哲学×高校生

哲学者に憧れる高校生が練習のつもりで書いています。
「それは違う!」と思える部分がありましたら、コメントお願いします。

頑張れ受験生!応援しています!でも今回のブログは読まないで!!

2006-01-31 16:25:01 | Others (その他)
(タイトルにある通り、近々受験を控えている方は、読まないほうが良いです)

そろそろインフルエンザが流行りだす頃ですね。
この季節に満員電車で通学というのは今年が初めてなので、インフルエンザがうつらないかな、という不安が出てきました。
風邪がうつるならマシな方ですが、インフルエンザにかかるというのは恐ろしい。
40度の熱なんて出していられません。
しかし今、インフルエンザに一番の恐怖を抱いているのは、中学・高校受験者でしょう。

わたしは去年に高校受験を体験したばかりですが、その時はインフルエンザなんて全く意識していませんでした。
どうせかからないだろう、と。
こういう書き方をすると、この後インフルエンザにかかったように思われてしまうかもしれませんが、わたしは未だに、一度たりともインフルエンザにかかったことはありません。

しかしこの年、一緒に第一志望の高校を受験した友達が、高校入試前日になってインフルエンザに感染してしまいました。
試験会場には2人別々に行ったので、この事を知ったのは、入試を受けた3日後の事でした。

試験は筆記(3教科)と面接。
どちらもインフルエンザ状態でやるのは好ましくありません。

(ここから先は、笑い話と思ってお読み下さい)

わたしは数学が惨敗に終わりました。
国語に至っては試験のラストスパートで、問題を読まないまま解答用紙に記入していました。
圧倒的に時間が足りなかったのです。

面接には「面接カード」という自分の履歴を書いたものをあらかじめ家で書いて持っていく事になっているのですが、わたしはこれを家に忘れてしまい(書くのも忘れていました)、監督官からボールペンを借りて書き直すことになりました。
非常に慌ててしまったため、所々に誤字をしてしまい、最悪の面接カードができあがりました。

そしていざ面接!
この高校は、グループ受験(4~5人の受験生が、同時に面接を受ける形式)を採用していました。
わたしの受験番号が一番若かったため、様々な質問には、わたしが最初に答える事になりました。
非常に危ういポジションです。

最初に、自分の受験番号を大声で言います。
しかしわたしは自分の受験番号を忘れてしまい、5秒程黙ってしまいました。
面接官から「受験カード、見てもいいよ」と言われたところでとうとう思い出し、半笑いしながら自分の番号を言いました。

その後も奇抜な回答ばかりをしてしまい、面接を受けながら、「もう帰りたい」と心の中で叫んでいました。
面接が終わると、わたしは足早に面接室を出ます。
その直後に気付いたのですが、わたしは学ランのホック(首の留め金)を開けっ放しにしていました。
これは面接において、最悪のタブーです。
わたしは自分の落第を確信しました。

話が長くなりましたが、ここで先程の友人の話を。
彼は試験日当日、インフルエンザだったと言いましたが、彼は何とその高校に受かりました。
インフルエンザの体で筆記・面接ともに通るとは。恐ろしや。
その学校は、偏差値約70の難しい高校でした。

わたしは以前もブログに書いたとおり、他人との優劣は気になりません。
合格者発表の際、自分の番号が無い事には落ち込みましたが、彼の受験番号を見つけたとき、心から嬉しい気持ちが溢れました。
本当におめでとう!と、皮肉も何も無しに、彼を祝福しました。

……インフルエンザだろうが、落ちる人は落ちる、受かる人は受かる、
そんな悲しい悟りを開いた、2005年・冬の、わたしの受験戦争でした。
(今のわたしは、滑り止めの学校に合格・入学しています)


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日本の最期。

2006-01-28 16:05:51 | Thought (考えた事)
たまには哲学的に物事を考えてみよう、という事で。
ここ最近(に始まった事ではないかもしれませんが)、このブログが人生訓みたいになっていましたからね(役に立つなら良いものの、恐らく役に立たないものばかり)。
「哲学の練習」という当初の目的を忘れていました。

という事で、今回のブログはわたしなりの哲学をやってみたのですが、かなり冗長になってしまいました。
冗長、というより語意が分かり難くなり過ぎたため、わたしも最終的な見直しを怠っている程です。



