しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

阿部正弘

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・広島県福山市  福山城公園


日米和親条約

安政元年、ペリーは再び軍艦を率いて日本へ乗り込んできた。

今度は本当に戦争をする気で乗り込んできています。
江戸湾奥深くまで侵入してきて、江戸城が見えるあたりまで船をすすめたと記録にあります。
品川沖までやってきて挑発する。
ボートを降ろして測量をする。
その沿岸には彦根藩、肥後藩、長州藩など幕府の命令で出兵し、軍艦の挙動を見守っておる。
これはいよいよ戦争だということになる。
この時のあわてぶりは大変なものです。
沿岸の住民は家財道具を積み込み、山の方へ避難したと当時の日記には書いてあります。


幕府の方では戦争する気はない。
日米和親条約が結ばれるわけです。
「アメリカ合衆国と帝国日本両国の人民誠実不朽の親睦を結び、親睦を旨とし、・・・勅諭を信じて双方左の通りに候」

幕府は日本君主となっている。
勅諭のくだりは、たぶん降りるものという前提がある。
まことに機敏のある表現です。
君主といえども、勅諭が出ないと勝手に条約を結ぶことはできないと、勝手に決めている。
これは一つには、幕府は逃げている。
責任を持ちたくない。
国内に強硬派の攘夷論がある。
和げる表現をとったと思われます。

伊豆下田と松前地函館が、およそ7里の内は自由に徘徊可能と決まった。
幕府にとって、外国との条約締結などは初めての出来事で、かなり慎重であった。




将軍家に反対する意見でも聞いてやるからと、老中阿部正弘の名前で出しています。
諸藩から集まった意見書を見てみますと、
外国と交通をせよというのはほとんどないですね。
やはり、これまでどおり幕府の祖法を守って鎖国の体制を続けていけという意見が圧倒的です。

阿部正弘というのは意見を大変よく聞いた人です。
残念なことに、安政4年、39歳の若さ早死にしますけれども、
ずっと生きていたなら世の中の動きも変わっていますよ。
これだけ人望のある人はいなくて、
この人が老中首座でおる限りは、誰もちょっと手が出せない。
それに島津斉彬がこの人を助けていますからね、
島津斉彬は当時、賢君中の賢君で一番人望もあり、才能もあった。


阿部正弘としては、国内の意見が一つにならなかったら、日本の国はアメリカやイギリスやフランスなどの列強の圧力には対抗できんと考えて、
あえて前例を犯して意見を聞いたのです。
当時としては、彼の頭は非常に進んでいるわけですよ。
朝廷にも意見を求め、朝廷を含めた挙国一致で対処しようとしたのです。


「歴史に学ぶ」  奈良本辰也  潮文庫  昭和60年発行









「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

老中・阿部正弘の福山藩の藩政改革

安政2年、藩校・誠之館を開校。
そこでは漢学・国学・洋学・医学・軍法など、時勢に対応した科目が教えられた。
試験の成績に応じて役職に就かせるという「仕進法」が採用された。
従来の世襲的な人事を大きく変革することを試みたのである。

それと同時に西洋式の軍隊訓練を導入し、城下に大砲鋳造所を設けた。
安政4年、阿部が39歳という若さで病没したことでその勢いを失った。











阿部正弘

阿部伊勢守正弘は、文政2年(1819)10月、江戸西の丸下の福山藩邸で生まれた。
父正精は当時老中、母は側室。6番目の男子であるから、生涯部屋住みで終わる可能性もあったが、
天保7年(1836)正弘が第10代の藩主となった。
天保9年、福井藩主の次女を娶った。
天保11年、寺社奉行。
天保14年。老中。わずか25歳。
翌、弘化元年に老中首座となった。

最初の問題は、水野忠邦の天保の改革の手直しである。

正弘の老中在任は15年間にわたったが。この間、幕府にとっても彼にとっても最も困難な課題は、
開港問題の処理であった。
弘化元年、オランダ王は幕府に親書を寄せ、阿片戦争による清国事情を詳細に述べ、日本も速やかに鎖国を改める忠告をした。


「城と街道」 南條範夫 中公文庫 昭和56年発行




撮影日・2018年10月27日


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