しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

佐伯海軍航空隊掩体壕

2021年01月29日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・大分県佐伯市東浜  
訪問日・2013年2月20日    


JR佐伯駅から歩いて旧海軍施設方面へ向かう。
「正門跡」の標識が建つ。





しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

佐伯海軍航空隊の設置は、豊後水道の沿岸の要所に飛行場を建設しようとしていた海軍の要望によるものであった。
佐伯町は昭和6年3月に誘致に乗り出し、同年12月には埋め立て工事に着手した。
1934年に大分県初の海軍基地として県民の期待を集め開隊式が挙行された。
その様子は、
「百万県民は双手を挙げてこの完成を待ちわびていた。
兵員2.000の大所帯を擁する航空隊の実現は、活気あふれる商工業都市としての将来を約束するものだ」と伝えている。

呉鎮守府に所属し、艦上機、水上偵察機で豊後水道の哨戒偵察、艦船の出入り、援護に当たった。
1945年には第8特攻戦隊に編入された。













「東浜橋」は手すり以外は、ほぼ当時のまま。





「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
掩体壕が語る戦争の実相

掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るためにつくられた格納庫のことである。
米軍による本土空襲が激化する中、日本全土にはおそらく1.000基を超える掩体壕が造られ、
そのうち有蓋掩体壕は全国で100基が現存している。

翼型・トンネル型
トンネル型は主翼の折り畳みができる機種とできない機種の併用できる。

大型・小型・中型
小型は主として零戦などの艦載機。

築造には周辺の住民や学徒動員の勤労奉仕隊、強制連行された朝鮮人。
切迫する戦局の中で、急ごしらえで築造された。

戦後は個人が所有している場合、農家の倉庫。頑丈なため壊せない。
戦争の実相を永く伝えることができる貴重な戦争遺跡である。

主な現存数
茂原市  11基
宇佐市  10基
南国市  7基
根室市  6基




掩体壕は、株式会社興人の工場内にある。
入門のサインをして構内にはいる。

門の近くに2基の掩体壕が残っている。






「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
佐伯海軍航空隊掩体壕
掩体壕初の登録有形文化財

2001年に登録有形文化財に登録された。掩体壕は昭和18年に建設された
分厚い壁を設けて、敵機の弾に耐える対戦闘機の退避用施設であった。
退避していた戦闘機は、掩体壕の大きさから零式か飛燕であったといわれている。

代表的な工法は、最初にドーム状に土を盛り、その上に板を敷いて、鉄筋を配筋する。
鉄筋のうえにコンクリートを40~50cmの厚さで塗り、固まったら内部の土をかきだしてアーチ式構造の掩体壕が構築される。

同地には第二戦闘指揮所跡も現存する。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲辺寺の監的壕

2021年01月29日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・香川県観音寺市大野原町 雲辺寺ヶ原史跡公園
訪問日・2013年10月17日  


雲辺寺ロープウェイ。
四国霊場66番札所の雲辺寺への巡礼や、四国山地の自然や、スキーが楽しめる。



ロープウェイからは絶景が見渡せるが、
その標高差ゆえに寒く感じる。実際温度差がある。






そのロープウェイ駅への道脇にトーチカが見える。
それが雲辺寺の監的壕。





朝日新聞
監的壕
射撃や砲撃の着弾点や命中率を確認するため造られた施設で、一般的には「かんてきごう」と言われる。
全国に少なくとも100基残っている。









場所は公園内で、「雲辺寺ヶ原史跡公園」。
案内板によれば、

明治34年、第11師団雲辺寺原陸軍演習場の山砲射撃場となった。







戦後は放置されたが、頑丈なだけに解体もされず雲辺寺ケ原に残っている。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乙島の高射砲台跡

2021年01月29日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県倉敷市玉島乙島水溜
訪問日・2014.2.23


倉敷市説明
高射砲台跡

終戦間近い昭和20年5月頃、高梁川河口西岸の玉島乙島水溜の高山山頂に、3基の砲台が構築されました。
この砲台は、
壁や床コンクリートで固められた直径9m、深さ約2mの円計状で、中には12.7センチ高角砲(敵飛行機を攻撃するための大砲)がそれぞれ配備されており、
内壁には12箇所の砲側弾薬函が設けられていました。

