ひこにゃん×ひこにゃん ブログ 彦根にひとつだけの花

ひこにゃん それは古城に住まう心清きみんなのねこ

いちファンの綴るレポート&おとぎばなしのブログです☆

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

インターミッション XXXVIII (b)

2011-02-27 21:57:38 | 彦根ノムコウ
 今回も2話同時更新です。


          ~(a)よりつづき






翌天文24年(1555年)、義元に帰国を許可された亀之丞が晴れて伊那から井の国に帰還します。
帰国後、亀之丞は“井伊直親”と名を変え元服しました
次期井伊家の総領の地位が揺るぎ無いものになった瞬間です。

さらに直親は嫁も迎えました。
その相手は烏帽子親でもある親族筆頭の奥山因幡守親朝の娘で
娶った時期は隠棲していた頃とも、井の国に戻ってからとも謂われています。


「ぬこ殿!ぬこ殿ではありませんか!
 懐かしい、某を覚えておいでか?」


「もちろんでしゅ、久しぶりでしゅ亀之丞しゃん!
 いえ、今は直親しゃんでしゅね」


「ははは、昔が思い出されますな。
 よく姫と一緒に・・・!・・・・・」


「・・・次郎法師しゃんとはちゃんと会われたんでしゅか?」


「・・・いえ、遠目に姿をお見掛けした程度にて・・」


直親も次郎法師も再会を果たす前からお互いの境遇を既に知っていました。

意に沿わぬ婚儀を撥ね退ける為に世俗の全てを捨てた次郎法師。
隠棲しつつ恩人の娘を嫁に迎えざる得なかった直親。


二人共に負い目があり、昔のように接する事が出来なくなっていました。
あれほど再会を夢見ていた二人でしたが、今では顔を会わせるのが
辛い立場にお互いなりました。

直盛はそんな直親夫婦に領内の南の祝田に館を与え、姫と顔を会わせずに済ますのが
精一杯でした。



皮肉にも当事者達以外にとっては直親が戻ってからの井の国には再び活気が戻ったのです。




弘治3年1月(西暦1557年)、今川一門の関口氏に嫁いだ直盛の叔母の娘・瀬名姫が
松平元康に正式に嫁いだと次郎法師は聴かされました。
予てから約束されていた婚儀が実現したのです。

次郎法師はその方にいつかお会いしたいものだと思いました。





そして運命の永禄3年(1560年)を迎えます。

数年前から着々と準備と布石を打っていた今川義元が遂に尾張への
大規模な軍事行動を発布しました(※注7)

これは今までのような小城の奪い合いや一進一退の境界争いではなく
版図を大きく塗りかえらんとするものです!


「信濃守殿へ、貴殿(直盛)の何時ぞやの言葉に甘え露払いを頼みたし」


と義元は寄越してきました。


「致し方なし・・・」


直盛は家中の名立たる者総出で軍勢を催し、5月14日に曳馬城に到着した義元を迎えました。
義元が連れたその軍勢は雲霞の如く群雲のように続き、煌びやかさでもこの上ありません。

そしてこの曳馬城は老齢の祖父・直平が城代を務める城です。
出陣前に祖父と孫は二人っきりで会話を交わしました。


「此度は朝比奈泰朝殿の傘下で前軍に組み込まれたそうじゃな・・・」


「是非も無き事にございます、祖父様」


「かつて我が三岳城を攻め落とした朝比奈泰以(泰朝の大叔父)の血筋の下でとは皮肉なものじゃな(※注8)

 直盛、くれぐれも命を無駄にせぬようにな」


「此度の戦は今川家が一方的に進む戦になりましょう、ご懸念は無用にございます」


「どれほど圧倒的な戦であろうと人死は出るものじゃ・・・」


「ご尤も、それゆえ直親や小野は連れず、祖父様にも留守居を願ったのですから(笑)」


「笑えぬ話じゃ(苦笑)・・・・・武運を祈る!」


「心得えました」



世に謂う“桶狭間の戦い”の始まりです!







