しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

農作物 20222.25

2021年12月02日 | 江戸~明治
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「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行
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肥料

初めのうちは自分たちの糞尿であるとか、落ち葉、わら、ごみ、野草などを積み重ねて腐らせた堆肥などの自給的肥料が用いられていたが、江戸時代になると関東九十九里浜の鰯や蝦夷地の鰊を加工した魚肥が肥料商人によって運ばれるようになり、農民はそれら購入肥料=金肥を広く使うようになった。
明治に入り日清戦争以降になると満州から輸入される大豆粕が用いられた。
第一次大戦以降過燐酸石灰や窒素化学肥料(硫安)などが使われるようになった。
全国の肥料商人は1926(昭和1)年には46.127人に達した。


食糧不足
極度の食糧不足に対応するため、国民は食べられるものは何でも食べようということになった。
雑誌『生活科学』1943年3月号は、昆虫で食べられそうなものを紹介している。
トンボの幼虫やかいこのサナギ、いなごの成虫。
カミキリムシやゲンゴロウまで、いったいどうやって食べるのであろうか。
これではまるで江戸時代の飢饉の庶民の姿である。

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「食の歴史と日本人」 川島博之 東洋経済新報社  2010年発行

窒素肥料
苦労して落ち葉や下草を集めても、そこから得られる窒素の量はきわめて少なかった。
そこで人間の糞尿を肥料として用いた。
糞尿には多くの有機物が含まれているが、これが農作物の最長に害を及ぼす。
糞尿を肥料として用いるには、有機物を無機化する必要がある。
これを行う装置が「肥だめ」である。
新たな糞尿を「肥溜め」に入れて1~2ヶ月放置すると、微生物の働きにより有機物が分解される。
有機物が分解される際に発生する熱により、寄生虫の卵などを殺す効果もあった。

窒素肥料を投入すれば生産量を増やせるがは環境汚染を伴う。

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肥料確保
戦争末期の食糧増産運動 
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

19年10月5日付けで、県は堆肥確保のための草刈り動員の文書を出した。
これは肥料事情の悪化にに伴い、自給肥料、特に堆肥の増産確保が緊急の要務となり、
政府が全国的に実施を呼びかけたもの。
国民学校は少年団、中等学校は報国団の運動として展開した。

岡山県の目標量は5.223万貫となっており、一人平均290貫で相当の負担であった。
農村の採草地をさけて採集する注意があったので困難であった。

初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。

児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。

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「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行

化学肥料
日本の水田稲作
ヘクタール当たり
1880年 1.8トン
1920年 2.5トン
今では 5.4トン
「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行
 
小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。

小麦粉を水に溶いて作る食品は、
うどん、そうめん、ほうとうなど。
焼く、煮る、ゆでる、という方法があり
豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。
「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行

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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

窒素(N)
葉肥と呼ばれる。
リン酸(P)
花肥や実肥と呼ばれる。
カリ(K)
根肥という。

有機質肥料
魚粉、油粕、草木灰、家畜糞など。
遅効性のものが多い。
無機質肥料
化学肥料と呼ばれる。
三大要素のうち1種類の単肥、
複数の成分が含まれた複合肥料。
複合肥料には三大要素を配合した化学肥料と、
有機質・無機質を合わせた配合肥料がある。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


元肥と追肥
元肥とは、あらかじめ土壌に肥料を混せておく
追肥は、植え付け後に肥料を与えること
お礼肥も含む。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

堆肥
落ち葉や家畜糞を積み重ね、微生物の力を借りて発酵させたものを指す。
肥料効果だけでなく土壌を改良する効果もある。
牛糞は土壌改良効果が高い、
鶏糞は肥料成分が豊富で、化学肥料の代替としても期待できる。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


日本の米

米は主食であると共に、酒や醤油、味噌、酢などの原材料。
うるち米ともち米に分けられる。
ごはんはうるち米で、餅やおこわはもち米。
今から2500~2600年前、縄文時代晩期に大陸から伝わり北九州から広まったという説が有力だ。

食糧管理法(1942~)
不足する米を国民に平等に分配する目的で食管法が制定された。
米の過剰(1971~)
農村と都市の所得格差が開いたため、生産者米価を引き上げた。
1960年から8年間で2倍になった。
米の消費は1962年をピークに減少し、米が余り始めた。
1971年から減反政策、最初単純休耕だったが、後に大豆・小麦などの転作が推進された。
自主流通米(1969~)
政府は在庫が増え、赤字が増え、
ヤミ米(自由米)が売れたので、1969年食管法を改正して、自主流通米がスタートした。
ウルグアイ・ラウンド(1993)
冷夏で、中国やタイから米の緊急輸入。
現在まで毎年輸入されている。
食糧法(1995~)
米を直接統制から間接統制へ大転換した。

うるち米の品種
2019年の作付割合は、
コシヒカリ 33.9% 
ひとめぼれ 9.4%
ヒノヒカリ 8.4%
ほか。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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畑作
江戸時代農家は米でなく、麦を主食にしていたといわれる。
野菜は栽培が難しく、一部の権力者しか口にできない嗜好品だった。
長期保存ができないので、各地で気候条件などに合ったものが独自の発展をした。
工芸作物は長期保存が可能なため、早くから全国各地に流通し、一大産地も誕生した。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


パンなどの主食、焼酎やウイスキーの、ウオッカ、ジンなどの酒類の原材料。
大麦
大麦は六条大麦と二条大麦と裸麦(六条裸麦)に分類される。
六条大麦はおもに麦茶や麦飯に使用されている。
二条大麦はビールや焼酎、菓子、健康食品に使用。
裸麦は麦飯、麦みそ、麦茶に使用される。

