森 諦圓(森 諦円) 真言宗御室派総本山仁和寺第41世門跡 一行書
森 諦圓(森 諦円)
Taien Mori
書家, 僧
1901 ( 明治34 )~ 1990 ( 平成2 )
香川県出身
真言宗の僧で真言宗御室派総本山仁和寺第41世門跡を務める。
そのほか種智院大学教授(後に大学長)、香川県覚城院住職、旧仁尾町名誉市民。
〔印 名〕
「仁和門跡」「諦圓」(「諦円」)
閑座聴松風
しずかに坐ればただ松風の音ばかり
澄み渡った耳に 澄みきった音が聞こえてくる
颯々と爽やかに吹く松風の音色は 聴く人の心までも洗い流すようである
松風とそれを聴く人が一体となった人境一致の境地に遊び ゆったりと清寂の中にある姿
心が急いていれば 気づかぬ事の方が多いとの戒めにも
本名(出家するまでの名)は森調四郎
香川県三豊郡比地二村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、真言宗京都大学(現 種智院大学)卒業。
貧しい大工の家に生まれ、8歳の時「米のメシが食べたい、学問がしたい」という動機で仏門に入った[2]。覚城院での厳しい修行を経て、三豊中学、真言宗京都大学を卒業する。卒業論文は、『児童の宗教教育の理論と実践』[3]。大学卒業後、覚城院第57世住職となる[4]。戦時中は、陸軍第十一師団付従軍布教師として上海ウーマンに敵前上陸を共に行動した[5]。
1942年(昭和17年)仁尾町議会議員に当選。約5年間、町政に参画し町役場庁舎ならびに平石幼稚園の建設などの推進に貢献した[6]。戦後、真言宗御室派教学部長、総本山仁和寺執行に就任。その後、真言宗御室派宗務部長、総本山仁和寺執行長の要職に就任。
1967年(昭和42年)真言宗御室派管長、総本山仁和寺第41世門跡となる。このとき仁和寺所有の名勝双ヶ丘売却問題で国会で論争を行い、ついに売却に成功し、寺の財政基盤を固めた手腕は広く認められた。また、種智院大学学長、洛南高等学校校長を務め、青少年の健全育成ならびに子弟の教育に尽力した。
1990年(平成2年)遷化。