「日本の最期」


今回もあらかじめ述べておくと、わたしは、

「法が無くなった時、日本は終わりをむかえる」

「今の少子化問題が続くかぎり、日本は終わりを迎えるだろう」

という事を考えたい訳ではありません。
タイトルだけを見ると、「どうせ今の世間を切るものだろう」という印象がありますが、今回わたしが考えたいのは、「日本が“日本である”という証明を出来なくなるのは、どんな時か」という事です。

今、わたしがブログを書いている場所、イスに座ってパソコンの画面を凝視しているところは、ほとんど間違い無く“日本”国内です。
少なくとも、わたしの知っている“日本”の国内ではあるでしょう。

外を見れば日本人(日本人の定義は省きます)が闊歩しているし、宇宙からわたしのいるところを見れば、そこは“日本という島国”です。
この島は、巨大な地殻変動や、大隕石直撃、地球の大爆発でも起こらない限り、無くなりはしないはずです。

世界は、宇宙から取られた写真を見て、とある島国を「日本だ」と呼びます。
世界地図は、とある島国の上に「日本」と、赤字か黒字で書いています。
では、この諸島が存在した上で、世界地図がこの島々を“日本”だと示し続ける限り、“ここは日本である”と言い続けて良いのでしょうか。

仮に人類が突然死滅したとしても、それでも国境(日本の場合は海ですが)は残っているし、後に残った地図は、尚もこの島国を“日本だ”と示すでしょう。
もう、誰もその島国を「日本だ」と言う人はいないのに、それでもそこは日本なのでしょうか。
世界(大陸や島々)は偶然(キリスト教の世界創造の話は抜きにして、「偶然」とします)に、そこに出来たというだけで、その内のある島国を「日本だ」と呼んだのは、人間という一種族だけです。
ですが、その種族はもういません。

一見すると、例えその島国を「日本」と呼ぶ人が居なくなったとしても、そこに一度付けた名前・「日本」という名前は残り続けるような気がします。
名詞の点で考えると、もしもモグラがこの島国を“お花”と名付けたとしても、同じようにアリが“アメリカ”と名付けたとしても、「ここは日本ではない」とは言えないと思うのです。
つまり、「この島国は、“お花”でもあり、“アメリカ”でもあり、“日本”でもある」という状態です。
一度ある“モノ”に付けられた名詞は、改名、もしくは名前そのものの抹消でもしない限り、そしてまた、そのモノが本質を変えたり形状を変化させたりしない限り、そう無くなりはしないでしょう。
ですから、この島が存在する限り、「ここはもう日本ではなくなった」と言うのは難しいように見えます。

しかし、この考えには穴があります。
「ここは日本だ」と言う人間がいなくなった時、確かに“日本”という固有名詞は残りますが、そこに人々から見た“日本の本質”が残るかどうかは微妙なのです。
例えばわたしでは、わたしが本当の意味で言いたい「ここは日本だ」は、「ここは日本という名詞を持っている」という事ではなく、また別の意味になります。
わたしの場合、

「ここはわたしの見てきた日本、わたしの思う日本、わたしの知っている人がいる日本である」

というような意味になります。
つまりわたしにとって、「日本という名詞そのもの」は、さほど重要な事では無いと思うのです。
ただ、わたしの日本にまつわる記憶や想い等が、「日本」という名詞を基にして立っているというだけなのです。
土台の名称が変わったり、無くなったりしたところで、わたしの“日本に対する想い”は、さほど変わらないでしょう(変な名前に変わらない限り)。

ですから、わたしが居なくなった時(わたしが日本を見たり知ったり想ったりする事が出来なくなった時)、“わたしの日本”はなくなります。
仮に全ての人々がわたしと同じような思想を持っていたとしたら、全ての“日本に対する想い”が消えてしまったとき、その時に日本はなくなるとおもうのです。
一人でも日本を想う者が居た場合、その人にとって「日本はある」し、
国境(海)や名詞が残っても、誰もその島を想わなかったのなら、その時「日本は無くなった」と言えると思うのです。