小麦
四麦で、国内で最も多く生産されているが8割以上が輸入。

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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

アズキ
餡、和菓子に使用。

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ソラマメ
炒り豆菓子。
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エンドウ
煮豆、甘納豆、餡
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大豆
製油用、豆腐、納豆、醤油
大豆は1970年代までは畑作が主流だったが、以降は水田での栽培が増えた。
現在は水田作が8割を占める。
国内自給率は6%。
輸入大豆は製油用、国産大豆は豆腐や納豆に使われる。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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ササゲ
赤飯に使用する。
岡山産は色・味ともに優良。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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果樹とは
農水省は、果樹を「概ね2年以上栽培する草・木で、果実を食用とするもの」と定義している。
栗や梅は「くだもの」と呼ばれないが果樹、
メロンやイチゴやスイカは野菜ということになる。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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果樹の生産
日本国内で果樹栽培が本格的に始まったのは1870年代のことである。
消費
欧米諸国では果実が日々の食事の一部で、
日本では嗜好品としての性格が強く消費量が、欧米諸国の1/2に満たない。

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一回の出産で約10頭の子豚を生む。
繁殖豚の場合は3年間で6産を目安に役目を終える。
豚はきれい好きでデリケートな動物。
そのため、養豚家は豚舎を清潔に保ち、温度設定やエサにも注意を払いながら飼育を行う。
生後6ヶ月で肥育豚(110kg)になり出荷する。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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ブロイラー・卵・卵肉兼用、の3品種がある。
ブロイラー
21日間の孵化、生後50日で2.200~2.300gにまで成長し、
小型ブロイラーはこの時に出荷。
大型ブロイラーは生後55~60日で出荷、2.600~2.800gある。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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採卵鶏
孵化期間21日、雛は体温調整などの機能が不安定であるため、飼育農家がケアする必要がある。
エサはトウモロコシなどの穀物や魚粉をブレンドした配合飼料が与えられる。
孵化して約150日で卵を産み始める。
産み始めは小ぶりだが、だんだん大きな卵を産むようになる。
産卵のピークは210日前後。
産卵期間は1年~1年半。
次第に卵を産まなくなり、2年ほどすると加工肉として出荷される。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
「「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

もち

もち米がすくないから、補うものとして作っていた。

2001年10月7日

黍モチ

ちょびっともち米を混ようた。
2001年10月7日

(母の話)来だての頃、もち米がないんで黍で団子をつくりょうた。もち米を混ぜたほうが、ねぼうておいしいんじゃが(もち米が)ないんで。
ええ団子になるんじゃが、もち米をちょびっと混ぜるだけでおいしゅうなりょうた。

粟モチ
ここじゃあ粟を植えたことが無い。
(母の話)粟のほうが大味じゃ。その代わりようできる。
2001年10月7日

よもぎモチ
とうきび団子

唐臼で搗かにゃあいけんので、搗き搗き作りょうた。白うせにゃあいけんので。

搗くのが手間じゃった。黍もいっしょじゃが。
できたらおいしかった。

(母の話)茶色の団子。こりゃあ作りょうた。
砂糖きびのようなのに穂が出て。

こなして団子をつくりゃぁ、おいしい団子ができょうた。
2001年10月7日


蕎麦団子

みな、してたびょうた。買やぁせなんだ。

(母の話)
粉を水でこねて、ほうろくで焼きゃあ団子になりょうた。

蕎麦じゃけいサッパリしとった。
あられ
(母の話)
モチに色粉をつけて、それを小もう切って保存していて袋掛けにゃぁ畑に持っていって、配りょうた。
毎年のことじゃった。
モチを搗いて平らに伸ばしてから切りょうた。
どこにもだしょうた。あいだ食いじゃ。おやつじゃ。
水もち

(母の話)今頃はえっと搗かんが、どこともしょうる。水へ浸けとくと長持ちをする。いつまでも搗きだちのようじゃ。
搗いてひてぃか、二日おいて浸けとく。

カラシを入れときゃあええゆうが、カザがするけぃいけん。
2001年10月7日


あああああああああああああああああああああああああああああああああ

さしみ

年に数えるほどじゃ。

(隣は漁師だったが、魚をくれたのではないか?)

そりゃ、売ったあとのかすじゃ。さしみにゃあ、なりゃあへん。

じゃこやこくりょうた。おいしかった。

2000年12月24日
あああああああああああああああああああああ
お茶
うつろの畑でつくりょうた。
葉っぱ。若い葉っぱ。

これをうむしょうた。

もちをつくときうむす、あわあな感じでうむしょうた。くどで。
ホトンドが番茶じゃ。

何ぼか客用に買うとくが、家のようは自給じゃ。

2000・12.24
あああああああああああああああああああああ

はったい粉(煎粉・いりこ)

どこにも精米所があった。大宣にも、伏越にも。大門にもあった。

麦は香りがええ。


(母の話)

昔は粉引き屋があった。
大宣にあった。

今大工をしょうる近くに。松浦。柏にするにゃあぜっぴもっていきょうた。
そこへ持っていけば精米する機械があった。そこで挽いてくりょうた。
麦は漁師に頼みょうた。船で伏越に毎日行くので、それにたのみょうた。

