哲学×高校生

哲学者に憧れる高校生が練習のつもりで書いています。
「それは違う!」と思える部分がありましたら、コメントお願いします。

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久方!

2007-07-23 23:13:23 | Thought (考えた事)
久しぶりにこのブログのことを思い出したので、気まぐれ更新!
お久しぶりー、と言える人もいないのは、少し寂しい気も。

このブログを書いていたとき、わたしは高校1年生。
今はもう高校3年生になり、大学受験も間近となってきました。
未だに哲学者の夢は捨てていません。

久しぶりにこのブログを思い出したとは言いましたが、少し前にわたしは、このブログを削除してしまおうか、という事で悩みました。
このブログに書かれていることは、確実に間違ったことばかりだから。
一部にはウソもあります。
そんなものが人の目に留まってしまったら、これはもう恥ずかしいというより、なんか申し訳ない。

でも、わたし自身、高1のときはこんなことを考えていたんだなーというのをたまには思い出したいため、内容ごと消したくはありませんでした。
そこでブログ自体を非公開にしてしまおうかとも考えましたが、方法が分かりませんでした。
それに、やはり当時のわたしと同じ、現高1の方々に、君らのタメはこんなことを考えていたよー、ということをネット上に残しておきたい。
なのでとりあえず、このブログに書かれていることは間違っていますよ、本気にしないでくださいね、というメッセージを残すことで、このまま放置しておこうと決めました。

当時のわたしは、一応本気で考えて、本気でこのブログを書いていたはずです。たぶん。きっと。
書くことに詰まって、無理やり思いついたことを書いていた記憶はあります。

ですが、一部は本気です。けれどそれすら穴だらけです。
むしろ穴しかない→全体的に違ってるものもあります。
そういったところに気付いていってくれると嬉しいです。
同じ道を辿らないでくださいね。
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潮時?

2006-04-30 19:33:18 | Thought (考えた事)
最近になって、とうとう哲学が習慣づくようになってきました。
気がつけば考えている、という状態に。

何を考えているか、というと、やはり「考えたい事」を考えています。
しかし、それらはいずれも、このブログに書くには適さないような事ばかりなのです。
教育問題とか、各国への対外政策とか。
考える分には良いのですが、そういった大事な問題を、それも高校生が書いたものを公に発表するなんて、自分でも許せません。
そういった問題は、気軽に口にしたくはありません。

なので、このブログに書く事は、このブログを書くために考えているのですが、今日は7時間かけても中々浮かばない、というより、やはり教育問題等に頭がいってしまいます。

7時間あれば、かなりの勉強ができたでしょう。
学生はどんな将来の夢をもっていようと、大学に入る以上は、将来的に不必要な知識でも勉強しなければならないのです。
それが問題の一つなのですが……、と、これ以上は及びません。

いずれにせよ、そろそろ勉強に真剣に取り組まねばなりません。
なので、そろそろブログの更新を停止します。

今までは、このブログを停止した途端、哲学から離れてしまうのでは?
という不安もあり、このブログを続けてきました。
しかし、前回停止したときも、わたしが哲学から離れようとする気配が無かったため、今回は安心しています。
わたしは思考を続けていくでしょう。

前回のように「事後報告的なもの」などと称して、ポツポツ書いてしまうという展開は嫌ですので(もう無いとは思いますが)、今回は簡素にこのブログを終えようと思います。
前回は、大文字使って「このブログの更新を停止します!!」なんて書いてしまい、後に後悔してしまいましたし。
なので、コレに対するコメントも不要です。

それでは、前回にも増して急ではありましたが、これで「哲学×高校生」を終わります。
結局、一周年を迎えることなく終わってしまいました。
次にブログを書くことがあったとしても、その時はもう、この「哲学×高校生」とは別のブログになっている事でしょう。

今までこのブログにコメントを下さった方々の所へ行く事はあるかもしれません。
その時があれば、またお会いしましょう。

もし、高校生や中学生で、わたしと何かを話したい、という方が居れば、この「潮時?」にコメントでも入れておいて下さい。
コメントが来たときは、わたしのPCの方にメールが来るようになっているので分かります。
(PCを何日も開かない事はありえますが)

それでは、また……。

2006.04.30

望月 忠生


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良い(善い)生き方とは?