(もちろん「日本があり続ける」というのは、「日本」という名詞が、特定の「場所」を持っている事が条件ですが。
人々の心の中にだけ日本が残っていたのだとしても、今の島が無くなってしまえば、その時「日本」は(ある意味で)無くなります。
それでも再び、正式な「日本の場所」を新たに設け、そこに日本への思いを馳せる事ができるのならば、「日本」は再び(ある意味で)蘇るでしょう)

わたしが考える、人間にとっての「日本の最期」とはつまり、「日本を見る・知る・想う者が居なくなった時」です。
もしも人間を含む全ての生物が死滅して、テントウムシだけが生き残ったとしても、テントウムシたちが彼らなりの「日本」を見続ける限りは、テントウムシたちの日本は残っているでしょう。

『コロンバイン』

2006-01-25 16:35:35 | Felt (思った事)
非常に衝撃的なページを見付けました。

(⇒ココ。)

かつて世間を賑わせたマイケル・ムーア監督の作品で、「ボーリング・フォー・コロンバイン」という映画をご存知でしょうか。
彼の経歴等は多くの雑誌・ニュースでも紹介されたため、この映画名は多くの方に聞き覚えがあると思います。
その映画の元になった事件、「コロンバイン高校銃撃事件」の詳細を語ったページです。

事件を起こした2人の少年――

机の下に隠れていた女生徒と黒人生徒を、

生徒たちを避難させた教師を、

「お前は神を信じるか」と問われ、「イエス」と答えた女生徒を、

無残に撃ち殺していった、いじめられっ子の少年達――の経歴や思想などについても、多くの記述があります。
最後の段落には、彼らの「遺書」の内容も掲載されています。

「狂おしい程の狂気」――。
それが事件を招いたのだとは思います。
まさに「尋常では無い」犯行だからです。

しかしわたしは彼らを――“共感”や“狂人扱い”ではなく、何となくですが、どうしてそうなってしまったのかを――うかがい知る事ができるような気がするのです。

彼らの事は、「狂人だから」で片付くものではないでしょう。
それに彼らは上のウェブページによると、「アンガー・マネージメント(怒りをコントロールする訓練)も合格した」とあります。
これは、彼らが狂っただけの子供ではない事を示すには、そこそこ十分な根拠になるでしょう。

また、彼らの行動は、アメリカ人の特性・お国柄、そんなものだけが要因ではないと思うのです。
確かに日本では、銃や手榴弾を手に入れるなんて、並の人間ではできません。
ましてや学生になど、到底不可能。
自分達と肌の色が違う生徒というのも、日本にはそう多くは居ません。
そういった面では、アメリカだからこそ起こせた(起こした)事件ではあるのかもしれません。

しかし、彼らの思想は……??
アメリカ特有のものではないはずです。

狂おしい程の憎悪・狂気、肉体的・精神的な苦痛、孤独感や心の悲しみ、これらを抱え込んでいる少年が日本には居ないとは思えないのです。
つまり、「アメリカだから」ではないという事です。
日本でも、“銃乱射”なんてマネは出来ないにしても、彼らと同じような思想を持った(そして行動に移すつもりのある)青少年が居た場合、似たような事は幾等でも起こせるかもしれないのです。

もちろんわたしは、「つまり、日本でも起こり得る」という事を訴えたい訳ではありません。
では、わたしが言いたい事は何なのか?
それはあのウェブページを読み終わった時、薄っすら分かってくる方もおられるかもしれません。
是非一度、最初から最後まで、考えながら読み通してみてください。

悪事への誘いには乗らない方が良い?

2006-01-22 22:23:14 | Thought (考えた事)

次のような会話が発生したとします。



A「今度、皆でピンポンダッシュをやるのだけれど、お前も参加しないか?」

B「めんどくさいな。メリットも無いし」

A「じゃあさ。お前はピンポンダッシュしなくていいから、せめて一緒に来ないか?」

B「めんどくさいな。メリットも無いし」

A「強情だな。何もしないで、単に見ているだけだぞ?」



これは架空の会話ですが、起こり得る会話ではあるでしょう。
悪事への誘いを「する/受ける」というのは、誰もが経験する出来事だと思います。
上のAの迫り様は、一見しつこいように見えますが、実際この程度の誘いなら、多くの方は経験した事があるはずです。

