木浦すみつけ祭り

大分県宇目町大字木浦鉱山。
鉱業は中止され、本祭も休眠状態となっています。

嬉しいこと…

2016年08月28日 | 記録
 先日、見ず知らずの方から当ブログで木浦を気にかける内容のコメントを頂きました。
 このサイトを立ち上げるにあたり、まさに望んでいた事象です。

 木浦に縁のある方々に今の木浦を知って頂きたく、サイトを運営しています。

傾山分校を訪れて感じました…。 祭の存続意義って…ムズカシイです。

2016年08月23日 | 記録
 お盆の時にミッチーと話したことをずっと考えています。

 私は、木浦鉱山に鉱業がなくたった今日、本祭は単に木浦鉱山区民の無病息災を願うことが目的だと認識し、「木浦鉱山区の消滅=祭の終り」という思いで続けてきました。
 そういう意味では、祭もそんなに長く続ける必要はなく、「あと10年もすれば楽になれる」と思っていました。
 実行委員会の若手メンバーの中では、ほぼ共通認識できていると思います。

 一方、木浦で育った人々、またその子々孫々、他関係者皆様は、大なり小なり木浦に対する「愛着」とか、木浦で育った「誇り」とか、木浦で育んだ「思い出」とかを大切にしながら、日々生活して頂いていると思っています。

 その方々の気持ちを思えば、木浦鉱山区民の存在はもちろんですが、木浦鉱山区を懐かしく偲んでい頂け人がいる限り、将来的には木浦鉱山区が存在したことを唯一知らしめるための手段として、本祭は永遠にやめるべきではないのかもしれません。
 単に「伝統文化の保存・継承」みたいな取って付けた様な軽々しい次元の考え方ではなく、木浦をみんなが懐かしく思い出せる最後の砦としての場を提供する意味で、本祭を守らなくてはならないのかもしれません。

 みんなが集える場の提供という意味での、本祭の存在意義は自覚はしていましたが、あくまでも2次的な要素だと考えていました。


 傾山営林集落・分校は、戦後数十年という極めて短い間に存在した集落です。

 左側の真下は落差10m以上の「べにがら谷」(上から覗くとマジで怖いです)、真ん中は校庭から校舎敷地に上がる階段だろうと思われます。
 側にある煙突付の「おくどさん」は、何に使われていたのでしょうか?
 この集落で生まれ育った方の中には、現在もご健在の方がたくさんいらっしゃると思いますが、閉校から50年弱経った今日、すでにその集落・学校の存在を知る者は少なく、その事実は文献と現地に残る遺構でしか知り得ません。 
 これ、なんだか物悲しいですよね…。

 そう考えれば、「木浦鉱山区民がいる限り」ではなく、「木浦鉱山に誇りを持つ者がいる限り」、その歴史を伝える唯一の本祭を絶やすわけにはいかないのかもしれません。

 なので、無理のない範囲で、これまでどおりに祭を続けていくべきなのかなと思っている今日この頃です。

 文化は当然のことながら時代の変遷に左右されて変わっていくものだと思います。
 生まれる文化、消滅する文化、変遷する文化。
 私たちは10年前に本祭を復活させるために荒療治を施し、ジュンくんを中心に大きく方向転換しました。
 その方針・方法は結果をもって、全く間違いはなかったと思っています。
 
 では今後、タイミングを見て消滅させるのか、進化させながら自然消滅していくのか…。

 もっと時間をかけて、多くのみんなと議論すべきお話です。

藤河内の木々も枯れてます

2016年08月16日 | 記録
 それにしても雨が降りません。
 8月になっても一つの台風も襲来していません。
 7月上旬以降、雨天がありません。

 先日藤河内に行きましたが、木々が枯れ始めています。
 川の水も枯渇気味。
 そろそろ水が欲しいな…

 我が家の前の桜も、葉を散らし始めました。
 木浦の校庭の桜も同様でした。
 

 そろそろ「河尻杖」の出番ですかな?

