Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

叔父さんの通夜

2016-02-23 22:40:01 | Weblog

 母の弟のMさんは2年ほど前から入退院を繰り返していたが、2月21日早朝病院で亡くなった。Mさんのきょうだいは、母を長女とする2男5女で、長男は私が生まれる5年ぐらい前、小学5年生だったころ亡くなっている。それ故次男であったMさんが跡取り息子として女のきょうだいの中で育った。大人になった6人は、各々家庭を持ち8年ぐらい前まで、一緒に旅行するなど仲のよいきょうだいであった。しかし次女が7年前に亡くなり、その後5女、そして2年前に母が亡くなり、今回はMさんが亡くなった。その年齢も80代から90代と高齢であったが、ここにきて櫛の歯が抜けるように4人が他界して行った。

 Mさんは私にとって叔父さんとは言え、年齢は7歳年上である。私が幼児のころは、父が戦争で外地に行っていたので母の実家で育った。そこにMさんがいて、兄さんのような存在であった。私も叔父さんのことをM兄ちゃんと云って家族のようにして育った。私が40代のころまでその呼び名で通していて、いろいろ相談にのってくれたMさんであった。つい先日の2月7日には、叔母さんから見舞に行くので一緒に行かないかと誘ってくれたが、その日はどうしても抜けられない用があり「別の日に、私一人で行くから」と云って断ったばかりであった。しかしそれも果たすことができないまま亡くなってしまった。

 夕方6時から、静岡駅近くの葬儀社で通夜が行われた。しめやかな通夜であったが、Mさんの2人の姉も車椅子や、杖を突いての参加であった。出席者は甥や姪達ばかりが目立って世代が替わっていくことを思った。あれだけ仲が良かった母のきょうだい達も、今は90歳と87歳の2人だけになってしまい淋しい限りである。M家は、明治以降、漆塗りを家業として、私が幼児のころ何人かの人を住まわせ、商売も順調であった。しかしこの稼業も武士の商法であり、戦後の世の流れを敏感に捉えることが出来す商いを小さくしていった。そんな中にあっても、Mさんは、その家業を守り抜いた。それは祖父母、父母から引きついたものを、何とかしたいとの思いがあったものと思った。

 それ故、順調な人生とは、必ずしも言えないように思うが一生懸命に生きた人生であった。晩年は毎月電話があり、母のことや、家族に変わったことがないかと心配して聞いてきた。それだけ身内のことを思っていた。自分のことより、周りの人のことを思う人であった今そうした諸々の心配事から解放され穏やかな顔で柩の中に収まっていた。2人の子供も成人し、しっかり生きている。Mさんも天国から見守ってほしいと願った。