5月18日、人馬の殺到する尾張・沓掛城で直盛は懐かしい顔に会いました。


「元康殿!」


「これは直盛殿、久方ぶりにございます」


「聞きましたぞ、大高城へ向かわれるとの事。
 名誉ある先陣にございますな、くれぐれもお気をつけあれ」


「有り難きお言葉。
 そういう直盛殿は朝比奈殿の下、鷲津砦へ攻め掛かられる由」


「お互い無事でいられた時はまたお会いしましょう」


松平元康は単独の軍勢で一方を担う役目を義元に命じられていました。
その役目は織田が築いた砦に囲まれている大高城(名古屋市緑区)を救うため
数か所の砦を掻い潜って兵糧を運び入れる事。

織田方の砦は全て見上げる高所に築かれており、かなりの抵抗が予想されるので
決して楽な任務ではありません、そしてこの役目が事実上の開戦となったのです。

元康の軍勢はその夜、命ぜられた任務を見事に果たしました。


日付が変わった未明、元康は大高城に向かう途上にあった丸根砦に休む間もなく攻撃を開始。
時を同じくして朝比奈隊の一角として井伊勢は丸根砦と対をなす鷲津砦を攻撃、
午前八時には両砦の陥落の煙が上がったのを熱田神宮にいた織田信長は見たと謂います。

初戦は織田方の抵抗を一蹴するほどの鮮やかな勝利がもたらさせました。
元康は大高城、朝比奈隊は鷲津砦でそれぞれ本隊の義元との合流を待つため留まる手筈です。



運命の午後2時!

両隊の東わずか5kmの地点の桶狭間山一帯で歴史的な戦闘が繰り広げられ
誰も予想していなかった結果が生まれていました。


離れていても何かが起こっている異様な雰囲気は伝播し、諸将はどう動くべきか逡巡しました。



その時大高城に突然タイガーしゃんに跨ったお家元が現れました!


「井伊信濃守直盛が名代のぬこでしゅ!
 火急の用向きにて至急松平元康しゃんにお取次ぎ願いたし!」




直盛の名代というのは方便でした、この日お家元は直盛と話すらしていません。


「いつぞやのぬこ殿ではないか!火急の用とは!?」


「元康しゃん!
 あい、今川治部大輔しゃんお討死でしゅ!」


「な、何ですと!?」


「さっきの嵐雨の直後に織田本隊と遭遇した義元しゃんは桶狭間山で
 討ち取られてしまったんでしゅ!」


「・・・まさか・・信じられぬ・・・・・」


「驚きご尤もでしゅ、直きに物見が同じ報せをもたらすはずでしゅ」


お家元はその歴史的な場面を見た訳ではありません。
けれどそれは間違いなく同時刻に起こっていた揺るぎ無い事実でした!

見ようと思っても現場はとても近付けない惨状と混乱だったと思いますから
お家元は“タイム・スリッパ”で直接大高城に乗り込んで来たのです。



お家元は余人に聞かれぬように元康の耳元に近づき小声で囁きました。


「(もし事実だと確認が取れた時は今後どうしゅればいいか考えて下しゃい。
  駿府に戻らない手段もあるはずでしゅ・・・)」


元康はハッとし険しい顔をしました。


「報せを待ちましゅか」


今度は皆に聞こえる声でお家元は言いました。
次の報せが届くまで左程時間は掛かりませんでした。


「既に桶狭間一帯は屍の山にて、既に織田勢は引き上げつつある模様、
 岡部殿、松井殿の様子は窺い知れませぬが、義元公が討ち取られたのは
 疑いようも無き次第にて・・・」

信じられませんでした。
雲霞の如くと称えられた軍勢は霧散し、今やその将たちがどうなっているかも
情報が錯綜して杳として知れませんでした。

どうしてこうなったのか不思議でした。

この戦場の動きを地図上で全て知っている後世の人間ならいざ知らず
谷間や起伏にとんだこの戦場の一角に陣取っていた元康が
見てもいない離れた場所で起こっていた偶発的な逆転劇を想像出来る訳がありません。