Bの言う通り、ピンポンダッシュなんて、何のメリットも無い行為です。
強いて言えば、「スリルがある」「ワクワクする」「これをやると、皆で秘密を共有できる」くらいのものでしょう。
いずれも、「親や教師にバレると大変」というリスクを犯すまでして、行なう程の理由にはなりそうにありません。
むしろ、「自分達が悪事をするという事をBに漏らす」という事は、更なるハイリスクを伴っています。
Bを通して、この情報が広まってしまう恐れがあるのですから。

どうせBを誘っても大した益は無いのですから、本来は誘わない方が無難です。
では、ハイリスクを犯してまでの、このAの執拗な誘いは何でしょうか。

わたしが思うに、AがBを誘うのは、「道連れを作りたいから」なのだと思います。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのに似ています。
AはBに、

「一人で赤信号を渡るのは、周りの目もあって怖いから、一緒に渡ってくれないか?」

と言っているようなものなのでしょう。
つまり、これ(リスクを一緒に背負ってもらう事と、悪事がバレた時の痛み分け)が、Aの“益”になります。
そしてBの方には、主にリスクだけが残る仕組みです。

あからさまな“悪事への誘い”には、例えどんなに楽しそうでも、迂闊には乗らない方が無難でしょう。
相手は自分の益だけを考えていて、こちらの益なんて、ほとんど考えていないからです。

もちろん、この「悪事への誘いには乗らない方が良い」という考え方も、場合を選んで使い分けなくてはなりませんが……。

自分の不幸を言語化。

2006-01-20 19:39:37 | Thought (考えた事)
以前、自分の事を「不幸だ」と思い込んでいた時期があった事を思い出しました。
わたしは何かと嫌な記憶がたくさんあったからです。
時々その記憶たちを思い出しては、ひとり苦しんでいました。

しかしある日、テレビか何かで聞いた事のある、

「どんな悩み事も、人に話せば少しは軽くなる」

という言葉を信じて、友達の誰かに、いかにわたしが不幸かを語ってみようと思いました。非常に青い考えですね。

そこでまず、自分が経験してきた不幸を紙に書いて整理する事にしました。
そして、できるだけ相手に「本当だ。お前、不幸だな」と思わせる事ができるような表現を考えようとしました。

しかし、いざ紙に今までの不幸を書いてみて、気持ち新たに読み直してみると、自分でも全く「不幸だ」とは思えなかったのです。
ちなみに、わたしが「不幸だ」と思っていた事の一例を挙げると、(表現は抜きにして、箇条書きで書きます)


○歯磨きしていただけなのに、突然、歯が欠けた。

○虫歯から来る歯痛で、しばらく不眠に近い日々が続いた。

○家にあったチョコレートを食べていて、しばらく経ってから、チョコレートの包み紙の中にイモムシ状の小さな虫が多数いる事に気付いた。

○自分の自転車のカゴの中にクモが巣を張ったが、3日もすると段々愛着を持ってきたため、名前を付けてみたら、その日の内に逃げられた。

○駅近くの薬局前の排水溝で、足を滑らせて落ちた。金網上のフタは確かに閉まっていたが、わたしがフタの角の所を踏んだとたん、ガタンと落ちた。

○机にいた小さくてカワイイ虫としばらく遊んでいたら、カメムシだった事が発覚した。一時間近くの間、手を洗い続けたが、それでも臭いが取れなかった。


などです。ちなみに、これらは全部、去年一年間での出来事です。

こうして整理したものを読み直してみると、「不幸」というより、「笑い話」に見えてきたのです。

「ああ、わたしはこんな事を『不幸だ』と悩んでいたのか」

と思えてきました。
それ以来、わたしの考え方はポジティブなものに変わってきたように思えます。

もしも、読者の方々の中にも、自分を「不幸だ」と考えている方がおられれば、一度わたしのように「文章化」してみてはどうでしょうか。
意外と、自分の力で片付いてしまうかもしれませんよ。

(もしもこれを実践した結果、よりブルーになるような事があったら、本当に申し訳なく思います)

