Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

牧之原開拓の話

2015-08-13 22:40:23 | Weblog

 幕末から明治維新にかけ、崩壊する江戸幕府にあって徳川家臣たちはどのように受け止め生きていったか、それは想像を絶する過酷のものであったと思う。先にも記した勝海舟、山岡鉄舟、江川担庵等は江戸幕府の中枢にいて維新後も活躍した人もいたが、17000人以上いた旗本、御家人はどのように処したか。先日歴史演談(8月9日)で山岡鉄舟のことを聴いたことから再度調べた。

 大政奉還によって、政権を天皇に還した徳川家は、幕府時代の約1割に過ぎない駿河、遠江70万国の領地を新藩主として、6歳の徳川家達が就いた。水戸で恭順していた徳川慶喜も、謹慎生活を静岡で送ることになった。旧幕臣たちは新政府に仕えるか農民や商人になるのか道を迫られた。大部分の者は、江戸の役宅から退去を迫られ、1868年(慶応4年・明治元年)先の見込みのないまま、家族共々駿河、遠江に移り住んだ。その数は数万人規模の移住が行われたとのことであった。

 その中で幕臣 中条景昭は精鋭隊の隊長として慶喜を護衛して駿河に入り、新番組と改称し徳川家康の廟がある久能山を警備し周辺に居住した。しかし版籍奉還により任務を解かれ、暴発が心配される中で、勝海舟の働きかけに応じ、不毛の地 牧之原に帰農、開拓を決意した。明治2年7月、新番組は「牧の原開墾方」に改組し、藩から約1400町余りの開墾を命じられる。頭の中条、頭並の大草高重以下200戸余りが移住、翌年には元彰義隊ほかが加わり約300戸余りの士族が新規開墾のため入植した。お茶の開墾であったが、当時お茶は輸出品として拡大しており、茶畑の開墾は時を得たものであった。しかし慣れぬ農作業に加え農具、住宅、食糧の全てに自活の道を計らなければならなかった。中には幕臣の誇りと覚悟はあっても、体調を崩すものも多く、開墾を断念する者もいた。

 そんな折中条景昭に新政府から、神奈川県令に遇するとの話があったが、彼は「わが身は、既に牧之原の茶木の肥やしとなることに決めた」と云い断った。1878年に中条、大草は明治天皇より開墾の功を称されるが、士族たちの生活は困窮の度合いを強めていった。1878年215人いた士族は松方デフレ期に茶の価格が下落する等あり、5年後には118人に半減している。その後も士族の数は減少し、ほとんどが牧之原台地からその姿を消している。しかし士族たちから学んだ製茶技術は、さらに改良を重ね、受け継がれていった。こうして牧之原台地は現在の大茶園の姿になった。                                                                   明治維新を振返ると、日本国を世界の列強に伍すほどの国に発展をさせたが、この中で多くの幕臣たちが生活を一変する苦悩があったことを忘れてはならない。


草刈機修理に出す

2015-08-12 18:27:59 | Weblog

 使用頻度は少ないが、庭の雑草取りや、駐車場の整備のため、草刈機を買ったのは昨年春ごろであった。その後数回使用したが、小さなトラブルがあり順調に使用できたとは言えない。しかしメーカーに修理に出すほどのことはなかった。直前に使用したのは確か昨年の10月頃であった。その時は順調にエンジンが掛かり雑草を刈ることができた。それ以来であったが庭の雑草が大きくなり、昨日朝ラジオ体操が終わったあと、物置にあった草刈機を出して、エンジンを掛けようとした。しかしどのようにしても掛からない。前回まで3回使用したが、その都度、扱い上の注意点など良く守って丁寧に扱ってきたつもりである。

 しかし、レバーを引くが、うんともすんともしない。少ない知識であるが原因と思えるところは、いろいろ扱い試みたが駄目であった。この庭の草取りは、手作業で何とかできるが、駐車場の雑草のことが気になった。そこで夕方確認のため見に行った。自動車で往復一時間ほどのところであるが、そこは雑草は大きなもので50cmほどの高さになっていた。直ぐにも草刈をしなかればならない。そこで午前中購入したホームセンターに壊れた草刈機を持っていった。そこで専門の人に見てもらったが、その原因は判らなかった。そして言うに「メーカーに出さないと判りませんが、丁度お盆でメーカーも休みです。見積や、修理で約1ケ月かかると思いますが」との返事であった。

