幕末から明治維新にかけ、崩壊する江戸幕府にあって徳川家臣たちはどのように受け止め生きていったか、それは想像を絶する過酷のものであったと思う。先にも記した勝海舟、山岡鉄舟、江川担庵等は江戸幕府の中枢にいて維新後も活躍した人もいたが、17000人以上いた旗本、御家人はどのように処したか。先日歴史演談(8月9日)で山岡鉄舟のことを聴いたことから再度調べた。
大政奉還によって、政権を天皇に還した徳川家は、幕府時代の約1割に過ぎない駿河、遠江70万国の領地を新藩主として、6歳の徳川家達が就いた。水戸で恭順していた徳川慶喜も、謹慎生活を静岡で送ることになった。旧幕臣たちは新政府に仕えるか農民や商人になるのか道を迫られた。大部分の者は、江戸の役宅から退去を迫られ、1868年(慶応4年・明治元年)先の見込みのないまま、家族共々駿河、遠江に移り住んだ。その数は数万人規模の移住が行われたとのことであった。
その中で幕臣 中条景昭は精鋭隊の隊長として慶喜を護衛して駿河に入り、新番組と改称し徳川家康の廟がある久能山を警備し周辺に居住した。しかし版籍奉還により任務を解かれ、暴発が心配される中で、勝海舟の働きかけに応じ、不毛の地 牧之原に帰農、開拓を決意した。明治2年7月、新番組は「牧の原開墾方」に改組し、藩から約1400町余りの開墾を命じられる。頭の中条、頭並の大草高重以下200戸余りが移住、翌年には元彰義隊ほかが加わり約300戸余りの士族が新規開墾のため入植した。お茶の開墾であったが、当時お茶は輸出品として拡大しており、茶畑の開墾は時を得たものであった。しかし慣れぬ農作業に加え農具、住宅、食糧の全てに自活の道を計らなければならなかった。中には幕臣の誇りと覚悟はあっても、体調を崩すものも多く、開墾を断念する者もいた。
そんな折中条景昭に新政府から、神奈川県令に遇するとの話があったが、彼は「わが身は、既に牧之原の茶木の肥やしとなることに決めた」と云い断った。1878年に中条、大草は明治天皇より開墾の功を称されるが、士族たちの生活は困窮の度合いを強めていった。1878年215人いた士族は松方デフレ期に茶の価格が下落する等あり、5年後には118人に半減している。その後も士族の数は減少し、ほとんどが牧之原台地からその姿を消している。しかし士族たちから学んだ製茶技術は、さらに改良を重ね、受け継がれていった。こうして牧之原台地は現在の大茶園の姿になった。 明治維新を振返ると、日本国を世界の列強に伍すほどの国に発展をさせたが、この中で多くの幕臣たちが生活を一変する苦悩があったことを忘れてはならない。