないけれど、本気で向き合うべき問題をなおざりにして、くだらない感動のなかに雲隠れさせてしまうにはおしいと思う。

『中途半端な正義が一番の悪だ』(伝説の教師より)

日テレさんどうですか?
24時間テレビのありかたしっかり考えてください。

今日の頭皮 ひさしぶり
明日の予想 久々に徹夜したぜ
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素敵なところも欠点も

2009-08-24 23:49:07 | なか
8月24日(月)

 お盆過ぎの秋を感じさせるような風が吹いていて、ちょっと油断をすると体調を崩しそうですね。先週はまたも友人の結婚式。やなぎ結婚おめでとう。お幸せに。


 長年付き合っていると、お互いの関係は親密にもなったり、思わぬ本音が見えてきたりするものかもしれないし、相手を思いやる気持ちや、互いの生活圏や価値観を保つために苦労することもある。お互いの関係を再確認してともに歩もうと覚悟を決めることは大変なことで、だからこそ結婚は素敵なことなのかもしれない。

 男女の関係でも友人関係でもそう。相手を深く理解することは、その人を知ることに他ならないし、さらに言えばお互いの強さや弱さを知ってやっと信頼が少し生まれるものだと思う。その意味で他人を理解するのは難しいことであるし、好きな人への興味が尽きない理由がそこにはあるんだと思う。

 じゃあ、そもそも本当にその人のことを「理解している」っていうのはどんなことなんだろう?

 「理解しているよ」と簡単に言ってしまうことも多いけれど、どれほど他人を理解できているかなんて本当に怪しいもんだ。ましてや理解したいと思っても、そう簡単なことじゃない。その人の長所がたくさんあげられるのがよいのか。その人の歴史をわかっていることだろうか。それとも性格をわかっていることなのか。

 重要なことは「理解したい」と願うということは、そもそもの好意であるし、好意があればその人の素敵なところばかりをたくさんあげることはできてしまうかもしれないけれど、同じくらいその人の悪い所や、欠点をあげることができたとき、その好意は愛情のようなもので包まれるような気がするんだ。これは不思議な思いで、嫌いな人の欠点をあげることは簡単だけれど、好きな人の欠点をその人の素敵なところに負けないくらいにあげることができるのは、好意だけでは難しいと思う。そして、それが他人を「理解すること」の入り口んなんじゃないかって。

 今まで自分が本当に理解することができたのはどのくらいなのだろう。

 結婚は他人が最も親密で大切な「他人」になる。だからこそ相手を理解し、いたわることが大切なのかもしれない。弱さも、強さも・・・それは愚直なまでの好意であったり、信頼という関係の盤石さであるのだろう。

 あれ?珍しいね、こんな内容

今日の頭皮 白い毛が生えてきた
明日の予想 黒い毛もすこーーし生えてきた 
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「しあわせのかたち」というかたち

2009-08-21 01:14:19 | なか
8月20日(木)

 お久しぶりです。このブログは臓器特異的自己免疫疾患になった男のブログ、モゲログです。ブログを書かない日が多くなってきたのは地に足付けて生活ができているからか、それともただの怠慢か。いろいろな人からコメントいただいてどうもありがとうございます。そんなに言いふらしたかなぁ、おれ(笑)

 忙しくなりそうな気配が漂っていますが、いたって楽観主義です。終わらない仕事はないし、やらなければいけないものは結局人間最後にはやるものです。難しいのはプラスαで自分らしく何ができるかということ。この自分らしさは何物にも代えがたい自分を自分たらしめてくれる要素です。もちろんそんな所に楽しみややりがいを見いだせれば世の中はもっと面白くなるんですが、結局は時間、やる気、自分のこころのキャパシティー、甘えによって理想はもろくも崩れていくものがほとんどです。
 そんな葛藤をし続けることが大事なんですが・・・その中でも、やらずにはいられないことが見つかったときほどしあわせなことはないと思うんです。そんな「よりどころ」となるようなものを生きがいというのかもしれません。でも、多くの場合、本人からしてみればその幸福は見逃されることも多いものです。苦悩と誤解していることもある。でも第三者からみればそれはまぎれもなく一つの幸せのかたちだと言わざるおえないんです。