 専門と云っても、量販店のことであり細かな修理技術は無い。それ故製作メーカーに出すのが常道手段のようだ。そして修理のため「メーカーに見積もりを取ってから修理する」と云う。購入してから1年4ヶ月しか経っていないし、使用したもの3回だけである。購入金額もばかにならなかった。しかし売ったホームセンターは、そうした私の言い分を考慮することなくメーカーに出し、直ってくるのは1ケ月ほどかかると云う。それに従わざるを得ないが、何ともすっきりしない気持になった。

 昔のように、身近に修理するところがあり、そこに行けば1日か2日で直すことができた。しかし今の量販店は、そこに行けば何でも買うことができる。しかしそれを直すとなると、時間はかかるし手間もかかり、何とも云えない歯がゆさを感じた。とは言え、近日中に雑草取りはしなければならない。気持は治まらないが「立ったままできる鎌」を購入して帰った。

 


歴史演談を聞く(2)

2015-08-09 21:21:58 | Weblog

 7月29日市内のお寺で「江川担庵公との一日」と云う題で演談を聞いた。韮山の代官であった担庵が反射炉を造ったことはよく知られているが、外国から開国を迫られている時、勘定奉行吟味役として、国防を考え如何にして国を守るか苦悩する姿が描かれていた。ノンフィクションとはいえ、実話とは多少乖離したものと思うが、幕末の動乱期に如何にすべきかを考え行動した人物として魅力的人物であった。今も話の場面、場面をよく憶えている。

 この演者が静岡市の教覚寺の講堂で「鉄舟去薩埵峠危機」について9日午後6時から演談することを聞いた。因みに、この寺院は浄土真宗の寺で、その歴史は古く文暦元年元年(1234年)教祖親鸞が関東から京都に帰る折り、入江(清水)に居住していた光信房は親鸞の教えに帰依し、自宅を転じて一寺を建立した。これが教覚寺の起こりであった。その後元和2年(1616年)徳川家康の死去に伴い、家臣であった松平常慶が江戸の帰るとき、その屋敷を譲り受け、現在の地に移転した。明治に入っては、当時駿府藩の勘定組頭を務め、後に明治の大実業家となった渋沢栄一翁一家が、暫く教覚寺に寄宿していた寺である。それは現在まで受け継がれ、今も第21世を継承しているとのことであった。

 演談は、幕臣山岡鉄舟が、幕府の命を受け駿府伝馬町の松崎屋に陣を張る官軍の参謀、西郷隆盛に直談判し、江戸城無血開城を約す交渉を行なうため駿府に向った。しかし東海道の難所 であった薩埵峠に差し掛かったとき、警備の官軍の兵に見つかり危機に直面したが、由比望嶽亭の主人 松下七郎平の機転や、侠客清水次郎長の助けもあり、無事西郷隆盛と決死の直談判をするまでの話であった。山岡鉄舟のことは以前にも書いたが、それを倣った内容であった。しかし、この演談は続きがあった。その後蟄居した徳川慶喜を静岡まで護衛した旗本達は、刀や槍を鍬にかえ荒廃していた牧の原台地を開墾していく様も語られていた。時代の流れに翻弄されながら、新政府の役職を蹴っても大地に生きる旗本達の心根を感じた。

 明治維新を考えたとき、薩長等の勝者のことが語られるが、破れた幕府の徳川慶喜、旗本等の高級官僚が考えたことは、欧米の列強国がアジアを植民地化していく中で、その轍を踏まない様、国を割れて戦うことを避けたのでないか。江戸幕府は約250年続いて、その矛盾も露呈してきたと云え幕府には、人材も豊富であり、力もあったはずだ。しかし薩長等官軍が「錦の御旗」を掲げたとき、それに抗してまで戦うことは、日本を分断し外国の植民地になる最悪の道を避けたのかと思った。革命が起きず、維新と云う形で治めたのは、幕府軍の英断にあったのではないかと考えた。