元康はお家元が耳打ちした別の進路を真剣に考えました(※注9)


「こりではっきりしましたね、そりじゃあひこにゃん達は行きましゅ。
 元康しゃんご武運を、いじゅれまた!」








お家元とタイガーしゃんは大高城から離れると直盛の行方を必死になって探しましたが
朝比奈隊の付近にどんなに目を凝らしてもその姿を見つける事は出来ませんでした。


「お家元、直盛様は・・・」


「・・・これ以上戦場に近づくのは危険でしゅ。
 直盛しゃんの運命を変える事は出来ましぇんけど、何かして上げたかったでしゅ・・・
 無念でしゅ・・・・・」




断腸の思いで二人は桶狭間を離れました。







同時刻、鷲津砦から打って出ていた朝比奈隊は勢いを得た織田勢と遭遇し
その中で直盛は瀕死の重傷を負いました。

息のあるうちに遺言した直盛は最早長く生きられない事を察し
首を井伊谷に持ち帰るように指示して自決したと謂います。

この時、付き従った16名の名立たる家人が同時に命を落としました(※注10)
下を見ればその死傷者は追い切れないほどです。


井の国にとってはあまりにも犠牲が大きく実のない戦となりました。
井伊谷に住む者で身内に害が及んでない者はいないと云ってもいいでしょう。


戦での死が恒常的な出来事だったとはいえ、今回襲った悲しみは尋常ではありません。
それでも南渓と次郎法師、龍泰寺の僧達は自らの悲しみを押し殺して
供養や葬儀は勿論、その遺族への見舞や保証の約束にも奔走しました。




直盛の大きな死を悼んで付けられたその戒名から、龍泰寺が“龍潭寺”と
寺名を変えたのはこの時からです。




それから半年も経たぬ秋に井の国を震撼させる出来事がまたあったのです。
直親の妻の父であり後見人でもある奥山親朝が家の子・郎党を引き連れて
家老・小野但馬守を襲撃!
但しこれは失敗に終わり全員絶命したと謂われています(※注11)




大戦に次いで家老と家中の有力者の諍い・・・
井の国は中々その悲しみから解き放たれる事はありませんでした・・・















そんな悲しみの後、直親の妻は父や親族を失った失意の中で念願の男児を生みました。
井の国を立て続けに襲った悲しみの中、本当に悦ばしい慶事です。



南渓や次郎法師、お家元とタイガーしゃんは祝田の直親の館に祝福に駆け付けました。


「直親殿、祝着至極にて」


「ありがとうございます、南渓様。
 ささ、生まれた児を見て下され」


寝床から起き上がれぬ妻の横に産着に包まれた赤子がいました。


「次郎法師様、どうか抱いて下さいまし」


「良いのですか?」


「はい・・・」


この妻は夫とこの尼の関係を勿論知っていたので、遠慮気味な次郎法師に
自ら進んで願い出ました。


「・・・・お二人にとてもよく似ておいでですね」


「ありがとうございます、次郎法師様」


感動していたお家元も思わず


「あの・・・ひこにゃんにも抱かせてもらっていいでしゅか?・・・」


「お願い致します」


震える手を伸ばし慎重に慎重に力を込めないように優しく抱き上げると
赤子がお家元の指を力強く握りました!



「はじめまして、ひこにゃんでしゅ、こっちはタイガーしゃんでしゅ!

 ひこにゃんは今日という日をずっとずっと待ってたんでしゅ!

 しょなたの名は“虎松”!
 長じて“万千代”!

 元服後の名は“井伊兵部少輔直政”しゃんでしゅ!」





「しょなたは井伊家の希望でしゅ!みんなの希望でしゅ!

 しょなたのお蔭で井伊家は栄え、後々まで隆盛を極めるんでしゅ!