水島航空機製作所の工場を防御するために設置されたもので、
工場を取り巻くように連島の大平山、水島の亀島山・王島山の山頂や中畝のような平地にも同様の砲台が構築されましたが、その中では玉島砲台が最も重装備でした。
昭和20年6月の水島空襲の時には、これらの砲台から反撃が行われましたが、十数機に損害を与えた程度で、撃墜することはできませんでした。

戦時中、玉島砲台に配備された部隊は水溜地区を中心に滞在しており、水溜や掘貫の民家では、兵隊に風呂を使用させるなどの協力を行いましたが、
高山への立ち入りは軍事機密のため、昭和20年8月の終戦まで禁止されていました。

戦後、砲台は破壊されましたが、山頂に円形状の砲台側壁が2箇所と、北西側中腹に高さ・幅約3m、奥行き約10mのコンクリート製弾薬庫が残っています。






標準的な砲座で、保存状態は良い。

砲は終戦すぐに撤去されている。



砲座跡の真正面に玉島火力がある。




地元の方のお話では、

「町内の老人会が10人位でボランティアで保存活動をしている。
幸いなことに中電鉄塔があるので、周辺を中電がきれいにしてくれるので助かっている。
砲台跡は道口にもある。しかし遺構は無く遙照山の登り口に説明板があるだけ。」













「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
玉島の砲台跡

敗戦間近いころに、倉敷海軍航空隊の少年兵を動員して急遽構築し、
海軍の旧式高角砲を設置していた。

高山と称する標高59mの小山の頂部には、
現在2基の砲台跡が残存し、その北側山裾にはコンクリート製の弾薬庫1基が残っている。

2基の砲台のうち二号砲台は遺存状態がよく、
内側をコンクリートで固めた円形壕を呈している。
床部分は破壊されてくぼみになっている。
壁には12ヶ所の砲側弾薬函が設けられている。






中電鉄塔を挟み、もう一つの砲座跡。

こちらは9割がた埋っている。というか一部が露出している。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館要塞

2021年01月28日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・北海道函館市
訪問日・2017.7.29


函館には一度しか行ったことはないが、非常に魅力的な街だった。
二度目があれば、ぜひとも昼に、歩いて函館山に登ってみたい。そして函館要塞も見てみたい。




日活映画「ギターを持った渡り鳥」では、マイトガイ・アキラが風船を買って浅丘ルリちゃんと出会う場所。
今も函館の観光名所。








♪函館山の いただきで七つの星も 呼んでいる・・・







函館山の夜景はとんでもないほどに奇麗だった。
そして、それ以上にとんでもない・・・・人の数だった。
(間違いなく星の数よりも多かった)



かつて函館山は要塞だった。
軍人以外は立入禁止の山だった。






「戦争遺跡の辞典」 柏書房 2002年発行

函館要塞
日露戦争からアジア太平洋戦争までの戦跡が残る戦跡考古学の一大宝庫


市議地の南西に位置する函館山(334m)は、山頂から眺める景観は”百万ドルの夜景”と絶賛され、
四季を通じて全国各地から多くの観光客を魅了している。

函館要塞は、1895年(明治28)日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に計画された。
1897年道路工事を開始、
翌年第7師団の視察を受け砲台の建設が始まった。
1900年には「要塞地帯法」が公布され、函館山への一般人の立ち入りは禁止された。
日露戦争で一発も発射することはなかった。


アジア太平洋戦争では、1945年4月高射砲陣地を設けた。
7月14.15日の米軍空襲の際には果敢に火を噴き、米軍1機を撃墜した。

1946年開放され、その翌々年、函館市は公園整備した。












「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行

函館要塞跡
港をロシアの軍艦から守った砲台群


標高334mの函館山は、敗戦まで一般人が近づけない要塞地帯だた。
函館要塞は明治29年(1896)に計画された。
日清戦争後、ロシアと緊張が高まっていたため、本州と北海道を結ぶ函館港を守るのが最大の目的だった。

要塞は当時の最新技術を投入して明治35年に完成した。
その2年後に日露戦争が始まると、
さっそくロシア軍は津軽海峡周辺で通商破壊の挙に出る。
これを聞いた函館市民の間では街が砲撃されるという噂が広まり、避難する人で大混乱になった。

要塞の大砲は函館湾をカバーする7.800mが射程距離で、
ロシアも射程を見極めて通過していた。


函館要塞はすぐ時代遅れとなり、砲台が廃止され多くの砲が撤去された。
昭和にはいると津軽要塞地帯と改名し、東西の海峡封鎖を可能にした。

太平洋戦争中は、
函館山の施設は無用の長物となっていた。

戦後は昭和21年5月に函館山が開放され、市民の憩いの場となった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(毒ガス工場)跡