 ある女性は、夫が事故で障害を負ってしまったことに大変な悲哀と絶望を感じました。でも、二人でやれることはあったのです。二人は小さなお店を開きます。障害があってもできることはたくさんある。夫に気づかれないようにお膳立てをしながら、順調にお店は経営されていきました。子どもも生まれました。でもその女性は、夫の社会参加を助けているんだなんて口ぶりは決してしませんでした。このお店はあなたのお店だからあなたの自由にしてくださいと言い続けました。でもだんだん夫も歳を重ねるごとに症状が悪化し、できることが少なくなっていきました。おまけに長い不況が日本全体に停滞し、大型店とコンビニばかりの世界が郊外には広がっています。でも、どんな時代になろうと二人がそのお店をやめる理由は見つかりませんでした。
 それでも二人はしあわせでした。
・・・・たぶん。

 しあわせのかたちはつかみどころもなく、トランプで作ったピラミッドのように不安定なものなのかもしれない。それは多くの複雑な感情やベクトルの曖昧な負い目と過ち、ちょっとした希望や夢でぐらぐらしながら、それでも輝きを放つものなんじゃないかなぁ。

 『実家』に帰って思うのはそんなとりとめもない、誰かの感情を模したような茫漠とした思いなんです。
いやー、まいったまいった・・・


今日の頭皮 ここばかり注目したらあかんで(笑)
明日の予想 病院行きなさいよ!!
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僕とハゲの夏休み《番外編》

2009-08-14 05:45:47 | はじまり
           『僕とハゲの夏休み』
           
 僕とハゲはわりとリッチなマンションの2LDKに住んでいた。

 僕は毎朝早起きなのに、ハゲはいつも夜更かしをして朝起きてこないんだ。夏休みになってもそうだった。朝ごはんだって、夕食だって交代制だって言ったのにいつの間にか僕の仕事になった。一度僕の故郷から苺と地鶏が送られてきたときは率先してハゲが料理をしようとしてくれたのには笑ったけどね。

 でもハゲは洗濯はしっかりやってくれたんだ。しわが気になるみたいで、何度もアイロンがけをして「どうだ」って得意げに僕に見せるんだ。僕もそんな時は、「君はアイロンがけの天才だね」っておだてると、ハゲはまんざらでもない顔をする。僕らは金曜日になるといつもお酒を飲んだり、ギターを弾いたり、歌を歌ったりして楽しんだ。ハゲはギターが上手で、お酒がまわってくるとなぜか80年代の洋楽を弾き出すんだ、本当はエレキギターで弾くものなのにと思ったけど、僕はハゲの弾く「トゥービーウィズユー」だけは好きだった。
 そして決まってハゲは言うんだ、
「もし俺がいなくなっても決してこの曲は忘れるな」って。
 
 もともとは僕ひとりで悠々自適にこの2つの部屋を使っていたんだけれど、9か月前に急にハゲがやってきたんだ。彼は中型のボストンバック一つしかもっていなかった。
「どうしてもしばらく君の家に置かせてくれ」って。
 突然だった。別に嫌ではなかったから寝室が彼の寝床になった。今思えば、むしろ僕は望んでいたのかもしれない、彼と暮らすことを。初秋の日を浴びて妙にハゲが眩しく光って見えたっけ。

朝食の用意をしながら僕は聞いてみる。
 「いつまでいるの?」
 「僕の謎が解けるまでさ」
ハゲは頭のてっぺんをこすりながら言った。
 「そんなこんなでもう2つも季節が過ぎていってしまったんだよ」
朝が弱いハゲを横目で見ながら僕はつぶやいてみる。
 ハゲは新聞を見ながら聞こえなかったような様子で、わかりもしない東証株価指数やら、経済の欄を眺めていた。彼の仕事は週休5日で、半分くらいは謎だったけど僕は詮索はしなかった。
  