 誕生おめでとうごじゃいましゅ、本当におめでとうごじゃいましゅ!」





お家元はまるで分別のついた成人に対して話しているかのようでした。
その喜びようはそれはそれは嬉しそうで、感極まっていたと言っていいでしょう。


「これこれ、ぬこ殿、勝手に名を付けては・・・」


「いえ・・・“虎松”か、良い名ではござらぬか!」


「良いのか?直親殿」


「はい、今年は“寅年”でもある事ですし、大河殿のように雄々しく育って欲しいと
 儂は願っておりまする。

 室(奥方)はどうじゃ、名に不服はないか?」


「誠に結構な宜しき名かと存じます」


タイガーしゃんは自分に関係する一字が採られた事に涙ぐみました。


「光栄です・・・・ありがとうございます!」


「良かったでしゅね、タイガーしゃん!」


南渓はお家元が初めて井の国に来た日に言っていた言葉を思い出しました。


「(“虎松しゃんに会いに”、ぬこ殿はそう言っていたのだったな・・・)」


そして次郎法師は心の底から直親に言いました。


「本当に良うございました、直親殿」


「次郎殿、ありがとうございまする!」


二人が永く抱えていたわだかまりも生まれた虎松が拭い去ってくれたのでした。


そして皆はお家元が言い放った虎松の未来の姿を思い浮かべて目を細めたのです。





「“虎松君(とらまつぎみ)”か、誠に芽出度き日じゃな今日は!」





この日、井伊家の人々はいつか明るい道が開ける事を夢見合いました。










       つ づ く










次回予告 )


井伊家に残された最後の希望・虎松の誕生。

そのためにはどんな不幸が井伊家を再び襲おうと立ち向かう決意をした次郎法師。

激動の戦国時代に抗う一輪の花がここに!




第五章 “一縷・女にこそあれ井伊家の総領”












― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 




Nukopedia
ぬこペディア


お花の百科事典







※注1)この当時の今川家の動き


まだ次郎法師が出家する前の一昨年、今川家は遠江を越えた三河・今橋城(愛知県豊橋市)を攻略。
翌年(去年)、田原城(愛知県田原市)を順次攻略し、今川家の進出に危惧した織田信秀
(織田信長の父)は、三河の旗頭・松平広忠(徳川家康の父)の同族・松平忠倫に反抗させ
岡崎城を圧迫。
危機に陥った広忠は今川義元に救援を要請、嫡男を人質に差し出す事を条件に承諾。

次郎法師が出家したこの年、救援に向かった今川家は“小豆坂合戦”で
織田信秀を破って勝利しました。







※注2)重要な人物


(※注1)で広忠が人質に差し出した嫡男・竹千代です、後の徳川家康でこの当時5~6歳でした。
けれどこの人質護送の最中に織田信秀の元に連れ去られる事件が勃発します。

この毎年のように起こった戦に井伊家が参加した可能性は高いと思われます。








※注3)松平広忠暗殺される


“小豆坂合戦”から一年後、織田信秀の息の掛かった家臣の手で暗殺されたと伝わっています。
父・清康と同じ運命を辿るとは悲劇というしかありません。
この後、井伊家にも同様の悲劇が降り懸かる事になるのです。

お家元が伝えた少し先の未来の話通り、竹千代は名義の上では岡崎城主の後継者でしたが
成人するまでは今川家が統治する名目を得たので、念願の三河支配が始まります。

これは偶然の積み重ねの結果ではありません、竹千代誘拐事件はイレギュラーな出来事でしたが
今橋城攻めに端を発した一連の戦が、今川家の描いていた絵だったのは間違いないでしょう。









※注4)今川家のインディペンデンス(独立)


天文22年(1553年)、今川義元は兼ねてからの“今川仮名目録”という分国法に加え
新たに“今川仮名目録追加”を制定しました。

“今川仮名目録”が今川家の家法であり地方自治体が持つ“条例”だとしたら
“今川仮名目録追加”はただの追加条例ではなくて、幕府支配を脱した“法律(国法)”です。

これは幕府の庇護を必要とせずに我が国は独自の法律を持って領国内を支配するという
独立宣言と云ってもいいものでした。
(この当時の足利幕府は実質的な支配力が崩壊していましたが
その権威を声高に否定する者は中々いませんでした)

足利幕府一門でありながら幕府や朝廷を否定し、任地の支配を預かっていただけの身分を超え
途方もない支配体系を確立したのです。

東海地方にとうとう“王”が誕生した瞬間でした!