よう、ことずきょうた。毎年ことずきょうた。

結構に挽いてくりょうた。

はったい粉は香りもええし、麦じゃけい身体に為もええ。


2001年10月7日
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いかなご

ししゃもみにしてたびょうた。

うまかった。

ししゃは、てでつまんでたべてもようがいかなごといっしょならうまかった。

春になればいかなごを売りに来る。

あれがおおきゅうなるまで買うてくようた。

ししゃもみじゃいやぁいかなごじゃった。


ままかり(母の話)


焼く、酢ズケ、・・・すぐ食べるときにゃぁ。

どうにもぎょうさんある時にゃぁ・・・・ぬかずけ。
ぬかずけ、米のヌカに塩をいれて。ヌカの甘味がぢょうた。

長しゅうもちょうた。一月も二月も。

ままかりも、つなしもそうしょうた。
おからに漬ければそっちのほうがよかったが、おからは金を出さにゃあ買えんけぇ。


2000・12・17

ままかりといかなご

ままかりもつなしも、糠漬にしてながしゅうたびょうた。

ままかりは群れがきた時にゃただのようになりょうた。ほれで分けてもらようた。

2001年10月7日

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「野菜まるごと辞典」 成美堂出版
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
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キャベツ
世界最古の野菜の一つ。
日本では明治以降に広まり、千切りキャベツは日本の洋食屋で生まれた。
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シュンギク
ヨーロッパでは花を観賞用、アジアでは食用としている。
室町時代に日本にわたったとされる。
独特の香り成分は、食欲増進に効果的。
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タケノコ
先端は和えもの、穂先はタケノコご飯や煮物、根元に近い部分は煮物、炒め物。

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タマネギ
日本では黄タマネギが主流。
一ヶ月半干し、皮を乾燥させて出荷する。
みじん切り
横に切り、縦に切り、最後に細かく切る。
くし切り
繊維に沿って放射線状に切る。煮物や味噌汁に。
スライス
縦半分、繊維に沿って縦にまたは直角に。生食に向く。
輪切り
揚げるなどの料理に使う。
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ニラ
旬は冬から春先。スタミナ食。
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ネギ
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ハクサイ
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フキ
日本各地に自生。
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ブロッコリー
昭和50年代から食用として広まった。
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ソウレンソウ
16世紀に中国から渡った東洋種から日本ホウレンソウが生まれた。
1年を通して出回っているが、本来の旬は冬の露地栽培もので、
甘みが強くて味がいい。
根元の赤い部分には鉄分やマンガンが豊富に含まれる。

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モロヘイヤ
日本には1980年代に渡った。
夏場の栄養補給によい健康野菜。
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レタス
平安時代後期「ちしゃ」と呼ばれ、多くの種類がある。
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ラッキョウ
日本では江戸時代に広まり、漬物・煮物で食べた。
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オクラ
アフリカ原産。広まったのは昭和30年代。

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カボチャ(南瓜)

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キュウリ(胡瓜)
昭和の初期から栽培が盛んになった。
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トウガン(冬瓜)
夏が旬のウリですが、丸のまま保存すれば冬まで持つことから「冬瓜」の名がついてます。
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トウモロコシ
米・麦とともに主食としても食べられる世界三大穀物。
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トマト
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ナス(茄子)
江戸時代の『農業全書』に「紫・白・青の三色あり、また長きあり丸きあり」と記述されているように、日本でも昔から多くの品種が栽培されていたようです。
漬物、蒸しもの、煮物、炒め物と幅広く使える野菜。
油との相性がよい。
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ニガウリ(ゴーヤ)
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ピーマン
トウガラシの辛味のない品種改良されたもの。
日本では明治時代にはいった。
パプリカはピーマンの大型種。
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根もの

カブ
春の七草「すずな」としても知られる。
葉も栄養が豊富。
漬物、蒸し煮物、炒め物、すりおろしなど。

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ゴボウ
薬草として使われていた中国から、平安時代に日本に伝わった。
世界中で食用としているのは日本だけ。
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サツマイモ(薩摩芋・甘藷)
原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。
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サトイモ(里芋)
日本では稲作よりも早く、縄文時代から食べられていた。
中央の親芋のまわりに子芋、孫芋がつく。
ずいき
葉柄はずいきとして食用にされる。
ハスイモ
葉柄専用として作られるサトイモ。葉柄のみ食べる。
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ジャガイモ(馬鈴薯)
南米アンデスが原産。江戸時代初期オランダ人によって長崎に渡り、
「ジャガタライモ」と呼ばれました。
明治以降に栽培されるようになりました。
春先に出るのが新ジャガ。
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ダイコン(大根)

ダイコン

日本の冬野菜の代表各。
「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。
ダイコンの葉には栄養が豊富です。
もっとも多いのが「青首ダイコン」で、
生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。
全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。

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干し野菜
野菜を干すと保存性が高まるだけでなく、水分が抜けてうまみが凝縮されます。
味が濃く、歯ごたえもよくなり、
生とは違ったおいしさ。
切ってザルなどに広げ、太陽に干すだけ。
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干し野菜
ダイコン
細切りや薄切りで干すと、切干大根に使える。
厚めに切ってセミドライいし、煮物や漬物にしてもOK。
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シイタケ
丸ごとか、スライスして、
セミドライは数時間、完全に干すには2~3日が目安。
失敗が少ない。

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ショウガ・ニンニク
カラカラになるまで干して、瓶などに保存する。
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ニンジン
細長い東洋系ニンジンと、
太く短い西洋系ニンジンがある。
日本でよく食べられているのは西洋系ニンジン。