2021年01月27日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県竹原市忠海町大久野島
訪問日・2006年9月26日  

忠海の沖は、小説や映画でも知られた美しい”エデンの海”が広がる。
沖に浮かぶ大久野島には、東洋一の高さの大鉄塔が建ち大三島方面へ伸びている。

その大久野島は、要塞の島→毒ガスの島→うさぎの島と大転換をしてきた。





島内の電力を賄った火力発電所。





旧研究室。









「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 

造兵廠忠海製造所跡
地図から消され毒ガスを造った島



昭和4年(1929)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(のち東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)が開設される。
倒産しない官営の軍需工場は、町に活気を与え「久野島景気」と歓迎した。
ただ、そこで何が製造されるかは、知る由もなかった。

毒ガスは国際法で禁じられたが、各国で秘密に研究が進められ、日本もこれに倣った。
場所が大久野島に決まったのは、秘密保持と公害の面で居住地から隔離された島が適していたため。

東京で研究、大久野島で量産、船や列車で福岡県曽根へ運ばれて充填。
運用や訓練は千葉県習志野で行われ、中国各地で実戦に投入された。

イペリットやルイサイトなど多様の毒ガスや信号筒の製造が軌道に乗り、工場は拡張を重ねた。
他の軍関係施設同様に地図から消された島で、1.000名を越える人たちが危険な作業に携わった。


敗戦になると、毒ガス工場のことはすぐ占領軍の調査で知られることになる。
焼却されたり、船に積んで海に沈めるなど、粛々と工場の解体と毒ガス処分が行われた。
朝鮮動乱勃発によって米軍の弾薬基地、続いて弾薬解体処理工場場が置かれた。

現在は休暇村として国民の保養地となった。
ウサギは戦後、小学校が放した数羽のウサギが30年ほどの間に増えたものという。

戦後、大久野島関係者の多くが長い間後遺症に苦しんできた。
彼らのガンによる死亡率は一般の30倍ともいわれる。














毒ガス貯蔵庫。




「日本の島 産業・戦争遺産」 斎藤潤著 マイナビ出版 2018年発行

毒ガス工場跡


明治から大正にかけては芸予要塞の島だったが、昭和に入ると毒ガス工場の島に変身を遂げる。
1963年には国民休暇村となってリゾートの島に再度大変身。

1923年毒ガス研究を秘密裏に進めていた陸軍は、東京戸山ヶ原の科学研究所敷地内に毒ガス研究所や製造実験室の設置を決定。
その直後、関東大震災が発生して延期になる。
周辺人口も多く皇居も近いことから土地探しをはじめた。

各地の有力政治家軍人を巻き込み、陸軍軍需工場の激しい誘致合戦が起きる。
その結果、要塞が造られた後、軍縮のために放棄された大久野島に1927年白羽の矢が立った。
提灯行列で歓迎して祝ったという。

1929年忠海兵器製造所が完成し、毒ガスの生産を開始した。
最盛期、従業員は5.000人に達した。
その頃地図から消されてしまう。
1940年、技能者養成所を設け、近隣の高等小学校の卒業生たちを採用するようになる。
採用された人は、
島でのことは親兄弟にも一切口外しないという誓約書を書かされた。
1944年には原料不足で下火になる。
終戦時、3.000トン以上の毒ガスが残されていた。


大半の毒ガスは土佐沖120kmに運び、船ごと爆破して海洋投棄処分した。
その頃竹原周辺では、痰が絡んで息ができない人が多かった。
1949年頃から救済を求める運動がはじまり、実際に救済がはじまるのは1954年で、
その間に症状の重い人は亡くなった。
学徒の救済は、1970年代からはじまった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松代大本営跡(象山地下壕)

2021年01月27日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・長野県長野市松代町  松代大本営跡(象山地下壕)
訪問日・2014.4.14


松代は信州の静かな城下町。






その松代の町はずれまで行く、
そこに象山地下壕がある。






「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 


松代大本営予定地跡
本土決戦に備えた遷都計画

太平洋戦争末期、戦争遂行に最低限必要な中枢機関を内陸の長野へ移転する壮大な計画が立てられ、
「松代倉庫工事」(マ工事)と呼ばれて極秘裏に工事が進められた。
いわゆる松代大本営である。