 ある初夏の日、ハゲは友人の帽子屋を連れてきた。帽子屋はハゲとは正反対で、妙に礼儀正しくて、慎ましやかな様子だった。3人でやっぱりお酒を飲んだ。

「ハゲはどんな感じですか」
帽子屋は興味深そうに僕の顔を覗き込んだ。

「どんなもこんなもないですよ。いつも遅くまで寝てるし、いびきはうるさいし」
僕は苦笑いで答えた。

「じゃあ、帽子屋にいびきのしなくなる帽子作ってもらうか」
ハゲはなぜか楽しそうにおどけて見せた。本当にどれだけすごいいびきかを力説しようとしたけれど、酔っ払ったハゲを目の前にやめておこうと僕は口を閉ざしておいた。

「実は頼まれていた麦藁帽子できたんだよ」
帽子屋が持ってきた青いビニール袋から新品の帽子を取り出してハゲに渡した。

「おー、いーねー。やっぱり夏は麦藁帽子だ。なっ。紫外線たちがいつもいつも調子に乗っているからさ、俺は特製の帽子を帽子屋に注文したんだぜ。UVカットの麦藁帽子だ。いーだろ。」
 ハゲはなぜか全力で同意を僕に求めたけれどどうしていいかわからなかったので適当に相槌を打っておいた。が、そんな様子も悟られないほどハゲは上機嫌だった。
 そしてやっぱり例によってギターを弾きながら歌って楽しんだ。ハゲは帽子屋さんの大事なお客のような感じがした。その証拠に帽子屋は一度も僕に帽子の話をしなかった。3人になるとどうも勝手がいつもと違って僕は酔わなかった。ハゲはいつもどおりヤマハのギターをかき鳴らしていた。よくクレームがこないなぁと、今更ながらに思ってしまった。ただ酔っていないからこそ、ギターを置いてビール缶に手を伸ばすハゲの姿になんとも言えない違和感と、こころの陰りを感じたのだ。いつも二人で飲んでいるのに、そんな気持ちになるのは初めてだった。ハゲはいつも何を思って、何を考え生きているんだろう。もうだいぶ二人でいるのに、何だかハゲの本質的な部分には触れてはいけないもろさや危うさがあるのではないかと僕は直感的に感じた。午前0時を前に客人は帰り、ハゲは高いびきだった。

 夜風が心地よく、空に浮かぶほんの少し欠けた白い月がカーテンがたなびくたびに見えていた。ハゲの顔に落書きでもしてやりたい気分だったけれど、あの遠いまなざしを思い返すとできないなと思って僕も寝た。

 ちょっとした事件があったのは、真夏の暑い日だった。いつも早く起きないハゲが早朝からごそごそとやっているのがわかったけれど、僕は前日の仕事疲れでぐっすりだったから、さして気にも留めなかった。むしろ、朝の日差しが暑いことに多少の不快感を覚え、また眠りに落ちた。
 起きると彼の中途半端な大きさのボストンバックがなくなっていて、リビングに書置きがある。
『冷蔵庫のビール飲んでくれ』
 たった一文だったけれど、その字はかすかにふるえているように見えた。そして、昨晩のハゲの様子がなんだか不自然に思えてしょうがなくなってきた。そうだ、彼がビールを買ってきて飲まないなんておかしかったんだ。なんでぼくが気付いてやれなかったんだろう。仕事で疲れて彼を顧慮するゆとりもなかったことを思うと、ただならぬ危機感を感じた。彼はいつもそうだった。思いをうまく伝えることができない人だ。孤独だったんだ。孤独ゆえに自分を表出することを恐れた。とにかく僕はハゲを探しに行こうと思った。