※注5)瀬名姫(築山殿)とその母


井伊家の伝承ではこの二人は井伊家の血筋とされています。
もしこれが真実であれば、徳川家康と井伊直政は親戚筋になりますから
後に家康が直政を格別に信頼して重用したのも納得出来ます。

ここで直盛が言った“先の戦”は(※注8)で触れている今川家と争った最後の戦を指します。










※注6)何らかの政治的取引の可能性


今川義元の所へ直盛が直訴に行ったくだりは私の創作です。
ですが小野和泉守が死んだとしても、亀之丞を呼び戻していい理由にはなりません。
元々その意向は今川家から発せられていた訳ですから。

この当時義元は間違いなく尾張進出を目論んでいたはずです。
そんな中で国内の者達の歓心を一層得る為には、数々の懐柔策が取られていたのは
間違いありません。

亀之丞が戻った時期から逆算すると、飛び込んで来た直盛に対して
こんな駆け引きや仕掛けを施すのは義元にとっては遊びに等しかった事でしょう。

失敗して井伊家が刃向かってきても、それはそれで構わなかったはずです。











※注7)逆の視点


不思議な事にこれは相手側の織田信長の方にも義元が来るのを予期した節が見られます。

信長は尾張国内にあった今川方の最前線、大高城と鳴海城の二城に対して
巨費を投じていくつも城砦を築き封鎖したからです。

こうなれば義元もこの二城を救援するために後詰に向かわなければいけません。
“桶狭間の戦い”の位置と時期は信長が意図して誘った可能性もあります。










※注8) 南北朝から続いた戦の決着


永正8年(1511年)に斯波義達・大河内貞綱らに呼応した直平は井伊谷城の詰城と紹介した
三岳城に籠もって今川氏と争いましたが、3年後の永正11年(1514年)に
今川氏親(義元の父)が派遣した朝比奈泰以(朝比奈の泰朝の大叔父)の攻撃で
三岳城は落城し降伏しました。

この敗戦と屈服の記憶は直平にとっては遠い先祖のものではありません。
若い頃、自らに刻まれた自身のものです。









※注9)元康の“To be, or not to be”


この夜、撤退を開始した元康は駿府には向かわず、松平家の本貫である岡崎城へ向かいました。
在番の将が逃げ去った後に入城した元康は今川家から独立する道を選んだのです。

元康は義元の“元”の一字を捨て、“家康”と改めました。
お家元は都合あと2回、家康に会う事となります。
 








※注10)桶狭間で散った者達


その者達の名は今も残り、井伊谷龍潭寺の境内に祀られています。
私も伺った時には全員の墓前でご冥福を祈りました。








※注11)


奥山親朝は“桶狭間の戦い”で一族の主だった者をほとんど失っていた失意と
婿の直親と遺恨のある家老の小野の関係を彼なりに憂慮して討ち果たそうとしたようです。

それだけでも動機が窺えるほどですから、当時を生きていた当事者にとっては
もっと険悪に成らざる得ない日々の確執があったのではないでしょうか。


コメント (10)   この記事についてブログを書く
« インターミッション XXXVIII... | トップ | “This is love” »
最近の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
イッキ読み! (どら)
2011-02-28 19:34:17
更新おつかれさまでした!