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レンコン(蓮根)
沼や田んぼの水の中で栽培され、
サラダ、酢漬け、煮る、焼く、蒸すなど料理次第でさまざまな食感が楽しめる。
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くわい
芽が出ている形から「めでたい」と年末市場に出回る。
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コンニャクイモ
粉にして、水や消石灰などを加えてコンニャクが作られる。
ほとんどが食物繊維で、腸内の有害な物質を排出し、
血圧やコレステロール値を下げる働きもある。
低カロリーでダイエット食としても人気。

 
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エダマメ(枝豆)

夏の味、エダマメは7~9月頃までが旬。
早生種はエダマメとして夏場に収穫し、
秋までかかる晩生種は主に大豆として出荷されます。

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エンドウ(豌豆)
サヤごと食べる、サヤエンドウとスナップエンドウ。
実を食べる、グリンピースなどがあります。
サヤエンドウが代表で、彩りとして使われるが栄養価が高い。

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ラッカセイ(落花生)
「南京豆」と呼ばれる。

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ソラマメ(空豆・蚕豆)
「味も栄養も収穫から3日まで」、鮮度が落ちやすい野菜。
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ササゲ
別名「大角豆」、小豆は煮ると皮が破れるが、
ササゲは敗れにくいため縁起が良いとされ、主に赤飯に使われる。
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ゴマ(胡麻)
ゴマは古くから世界各地で食され、香辛料や油としても利用されてきました。
食べるのは種子の部分で、炒ると香りがよく、風味付けにもなります。
秋には、サヤの中にびっしり実が出来る。乾燥させてサヤのなかからゴマを出す。

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コメ(米)
日本では縄文時代の終わりから稲作がはじまった。
現在にいたるまで多品種の米が作られています。
丸みがあるジャポニカ種と、細長いインディカ種があります。
うるち米ともち米に分かれます。
精米後、時間と共に酸化するので、精米したてのものがよい。

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雑穀
米・麦以外の穀物を「雑穀」と呼びます。
アワ
黄色い、うるち種はアワおこし、飴など。
もち種はアワ餅、だんごなどに。米といっしょに炊いてもよい。
キビ
うるち種、もち種がある。餅やだんご、菓子などに使われる。
ハト麦
卵形の種子。煎じたものがハト麦茶。かゆにしたり、だんご・パンに使う。
押し麦
大麦を加熱して、圧縮してつぶしたもの。米に混ぜて炊く。
ソバ
三角形の形が特長。ひいて粉にして打ち、麺にする。
タカキビ
草丈が高いので名付けられた。
白米と一緒に炊くと赤飯のような色になる。
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山菜・キノコ
エリンギ
日本での歴史は浅く1990年代に栽培されるようになったばかり。
歯ごたえがあり、キノコとしては日持ちがよく、栽培種でいつでも手にはいる。

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シイタケ(椎茸)
香り高く風味もよい。
日本特産のキノコ。
シイタケはシイ、ナラ、クリ、カシなどの木に春と秋に自生する。
冬のものは肉厚で最高級として出荷される。
室町時代から食べられており、
江戸時代には栽培もおこなわれていました。

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マツタケ(松茸)
秋の味覚の代名詞。
人工栽培が難しい高価なキノコ。
秋のほんの一時期しか食べられない。
成分よりも香りと風味を楽しむものといえるでしょう。
外国産が安く手に入る。

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香りの野菜
サンショウ(山椒)
ミカン科の低木で、日本全国に自生しています。
古くから香辛料や薬用に使われており、抗菌・殺菌効果があります。

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シソ(紫蘇)
葉だけでなく、
若い芽、花穂、実も薬味やつまものなど、
さまざまに利用される代表的な香味野菜。
栄養面でも注目の日本のハーブ。
青ジソ
大葉ともよばれ、香りがよく、苦みがある。
赤ジソ
梅干しや漬物の色づけや、ふりかけなどに使われる。

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ショウガ(生姜)
薬味や酢漬け、生などさまざまに使える香味野菜。
ヨーロッパではスパイスとして乾燥ものを使う、
生で食べるのは日本独特の食習慣です。
冷え性や風邪には温かい加熱したショウガがよい。
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ニンニク(大蒜)
独特な香りがスタミナの元!
昔から疲労回復、強壮効果があることで知られています。
昭和になってから食用として普及したようです。
ネットに入れてつるして数か月は使える。
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パセリ
香りだけなく栄養価も高い。
1.2月が旬。
飾りだけでなく積極的に食べたい野菜です。

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ミョウガ
食欲のない夏場の薬味や夏バテ防止にもおすすめ。
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ミツバ
春を告げる日本の香草。
日本の野山に自生していた香草を改良したもの。
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果物・フルーツ


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「日本の農業4果物をそだてる」 岩崎書店 2010年発行
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果樹の話
庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。

生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。
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小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行

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トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。

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ナス

一年草。
初夏から秋まで実がつきますが、若い果実を収穫します。
日本では奈良時代に最初の記録があります。
「奈須比」と呼ばれ、煮物や漬物に人気のある野菜でした。

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キュウリ
昔のキュウリは味が苦く人気はありませんでした。
生で食べるようになったのは、戦後に品種改良されてからです。
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オクラ
日本には明治に入りましたが食べる人は少なかったようです。
ふつうに食べられるようになったのは、近年のことです。
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茂平の磯で食べれるもの
2022年01月02日 | 江戸~明治
海で捕るもの