 ハゲの居場所は案外簡単にわかった。
近所のタバコ屋のおばちゃんが、海の方に行ったと教えてくれた。
暑い夏の日だった。真夏の日差しが照りつけ、めまいがしそうな海岸に例の麦藁帽子が見えたとき少し笑ってしまった。花火のかすやら空き缶が散らばっていて、どうみてもきれいな砂浜ではなかったけれど、水平線に向かって群青色の絨毯が広がりきらめき、それはそれで美しかった。
 僕はハゲに近づくのをためらった。何だかハゲを取り巻く時間を止めてしまうような気持になったからだ。
 先に気づいたのはハゲだった。
 「おーい」相変わらず張らない声がかすかに聞こえる。まるで僕が来てくれるのがわかっていたかのような様子だ。
僕が近づくと、彼は目線を遠い所に置きながら弱弱しい声で話し始めた。
 「なぁ、深刻になればなるほど真実に近づくって俺は思っていたんだけど、そうじゃないのかな。苦しんだ先にあるものの価値はきっと素敵なものだって思ったんだよ。だってそうだろ、そうじゃなきゃわりに合わない。」
 僕は一瞬返答に困った。なんせこんな弱弱しいハゲを目の当たりにするのは初めてだったから。そして本気で笑えないなと思った。
 「よくわからないけど、真実なんてものは絶対じゃないんじゃないかな。人の数ほど価値はあるし…。それに…」
 僕は言いかけてやめた。彼を慰める適当な言葉が見つからなかった。
 「いつも怖いんだよ、何をするにも、本当さ。努力の先に良い結果が待っているなんて保障はないし、紫外線のやつらは俺を目の敵にするし、医者はうそつきだしよ。」
 僕には悲哀とか憂愁という言葉よりは駄々をこねた子どものように思えてきた。
 「あのさ、誰だって怖いさ、でも確実に見返りがあることなんてないし、期待を裏切られることもあるさ。それも一つの事実なんだよ。ハゲが怖いように、僕も怖いさ。みんな怖いんだよ。自分だけじゃない。」
 自然と僕の口から言葉が続いたのには正直驚いた。すこしハゲがうなずいたような気がした。

 しばらく無言の時が流れた。時計は11時を回って太陽の角度が増したせいか少しふらふらしてきた。水分がほしい。僕は再び彼に声をかけた。
 「冷えた麦茶でも飲んで気持ちを落ち着けないかい」
 しばらく思い悩むように彼は申し訳なさそうに口を開いた。
 「君の家にまだいてもいいかい」
 「いいさ。さあ、帰ろう、君の得意な洗濯の仕事が残ってるよ」

 僕は、ハゲが抱えているものの正体は分からなかったけれども、彼が苦悩し耐えがたい恐怖と闘っていることは少し理解することができた。そして何よりも、ハゲがいなくなった2LDKのあのマンションを想像するとなんだかさみしくてしょうがなかった。
 ちょっと弱みを見せたかに見えたハゲは、家に着くなりビールを飲みだして、寝そべりだした。どう考えても麦茶とビールを間違えたようには思えなかった。僕は少し安心した。
 「あれ、洗濯しないの?」
 「休日だし、その前にこころの洗濯を…」
 「あっそう、しょうがないねー」
 窓の外には雲が形を変え、光の色が変わって麦藁帽子を照らしていた。嘘か真かUVカットの麦藁帽子は小麦色の光沢をいきらきらと部屋中に散りばめている。
 午後は暑くなりそうだ。
 「ねぇ、『トゥービーウィズユー』弾いてくれよ」
 僕は、「休日」と言ったハゲの言葉に、いつも休みじゃないかとつっこみたい気持ちだったが、彼のギターを聞きたかったのは本当だった。かなり早い2人の晩酌が始まった。

