木燃人の波止場

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995 東海道 関宿 (1) 関町小野木崎

2013-09-05 08:00:00 | 名所旧跡

 ”後期野次喜多”による、旧東海道筋の旧跡めぐりは、お江戸日本橋から始まる、五十三次の内の42番目の桑名宿を皮切りに、四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿と来て、その47番目の関宿に入って来ました。

関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのが始まりで、これが地名の由来となりました。

慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。 古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42あったとされ、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。

先ずは歌川広重さんの絵から・・・・

 

 下の地図は今回紹介する、私達が尋ねた旧跡の場所を丸付き数字で示し、尋ねた順番になってます。 なお、赤い線は旧東海道で右が四日市桑名方面であり、左は鈴鹿峠、京都方面になります。 関西本線の駅は「関駅」です。   撮影日 2013.08.26(月)

 ① 関宿の入口

下の写真左の道は国道一号線で前方が鈴鹿峠方面になります。 また、右の道が旧東海道です。

 

② 関の小萬の碑と小萬のもたれ松(跡)

九州久留米の藩主の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿の旅籠山田屋に止宿した。そこで一女「小萬」を産んだ後病没した。 小萬は旅籠の山田屋の養女として育ち、母の遺言により、亀山の道場へ剣の修行に通い、天明三年(1783)ついに仇敵と巡り合って志を遂げたと言う。 その碑がここにある。

小萬のもたれ松とは、当時小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった・・・とか。

    関の小萬の亀山通い、月に雪駄が二十五足・・・・・・と鈴鹿馬子唄に。

 

③ 東の追分、伊勢神宮一の鳥居、常夜燈、一里塚跡 

ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、宇治橋南詰めの古い鳥居を移築するのがならわしになっています。 道標には、伊勢神宮・下宮までは15里(約60km)と刻まれています。

 

④ 町並み 

現在、旧東海道の宿場町の殆どが旧態を留めない中にあって、唯一歴史的な町並みが残ることから、昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

関宿の範囲は、東西追分の間約1.8km、25ヘクタールに及び、江戸時代から明治にかけて建てられた古い町屋200軒余りが残っています。

 

 

 

⑥ 宝林寺 

 

⑦ 弘善寺入口道標と古民家

 ⑧  雲林院家

昔は「開雲楼」と称し、松鶴楼とならんで芸妓置屋でありました。 街道筋の宿場では大抵の旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また、遊郭も多かった。 「開雲楼」はその代表的なもので、表の立繁格子やべにがら塗りの鴨居や柱にその面影を遺している(関町教育委員会)

 

⑨ 御馳走場跡(再現)

宿役人が大名行列を出迎えた場所。享保19年(1734)に作られた。

  

⑩ 大井家

 

⑪ 関神社

もとは熊野権現といい、伊勢平氏の流れをくむ地侍の関氏が勧請したものと伝える。

 関神社奥の神殿前の「クロガネモチ」・・・関町指定の天然記念物。

 

 関神社をまっすぐ南に行くと、関西本線の関駅になりますから、この辺りが、関町の中心になります。このあと更に鈴鹿峠に向ってゆきますが、それは次回になります。

 

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