あさりとつぶくれぃじゃ。

ところてんは拾いにいきょうた。
毎年できるゆうもんじゃあ、無かった。

藻の先にできる。
まちごうて他のを採ったりする。

たべるものがないのでそれでも食びょうた。

作者の小学時代、何回か採取してつくってたべて。もちろん、子供だけで、すべて(採る、作る、食べる)

2000・12・24

たいらげ
三角形のような。ねべぃ所におった。
砂のあるところにゃぁおらん。

つぶ

つぶはなんぼうでもどこでも。石があるとこ。


こおまい蟹がおった。そりょを獲ってたいてたびょうた。
ちいとの時はたかん。なんぼかようけい獲った時にじゃ。
親指くれいじゃ。おいしかった。

漁師が「こりょを獲ってたべりゃあうめんど」ゆうてようた。
こまいんで、獲るのが(ある程度の数まで)たいぎじゃった。

(母の話)いしもち蟹をたびょうた。


2001年10月7日
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芋飴
2022年01月02日 | 江戸~明治

母の話)
芋あめは売りにきょうた。

たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。

おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。

子供のいーさんは1番じゃった。中学を卒業する時に引揚げて神戸にいんだ。


金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。


(父の話)
さつま芋で。芋を買うて作りょうたんじゃけい、高いもんにつく。

狭い家に住んどったが、なんでもやりょうた。

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2002年10月14日
ひしおを作る
2022年01月02日 | 江戸~明治

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岡山ふだんの食事
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。


海の魚
刺し身、塩干物
一般に刺し身を食べるようになったのは明治時代からである。
それまでは生ものを食べる習慣はなかった。
江戸時代以前は、魚は塩干物であった。
明治以降も塩干物が主体である。
生魚(鮮魚)は無塩(ぶえん)といって、尊ぶ風があった。
無塩は,日もちがよくないので、遠方まで運ぶことができなかった。
塩物や干物は、焼いたり、焦がしたりしたが、
味付けする時には、塩物は水につけて塩抜きし、干物は水でもどした。

県南の海の魚
瀬戸内海に近い村々でも、普段には、塩サバとか塩イワシなどを月に1~2回買う程度であった。


カツギ(担ぎ)
結婚式とか建前には、例えば笠岡市西浜(ようすな)の漁村で買い求めてのカツギ(担ぎ、担ぎ人)は魚籠を一荷にして、オーコ(天秤棒)で担ぎ、何人かのカツギがリレーで駆けて交代で吉備高原まで運んだ。
カツギは、運んだ距離によって賃金をもらった。
昭和10年頃までのことである。

サワラ
5月初め魚島でよく捕れる。
寄島町安倉などの漁港に荷揚げして、何人かのカツギがリレー式に魚籠を担いで、県中部(吉備高原)の村々に春のサワラを売った。
刺し身、煮つけ、塩焼き、なます、あら煮、吸い物、茶漬け、味噌漬けにする。
寒ザワラは、脂がのっておいしい。

ブリ
出世魚で祝い品、贈答品として使われる。
正月における本来の年玉である。


江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。






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岡山の食風俗
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。

米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。

糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。

子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

雑炊
ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。
羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。
団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊・・・・。


白粥
水文の多少によって三分粥、七分粥などの区別があり。
梅干しとかコーコとかがあう。

小豆粥、ササゲ粥、ブンドウ粥、芋粥、栗粥、黍粥がある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

味噌
味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


速成味噌である。
笠岡市吉田では裸麦を甑で蒸してハナを作り、塩、水をいれてかき混ぜる。
蚕豆を入れると香ばしくておいしい。
おかずにする。焼魚につけて食べる。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。



庶民は橙酢、柚、梅酢などを用いた。

砂糖
江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。
大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。
紋日のほかはほとんど用いなかったものである。

大根
秋大根、夏大根、時無し大根などあって、年中生大根を食べることができるが、
大量に利用するのは秋大根である。
冬季期間食べる分は畑に残しておき、必要に応じて抜いてくる。
輪切りにして醤油か味噌で炊いた大根煮や味噌汁にいれる。
保存用としては干し大根、沢庵漬など大量に行う。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

捩干し
畑から抜いてきた小さい屑大根を窄るまで稲架または柿の木などに架けておく。
ネジボシとなる。
からからになるまで干す。

大根切干し
主として屑の大根を奇麗に洗って包丁で縦に二つか四つ割にして厚さ一分くらいに横に小さく切って蓆の上で干す。
糸に通して干すこともある。
乾燥した切干は保存しておいて煮つけにしたり雑魚と一緒に煮る。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

提灯切り
生大根を俎板の上で、ぐるぐる回しながら包丁で切れ目を入れていく。(笠岡市吉田)
熊山町では大根の両方に棒をあて、これを斜めに切り、再び裏返して斜めに切る。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。

茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。

胡瓜
キュウリ、
日本には10世紀に伝わった。

唐辛
トウガラシ、
日本には桃山時代に伝わった。
辛くない唐辛はピーマンという、第二次大戦後広く食用とされるようになった。

カボチャ
南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。
日本には16世紀に渡来した。
一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。

トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。

干瓢
夕顔の果実を細長く切って干したもの。
カビが生じやすいので保存する前に硫黄で蒸したりする。

蓮根
蓮根はハスの地下茎で、古く大陸から渡来した。
池、沼などに植えられ、水田の端で作ることもある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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果物

今の栽培桃は中国の天津水蜜桃などを明治になって改良したものである。
笠岡市広浜の庄屋・渡辺淳一郎は明治6年に樽屋桃を栽培、のち上海水蜜桃の栽培を始めた。
彼が岡山県における始祖である。
岡山県熊山町弥生の篤農家・大久保重五郎が昭和2年に大久保即ち水蜜桃を、明治33年に白桃を発見している。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