わたしにとっての哲学。

2006-01-19 20:08:45 | About (あばうと)
哲学を意識しだした頃のわたしは、色々なジャンルの哲学に着手していました。

「時間とは何か」

「全ての物体に等しくあるものは何か」

「“隙間”は、どのような条件下で“隙間”と呼ばれるのか」

もしもわたしが哲学に興味を持っていなかったら、この頃のわたしを見て、

「どうしてそんな事を考えるの?
時間について考えても、
物体にあるものについて考えても、
隙間について考えても、
何の意味も無いじゃない?」

と聞いていたでしょう。
そうしたら、わたしはたぶん、このように答えていました。

「知りたいから考えるのだ。
哲学が好きだから哲学しているのだ。
そこに意味なんか要らない」

「どうして君は考えようとしないのだ?
謎が、こんなにたくさんあるというのに」

こう答えるしか無かったでしょう。

では、最近はどうでしょう。
最近のわたしは、できるだけ、“何かのタメになれる事”を中心に書いているつもりです。
ですから、「どうしてそんな事を考えるの?」と聞かれたら、たぶん自信を持って言い返すことができます。
「考えておく必要があると思ったからだ!」と。

わたしは、哲学(ある事柄について悩む事、考える事)が好きでもあるから哲学を続けていますが、哲学が好きという理由だけで哲学をしている訳ではありません。
「考えるべきだ」と思っているからこそ、こうしてエセ哲学を続けています。

わたしは、古代の哲学者の著書を一つも読んでいないので正しい事は言えないのですが、彼らの簡単なエピソードを聞く限り、彼らは「何かを変えたかったら哲学をしていた」ように思えます。

ソクラテスは、人々に己の無知を気付かせる事と、人々に知恵を与えるため。
プラトンは、本当の勇気や徳を追求するためと、経験主義のような思想を否定するため。
ディオゲネスは、自分がより良い生き方をするためと、人間が生み出した“金”というモノの無意味さを実践するため。

わたしには、彼らがある目的を持って、哲学や行動をしていたように見えます。
必ずしも、考える事が好きだっただけとは思えないのです。

だからではありませんが、わたしも哲学が好きとはいえ、時間や空間など、「どうしてそんな事を考える必要があるの?」と聞かれた時に「好きだから」としか言い返せない(わたしでは)ような事ばかりについて考えようとは思いません。
「何かを変える」ための哲学をしたいのです。
(もちろん、それには本物の「実力」が必要になってくるでしょう。そのためにも、このブログを通して、哲学の練習をしておきたいのです)

わたしは、「哲学」という名前ばかりに囚われる事もしたくありません。
「哲学をしたい」という事と、「ある事柄たちを、哲学を用いて追求したい」では、違ってくるのだと思います。

見えていないクセに信じている事が多い。

2006-01-17 17:57:51 | Felt (思った事)
今さら考えたり言ったりする事も無い事なのですが、わたしは、実際に見たことがなかったり、実際に見えた事がなくても、その存在を信じてしまっているものがたくさんあります。
聖人と極悪人。
戦争や幼児虐待。
他には“重力”や“酸素”もそうですし、“食品に含まれる栄養分”というのもわたしには見えないわけです。
しかしいつの間にやら、その存在を当たり前と思い込んでしまい、しまいには、

「空気が無いと、わたしたちは生きていけない」

「戦争は、得になるモノを何も生み出さない」

「重力が無いと、わたしたちは浮いてしまう」

なんて事を、知らず知らずに口にしています。
他人から見れば恐ろしく微々たる問題に聞こえるのでしょうが、わたしは非常に、何か怖く、恐ろしく感じるのです。
怖がる要素はどこにも無い、到底恐れるような問題ではない、とは考えてみるのですが、やはり何かが怖くてたまらないのです。
普段はこの事も忘れてしまうのですが、今、こうして改めて思い出してみると、またしても怖くなってくるのです。
とても変な気持ちです。

バトン from Kim様。

2006-01-15 20:33:11 | About (あばうと)
Kim様(こちらのブログの執筆者様)より、バトンを受け取りました。これがわたしのバトン初挑戦です。
それでは早速、スタート!



Q1.自分を色にたとえると?

⇒黒です。
わたしは、「自分は自分、他人は他人」な所がかなりあるので……。
特に、勝ち負け・優劣に関しては、ほとんど興味がありません。
なので、「何色と混じっても、あまり変わりない」という意味で、黒を選びました。
混ぜる色によっては、大きく変わる事もありますが。



Q2.自分を動物にたとえると?