真夏のゴルフ

2015-08-07 22:38:03 | Weblog

 近所のENさんからゴルフの誘いを受けていた。彼は私と同年齢でTBGの仲間で、時どきゴルフの話などをしていた。彼は月に2~3回はゴルフを楽しんでいて、生活をエンジョイする好人物である。身体は私より小さいが運動神経は高いしゴルフのレベルも高そうである。その彼から「リバー富士CCのサービス券があるので一緒に行きませんか」と誘われたのは10日ほど前であった。リバー富士CCは、現職時代はメンバーとして良く行っていた懐かしいコースである。そこで友人ISさんとSIさんも誘い4人で行くことになった。

 午前7時45分に我家の前に集合しSIさんの車で出かけた。今日も真夏の太陽が照りつける真夏日であった。東名富士SCを出て、富士川沿いに北進し4kmほどの山道を登ると見慣れたコースが見えた。クラブハウスもリニューアルしてあったが、窓越しに広がる雄大な富士山は、昔のままであり、私どもを迎えてくれた。このコースの特徴は、どのコースからも富士山が見える。富士山を間近に見たことがない人にとっては感動するゴルフ場である。雲一つない晴天の富士山は、まだ白い雪を微かに残し聳えていた。

 4人は駿河コースからスタートした。私は出だし余りよくなかったが、コースに慣れ、感じをつかめるとだんだん良くなった。とは言えENさんはレベルが違った。ドライバーの距離は年なりであったが、アイアンショットは格段の上手い。2人の友人も私より良いスコアーで廻っていた。ENさんとISさんは、ユーモアある会話で、周りを笑わせてくれたし、スコアーは度外視して皆は和気藹々として回った。後半の富士コースは、慣れてきたのか他の3人と同じくらいのスコアーで廻っていたが、6番、7番で崩れた。しかしトータルスコアーは97であった。これは最近の私にとっては良いスコアーと云える。因みにENさんが89、SIさんは92、ISさんは94であった。

 週末にはよく利用していたころから、既に10年近くが経った。それ以降も何度か来たが、今日は周りのことが良く見えた。利用者の中にも私を知る人もいなくなったし従業員も替わった。その中でキャディーの接客は良かった。年齢22歳でよく気が付く子であった。コースことやグリーンのことなど丁寧に教えてくれたし、私どもが話す下世話な話にも明るく対応してくれた。世間では、若い世代の言動がいろいろ喧伝されている中で、仕事とはいえお客の私達を楽しく過ごすよう配慮してくれる姿は気持ち良かった。マナー教育が行き届いていることを感じた。


炎天下の「TBG」

2015-08-04 18:32:28 | Weblog

 朝、庭で野菜の水やりをしているとYAさんが見えた。彼は地区の長老であったが「今日はTBGの日だね。私が自動車を出すから一緒に行きましょう」と誘ってくれた。出発時間は午前8時20分とした。まだ30分ほどあったので、シャワーを浴び朝食を食べてから家を出た。既にYAさんは待っていてくれた。8月2日の音楽祭が終わったが、それまで集中していたので、今は、ただ解放感にしたっていた。音楽祭が終わった後、数人で打上げ会を行い、その酔いもあって昨日は一日のんびり過ごした。今日はリラックスしてTBGに打込めそうである。

 有度の総合スポーツセンターの駐車場には沢山の自動車が停まっていた。近くからは若い人の声が聞え朝から賑やかそうである。それはテニス場の方から聞こえてきた、何かテニスの大会でもあるようだ。このスポーツセンターにはテニスや、TBG、ゲランドGなどの施設があり、老若男女が楽しめるフィールドが広がっている。既にTBGの仲間が来ていて練習などしていた。私は、前回休んでいるので久しぶりの出席であったが、この間クラブを振ることもなかった。それ故今日は参加するだけの気楽な気持ちで臨んだ。今日のメンバーは13人で4組に分かれて行うことになった。

