しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

岡山空襲75年・父の話

2020年06月29日 | 父の話
当時父は軍隊へ三度目のご奉公中で、本土決戦の要員か、岡山陸軍病院に詰めていた。
子供が1.5人いた。(0.5人は母のお腹にいた)

今日は岡山空襲75年で、語り継ぐことの報道がなされている。
このブログにも、その1ページを添えよう。


昭和20年6月29日の未明、岡山市は空襲で焦土に。死者1700人余。

・・・・・・・・・・・・



(父・昭和20年茂平の実家にて)



父の話・2000年12月3日



茂平の実家に帰った時に空襲が

空襲の時は、茂平に帰っていた。
茂平に帰ったその日岡山空襲があった。
すぐ帰れ(多分電報だろう)というので
すぐニギリメシを作って、リュックを背負い汽車に乗った。
汽車で帰ったが倉敷からさきは汽車は動いてなく。あるいて陸軍病院までいった。
おじいちゃんは運が得かった。
死んだ看護婦もいるし、兵舎は焼けてしもうた。残ったのは(自分が持って帰っていた)カバンだけじゃた。
満がエエ。



西川の死体

西川には多くの死体が浮いていた。
脚にはきゃ半をまいたままの状態の人もいた。
熱いので川に飛び込んだのと、飛び込んではみたが煙と酸欠とで窒息・酸欠・呼吸困難みたいなので死んだ。
外傷はだからない人が多い。
それと若いひとは元気なのでとにかく安全なほうへかけって逃げる。
死体は年寄りが多かった。
陸軍病院に老人の軍医さんがいた。中尉じゃった。軍医さんが空襲後帰ってこないので探しに行った。
軍医さんには玉野造船所に息子さんがいっていた。その夜は偶然息子さんが帰ってい(たのだろう)て、
息子さんと同じ場所で死んでいた。
本当にかわいそうであった。
(息子さんが偶然帰っていて、父とともに死んだ。また息子さんだけなら逃げれたであろう。)
(死体を)焼いて遺骨を持って帰った。
そしたらまた飛行機がきた。撃ってくるか思ようたが撃たんまま帰った。(空襲後の成果の)偵察じゃった。
アメリカはそうやって発表しょうた。(日本の発表はいいかげんなが)




(戦争遺跡・西川の「田町橋」・2019.8.4)





奉還町は焼かれずに

天満屋や銀行の鉄骨が残っていた。
燃えたのは鉄道より南。
おじいちゃんが岡山に帰った時はまだ燃ようた。
奉還町だけが焼けてなかった。
駅より南が(町の)主じゃったけど、奉還町と番町は焼けとらん。
ミッションスクールがある。あれが、あるけいじゃけい(アメリカは)焼かなんだゆうてようた。
スクールミッションが、清心女子大があるけい。
駅から前はみな焼けとった。





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