まずは、亀ちゃんの無事の帰還おめでとうございます。そりは次郎の尼姫さまの苦しい日々の始まりでもありますが、その苦しみが次郎さまをより大きく成長させて行く事でしょうね、何よりお家元の支えもあることですし。

直政さんを抱くお家元の涙…どれほどの思いだった事か!(それにしても直ちゃんかわええ)
直ちゃんが生まれなければ今のお家元の存在も
無いわけだし、井伊家やお家元だけでなく、我らお家元の弟子にとっても直ちゃんは希望の星ですね

※次郎さまの感動的な生涯とともに、今、心に
掛るのは瀬名姫さまのことです。その生涯を思うと非常につらいものを感じてしまいます
今まで知らなかった世界をこうして目の前に繰り広げて頂いて、管理人さん、お家元、本当にありがとうございます。
私の気持ちを代弁してくれてありがとうございます♪ (管理人)
2011-02-28 23:35:56
>お家元が生まれたばかりの直政公を抱いて涙ながらに語りかけるこの場面!

私が“彦根ノムコウ”を描き始める時って、何個かクライマックスシーンが降ってきて
それがあまりにも鮮烈だと“書こう!”と決心するんですけど
ここはそう思わせたシーンのひとつです。
降ってきた時からこのシーンは私が手を加えていない場面です。
何か変な事言ってますね私???www

でもこれ結構マジメな話で、そのせいで私にとっても始まる前から感慨深いシーンでした!

将来“井伊の赤鬼”と呼ばれ、仕える家臣達が逃げ出したくなるほど
厳しかったという井伊直政公ですが、生まれた時は思いっ切り可愛くして
ギャップをつけちゃいましたwww

どらさんは先の展開をしっかり掴んでらっしゃるのが言葉から分かります。
私も油断できませんねwww
おぎゃ~(泣) おぎゃ~(泣) (おぎゃー)
2011-03-04 02:48:29
虎松しゃん お待ちして居りました。
噂にはイケメンだとか聞いていましたが、本当に可愛いらしい! 

寅年に誕生し、雄々しいタイガーしゃんのようにと、実に武将に相応しいお名前です。
直虎様からも一字頂いているんですね。

お家元が名付け親ですから虎松しゃんの後見、頼みます
元康しゃんに、いち早く義元公討死の報を告げに行くなど、お家元着々と布石を打たれ流石だなぁ!

初節句のお祝いに、リ○ドロの五月人形“若武者”(鎧・兜姿がめちゃ可愛いんです…虎松ちゃんには及びませんけど!)送ろうと思い、シロネコトマトの宅急便に依頼したら、今の所時空は超えられないのでと丁重に断られました

管理人さんの「最後にはその全てが報われるように・・・・・“仕向けていく”のが私の願いです」 うれしいお言葉です。 余りに過酷な次郎法師様に安らぎが訪れますよう 

今回も長文ですいません!               
長文では負けませんよ!www (管理人)
2011-03-04 19:57:19
>コメントしてくれた時のノックが大きければ私もそれに応えたいです!w

ふふふ、おぎゃーさんのHNは産声と聞き間違えますねwww

とっちらかった文章からよくぞそこまで読み取ってもらえたなぁって思いました!
素晴らしい読解力と予想です、おぎゃーさん!
はい、お家元が家康公の少年時代から度々接触を繰り返しているのは全て“虎松”のためです。
“裏設定”の隠した想いを抱いて寄り添うお家元は、ここまでずっと辛い事の連続でした…
そのお家元が頑張ってこれたのは今回の虎松の誕生を無事迎える事が出来るようにとの
一心があったからでした。
でなければお家元もどこかで心が折れていたかもしれません…
お家元が虎松を抱えて泣いているのはそんな背景があったのと、想いが叶ったからなんです。

お家元が次に目指す目標は立派な主君に虎松を無事仕えさせる事!
そして最終章辺りで迎える虎松(直政公)との最後のシーンは場所もセルフも
全て完成していますから。

もし宅急便が戦国時代の虎松の元へ届いていたら“井伊直政公”の肖像画のバックに
描かれた可能性がありますねwww残念ですっ!
ようやくコメント。 (はっすい)
2011-03-05 21:18:55
今回は遅くなりりました~
じっくり読んだのとまとまった時間を作るのが難しいのもありましたが。