工事は昭和19年11月から敗戦まで延べ300万人が動員され、昼夜分かたず3交代で進められた。
半数は朝鮮人といわれ、
また近隣からは勤労報国隊や学徒が動員され、国民学校の児童までもが手伝い、全行程の75%ほどが敗戦までに終わっていた。

3地区の内、もっとも有名なイ地区の象山地下壕は総延長6km弱のうち500mほどが公開されている。
壁面の削岩の跡が生々しく、基盤の目のように掘られた様がよくわかる。

9割がた完成していたロ地区の舞鶴山は、現在・気象庁松代地震センターとなっている。










「日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 
松代大本営

比島のレイテをめぐって激戦がつづけられていた昭和19年11月、
陸軍ははやくも本土決戦を考えて長野県松代町に極秘裡に地下の大本営をつくりだした。
松代町は長野市から10km、バスで30分。
古い静かな城下町で、大本営は町はずれ約2kmの山中。

「倉庫」という名目で、当時の金で2億円。延べ3.000.000人の労務者を使い、8分どおり完成したところで終戦となった。
固い岩盤をつらぬいた地下壕は延長10km、三段階、400mの半地下建造物で、砲爆撃にたえられるようになっている。

軍はここに天皇の御座所までつくることを考えていたという。
軍は地下、国民は地上。
それが本土決戦の想定だったのである。




戦争遺跡の辞典」 柏書房 2002年発行

松代大本営跡

松代大本営というと松代町の地下壕をさすが、関連する遺跡は長野盆地一帯に点在している。
というのも、松代大本営は、本土決戦に備えた「遷都計画」として立案・準備されたからである。
地下壕は松代町の三つの山の山腹に掘られたもので、総延長10キロ余ある。
工事名は秘密保持のため「松代倉庫工事」と呼称された。

こうした地下壕や施設の工事は、その大部分を朝鮮人の労働に依拠して遂行された。
朝鮮人労働者は約7.000人動員されたと推定される。
このうちはんぶんほどが、
日本の朝鮮に対する植民地支配により「海外流民」となった人々で、日本国内の鉱山・ダムなどに従事していた。
残りは「徴用」の名目で朝鮮から強制連行された人々であった。
リンチによるケガや死亡、栄養失調、病気なども多々あったが未解明の部分が多い。

近隣市町村から勤労報国隊が動員された。国民学校の児童も動員された。

西松組と鹿島組が請け負った。
工事は未完成のままだったが、地下壕は8~9割完成した。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震洋隊殉国慰霊塔

2021年01月27日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・高知県香南市夜須町手結山住吉漁港  「震洋隊殉国慰霊塔」
訪問日・2012年4月4日


「震洋」という特攻兵器があった。

震洋は、全長5~6mの程の小型ボート。
大戦末期には本土決戦に備え4.000~5.000隻が実戦配備されていた。



木製のモーターボートに250kgの炸薬を積み込み、
本土に上陸する海兵隊の艇に体当たり攻撃。
米軍の上陸が予想される海岸に配備されていた。





ここ夜須町の住吉海岸は「四国の湘南」とも呼ばれるきれいな海辺。
その海辺に昭和20年、140人の海軍兵が米軍に備えていた。

終戦の翌日、昭和20年8月16日
震洋の1隻が燃え爆発し、他の震洋も爆発していった。
140人のうち、111人が肉片となり散った。






旧海軍の震洋特攻兵は、ほぼ予科練生と、元予科練生
年齢でいえば16~18才程度の若い特攻兵であったと推測される。

戦果が目的のはずが、
死ぬことが目的になっていった戦争末期の特攻兵。
生きて終戦を迎えたが、その翌日に事故死とは痛ましい。



港で網の手入れをする漁師さんに、
「当時の跡は何か残っているのでしょうか?」と尋ねた。

漁師さんは手を休め、
「神社の石段のところに穴を掘りボートを隠していた。
その穴が近年まで残っていたが、崩れてしまった。
その場所に遺族の方が檜を植えて弔っている」と・・・・相当な土佐訛りで・・・話してくれた。

その話しぶりも、なにか兵にたいして可哀そうな口ぶりだった。



・・・・・


「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 

震洋(しんよう)

海軍唯一の水上特攻兵器である。
軽くて強度が確保できるベニヤ板を張り合わせたモーターボートに爆薬を積んで敵に体当たりする。
「太平洋を震撼させる」の意から震洋と名付けられた。