2006-04-22 21:26:04 | Thought (考えた事)
良い(善い)生き方。
まずはコレが、
①、自分の視点から見たときか。
②、「社会・世間にどう影響を与えたか」という視点から見たときか。
③、世間・他人の視点で見たときか。
といった事をハッキリさせておかないと、話の進みようがありませんね。
今回は、わたしにとって一番大事な視点である、①「自分の視点から見たとき」で話を進めます。




わたしは、自分が死の床に着いたとき、「わたしは今までの自分の人生に満足だ」と言うためには、どういった生き方をするのが良いだろうか、という事を考えました。

究極の愛を得る事?
不落の友情を築く事?
微塵の未練も残さないほど、物欲を満たし続ける事?

とりあえず、わたしは上の3つを全て拒否しています。これはだいぶ前からの事です。
もっとも、他人がこういった生き方をするという事を認められないのではなく、むしろ「良い人生を送る」という観点で見れば、これらが最高なのだろうと思っているのですが、わたしの価値観には合いません。
わたしの、いえ、哲学が視野に入ってからのわたしの価値観では、贅沢も、仲間も、とりあえずは二の次です。

……わたしはどうしたら満足した人生を送れるか。
そういえば以前、わたしは、

「最近、“どうしたら意味のある人生を送れるか”という問が、頭から離れない。
解決してしまおうと思っても、答えが出てこない。厄介だ」

と書きましたが、先日、この問題に自分の中で決着をつけました。
わたしの出した答えは、「意味ある人生の送り方とは、やれる事を、生きている間に全てやってから死ぬ事」です。

わたしは、一つの仮説を立てておきました。(利便のために)

「人には、生まれながらに、それぞれの使命がある。
それを達成しておくと、死ぬ間際、今までの人生に、さほど後悔しない」という仮説。

それに従って、わたしが自分の人生に満足するための条件は、
①、この使命に気付き(決め付け)、
②、それを実行し、達成すること
です。
おまけとして、
③、達成した後は、植林など、自分が好きな植物に関わる仕事に貢献し、
④、その仕事が、肉体的・精神的に続けることができなくなりしだい、すみやかに死亡。
も入れておきます。

やれる事(使命)を全てやってしまったなら、その時、この世界に未練は残らないと思うのです。
もう目標が無いのですから。
その後で④を達成することによって、死というものは何なのか、それを見に逝こうと思います。
どの哲学者も、さすがにコレばっかりは解決できませんでしたからね。
誰も解決し得なかった問題の答えを知りに逝きます。

……あ、今の段階で見に逝ってしまうのは嫌ですよ。
未だ何もしていないのですから。
今の段階で死んだのなら、何のために、命と、理性と、思考を、併せ持って生まれてきたのか分かりません。



- PS -

善い生き方、正しい生き方。
今まで、多くの哲学者がコレについて考え、語ってきました。
なので、わたしなどが今さら考えずとも、それらの中から自分に合った答えを探せば良いように思われてしまったかもしれません。

しかし、わたしは哲学を、いえ、自分が哲学だと思っている事を考えてきて、一部をこのブログに書いてきたのですが、わたしの短いながらの経験から言うと、わたしは自分の書いた事を、あまり他人に鵜呑みにして欲しくはないのです。

それは、万一このブログ中に、否定しようの無い、絶対的な真理を書いた所があったとしてもです。
謙遜や、自分の書いた事に自信が無いとか、そういうわけではなく、純粋に「参考程度にしてくれたなら、それがベスト」なのです。
そう思う理由については、ここでは省きます。

わたしが数ある「善い生き方とは」の中から自分に適するものを一つ選び、それを真理として、わたしの人生観の軸にした時に、その「善い生き方とは」を考えた哲学者がわたしと同じように、「自分の書いたことは、あまり鵜呑みにして欲しくなかった」という思いがあった場合、ある意味では失礼になってしまいます。
そこで、「ならば、自分で“善い生き方とは何ぞや”を考えてみよう」と思い立ったワケです。
これが今回のブログを書いた理由になります。

……書き終えてみると、心なしか今回のブログは、内容が軽いというか、いつもより短めな気がします。
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ワケありヒトコト日記。

