凡凡「趣味の玉手箱」

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反骨というコトバ

2005-10-23 20:10:19 | 中国のことわざ
中国のことわざ-68 反骨というコトバ

「反骨」とは広辞苑によれば、容易に人に従わない気骨。権力に抵抗する気骨とある。すなわち、権威や時流に反発し抵抗する気概をいうのだが、元の意味はかなり違っていた。人相学・骨相学の用語だったという。

6世紀の北斉の時代、王家の人と交友の深い人相見の達人が、今をときめくさる皇族に「位人臣を極めてもあなたは謀反を起こされますな」と忠告した。

皇族がなぜかと聞くと「あなたには反骨がおありですから」と答えたという。反骨とは頭に突き出た骨と言うことらしい。はたしてその皇族は反乱を企てて自滅したそうである。

このアイデアを応用したのが「三国志演義」である。もと劉表の部下だった魏延という将軍が、蜀の劉備の元に帰順してきた。劉備は喜んで受け入れようとしたが、諸葛孔明がこれに猛反対した。

劉備は「この男は何も罪を犯してはいないではないか、いかなる訳か」と尋ねると、孔明は「この男の後頭部には反骨があり、後に必ず謀反を起こすでしょう。先んじて禍根を断つのです」と答えた。

この場は孔明が妥協して魏延は命を助けられ、その恩に報いて劉備のために忠義を尽くした。だが話はこのままでは収まらなかった。魏延はかねがね孔明の戦略に不満を抱いていたが、孔明が五丈原で死ぬと、たちまち反旗を翻して惨殺されたという。

*郵政民営化法案をめぐり小泉首相に反旗を翻した議員さん達の中で、最期まで郵政民営化に反対した議員さんの頭には骨学的見地からも「反骨」があるのかもしれない。

日本経済新聞10月23日朝刊の漢字コトバ散策から


呂后が匈奴に侮辱されたエピソード

2005-10-23 19:51:05 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-73 漢帝国の成立-12 呂后が匈奴に侮辱されたエピソード

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

呂后は高祖の后であり、高祖死後に中国有数の女傑となる。

この呂后さえもが匈奴に侮辱されながら手も出せなかったというエピソードがある。

冒頓単于から呂太后あてに一通の書簡が届いた。

「よるべなきわれ、沼沢の中に生まれ、平野牛馬の域に長じ、しばしば国境にいたり、中華の地に遊ばんことを願う。陛下独り身にして、われもまた一人居る。両主楽しまず。もって自ら楽しむことなし。願わくば、わが有するところをもって。君の無きところを満たさん」

*これは「十八史略」ではなく」「漢書 匈奴伝」にある。この話は有名なので、以前何かで読んだことがある。冒頓単于が本気で呂太后あてにラブレターを送ったのかな、呂后はこれを読んでどんな反応を示しただろうか、そんなことを想像すると楽しい。


ヤオトン

2005-10-23 19:44:02 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ15-ヤオトン


三門峡を後にしてバスは洛陽に向かう。バスからは標高2600mの中国5山の一つである華山を見ることが出来た。

あの江青ら4人組の時代に農業振興の為、山の木を伐採して段々畑にしたそうで、バスの車窓からその光景が眺められる。

年間を通して雨が極めて少ないので、米は取れない。畑に植えられるのは小麦であるが6月に収穫が終わったそうで、今の時期10月は二期作に備えているそうである。

所々に木が植えられているのがバスの車窓から確認されたがこれは、ポプラの木を植樹して、木々の再生を図っているそうである。

なお、この辺り一帯の産物はナツメ、林檎、金・銀などの鉱物資源、石炭である。
バスは黄土高原を走る。やがて黄色い大地に掘った横穴が見えてくる。これが地下住居のヤオトンである。あたかも、地面の下に連続的な穴をほるアナバチの巣穴のように見える。

我々が訪問したヤオトンは大地の一部を四角くほりさげて、まず中心となる中庭をつくり、この四面の土壁の奥に、いくつかの住居を作るために掘り進み、中庭型の住宅を地下に実現したものである。

土砂をほり、それを地上に排出することで成立する室内空間は、夏涼しく、冬暖かく快適であるという。

早速、階段を下りて、中にはいると、もう中国では数少なくなった纏足(てんそく)の93歳のおばあさんが出迎えてくれた。ここではお婆さん一人が住んでいるとのことである。室内は93歳のおばあさんが住んでいるとは思えない華やかな空間である。

息子たち8人は近くの地上に暮らしているそうである。地上で暮らす方がなにかと便利なのだろう。ヤオトンもやがてはなくなる運命なのだろうか。

確かに近くには既に廃墟となり草が生えっぱなしにされているヤオトン跡を認めることができた。

(2004年10月12日)



女性心理をついた巧みな戦術

2005-10-23 05:45:32 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-72 漢帝国の成立-11 女性心理をついた巧みな戦術

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

高祖が天下統一を成し遂げた頃、北方の匈奴にも冒頓単于(ぼくとつぜんう)という英主が現れ、勢力を拡大しつつあった。

匈奴は南下し国境を侵したので高祖は討伐軍を編成して自ら前線に赴いた。

折から匈奴の冒頓単于が代谷(だいこく)に陣をしいたとのニュースが伝わった。高祖はこれを討たんと30万の大軍を率いて北上し、追撃に追撃を重ね、先頭を切って平城に到着した。

この時とばかり冒頓単于は精兵40万騎を繰り出し、本隊と離れていた高祖の軍を白登山上に包囲した。

包囲が続いて7日目、高祖は陳平の奇策を採用して、冒頓単于の后に密使を送り、手厚く贈り物をした。この秘策とは「冒頓単于が勝利をおさめて漢の地に移るようなことになると匈奴王の冒頓単于は漢の美女を愛してしまって王の寵愛は受けられなくなりますよ」というものであった。

効果はてきめんに現れ、冒頓単于は、包囲を解き兵を引き上げた。

この討伐戦で陳平は6回も奇策を進言して、高祖を補佐したところから、そのたびに領地を加増された。

漢の9年、高祖は匈奴との間で停戦協定を結んだ。また懐柔策の一つとして、皇族の娘を公主に仕立てて冒頓単于にめあわせた。

*以後、武帝が強攻策に転じるまでの数十年間、漢は匈奴に貢ぎ物を送り、懐柔的和平策をとった。それほどに匈奴は強かったのである。

陳平の秘策は巧みに女性心理をついたものでした。また匈奴王もこの后には頭が上がらなかったのでしょう。


王国の整理

2005-10-23 05:43:06 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-71 漢帝国の成立-10 王国の整理

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

高祖は論功行賞によって、特に功績をあげた功臣を「王」に任じた。

燕王魯綰(ろわん)、梁王彭越(ほうえつ)、長沙王呉ぜい、楚王韓信、淮南王黥布などである。

彼らの支配する「王国」は独立的性格がきわめて強く、常に中央の支配から離れようとする傾向があった。

高祖はこの傾向を察知して、これらの王国のうち、同姓の者、すなわち劉氏一族の王国だけ残し、他は順次劉氏一族に切り替えてゆく方針をとった。血族的なつながりで「王国」の独立国化を防ごうとしたのである。

だが、この処置は当然、整理の対象となった王の反発を引き起こさずにはいなかった。

同時に、漢帝国を通じての課題である匈奴問題が浮上してくる。