 私の組は4人で、年齢的には概ね同じぐらいであるが、TBG大会では常に上位の成績を残しているFUさんがいた。あとの3人は同レベルの人であった。成績は9ホールを2回まわり、競うもので今回はハンデ戦ではない。スタートしたが最初から3ホールぐらいまでは、4人がほゞ同じスコアーで回っていた。その後、4人のスコアーは差が出てきた。その中で私はFUさんに離されることもなく、前半の9ホールを回った。スコアーは一アンダーの26であった。私にしては上出来の成績でFUさんと同じスコアーであった。後半に入っても好調を維持した。一時はFUさんより3打良いスコアーであったが、7番ホールでパー2のところを6打する大きなミスが出た。失敗はここだけで、後半のスコアーもFUさんと同じ28であった。トータル54のパープレーである。私にとって今までで一番良いスコアーであった。

 全体の成績順位は優勝と一打差の3位であった。じりじりとした炎天下の中で出したスコアーであり十分満足している。何故このようなスコアーが出たか考えたが、十分な睡眠と、無欲でリラックスして出来たことが良い成績に繋がっているものと思った。帰ったのは正午を20分ほど回ったころであったが疲れが出たのか3時間ほど昼寝をした。


「音楽の広場」に参加して

2015-08-02 22:49:34 | Weblog

 音楽の祭典「音楽の広場」がグランシップ会場で開かれた。この日は、リラックスして迎えたような気がした。昨日のリハーサルで皆さんに混じって声を出したが、それなりのレベルが確認できたからである。まだ多少の音程の乱れはあるが、本番では思いっ切り楽しもうとの気持ちになっていた。

 午前中のゲネプロは、3時間半ほどの長ちょうばであったが、座って待つ大変さはあったが余り苦には感じなかった。この間、司会の堀尾さんと出演者とのユーモアなやり取りや20数曲を指揮するマエストロのタクト捌き、その都度行う細かな指摘等を感心しながら聴いていた。また、どのような意図で演奏会を組立て生かしていくのかや、スタッフの協力する様など関心を持って見ていた。この間に歌った合唱曲は6曲であったが、本番さながらに声は出ていた。調子は良さそうである。

 午後3時開演となり、合唱団の一人として舞台に立った。今まで何度か舞台に立ったが今までの内一番落着いていた。周りを見渡せる余裕もあったが気持は集中していた。マエストロは勿論のこと、オーケストラ、ダンス、合唱団、スタッフを含めて700人、観客も入れ3000人の大音楽祭は始まった。気持は高揚していた。最初の合唱曲、「展覧会の絵」より《キエフの大門》は合唱団の一人として思いきり歌った。客観的に見ても相当迫力ある合唱になったと思った。その後の合唱曲も無難に歌えた。そして第二部はオペラ歌手の佐野 茂宏、腰越 満美の圧倒する歌声と演技にオペラの世界に入った。やはり日本を代表する二人の歌手の凄さを目の当たりにしたが、二年前と思ったが二人の歌を聴いた。その時より素晴らしい内容に思えた。私は、歌い終わると自然とブラボーの声を発していた。そして次は合唱曲《行け、黄金の翼に乗って》である。私にとって、初めて歌う曲であったが、練習するにしたがって好きになっていった。この歌には、囚われの身になった囚人が祖国を思い、いつか帰るとの強い気持ちを歌った曲である。その思いを感じ思いっきり歌えた。そしてフィナーレの《不二の山を望る歌》もよかった。全てを歌い終えると、込み上げてくる感動と達成感にしたっていた。

 この音楽祭から幾多のことを学び、そして音楽の理解を深めてきた。そして素晴らしい仲間達とそれを味わった。静岡と云う地方の都市から「音楽の広場」と云うクラッシック音楽を発信できたことを喜びたい。そして発足から8年、少しずつ地域に根ざし発展していることを感じている。内容も充実したものになってきているが、これに甘んずることなく、参加者一人一人が発展するために継承努力することが必要であることを感じた。そして来年も楽しみにして待ちたい。