2006-04-18 21:25:47 | Felt (思った事)
ここ最近、「夢って現実と結構(以下略)」で書いた事を、かなり引きずっていました。

『もしもこの世界が夢なら、それこそ本当に、どんな哲学も真実を証明し得ないじゃないか。
せいぜい、「このリンゴはリンゴです」ぐらいのものじゃないか。』

そんな事を考えていたため、このブログに書ける内容が極度に制限され、結果、何も書けないでいました。

しかし考えてみれば、それはもう哲学の域では無いのですよね。
この世界は夢かもしれない、という世界観に基づいて書いた哲学なんて、それこそ正に思想の世界。
というワケで、「夢って現実と(以下略)」の事は、結局は可能性の一つに過ぎないという事として、現実(こちら側の世界)だけを視野に入れた哲学(思想)をしようと決めました。
あらゆる哲学に疑問を投げかける事ができてしまうには変わりないのですが、こればかりは仕方が無い。

「夢って(略)」で書いたことは、確かに思想・妄想の域とはいえ、完全に否定する事ができなかったとあって、思いのほか影響が大きかったです。
しかし、これでやっと元に戻りそうです。



今日(4/19)の学校の帰り道、わたしが昨日書いたブログで

「あらゆる哲学に疑問を投げかける事ができてしまうには変わりないのですが」

と懸念した部分は、容易に否定できる事に気付いたため、それを書いていきます。
が、現在テストを目前(あさって)に控えているため、ブログを書くにも少し焦っています。
変な文章があれば、また、もっと酷いことに、全く納得できない部分があれば、申し訳ありません。


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……仮にココ(わたしのいる世界)が、夢の中の世界だとします。
本当は誰かの脳細胞に刻まれた“記憶”で構成されているのですから、奥行きも、時空も、感情や精神も、そこには存在していないことになります。
それでも、そちらの世界からすれば、手を伸ばせば奥行きは確かに四方八方に感じられますし、時空や感情も存在しています。
例えソチラの世界における時空や感情が、現実世界のそれと全く違う価値観・本質を持っていたのだとしても、ソチラの世界には、ソチラの世界での常識があるのですよね。

例えば、わたしがコンピューターでゲームを作ったとします。
その世界の視点から考えると、その世界には紛れも無い常識が幾つもあります。
街の外ではモンスターが出るとか、勇者は他人の家に無断でズガズガ上がり込んで来るとか。
が、こちら側の世界から見れば、それらは間違い(または犯罪)であり、完全にフィクションの話である事は、あえて説明するまでもありません。
しかし、こちらでそれらの常識をいくら否定しようとも、それでもそちらの世界から見れば、それらは紛れも無く真実なのです。

……あちら側の世界には、あちら側の世界にとっての真実が。
こちら側の世界には、こちら側の世界にとっての真実が、それぞれあります。
例えどんなに、こちらの世界と価値観や物事の本質が異なっているのだとしても、こちらの世界にある真実は、フィクションではなく、やはり真実なのです。
これは、わたしが「夢って……」で書いた世界と、この世界との間にも、同じ事が言えるでしょう。

ただし、今回の話で「こちらの世界には、こちらの世界での真実がある」と言えるのは、あくまで(本当は今の場合、「あくまで」の使い方が日本語としておかしいのですが、便宜上あえて使用します)、わたしの「夢って現実と……」に限っての話です。
例えばプラトンの主張したイデア論。今回の話で、コレを否定する事はできません。
理由については……いいですね。省略します。
ココのブログでは、万人に理解していただけるよう、哲学用語を用いてのブログを書かない事にしているのです。
(わたしが哲学用語をほとんど知らない事も大きな一因です)



(06/09/06:一部加筆。「こちら」という言葉と「そちら」という言葉を、誤って混同してしまうという重大なミスが多々発覚しました。
しっかりと見直すべきだった反省しておりますm(_ _)m
とはいえ、まだキチンと見直ししていないため、まだそういった間違いがあるかもしれません)

コメント

夢って現実と結構似ているかもしれない。(2)

2006-04-13 17:51:54 | Thought (考えた事)
(1)へ

(この事は、どんなに考えても真実が出そうに無いので、考えるだけ時間の無駄、と言いましたが、今回は単なる遊び心で考えてみました。
趣味なら時間の無駄も許される?)

