以前から、木浦を一山越えた西山地区の奥地に傾山分校なるものが存在していたという歴史が気になっていました。
私が小学生だった30云年前には西山分校が
御泊地区あり、同級生もわずか2名でしたが通っていました。
多分、彼らが最後の分校生だったように記憶しています。
しかしながら、さらに奥に存在していた傾山分校って一体…?
この夏の「大人の自由研究」です。
目指すべき目的地は「べにがら谷」の奥の黄色のポイントです。
某有名サイトから勝手に拝借した地図ですが、「
払鳥屋」の奥の
「林道終点」から登ります。
残念ながら赤色の登山ルートを示す線は描かれておらず、ただの点線。
野心が不安を上回りました。
山の日の昨日は娘の部活の応援だったので、今日わざわざ休みを取っていざ出陣!
傾山登山口から登ります。
入口の沢を渡ると、さっそく「べにがら谷」の看板出現。
右が傾山方面、左が目指すべき方向のようです。。。
が…!
覚悟はしていましたが、登山道なんてものではありません。
恐らく1年に10人も通っていないようなルート。
往路で3回ほど、復路は数えきれないくらいルートを見失いました。
でも、某有名サイトのスマホGPSアプリのおかげで遭難は免れました。
このアプリは優れモノで、山の等高線の地図上に自分の位置が表示されます。
しかも、標高とか登山時間とか記録もしてくれます。
出発してから2時間、ふと森が開ける空間に到着。
幾段にも連なる立派な石垣が残っています。
この集合団地は一つの階段で繋がっていました。
なんと、こんな奥地にもかかわらず治山ダムまであり、未だに機能しています。
瓦葺の家々が建っていたんでしょうね。
立派なキッチンも残っていました。
「べにがら谷」の直上に傾山分校があったらしいです。
川の真ん中には未だにコンクリート製の橋脚が残っています。
その対岸には、当時使われていた石積の森林軌道が残っていました。
この軌道、中岳まで続いていたそうで、今でも西山から下流ではその名残がいたるところで確認できます。
当時の木材価値がどれほどだったのか分かりませんが、こんな山奥に林業従事者だけでこんな集落が形成されていたことに改めて感動しました。
定かではありませんが、昭和40年ごろに集落は消滅したようです。
たったの50年でこんな状況になってしまうとは。。。
自然の力にはかないません。
木浦も他人事ではありません。
あと50年経ったら「昔、鉱山があって、その末裔みたいな人たちが住んでいたらしいよ…」なんてことを言われてるかもしれません。
既に某サイトで「廃墟マニアら」による取材も行われています。
改めて、「消滅することにあらがう」ことの意義とか必要性とか考えさせられました。
以上、自由研究終了。
それにしても、もう一人では絶対に行きません。
心細すぎです。