⇒元日の日に書いたブログ(→ココ)で参考にした、六星占術を用いた占いサイト様(→ココ)には動物占い機能も付いていて、そこで

「あなたは、“群れたがらない羊”です」

という鑑定結果をもらいました。
その内容には、メチャクチャ思い当たるフシ

(例えば、『細かな部分の検討を怠ったり、チェックの詰めが甘かったりするので、そのツケが後で回ってきて苦しむことも多いでしょう』です。
読者の方々の中にも、既に感づいている方がおられると思いますが、わたしが新規に投稿したブログは、投稿後1時間近くに及んで、内容が何度も訂正されます。
学校でもテスト等の後、先生にケアレスミスの多さを何度も指摘されたりします)

が幾つもあったため、結果はかなり当たっていると思います。
なので、そのまま「羊」という事で。
あ、コレがわたしの鑑定結果の全てです。
しっかりと、“3年連続大殺界”になっているでしょう?



Q3.自分をキャラクターにたとえると?

⇒う~ん……。
これはちょっと分かりませんでした。
ただ、願望としては、「ぼのぼの」というキャラクターのような生き方をしたいと思います。
この名前、ご存知でしょうか?「あの」ラッコです。
最近になってこのキャラクターを思い出し、コミックスの最新刊(05年10月07日に発売)を買ってみました。
わたしはやはり、あの世界が大好きです。
あ、話がそれた。



Q4.自分を食べ物にたとえると?

⇒人間の食べるものですね。
古代、人間は人間を食べたそうですが、この事から、

「わたしを人間の食べ物に例えると、わたしは人間です」

と主張してはダメでしょうか。
……ハイ、ダメですね。真面目に答えます。

わたしはたぶん、ドングリです。食べ物ではないかもしれませんが。
わたしは隠し事や秘密が大好きで、

「わたしには秘密があるぞ」

「わたしの隠し事のヒントはこうだ」

という情報(ヒント)を与えるのもイヤな程です。
ただ、本当に些細な事でも、ウソをつくなどして隠してしまうので、
「苦労して中身を取り出したが、その中身は、実につまらないものだった」
という意味で、ドングリを選んでみました。
ドングリに失礼ですね。



Q5.次にバトンをまわす5人を色でたとえると?

⇒これは無理です。
わたしは他のブログ様と、特別、交流を築いている訳ではないので、バトンを回す事は難しいです。



これで全部ですね。
う~ん、特に悩むことなく直感で書いたのですが、なんと面白みの無い答えたちでしょうか。

わたしの感情論 - 考察。

2006-01-14 16:24:26 | Thought (考えた事)
前回のブログの最後で、「今回のブログ、次回にも続きます」と書きましたが、やはり無理でした。
流石にあの事を書くとなると、単にわたしの感情を奮うだけに終わってしまいそうだったからです。
どうもわたしは、「次回は、こういうブログを書きます」といって、守れた例がありません。

しかし、昨日(日付的には今日ですが)の「感情論」自体はとても気持ち良かったため、もう一度だけ……になるか判りませんが、またいつかやってみようかなと思います。
何度もやっていると凄まじいクレームが来そうですので、連発は控えます。

今回は、昨日書いた「わたしの感情論」の考察です。
高校生として(?)、純粋に思っていた事を書きましたが、感情を語っただけでは意味が薄いので、昨日のブログに対する考察を書いてみます。



わたしは、未だに“大人”と“そうでない人”との区別が付いていないでいます。
しかし昨日は、何度も「大人」という言葉を使いました。
わたしは一応、「大人」と「社会人」とを区別して書いたのですが、それでも「大人」という言葉を使う以上、「大人」とは何かを知っておく必要がありました。
しかしわたしはそれを置き去りにして、「今の若い世代がこうなった責任の一端は、大人にある」と言っていました。わたしはある意味、「何なのか判っていないものに責任の一部を押し付けた」訳です。