この世界が夢であるかもしれない、と考えると、今度は時間や空間といった、普遍的なものまでも疑うことが可能になってきます。
わたしが仮に80歳まで生きるとして、今は16歳ですから、残り64年間生きることになります。
わたしは、少なくともこのわたしの意識は、残り64年間分の時間の流れを、確かに感じていくでしょう。
人生を長く感じるか、それとも短く感じるかは分かりませんが、どちらも確かに64年の歳月を64年分の長さで過ごすのです。
それは誰もが、時間を早送りする事も、スロー再生する事も、ましてや巻き戻しなど、出来ないからなのです。

ですが、わたしが、わたしの意識・精神が、夢の中で生成されているものだとしたら。
外の世界のわたし(この時はもう、“わたし”では無くなっているかもしれませんが)は、たった6、7時間の睡眠の中で、80年分の人生を見たに過ぎないかもしれないのです。
つまり、外の世界と、わたしが現在感じている世界が、リアルタイムで同時進行しているとは限らないわけです。
外の世界に正しい流れ方をする本当の時間があり、わたしが現在感じている時間の流れは、嘘の流れ方をしているかもしれません。
この場合、わたしは今の時間の流れを実にゆっくりと感じていますが、外の世界から見ると、実は物凄いスピードで時間が展開しているかもしれないのです。

わたしの学校の教師が、こんな話を聞かせてくれた事があります。
彼が昔、山道をドライブしていた時の事、彼はカーブを曲がり切れずに、崖から落ちてしまったそうです。
幸い、車が木々の間に引っ掛かり、ほとんど無傷で済んだそうですが。
しかし、この車が落下している間、彼が言うには「時間の流れが変わった」そうです。

車が落ちて木々の間に引っ掛かるまでの時間は、わずか2、3秒の事でしょう。
ですが彼が言うには、この時間が、それこそ1、2分ほどの長さに感じたそうです。
「あ、落ちたな」
「俺、死ぬな」
といった事を、ゆるりと考える事ができたそうです。
なんでも、人はこういう状況になった時、頭脳が物凄いスピードで回転するとか。
だから、その僅かな時間でも、ゆったりと色々な事を考える事が可能なのだそうです。

なぜこのような話をしたかと言うと、この考えを応用すれば、上に書いた「たった6、7時間の睡眠の中で、80年分の人生を見る」ことも可能であるかもしれないからです。
そもそも、外の世界で「“わたし”を夢に見ている者」が、どんな頭脳の構造を持っているのかもわかりませんし。
平常時でも、わずかな時間を長く感じられるような頭の回転スピードを持っている可能性はあります。

これまでは、時間についての事を書いてきましたが、“空間”については更に簡単です。
わたしたちは夢を見るとき、そこに空間を見ますよね。
その空間の中で、夢の中の住人が、様々な物語を描いています。
しかし、この世界は実在すると言い切れるでしょうか。
その世界は、わたしたちの夢の中に、わたしたちの頭の中にあるのです。

少なくともわたしの頭の中には、あんな広大な世界は広がっていないはずです。
わたしの頭は、頭蓋、脳、筋肉、血液などで、みっちり満たされているはず。
すくなくともそこに“光”は無いでしょう。

光が無いのに、夢の中の空間では、光が描かれているのです。
これは、その空間が、脳によって作り出されたイメージであるという事に他なりません。
(“わたしたちの見る夢の世界”こそが、実は“真実の世界”であり、わたしたちは寝る事によって真実の世界に帰っている、という考えもできるのですが)

……これにより、この世界にあるものならば、物質や生命はもちろんの事、経験や記憶、そして今回で、時間と空間をも、その真偽を疑う事が可能になったわけです。
説明は一度もしていませんが、“感情”というものも疑う事が可能なのではないでしょうか。
「ならば、この憎しみは偽りだと言い切れるか?」と聞かれると困りますが……。
「ボクとカノジョの愛はホンモノだ!!」と言われても困ります。
ええ、この世界の中では、ホンモノであるかもしれませんね。

そうそう、これは以前書いた時から気付いていたのですが、書き忘れていました。
わたしは夢の中で、例えどんなキャラクターになっていようとも、起きてしまえば全く気にしないし、忘れる事だってよくあるのです。
それはつまり、もしも真実の世界があったとして、わたしがそこに到達したとしても、

「ふぅ~、朝だ!今日は変な夢を見たなぁ。
……まぁ、いいか!さぁて、朝ごはん食べよう!」

と、実に軽い気持ちで片付けられてしまうかもしれないという事です。
どんなに苦心しようとも、もしかすると、それでポイと片付けられる恐れがあるのです。
わたしにもわたしの人生が、苦悩が、あったのだから、真実の世界の住人よ、いるのなら、どうか簡単に片付けないで。



- P.S. -

(最近、P.S.の発生率が上がっているような気がします)

今回のブログ、書き上げた後の感触が今ひとつパッとしません。
たぶん、何処かに何かしら要因が……。
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