暗雲もやもやの中でのピッカーンと光り輝く新星のような直虎様。
現在に続く井伊家には絶対必要となる存在となる方。
次回からの更新、わくわくどきどきです。
私好みの連ドラ、「TRICK」の台詞みたいに。
全部まるっとお見通しだ!と言える日を楽しみにしています。

彦根・佐和山にある龍潭寺、昨年秋に石田三成イベントがあったさい訪問してました。
データを探し出している作業中(また一つ仕事が殖えました)。
ああ! (はっすい)
2011-03-05 22:55:23
「虎松」様と書いているつもりが・・・・・お詫び訂正します。
復興の祖 (ちゅるふ)
2011-03-06 18:19:12
 さて、いよいよ、後の直政さまの登場ですよ。
 一部の噂では、家康さんまで心を動かされるほどに美形だったということで、「栴檀は双葉より芳しい」のことわざどおり、虎松さま、かわいらしゅうございます。

 お家元が、あのように口走らなければ、どんな幼名になっていたかも興味あるところではあります。

 ではでは
虎松誕生で第一部・完です (管理人)
2011-03-07 18:05:30
>訂正がなくてもそうだと思ってましたよ、はっすいさん

私なんかそんなのポコポコやってますもの(苦笑)
すぐ上のおぎゃーさんへの返事の中でも“セリフ”をあろう事かセルフって書いてますしねw

彦根・龍潭寺は南渓和尚のお弟子さんの昊天禅師が開基した寺院で、この昊天禅師は若い頃に
直政公に従って“小牧長久手の戦い”にも参戦した長刀の遣い手だったそうです。
こちらの龍潭寺も小堀遠州の意匠が入っていますしね

ブログで紹介されていた井伊谷(いいのや)の記事、拝見させて頂きました。
遠州の庭園以外に“日光東照宮の眠り猫”で有名な“左甚五郎”作の“龍の彫刻”や
“鴬張りの廊下”も観られたんでしょうね、きっと!

井伊谷に限らず短期間に数か所の場所を巡っているのがブログの記事から分かりました。
どうしたらそれだけの時間を捻出出来るのかと思ってましたが
上田教授が常々言っている「なぜベストを尽くさないのか!」という言葉を
実践されているからなんでしょうねw




>はい、とうとう“虎松”が誕生しました、ちゅるふさん!

お家元は普段は重要な情報は制限してるんですけど、今回は待ちに待った誕生だったので
珍しくうっかり口から出てしまったんです。
それだけ待ちわびた虎松の誕生でした

“栴檀は双葉より芳しい”と云う言葉は今回初めて学ばさせて頂きました。
ありがとうございます、ひとつ賢くさせて頂きました♪

直政公が家康公の寵童だったのでは…と謂われていたのは有名な話ですもんね。

今回までのお噺がセカンド・シーズンの第一部(1544年~1561年)になりまして
次回からが第二部(1561年~1583年)のスタートになります
Unknown (ひかる)
2011-03-13 19:52:49
このようなタイミングでもコメントで本当に申し訳ありません
お家元が虎松様を抱きしめている姿が、心に刺さってしまいました
また皆さんが笑顔を取り戻せることを願ってやみません
管理人様、このブログを訪れている皆様、全ての皆様の御無事を心より願っております
お察し申し上げます。 (管理人)
2011-03-14 20:19:03
>状況を弁えて言葉を選ばれたのがコメントから分かります。
4行の中でひかるさんが最も強く想っているのは3行目から4行目にかけての
言葉なのは疑いようもありません。
それを伝えたくてコメントを入れてくれたんですね。
心の籠もった願いを届けてくれて、ありがとうございます。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

彦根ノムコウ」カテゴリの最新記事