67馬力のトヨタ製自動車用ガソリンエンジンを搭載し、
乗員1名、
艇首に250㎏爆薬を付け、
ロサ弾と13mm機銃で武装し、
敵の上陸間際に夜陰に乗じて奇襲をかける。
乗員は予科練性が中心。

敗戦後は沖合に沈められた。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神島見崎の格納庫

2021年01月26日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県笠岡市神島見崎
訪問日・2006年3月10日  



「進駐軍がジープに乗って見崎に来た、その時はじめて”車”を見た。」






Iさんは終戦時、神島内国民学校の「5年生の時じゃった。」そうだ。
見崎から「海辺や遍路道を50分ほど走ったり、歩いたりしながら学校へ通っていた。」




見崎の子供だったIさんは笠岡や福山などの町へ行くことなど一度もなく、(見崎での遊び、手伝いなどじゅうぶんすぎるほど面白かったそうで)
戦後すぐに見た「四輪自動車」には、それは驚いたようだ。


「見崎には道はないので、海からやってきた。
海岸線を走ってきた。」





「進駐軍が来たのは弾薬を見にきた、
大小の飛行機の爆弾を積み上げとった。
その上にのったりして子供は遊んどった。

それを米軍が見にきた。」











茂平にも飛行機を隠していた。
その場所は今「ヒルタ工業」があるところ。
山に登る道には木が繁り、砂浜の海に近い場所。すでにその面影は完璧に消滅して、地形の跡形はない。


津ノ下の飛行場からは茂平のほうが近いけど、条件的には見崎が恵まれている。
「浜に降りた飛行機はトロッコで陸を移動して隠していた。
20~30機は隠しとった。」





津ノ下から飛び立ち空を舞ったあと、御手洗池の白砂・砂洲の海辺に着水。
そして砂洲から堤防・山に隠す。

海軍・津ノ下飛行場は成果も無く終戦をむかえた。
それでも「赤トンボ」と呼ばれる練習機が大空を舞うのを、福山や笠岡の人たちは頼もしげに見上げていたみたいだ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両城の防空壕

2021年01月25日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市両城町
訪問日・2012.2.10
 

2021年1月21日のNHK「ブラタモリ」は呉市が登場した。
タモリが歩いたのは、
灰ケ峰、クジラ館周辺、宮原通、それに両城町。



両城町といえば急な石段の町。

映画「海猿」のロケ地で、突然有名になった。




呉市を舞台にした映画は、映画史に残る「仁義なき戦い」が名高いが、番組では
そこはスルーして「この世界の片隅に」というアニメ映画を話題にしていた。




東洋一の軍港の呉、
両城町には佐官クラスの幹部の住宅地と説明していたが、

いくらなんでも佐官以上は呉に20人程度と思えるし、両城町の住宅数は数百は超える。




横穴式の防空壕が残る。
幹部の住宅には、お庭に頑丈な防空壕をもっていただろうから、これは市民用の防空壕。








入り口に板を打ち付けて、内部が見えないようにしている防空壕が多いが
ここ呉市両城町の防空壕は、呉市が戦争の記憶を残す意思が感じられる。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧近衛師団指令部

2021年01月24日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
名称・旧近衛師団指令部
場所・東京都千代田区北の丸公園 東京国立近代美術館工芸館
訪問日・2018.8.7




近衛師団を特に有名にしたのが半藤一利「日本のいちばん長い日」の”宮城事件”。



終戦前夜から当日、

玉音放送のレコードを奪い、近衛師団長を懐柔しようと企んだ反乱兵がいた。


映画では一作目が黒沢年男、二作目が松坂桃季が演じた。




東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)


明治43年竣工、終戦まで近衛師団司令部として使用されていた。

外装は煉瓦積で要所に石材を使っている。妻面にレース模様風の飾りを施してあり、いかにも近衛師団風の洒落なデザイン。

昭和41年の北の丸整備計画で取り壊しの対象になった。が、明治の洋風煉瓦建築の典型例として昭和47年重要文化財に指定され、解体をまぬがれた。


「日本近代建築大全・東日本」講談社 2010年発行




終戦で近衛師団は消滅し、戦後天皇や皇居は警察が警備している。
師団の建物は「国立近代美術館工芸館」となっていて、
当日は夏休みの小学生のイベントをしていた。


頑丈で威厳をそのまま伝える建築物だった。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする