日本女子大学の創立は明治34年、成瀬仁蔵氏によって設立された。当時は女子教育が軽視されていた時代。そのような時代背景の中、成瀬氏は女子のための高等教育機関を開設したのだ。
この講堂は同39年竣工のもので、元は重厚な煉瓦造りであったが、関東大震災で被災し、今はトタン張りになっている。しかし内部は原型を留めており、特筆大書すべきはハンマービームトラストという屋根を支える梁である。このトラスト構造は、日本ではあまり見ることができない貴重なものとなっている。
所在地 東京都文京区目白台2-8-1
撮影年月日 平成15年3月21日(火)
この建物は福沢諭吉が建設を推奨した、日本初の講堂建築である。福沢諭吉は人前で自分の考えを述べることが、西洋文化の根本と考えた。これが日本における「スピーチ」の始まりである。「演説館」という名前が表すように、この建物は諭吉の信念を体現化したものである。
竣工は明治8年。寄棟造り、桟瓦葺、外壁は伝統的な海鼠壁(なまこかべ)である。国の重要文化財に指定され、慶応大学の歴史の一端を物語っている。
所在地 東京都港区三田2-15-45
撮影年月日 平成15年3月21日(火)
共立学園は明治4年、アメリカから来日した三人の宣教師が開いたミッション・スクールの開設により始まる。現校舎は昭和6年竣工の木造三階建てである。二階部分は教室として、三階部分は屋根裏を利用した音楽室として使われている。横浜市内の貴重な木造学校建築として、昭和63年に同市指定文化財となる。
私立の名門校として規律は大変厳しく、私が訪ねた日は守衛さんの監視の下、遠くからの撮影しか許されなかった。
所在地 神奈川県横浜市中区山手町211-1
撮影年月日 平成15年3月8日(土)
創立は明治6年、和平観音堂を仮校舎に当て開校。現校舎は大正14年竣工の平屋建て、寄棟造り、赤色トタン葺、外壁は下見板張りである。愛川町半原地区は、絹織物と宮大工の里として有名である。特に宮大工の功績は大きく、あの江戸城の城門を造ったことで一気に名を馳せたという。この木造校舎も半原の宮大工たちが建設したものである。
その後半原の歴史を伝える郷土資料館として移築保存され、町民に愛され続けてきたが、数年前、愛川町教育委員会から新しい資料館建設の話を聞いた。反対住民と今後慎重に検討していくとのことだったが、今どうなっているのか気になるところである。
所在地 神奈川県愛甲郡愛川町大字半原2201
撮影年月日 平成15年2月22日(土)
西部秩父線「芦ヶ久保駅舎」
木造校舎データ
校名:埼玉県秩父郡横瀬町立芦ヶ久保小学校
創立:明治22年 校舎竣工:昭和10年 部類:現役
現状:校舎として活用
所在地:埼玉県秩父郡横瀬町大字芦ヶ久保637
撮影年月日:平成14年12月14日(土)
池袋~三峰口までを結ぶ西部秩父線「芦ヶ久保駅」の目の前に、この学校はある。
創立は明治22年、竜源寺を仮校舎に当て開校。現校舎は昭和10年竣工の二階建て、寄棟造り、桟瓦葺、外壁は下見板張りである。同町内の横瀬小学校と同様、現役で使用されている貴重な木造校舎である。山の斜面には増築した鉄筋校舎が建っている。
昭和初期の木造校舎というと、装飾性や華やかなデザインのあるイメージを私は持っていたが、この芦ヶ久保小学校は、そういったものを全く排除した、簡明でスマートな印象を受ける。板張りの色からしても、とても“女性的”な校舎といった感であると思う。水面がスケートリンクのように凍っていたプールが、この日の厳しい寒さを物語っていた。