宇目の木浦鉱山もユネスコエコパークの一部らしいです

2016年08月15日 | 記録
 祖母・傾・大崩山系がユネスコエコパークの国内推薦地域に決定されたらしいです。
 詳細はこちらをどうぞ。

 田舎に住んでいると自分が暮らしている環境の素晴らしさに疎くなるものです。
 エコパークに認定されたところで何のメリットがあるのか知り得ませんが、少なくとも世界的に評価されたエリア内で暮らすことができていることへの感謝とか誇りとかを再認識することはできるのかもしれません。
 本祭も、祖母傾山系の麓である木浦鉱山の歴史の名残で行われています。
 「自分の故郷は『ユネスコエコパーク』なんだよ!」って、遠くで暮らすみんなの誇りに繋がったらいいな…。

 大人になるまでは「僻地出身」であることが正直恥ずかしかったです。
 なので、周りには木浦出身であることを進んでは話していなかったように記憶しています。

 そもそも「僻地」という言葉が悪い。
 僻=まともでないという意味らしいです。
 今更ですが差別用語ですよね。
 特に、学校は僻地等級をつけて管理されていました。
 「僻地」ではなく「桃源郷」とか、そんな言い方をしてくれれば良かったのに…。
 実際のところ、宇目の小学生の修学旅行は木浦・小野市・重岡の3小学校が合同で行っていましたが2泊3日でした。
 今も昔も小学校の修学旅行の定番は1泊2日の様です。
 しかしながら、木浦小学校が「僻地指定」されていたため「外部交流の機会をより多く与えるために1泊おまけ」ということの配慮の様です。

 そういった意味では、当時の小野市・重岡小学校区のみんなは木浦に感謝してね。
 親は余計な出費で迷惑だったかもしれませんが…。

 さてさて、その僻地「木浦鉱山」も含めてユネスコに認めていただくチャンス到来です。
 私たちの祖先が、祖母傾山系の自然の恵みを享受しながら営々と励んできた歴史が、今改めて評価されようとしているのかもしれません。
 その歴史の上に、今日の私の日常があることに改めて感謝です。

お盆です

2016年08月14日 | 記録
 故郷に帰省するタイミングとして盆・正月があります。
 私の兄弟もご多分に漏れず、お盆の時期に帰省してくれます。
 でも、特段のイベントはございません。
 まぁ、帰省する人にとっては故郷の空気を吸うだけで満足なのかもしれませんが、いつも木浦に通う私にとっては何もしないまま木浦で過ごすのは大変苦痛です。

 なので、先日購入したばかりの7人用テントをグラウンドに張りました。


 7時からは恒例の慰霊祭。
 初盆を迎えられた方の魂を弔います。
 今年は2名がこの世を去りました。

 その後は供養盆踊り。
 恐らく、踊り手20名、外野20名という感じでしょうか。
 真ん中で太鼓を打つ男が本祭事務局長のミッチー。
 毎年欠かさず応援に駆けます。


 恒例のアイスキャンディーの無料配布です。
 瓶くんの義母は一人が1本食べる間に、2本も食べていたらしいです。


 終了後は特設マイホームで、ミッチーもお迎えして我が兄弟共々で打ち揚げです。
 

 ミッチーと深い話をしました。
 「木浦鉱山」を看取ることの覚悟とか、その最後までの時間はさほど残ってはいないこととか。
 木浦のおいちゃん、おばちゃん達のために、私たちに何ができるのだろうとか。

 私の理想は、先日訪れた「傾山営林跡地」かな?
 昨日まで元気だったのに突然今日になって・・・という感じが理想です。

 木浦鉱山は400年以上前に鉱山が開かれ、その名が知られていたようです。
 でも、今から10年前に「限界集落」として改めて名が知れました。

 10年経った今では…。
 限界は既に通り越して「消滅前提集落」の状態だと思っています。

 でも、最後の一人が木浦鉱山に住みたいと思っている限り、私はその方の支援をさせて頂かなければならないと思っています。
 その一助が「すみつけ祭り」なのかもしれない。
 でも、他にも木浦の人を元気づけることに繋がるイベントがあるかもしれない。

 答えが見つからないまま、ミッチーは生花の仕入れに消えていきました。。。
 
  
 

傾山分校・・・

2016年08月12日 | 記録
 以前から、木浦を一山越えた西山地区の奥地に傾山分校なるものが存在していたという歴史が気になっていました。
 私が小学生だった30云年前には西山分校が御泊地区あり、同級生もわずか2名でしたが通っていました。
 多分、彼らが最後の分校生だったように記憶しています。

 しかしながら、さらに奥に存在していた傾山分校って一体…?