 セミ、ギター、ビールの泡、扇風機、車の音、いろんな音が不思議な響きをして夏の暑さに溶けていったような気がした・・・。


                     おわり
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僕とハゲの夏休み③

2009-08-14 01:13:18 | なか
8月 夏休み

 夏休みは反省からのスタートでした。
 行動の先にある結果こそ自らを省みる材料ですね。自分の努力が足りなかったのか、それともそれ以前の問題なのか。でも必ず結果は出ると頑張っていかなければならないと思う。あきらめたらそこで試合終了・・・だよね。

 何でも一つの結果や技能の習得に至る道筋は様々だと思う。自分がとことん悩んで回り道をしてある結果にたどり着くこともあれば、誰かに教えてもらいながら着実に結果に突き進むこともある。たとえば、新しいコピー機があったとして、分厚い説明書を読んで自分なりに試行錯誤しながら使い方を覚えることもできるし、もう操作を知っている人から丁寧に手ほどきを受けて使い方を覚えることもある。この2つの過程は、結果にたどり着けば同じだけれども、内実はだいぶ違っている。
 どちらがいいかなんてわからないけれど、右往左往して勝ち得た結果はきっと意味があるものだと思う。けれどすべてを自分で引き受け回り道ばかりしていけば、疲れきってしまう。難しい問題だ。

 譲れない気持はたくさんある。でも結果を求めるなら過程をとやかく考えることは本当は二の次で、いろんなことにどん欲にならなければいけないとちょっと反省している。でも反省は後悔ではない。自分のやってきたことは、その時々の自分が必死に考え行動したことであるし、いろんな本質的な自己の欲や悪と戦ったことだから。どうやら自分は分厚い説明書を読みながらコピー機を使うような性分らしい。
 まぁ、でも・・・もう少し頑張ろうと思う。

 今ほしいのは結果。
 自信を生むのは努力と結果。自分の存在意義や自尊心は自信からくる。
その確認ができただけでもモゲログのこの夏は有意義であったと思いたい。


今日の頭皮 暑い暑い

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僕とハゲの夏休み②

2009-08-14 00:23:51 | なか
8月 夏休み

 どうしても一人が嫌になるときがあったり、逆に一人になりたいときがあったりと人の気持ちは大変だ。ただ、「孤独だ」と感じるとき、それはだれかとの楽しい時間を共有したという思い出があるからそう思うのかもしれない。そんな風景の数々は色あせず、むしろ時間が経てば経つほどあざやかなものとなって浮かび上がり、後悔と憧憬の入り混じった不思議な感覚をもたらすものだ。そしてそれはこころを温かにもするし、鋭くえぐられたような痛みに代わることもある。まだ忘れてないのかと自分に失望したりもする。
 過去は感情としては美しいものであっても、理性的に考えれば醜悪なものでもある。
 いま向き合おうじゃないの(笑)

 本質的にはヒトは孤独を嫌い、依存したがる生きものだと思う。人から得た安心感を知れば知るほど、孤独に恐れを覚えるものだ。

 でも・・・それでいいんだと思う。

 親鸞は『大無量寿経』の中で「独り生まれ、独り死し・・・」と人の生きる本来的な姿を語っているけれど、人間は孤独だからこそ他人と手を取り合って生きていかなければならない存在だと思うんだ。
 もちろん人間は孤独な生きものだ。それは一つの真理だろう。だからこそ、その弱さを共有し支えあうことも必要だ。それは決して依存するんではなくて、「本来人間は独りでさびしい生き物だ」ということを理解し合うことが、人の痛みや悩みをわかってあげることにつながるんじゃないかと思う。

 弱さを我慢したり、変なプライドから自分の感情を混乱させることは誰もが少なからず経験することだと思う、でも「ヒトは孤独なんだ」という理解に立ちかえれば、さびしさや孤独は誰にでももちうる感情で、だからこそ手を取り合って生きていかなければと考えることもできるだろう。