ちなみに広辞苑では、「大人」というのは、

≪考え方・態度が老成しているさま。分別のあるさま。≫

となっています。この意味でいくと、「大人」と「社会人」はイコールではありませんね。

昨日のブログを見直す限り、「社会人」と「大人」という言葉の使い方を間違えている部分は所々に見られましたが、基本的に、わたしが使った「大人」という言葉は、全て「社会人」という言い方を置き換えたものとして書いているようです。
一部、「親」として書いている部分もありますが。



それにしても、感情で書いてしまうと、ここまで分別を無くしかけたような文章になってしまうとは。
やっている間は、言いたかった事が言えて気持ち良かったのですが、終わってみると、どれだけ多くの人を敵に回しかけたのか。

とりあえず昨日のブログを、「一人の高校生の意見」として読み直してみました。
最後のカギカッコの中にあるセリフが、わたしの言いたかった事の全て(の中の一部)なのだと思います。
全体として見ると、とてもとても、全ての高校生がこう思っているとは思えません。
たぶん、様々な高校生の意見に耳を貸すと、例えば親に対しては、

「あまり、同じ事をしつこく叱らないでくれ」

「自分の将来くらい、全部自分で決めさせてくれ」

「とりあえず、大人はシッカリしてくれ」

といった意見が、ポツポツ出てくるのではないでしょうか。
ただ、これらの意見は、


「あまり、同じ事をしつこく叱らないでくれ」

⇒何度叱られても、一向に改善しない事も原因の一。
叱られた事を守った結果、良い方向に進めるのなら、叱られた事を頭に留めておくのも良い。


「自分の将来くらい、全部自分で決めさせてくれ」

⇒ミュージシャンになりたい、といった、夢を追いかけるだけのような目標は止めたくなる。
もちろん叶わないと決まった訳ではないが、それでも不安要素が多い。また、
「タバコが似合う大人になりたい」
「酒豪になるため、一日当たり、日本酒を10リットル飲む」
といった目標も、親としては止めたくなるかもしれない。


「とりあえず、大人はシッカリしてくれ」

⇒抽象的過ぎる上、中々ムチャな注文である。


といった考えが浮かんでくるので、あまり賛同できません。
もっとも、最後の「中々ムチャな注文である」は、わたしが叫んだ事も同じかもしれませんが。

字数的にも、これ以上は書きませんが、最後に一つだけ、前回のブログを通して、自分でもとうとう判らなかった事を述べてみます。


わたしは、自分の考えを押し付けるだけの、我儘なヒヨコなのでしょうか?
それとも、今の人間の在り方を本気で想う、傲慢なヒヨコなのでしょうか?


……う~ん、我ながら、変な疑問です。
しかし、頭に憑いて離れないのです。

わたしの感情論。

2006-01-14 00:03:58 | Felt (思った事)
一度、わたしの思っている事を、正しい正しくないは別にして、感情のままに書いてみようと思いました。
もしかしたら、何か分かってくるかもしれません。
思っている事を率直に書くため、中には怒りを覚える方もいらっしゃるかもしれません。
その時は、どうかご容赦下さいm(_ _)m



大人は汚い、世間は冷たいと言われます。
こういった事は、子供が考えた上で言っているのではなく、大人、言い換えて社会人自身が言っているような気がします。
これは、大人がわたしたちに向けて送る「大人には気を付けろ」という警告なのでしょうか。
それとも、「君もいずれこうなる」という予言なのでしょうか。

まず、「大人には気を付けろ」という警告だと仮定します。

大人の方も、こう言っているばかりではいけなくて、汚いからこそ自分達が変わらなければいけない、というのは考えているのですよね。
それでもこういう警告を発しているという事は、「大人が皆、キレイになる事は無理である」と悟ったという事なのですよね。
そうだとしたら、――特に、自分自身の汚さすらどうにもできなかった人は――、「これからの社会は君達が背負っていく、君達が変えていく」なんて無責任な言葉を言わないで欲しいです。
「これからの社会を背負え」というのは、つまり、「良い方向――人としても、経済的にも――へ持っていけ」という事なのでしょう。

「経済的に良い方向へ持っていけ」というのは納得できます。
今の社会人たちは、わたしたち若い世代に、大きな宝物をいくつも残してくださいました。
今の社会人の方々がいなかったら、わたしたち若い世代が、どれほど遅れた文明のままでいたことか。
これには大きな感謝をしていますし、「我々の残したものを、更に発展させてくれ」と想う気持ちも判ります。