 この夏の「大人の自由研究」です。
 目指すべき目的地は「べにがら谷」の奥の黄色のポイントです。
 某有名サイトから勝手に拝借した地図ですが、「払鳥屋」の奥の「林道終点」から登ります。
 残念ながら赤色の登山ルートを示す線は描かれておらず、ただの点線。
 野心が不安を上回りました。


 山の日の昨日は娘の部活の応援だったので、今日わざわざ休みを取っていざ出陣!
 傾山登山口から登ります。
 入口の沢を渡ると、さっそく「べにがら谷」の看板出現。
 右が傾山方面、左が目指すべき方向のようです。。。
 が…!


 覚悟はしていましたが、登山道なんてものではありません。
 恐らく1年に10人も通っていないようなルート。
 往路で3回ほど、復路は数えきれないくらいルートを見失いました。


 でも、某有名サイトのスマホGPSアプリのおかげで遭難は免れました。
 このアプリは優れモノで、山の等高線の地図上に自分の位置が表示されます。
 しかも、標高とか登山時間とか記録もしてくれます。
 出発してから2時間、ふと森が開ける空間に到着。


 幾段にも連なる立派な石垣が残っています。


 この集合団地は一つの階段で繋がっていました。


 なんと、こんな奥地にもかかわらず治山ダムまであり、未だに機能しています。


 瓦葺の家々が建っていたんでしょうね。


 立派なキッチンも残っていました。


 「べにがら谷」の直上に傾山分校があったらしいです。
 川の真ん中には未だにコンクリート製の橋脚が残っています。


 その対岸には、当時使われていた石積の森林軌道が残っていました。
 この軌道、中岳まで続いていたそうで、今でも西山から下流ではその名残がいたるところで確認できます。



 当時の木材価値がどれほどだったのか分かりませんが、こんな山奥に林業従事者だけでこんな集落が形成されていたことに改めて感動しました。
 定かではありませんが、昭和40年ごろに集落は消滅したようです。
 たったの50年でこんな状況になってしまうとは。。。
 自然の力にはかないません。

 木浦も他人事ではありません。
 あと50年経ったら「昔、鉱山があって、その末裔みたいな人たちが住んでいたらしいよ…」なんてことを言われてるかもしれません。
 既に某サイトで「廃墟マニアら」による取材も行われています。
 改めて、「消滅することにあらがう」ことの意義とか必要性とか考えさせられました。

 以上、自由研究終了。
 それにしても、もう一人では絶対に行きません。
 心細すぎです。

夏休み~♪

2016年08月02日 | 記録
 久しぶりに我がサイトを覗いてみると、放置状態のココを覗いてくれている人が居ることにビックリ。
 というか、木浦のことを気に留めて頂いている方々の存在に感謝です。

 梅雨明け以降一滴の雨も降らず、熱い毎日が続く小・中・高の学校は夏休み。
 我が家の3人の子どもたちは、高校の補習+部活、中学校の部活、小学校の若干の宿題+ゲームの毎日の繰り返し。

 毎年、小学校の夏休みは自由研究が課せられます。
 ここ数年、毎年8月末ごろに慌てて普段したこともない書道を半日書いて課題消化していました。
 親として恥ずかしい始末です…。
 私も小学校の頃、8月末に慌てて「押し花」に試み、ほぼ生状態のポンポン草の葉っぱを学校に持って行った記憶があります。

 ところで、今年の冬に中学校の部活のイベントで藤河内の源流にある「観音滝」に子どもたちと登山しました。
 片道2時間程度のトレッキングコースです。
 その時、こんなにすばらしい滝の上にはどんなにすばらしい世界が広がっているのだろうと妙な期待感を抱きつつ、ずっと悶々としていました。
 そこで、今年の自由研究は「藤河内の源流の観音滝の上に広がる世界は???」で決定です。

 ということで登山開始!
 「あけぼの平」付近には自然の力強さを感じることができる場所があります。
 こんなに大きな岩を根っこが包み込むなんて、何十年かかっているんでしょう?


 その上流にはこんなに神秘的な立木があります。
 息子には「もののけの木」と教えました。


 これが観音滝、落差77mの佐伯市随一の滝です。
 冬には氷瀑になります。


 滝の頂上へは、ここを起点に30分登ります。
 かなりきつい登山です。


 頂上に着きました…。
 が、愕然…。
 礫の流出がひどすぎます。


 上流はこんな感じ…。
 明らかに上流で山が壊れている感じ…。