 ちょっときれいごとかな・・・

 最後に『大無量寿経』には、「・・・身、自らこれにあたりて、代わる者あることなし」とある。結局、孤独や寂しさ、生きづらい感情、その他もろもろは自分が能動的に引き受けるしかないものだという。それに痛みが伴うなら、その分世界に、人にやさしくなれると思う。

 曇天の下で、ひとり思うことはこんなことだよ。

 そろそろ一人も飽きてきたなぁ…


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僕とハゲの夏休み①

2009-08-13 23:37:53 | なか
8月 夏休み1日目

 元人気アイドルが逮捕されて、広島と長崎の平和祈念式典があって、地震があった。どうやらベランダに植えたひまわり君は水をあげていなかったので干からびてしまいました。残念。来年こそはきれいな花を夏の間咲かせることができるように頑張ろうと思うモゲログです。

 時間が余ってしまって、周りの世界の中で自分の位置をはっきり定められなくなりそうな。そんな混沌とした気持ちを幾分か整理して、やっとまた一歩を踏み出すことができそうです。何があったわけでもなく、何もない静かな時間があっただけなんです。心休まる時があって、またそこには不安が影をちらつかせて、過去に死んだ知人の小さな奇妙な思い出を後に残して、やっぱり生きていかなければならないんだと覚悟を決める。
 休暇というものは本当によくできているなと思わず苦笑してしまいます。

 「死」というものを目の当たりにすればするほど、人は何のために生き、また死んでいくのかを考えさせられる。もう決して「死」は自分の対極にあるものでも、また遠い存在でもない、常に自分とともにあるものだと思う。この古くて新しい問題を考えずにはいられない。

 あれ?ひさしぶりのモゲログ

随分暗い話題だね

 結局考えたのは、やっぱり迷ったり悩んだりすることが大切なんじゃないかってことなんですよ。学校でもそう。よき問いは、よき答えをもたらす。それは生きることについても同じなんじゃないかって。死んでいってしまうのが人の常。でも死後の世界なんてものはどうでもいい問題であるし、死んだ後に本人が評価されたり、敬われても自分がなくなってしまえば、つまり死んでしまえばどうでもいいことなんだ。
 今を生きているという事実と、白紙に近い未来があればそれでいい。
 今の積み重ねでしか未来はつくれないから。

 おい、悲観するなよ。

まだ、あなたには悩まなければいけない問題がたくさんあるんだから・・・

最近の頭皮 白髪ひげ
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空気に閉じ込めたモノ

2009-08-04 23:47:58 | なか
8月4日(火)

 今日もお仕事お疲れ様です。ドゥさん誕生日おめでとう。父親の顔になったドゥを見ていると、友人ながら誇らしい気持ちになります。いろいろ大変かと思いますが、その分違った楽しみも増えてくると思うのでまた時には近況を報告し合おう。

 本日は晴天。近くの公園ではあざやかな緑色した桜木の葉が風に揺れ太陽の光をきらきらと反射させている。そんな夏の風景を横目に出張に向かう。車を運転するのは好きだけれど、じっと一人で運転しているといろいろなことが頭をよぎる。また車の窓からさっきの続きの風景を眺めると、なんだか妙に味気なくて感興もない色身の薄い写真のような印象になる。
 
 「もし…」にとらわれて生きていくことは前向きなことではないけれど、過去の選択を今なら認め、自分を弁護し、許すことができることもある。そうやって自分の都合が悪い事や、恥ずべき行為を幾分か正当化しながら人は自分の冷静さと、自尊心や平静を保っている。悪く言えば、過去に向き合わずに、心の中で空気のようなかたまりに過去を閉じ込めて、呼吸と一緒に吐き出してしまうようなことかもしれない。そんなことを無意識にみな繰り返しているんだと信じたい。