葡萄
日本には12世紀に中国から渡来した葡萄を甲州で繁殖させたのが甲州葡萄だといわれている。
大粒な優良な葡萄は明治以降の出現である。
岡山市津高の篤農家・山内善男、大森熊太郎両氏は明治19年に硝子室を建設し、北アフリカ産のマスカット・オブ・アレキサンドリアの栽培を始めた。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


日本に原生していただろうといわれている。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。

ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

枇杷
日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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漬物
庶民にとっては極めて重要なおかずであった。
「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

沢庵漬
笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適当に唐辛をむしって入れる。
二段目にまた大根を並べ、糠と塩をまぜたものを、という具合にしながら足で踏みつける。
よく踏みつけておく方がよい。
一番上にはハブサといって大根葉を並べ、その上に板または蓋をして大きな石を置き重石とする。

四斗樽に二・三本漬ける場合が多い。
味噌と違ってコーコはその年漬けた分を食べるのであって、前年のものは古ゴーコといって焚いて食べたりする。
大根葉
純農家では大根葉は兎や鶏、牛に与える。

漬菜
白菜が多くなっているが、白菜が日本に入ってきたのは新しい。
栽培が普及したのは大正初めである。
笠岡市吉田では一斗樽程度のものに漬け、なくなればまた漬けるというふうに追加していく。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

梅漬

奈良時代には既に花をめでていたが、梅漬は江戸時代からである。
梅漬には、シソやショウガをいれる。
五升から一斗程度の甕に漬けておいて年中利用したものである。
弁当箱の飯に梅干一つを埋めて国旗弁当などと言ったものである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ジャガ薯
ジャガタライモともいう。
県内ではキンカ薯、弘法薯、二度薯、三度薯、ジャガ薯、馬鈴薯などという。
笠岡市吉田では主として弘法薯と呼んでいる。
春、秋の二季の他に初夏の候に一番多く収穫するが、種取り分といって秋にも収穫する。
主屋や納屋の土間隅などに、そのまま置いて保存していることが多い。

・「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
・・・

魚肉

無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。

その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


・・・・

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古代の日本は牛をイケニエ(生贄、犠牲)として神に捧げ、
酒を振舞い、肉を食べた。
中世以降、獣肉食の衰退は、仏教の殺生を嫌ったこと、土公神信仰の影響が大きい。
明治になって徴兵制が施され、軍隊内では獣肉食をさせた。
兵隊帰りが軍隊でおぼえた肉食を秋祭りなどでするようになり、庶民の間に広まっていった。
牛肉の鋤焼は大正中ごろ大阪でその名が起こったといわれる。
ごく新しい名称である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


明治以後各地で普及した。
トンカツにキャベツをそえて食べるようになるのは昭和7~8年以後のことであり、
キャベツは明治以降普及した野菜である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

山羊
明治以後飼育の家畜である。
第二次大戦以降、欧米食の浸透が獣肉食を普遍化していった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

鶏肉
かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。
夜になると鳥屋にはいってねたのである。
一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。
一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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ハレの食事

県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。

赤飯
赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。
糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。
別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行



正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用いる。
自分の家で食べる米の餅はなるべく倹約をして黍餅や粟餅を多く用いるようにした。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

柏餅
カシワともいう。
米の粉の団子の中に餡をいれる。木の葉につつむ。
5月5日の節句に作る。
甑で蒸すことが多いが、羽釜の底に簀の子をいれて蒸気で蒸すこともある。

清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

甘酒
笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。
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ヤッコメ
やっこめ・焼き米・・おやつにつくりょうた。生でも、湯にかけても食べれる。ササゲを混てもしょうた。

 やっこめを漢字で書くと『焼き米』です。
 保存食として作られるようになったのが始まりのようですが、お菓子の代わりとして食べられることもあったようで、岡山県では主に県北で食べられてきました。
 
作り方

 青刈りしたもち米、うるち米を水に浸けておきます。
 1昼夜ほど寝かしておいて、これを釜で煎ります。

 煎った米を臼でつき、その行程で籾殻を除去しておきます。
 この臼でつく行程で、独特の平べったい形が出来上がります。

 早めに食べる場合は茹でた大豆やササゲを入れておきますが、保存食として長く置いておく場合はそのまま保管します。

 保存食としてのやっこめの食べ方は、お湯と塩を加えて戻した上で食べます。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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秋祭
一年中での、一番のご馳走を作るのが秋祭である。
何日も前から準備し、女は忙しい。
早朝に鮮魚の行商人が魚市をたてたりする。
カニ、イカ、タコを買う。
その他エビ、鯖、ナマコを買う。
揚げ芋を必ず作った。
狐鮨、巻鮨も作った。
お客には重箱へ一杯鮨を入れ、もう一つの重箱へ揚げ芋、魚、リンゴなどを入れて土産とした。
昭和36年頃から祭の客をしない家が多くなった。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
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「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

キャベツ
大正時代以来品種改良が進み、急速に各地に広がって、
品種や種まき期、栽培地などの生み合わせで周年生産ができるようになった。
現在ではダイコンに次いで第二位の生産高になっている。
キャベツは、健康野菜として古代ギリシャ、ローマ時代から知られていた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

