しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大伴家持

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・富山県高岡市  JR高岡駅前


万葉集

『万葉集』はいうまでもなく、日本最古最大の歌集であり、
その成立期間も5世紀から8世紀ごろまでの450年間におよぶ。
天皇、皇族のうた、民衆のうた、それも農民から防人、乞食にいたるまで
社会のあらゆる階層を含み、歌の形式も多様である。
編者も一人ではありえないが、
現在に近い形にまとめあげたのは大伴家持という説が有力だ。
とにかく、当時これだけ幅広く人間と自然の営みを映した文学作品は、
世界のどこにもない。


なにしろ古いものだから”万葉集”の意味さえ定かではないが、
常識的に「多くの歌」ということだろう。
用字法は万葉仮名で、平安時代にはすでに難解とされていた。
第二次大戦中、大伴家持の
「海行かば水漬く屍、 山行かば 草むす屍」
といった部分が悪用された記憶が、なまなましい。

「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行









「富山県の歴史」 坂井誠一  山川出版社 昭和45年発行

国守大伴家持

大伴宿祢(すくね)家持は天平18年(746)越中守に転じ、
少納言に任ぜられるまで、満5年の間、越中に在任した。

大伴氏は代々武将で、武をもって朝廷につかえた名族。
家持が越中に赴任したころは東大寺大仏の建立という大事業をひかえて、橘諸兄と藤原仲麻呂の対立があるなど、重要な時期であった。
家持は諸兄に近かった。

大伴家持は、律令官人としてよりは「万葉集」の選者として著名であるが、父旅人とともに歌人としてすぐれている。
越中の自然は立山・奈呉の浦など「みれどもあかず」彼の詩心をそそるものが多かった。

大伴家持の在任した越中国府は、現高岡市伏木古国府であることはうたがう余地がない。
交通の便と要害をかねそなえている。








撮影日・2015年3月10日




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2 コメント

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大伴家持 (killy)
2021-04-24 09:46:55
家持に笠郎女が送ったという恋文「陸奥の陸奥の萱原遠けどもおもかげにして・・・」という句があります。家持は男前だったのでしょう。
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大伴家持 (killy)
2021-04-24 09:52:59
訂正
失礼しました「陸奥の真野の萱原・・・」でした。
返信する

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