しかし、「人として、良い(善い)人間になれ」というのは納得できません。

今の大人たちは、自分を変えることが出来なかった。
それでも、若い頃は希望に満ち溢れ、夢のために頑張ったことでしょう。
今の様に、傲慢な人間が、こうも周りに多くなるとは思わなかったでしょう。
しかし、今の若い世代は、今の社会人と同じくらい汚いところまで来てしまっています。
今の社会人が「0からのスタート」で「マイナスに向かってしまった」のに比べ、今の若い世代は、「マイナスからのスタート」です。
今の若い世代達が社会に踏み出せば、既に「世間の冷たさを知り尽くした」かのように、「汚さだけはイッチョマエ」とも言える状態から踏み出すことになりかねないのです。
今の若い世代が、今の社会人の方々の年齢層まで来たときには、「その時の社会人」も、「その時の若い世代」も、どうなっているか判りません。
汚い人間が、自分の汚さに、更に磨きをかける恐れがあるからです。
これは若い世代の人々の間でも、同じ事が言えます。

……今の社会人と、今の若い世代。
同じ日本人、同じ歳月を生きた人間、同じ島国で育った人間なのに、どうしてこうも差が出るのでしょうか。
……わたしは本来、何でもかんでも社会や大人のせいにする、というのは大嫌いです。毛嫌いしています。しかし、これは譲れません。
今の若い世代がこうなった事に、何かしら「今の大人」が絡んでいます。
今の社会人たちが見てきた「先輩たち」、つまり「当時の大人」と「今の大人」とを比べて、何か違いがあるのではないでしょうか。
例えば「厳格さ」、「しつけ」、「子供との会話」、「親としての威厳」など。どこかしらに、“違い”があると思います。
わたしは、――これはかえって難しいのかもしれませんが――、今の大人が変わる必要は無かったと思います。
しかし、やり方を変えてしまい、――例えば「子煩悩」や「親としての威厳が無い」なのかもしれません――、それによって子供が変わってしまった。
ここで、今の若い世代にも責任が出て来ます。

わたしは、今の若い世代が変わった事で、大人までもが変わったのだと思います。
もし、今の若い世代が、大人を、親を、先生を、心から敬うような人間であれば、今の大人もこうまで――自らを「汚い」と呼ぶ程まで――変わらなかったのかもしれません。
わたしだって、自分と同じくらいの汚さを持った小学生くらいの子供に、「お前らって汚いよな」なんて思われ続けるのは嫌です。汚いのはお前らも同じだろう、と。
かえって居直ったかのように、「そうだ、汚いんだ。お前ら後で覚悟しとけよ」と主張してしまうかもしれません。

わたしは、今の大人に願いたい事が幾つもあります。

「大人としての良識を持った行動をしてくれ。子供が『大人もやっている』という言い訳を使えなくなるまでに」

「大人としての威厳を保ってくれ。子供が反抗しなくなる程に」

「自分の事を、汚いなんて主張しないでくれ。子供はそれを信じるからだ」

「自分への自信に相当する、“中身”を持ってくれ」

「どうか今の若い世代が、『今の社会人たちの後釜を継ぎたい』と思えるような、立派な社会人になってくれ」

「子供に自分の身の丈以上のものを要求できる程の、大きさ、寛容さを、見せ付けてくれ」

一人の高校生の、大人への叫びです。



- 感想 -

えー、今回のブログ、我ながら高校一年生が書いたとは思えません。
「テメー、何歳だ。まだ高一だろ?生意気な。
ていうか、ガキのくせに世間の何を見てきたっていうんだ」みたいな。
明らかに身の丈以上のものを書いています。
ですが、感情論なので許される……でしょうか?

あ、今回のブログ、次回にも続きます。
今回は、「大人には気を付けろ」という警告であると仮定した上で書いているので。
次回は、「君もいずれこうなる」という予言だと仮定したものを書こうと思います。
それと、ここ数日ブログをサボった理由は、毎度の事ですが、家族にパソコンを独占されたからです。
わたしが続けてブログをサボる時は、大抵同じ理由によるものです。
申し訳ありませんm(_ _)m