エンドウ
江戸時代には栽培も広まり完熟果を利用するほか、青刈りの緑肥としても用いられていた。
本格的な栽培は明治時代から。

イチゴ
江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ジャガイモ
慶長年間に長崎に伝えられた。
わが国で本格的に栽培が始まるのは明治以降で、北海道の開拓と共に進められた。
岡山県南では3月初めてと9月初めが植え時で、「彼岸の20日目になったら種芋を植える」とおしえられた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

スモモ
すでに「古事記」や「日本書紀」に登場している。
江戸時代の食べ方は生食が中心であるが、いろいろな加工もさえていたようでもある。
「三太郎」はサンタローザのなまりである。
.....................
スイカ
中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。


(スイカを食べる人・松竹映画「馬鹿っちょ出船」)


「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ヒョウタン
「ひょうたんの里」として知られる岡山市灘崎町では、ヒョウタンの生産組合を作って生産と加工に力を入れている。
近年、青森県三内丸山遺跡の貝塚からもヒョウタンの種子が発見されたことから、
縄文時代すでに渡来しており農耕も始まっていた。
果実の外皮が硬いので、乾燥させて水や酒などの容器として、あるいは二つに割って水を汲む道具として利用されてきた。

サトイモ
わが国への渡来はイネよりも早く、稲作以前の主食であったとする説もある。
鍬を入れると、親イモのまわりに子イモがたくさんつき、さらに孫イモもついている。
その様子は子孫繁栄を象徴するようで、これも縁起のよい食べ物とされた。

アズキ
昔は祝い事がると必ず赤飯を焚き、親類や知人に配ったり、配られたりしたものである。
この赤飯やぜんざい、餡や和菓子などの原料として広く用いられているアズキは重要な食べ物である。
弥生時代遺跡からアズキが出土している。
江戸時代には菓子としての用途が広がった。
岡山県の中山間部でも良質のアズキが生産されている。
かつてアズキは作柄が不安定で投機の対象となって「赤いダイヤ」と呼ばれたことがあった。
今は外国産の輸入によってダイヤではなくなった。

ダイズ

煮豆や炒り豆をはじめ、
豆腐、納豆、湯葉などの加工品、醤油、味噌のどの調味料として、
大豆食品はどこの家庭でも必ず毎日の食卓にのぼっている。
わが国ではイネやムギと並ぶ五穀の一つに数えられている。
イネに次ぐ重要な作物として認識されていた。
栽培の容易なダイズはわずかな土地でも有効利用することができ、田のはぜにも良く植えられた。
かつては、どこの農家でも収穫したダイズで自家製の味噌、醤油、豆腐などを手づくりしていたものである。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

シイタケ

かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、
子どもの私もかり出された。
ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。
手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。
かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、
江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。
昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

コンニャク
五穀の収穫の少ない山村を中心に栽培された。
庭先に堀り上げたコンニャクの球茎が、クワイほどの小さいものからカボチャ大のまで、大きさによって仕分けられている。
コンニャクの球茎は肥大が遅いので、出荷できる大きさに育つまで四年ほどかかる。
その間、毎年掘り上げと植え付けを繰り返すのである。
集荷できる四年玉の他は、すべて来春の植え込み用に貯蔵しておく。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ダイコン
人々は古くから体験的にその栄養と薬効を知っていたのであろう。
ダイコンの料理法の多様さは他の野菜の追随を許さないものがある。
栽培面積も生産高も、わが国の野菜のなかでは群を抜いている。
ダイコンは日本を代表する野菜なのである。
わが国へは中国から渡来し「古事記」に登場している。
ダイコンは品種も多いので、播種期も収穫期もいろいろで、年中栽培することができる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行


クワイ
クワイが正月のおせち料理に用いられるのは、「芽が出るように」という開運の縁起をかつだものである。
クワイが数多くの子球を増やすことから、子孫繁栄の願いも込められたのだろう。
植え付けは6月下旬、田ごしらえした水田に種球を一個ずつ手植えする。
11,12月に収穫・出荷する。泥の中から拾い集めるという手間のかかる重労働である。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ゴボウ
芳井地区では春から初夏にかけて播種し、晩秋から初冬に掘り上げる。
二本鍬で深く掘る作業は重労働で、現在は重機を組合で購入し堀り採るようになった。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
井原町史

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はっかと除虫菊は全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた。
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。

製糸業
昭和初期には
小田郡は養蚕業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
矢掛町史

牛と馬

役畜と自家用消費用肥料の獲得のため、財産としてたいせつに飼育した。
牛が耐久力の強いことや、子牛の売買による副収入があることが理由。
昭和30年代から40年代にかけて、牛馬とも非常な減少をたどった。
特に昭和38年と39年の一年間に激しい減少を示した。

・・・・・・・・・・・

養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。
矢掛町史

・・・・・
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農林省は昭和19年10月に松根油増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根油堀に駆り出された。
一日当たり125万人を動員して昭和19年度に6万キロリットル、
20年度に30万キロリットルの松根油生産が計画された。
約47.000の乾溜釜が全国に作られ、 
昭和20年6月には月産11.000キロリットルに達したが、精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけだった。
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり、使いものにならなかったといわれる。

・・・・
「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

航路の途絶
攻撃や機雷の敷設によって商船は次々に失われ、
昭和18年以降、日本は遠方の航路から順次に放棄することになった。
まずラバウル、クェゼリン、ニューギニアが空襲激化とともに放棄され、
昭和19年6月サイパン上陸とともにトラック・サイパン、8月にはパラオとの連絡が切れた。
揚子江はに機雷が敷設され鉄鉱石輸入は不可能になった。
昭和19年7月、タイ、仏印からの外米輸入が閉鎖され、満州からの雑穀に切り替えられた。
本土決戦の大量の軍事米が必要となり、端境期までもちこたえる見通しがたたなくなった。
食塩は生存に必要な最低限まで切り詰められていたが、爆薬生産のために必要な工業塩と衝突した。
南洋航路は石油船団だけにしぼられ、石油輸送に全力をあげたが、昭和20年2月を最後に途絶した。