 本当に嫌なことは人間忘れるようにできていると思う。それは心が無意識にその傷をベールで包んでくれて、見えないように自分の本質的な部分から遠ざけてくれるようなもので、それに向き合うことの危険性を本能的に教えてくれているかのように。もし悩んだり、苦しかったり、忘れたくても忘れられないつらさがあるとすれば、それは本当に辛いことではないんじゃないか。それは自分の心が問題に向き合う潜在的な力をもっているんだと、ひそかに教えてくれていることでもある。つらい、苦しい、無力感、倦怠感、種類の違う生きずらい感情は、解決する余力があるからこそ、私たちを悩ませる。
 
 自己完結でも他人からの説得でもいい、意識下の悩みや課題は取るに足らない風邪のようなものだと考えよう。ゆっくり体を休めるのもよいし、風邪薬をのむのもよい。「悩む力」はそんな中で抗体を作り、自分を成長させると思う。
そうすれば過去に立ち向かえなかった難題に立ち向かえる日が来るかもしれないと思う。
 

 明日も、また明後日も、そしてその次の日も車の旅は続くモゲログでした。

今日の頭皮 ハッピーバースデイ
明日の予想 ドライブ
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内的なおしゃれって何?

2009-08-03 23:03:00 | はじまり
8月3日(月)

 皆さんお疲れ様でした。昨日は少し飲みすぎました。モゲログです。「お酒は好きですか?」と聞かれれば。迷わず「好きです」と言いますが、ひとりで飲むのはどうも好きではないようです。誰かがいないとなんだか滑稽に思えて、しまいにはなんだか虚しくなってくる。堂々巡りした感情を消化できぬフラストレーションと、行き場のないテンションが苦手。相手あってのお酒ってことかな。
 夏は風呂上がりにビール?それよりポカリか牛乳でも飲んだ方がいいですよ。
このブログはひどい脱毛症になった人のブログです。

 育ちのせいもあるんでしょうか、書店に行くと妙な興奮を覚えます。それはエロ本があるからとかではなく、不思議なことにただ並べられている本に妙な高ぶる感情を覚えるんです。なんだか童心にかえったような不思議な感覚…。中学生のころ地元の中古CDショップに毎週通った感覚に似ています。その頃は、輸入盤の中古CDが目当てで、1枚990円以下のCDを大量に買い漁っていました。案外有名なアーティストのものも多く、国内盤で新品のCDだと2500円~3000円するものが、輸入盤で中古となるとぐっと値段が下がるんですね。もちろん音質や音飛びはするものがあるけれど、中学生にとっては質より量です。食べざかりの子どもみたいなそんな気持ちで音を手に入れていた。あの時、多くの音楽に触れたことは、結果自分の趣味のギターにつながっていくことになります。

 そんな感覚と、今書店で自分が感じる気持ちが似ているはどうも不思議です。当時の自分が音楽に感じた世界観や魅力が、現在の自分にとって書籍や本に移り変わったのでしょうか。ただ、自分にとって読書は娯楽ではないんです。ここが不思議なところなんです。本を読むってことはそれ相応のエネルギーがいる。それは娯楽ではなく自分の精神に服を合わせるような内的な楽しみであるような気がするんですね。外見をカッコ良く見せよう、きれいになりたいという衝動があるなら、内的な自己にも同じような欲求があってもおかしくはない。そんな感覚が、「不思議」の正体かもしれません。広く言えば、娯楽なのかなぁ・・・。
 
 
 読書の意味を考えたとき、本来はとっても内的で精神的で、人間の欲望や願望を惜しげもなく表現するような私小説や、今日的な諸問題を中核とするような現代小説を読むことは、一重に娯楽という枠ではくくれないけれど、それを内的な装いを楽しむものだと考えれば、文学に対する価値も捉えも変わってくるのではないでしょうか。読まれなくなった純文学こそ意味がない。文学や文芸にかかる現代的な価値とその意味はこの時代に常に試されていると素人ながらに思うんですよ。

内的なオシャレ?という広義での娯楽。自己啓発にも似ているかもしれないですね。

今日の頭皮 村上春樹は…
明日の予想 やっぱりすごい

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