しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大友宗麟

2021年04月24日 | 銅像の人
場所・大分県大分市 JR大分駅前
制作・富永直樹
設置・昭和57年






「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会 昭和53年発行

大友宗麟

大友家というのは、九州の北部の守護職。
家柄の古い名門として鳴らした家なんです。

大友宗麟が歴史上に名前を残しているのは、キリシタン大名という肩書によって、かろうじて名前が残っているんじゃないかという気がいたします。

洗礼を受けたのが49歳で、亡くなる58歳まで10年に満たない歳月です。

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来まして、
それから布教のためには、天皇の許可を求めるのが一番いいだろうといのうで、京都にのぼろうとする。
その途中に山口によります。

ポルトガルの難破した船を宗麟が助けて、ポルトガル人に人気があった。
宗麟も縁故を結びたくて神父さんを招いた。

表面は神父さんたちと仲良くして、本当は南蛮人がもってきた鉄砲とか貿易、その利益のために仲良くなる。
両方ともギブ・アンド・テイクの関係です。

30代初期になると、頭まるめて、宗麟になってしまう。
初めてザビエルに会ってからキリシタンの洗礼受けるまで約30年近くかかっています。



武将としても勇名をはせたような実績はないようです。
政治的な手腕の方はあったんじゃないでしょうか。

天正7年、4人の少年使節をローマの本山に送ったことですね。
その遣欧使節はヨーロッパで非常に歓迎されたんです。
けれども7~8年を費やして日本に帰ったときは、もう秀吉が天正15年に有名な禁教令をだしたあとですしね、
風向きが変わってますから派遣した効果はなかったんです。

ただ、その時に印刷の機械を日本に持ち帰っているんです。
それから長崎や天草に活版所を作りまして、いろんな印刷をやったわけです。
『平家物語』や『イソップ物語』、翻訳して出版しているんです。










大友宗麟

享禄3年(1530)~天正15年(1587)
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。
豊後出身。
天文19年(1550)豊後・肥後の守護職を継承。
のち九州探題となり全盛時代をつくる。
ザビエルを招いてキリスト教を受容し、西洋文明の移植に努めるとともに、貿易の利を収める。
自らも受洗、少年使節団伊藤マンショらをローマ教皇に派遣した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2013年2月21日




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