内海航路
昭和20年3月、関門海峡に機雷、4月には阪神港へ機雷、
日満支航路と九州炭の関西への輸送が困難。
東京・横浜・名古屋も封鎖された。
7月、青函連絡船が全滅し、とりわけ北海道炭の供給途絶により石炭と食糧の不足は危機的な状況に達した。
「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

・・

衣料
昭和19年現物の衣料は底をついていた。
「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

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「邑久町史」  邑久町役場  昭和47年発行

農民には国策遂行のため食糧増産が指示され、薄荷や煙草などの商業的農業にかわって米・麦・馬鈴薯・甘藷・南瓜などの食料中心の農業となった。
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「岡山市百年史・下」  岡山市  平成3年発行

明治40年に旧陸軍第十七師団がこの地に置かれて以来、
岡山地方における軍の拠点であった兵営と練兵場が、
ほぼそっくり学問の殿堂である大学と、県民市民の健康と憩いの場であるスポーツ公園に変わったのである。
このことは、旧軍事施設の平和利用として全国的にも高く評価された。
後に、昭和25年警察予備隊が発足し、27年保安隊、29年自衛隊へと肥大化していく過程で、両施設はそれらの補強の一環として幾度か基地化の危機に見舞われた。
しかし、地元住民の強力な反対運動や市民の声を反映して県、市などの適切な対応により、危機を免れ、平和の施設として維持されたのである。
なお、上伊福にあった海軍衣糧廠跡には21年11月から岡山県庁が移り、
32年に現庁舎へ移転した後は県立岡山工業高校となった。
また、同所の岡山陸軍病院跡は国立岡山病院となり、同病院が南方に新築移転したあとは昭和37年から県立短期大学が使用している。

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大正時代の城見村①生業
小田郡史(大正13年版)の城見村史より

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生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町


主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

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農業関係 肥料・野菜・果物その他
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
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トマト なすび 唐辛子
大根 レンコン
ほうれん草 ごま とうがらし
しゅんきく にがうり  にんにく 茶 綿 稲 麦 ふき
砂糖きび  繭(養蚕)  黍・粟(きび・あわ) へちま さとうきび
薩摩いも 薄荷・除虫菊その2
ひまわり 除虫菊 薄荷
葉タバコ ミツバチ ししゃ しいたけ ブンズ
ずいき かんぴょう

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城見の麦畑 
2022年02月15日 | 農業(農作物・家畜)
「井原の歴史」によれば、昭和30年代まで米麦二毛作が主流であったそうだ。
大正13年の「小田郡史」の城見村は二毛作は1/3。
麦作は畑で作るのが半分くらいだったようだ。

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「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄    いばら印刷 平成13年発行

米麦二毛作
この地域においては昭和30年代頃まで、水田耕作の主流は米麦二毛作であった。
そこで米作と表裏の麦作について、その作付面積と収穫量は、
昭和23年には稲をかなり上回る約1800ヘクタールにも及んでいた。
当時は水田の裏作だけでなく畑でもかなり栽培されていたことを物語る。
しかし30年代から急速に減少しはじめ、50年代以降とるに足らない状況になった。


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小田郡史(大正13年版)の城見村史より

生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町

主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

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トマト なすび 唐辛子
大根 レンコン
ほうれん草 ごま とうがらし
しゅんきく にがうり  にんにく 茶 綿 稲 麦 ふき
砂糖きび  繭(養蚕)  黍・粟(きび・あわ) へちま さとうきび
薩摩いも 薄荷・除虫菊その2
ひまわり 除虫菊 薄荷
葉タバコ ミツバチ ししゃ しいたけ ブンズ
ずいき かんぴょう

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小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行

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トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。

小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行
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ナス

一年草。
初夏から秋まで実がつきますが、若い果実を収穫します。
日本では奈良時代に最初の記録があります。
「奈須比」と呼ばれ、煮物や漬物に人気のある野菜でした。

小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行
・・・
キュウリ
昔のキュウリは味が苦く人気はありませんでした。
生で食べるようになったのは、戦後に品種改良されてからです。
小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行
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オクラ
日本には明治に入りましたが食べる人は少なかったようです。
ふつうに食べられるようになったのは、近年のことです。

小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ヤッコメ
やっこめ・焼き米・・おやつにつくりょうた。生でも、湯にかけても食べれる。ササゲを混てもしょうた。

 やっこめを漢字で書くと『焼き米』です。
 保存食として作られるようになったのが始まりのようですが、お菓子の代わりとして食べられることもあったようで、岡山県では主に県北で食べられてきました。
 
作り方

 青刈りしたもち米、うるち米を水に浸けておきます。
 1昼夜ほど寝かしておいて、これを釜で煎ります。

 煎った米を臼でつき、その行程で籾殻を除去しておきます。
 この臼でつく行程で、独特の平べったい形が出来上がります。

 早めに食べる場合は茹でた大豆やササゲを入れておきますが、保存食として長く置いておく場合はそのまま保管します。

 保存食としてのやっこめの食べ方は、お湯と塩を加えて戻した上で食べます。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。
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