Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

増善寺界隈を歩く

2018-11-14 21:55:10 | Weblog
 静岡にゆかりのある人物として徳川家康が有名であるが、その以前の駿河国主として君臨した今川家のことは余り話題にならない。またその痕跡は各所に残っているが、余り日が当たる存在にはなっていない。そこで今から約500年前栄えた今川家の痕跡を調べることにした。幾つかの痕跡の中から、今川家の中興の祖と呼ばれた今川氏親(今川家7代当主)が眠る慈悲尾の増善寺周辺から調べることにした。増善寺は静岡中心地から安倍川沿いに10kmほど上流に進んだ山間にひっそりと佇んでいた。

 直ぐ裏には急峻な山を背負い山頂には南北朝期敵対した安倍城址がある。ここは今川氏が南朝方の安倍城主狩野貞長との長い戦乱の末、根拠地を駿河に移したところでもある。増善寺は安倍川から西南の方向に1kmほど行った所にあり、古い山門の脇には駿河三十三個所16番の札所が立っていたが整備された境内とは言えなかった。しかし、この寺の創設は古く天武天皇10年(681年)に法相宗の始祖道昭法師が開いた真言宗の寺で「慈悲寺」と呼ばれていた。密教の寺であり当時人里離れたところにあったと思われる。明応9年(1500年)駿河の国主となった今川氏親は曹洞宗に深い関心を持っていて開祖性寅禅師に帰依し、彼を開山として七堂伽藍を整え曹洞宗に改め、今川氏の菅家増善寺とした。

 約50年前の増善寺を表した図面が境内の掲示板にあったが、浅間神社から一直線に伸びた街道は増善寺に通じていて、安倍川を渡る前に籠上一ノ門があり安倍川、足久保川を渡り仁王門から直線の参道が増善寺に通じていた。今川氏親は1526年亡くなったが、この寺で大葬儀が営まれたとある。氏親の墓所は右に入った所に作られていて、等身大の木造も安置されている。その後徳川家康からの庇護もあって栄えたが、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の中での衰え往時の見る影もない形で今も姿をとどめている。現在の今川氏親の墓所も小さな霊廟に3つの五輪が残っているだけであった。その霊廟に行く途中に大きな五輪塔が2基あったがこれは江戸時代初期の駿府城代であった松平勝政、勝易と夫人の墓であった。またこの境内には観音堂があり、これは奈良時代僧行基が7体の千手観音像を彫り駿河国の寺院に安置した一つである。

 氏親は父義忠と北条早雲の姉北川殿との間に生まれたが、戦国の世で父は地元国人衆い襲われ戦死している。氏親は幼少であり、家督相続では父の従兄弟の小鹿範満と争いが起きたが、仲介の早雲が、氏親が元服するまでの繋ぎで範満が継ぎ元服後返すことになった。しかし返さなかったことから早雲の力も借り範満を殺し駿河館の入り元服している。その後は遠江、甲斐などを攻め領土の拡張を図り安定した領地を治めた。戦国時代を代表する分国法「今川仮名目録」を制定するなどしたが、晩年は中風に掛かり寝たきりになったとあるが、駿河、遠江の領主として確固たる地位を築いた人物である。