しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「石の島」北木島

2023年03月17日 | 昭和で無くなったり・変わったもの(生活・暮らし・産業)

あらゆる企業は、造る製品や製造方法が50年前と一変している。
北木島の石材産業は、50年間に
採石→採石+加工→輸入材加工→石材製品バイヤー?
その間セメントの普及で石材需要が大幅に減った。
墓石へのシフトや、工場の本土移転があった。
懸命な企業努力は新聞等で報道される。
今後はどのように変貌していくのだろうか。

 

(猫岩・重ね岩)

 

(大浦)

 

・・・

 

「瀬戸内海を歩く」  中国新聞社 1998年発行

北木島

岡山県笠岡市沖の北木島。
海べりの村上石材を訪ねると、海面下75mの石切り場(丁場)に案内してくれた。
鉄のはしごを下りかけると足がすくんだ。
75mといえばビルでいうと25階建てである。
4トンの石をウインチで巻き上げるところだった。
地上のモニターで地底の様子を映し出しながら操作する。
深くなりすぎて地底が見えなくなったのだ。
石が建築材に使われるようになった明治以降、北木石は一躍有名になった。

「明治からの立派な石造建築は北木と思うてもろうてええ」
量がだせて、納期も守ると信用が高かった」
日本銀行旧本店、三越本店、日本橋、靖国神社大鳥居・・・とずらり並べた。

「石といえば北木」という時代がつづき、
1975(昭和50)年ごろまでは、丁場に活気がみなぎっていた。
笠岡の長者番付にずらりと北木の石屋が並んだ。
多い時には127ヵ所あった丁場は、現在6ヶ所にまで減った。
一方で石の加工場は60ヶ所を数える。
消えゆく丁場と対照的に、加工場は活気にあふれていた。
丁場の衰退にもかかわらず「石の島」の体面を保っているのは輸入石のお陰である。
韓国、中国の石だけでなく最近は、南米、インド、アフリカなどからも北木島に入りはじめた。
北木石の加工は全体のほんの一割までになった。

最初は原石の輸入だったが、
間もなく加工まで始める。
日本の業者が合弁会社を設立などして、日本向け墓石の加工技術を教え込んだ。
品質は飛躍的に向上し、国産とそん色ない墓石が輸入され始めた。

中国など外国産の石を輸入し、加工しているうちは、まだしもである。
これからは、さらに現地での製品化が進む。
「島の石屋は、輸入した墓石のバイヤーになってしまう。製品を売り、利ざやだけを稼ぐんなら石屋とはいえんわな」


・・・・

 

(豊浦)

 

「石切り唄」

父親が石工だった。十五歳でかしきと呼ばれる石切り丁場の下働きになった。
飯炊きと雑用を三年間こなし、ようやくノミとゲンノウを持った。 
親方について仕事を覚えるかしきあがりを2~3年して、一人前になる。
「よう頭をノミでこづかれた。眠うなると焼け火ばしでつつかれる。そうやってひとつずつ仕事 を体で覚えていくんですわ」
飯だけは四回食べた。
夕飯が終わるのが午後9時ごろ。それが終わるとかじ屋仕事が待つ。
百本近いノミを打ち直し、研ぐ。
一日十五時間働き、寝る時間は四時間に決めていた。
つらい仕事に欠かせぬのが、石切唄だった。
石切唄でも大割、小割発破穴を掘る時の唄などを自在に歌う。

カッチン、カッチンとノミを打つ音が合いの手になり、独特の節回しだった。
「わしらの若いころは、唄で互いの調子を合わせ、しんどさを紛らわせたんよ。
唄でもないとつろうてヤケが起きますわ」
嫁にいくなら石屋の嫁に右も左も金ばかり... 逆にこういうのもあった。
嫁にいくなよ石屋の嫁に岩がどんと来りゃ 若ごけじゃいな


「機械が入りゃあ、のんきに歌っとる暇ありゃあせん。
たばこ一服しとる間に二、三の穴などわきゃあない」。
穴をあけるドリルなどさまざまジェットバーナーの時代じゃ。 
消える運命はしようがないかの」と寂しげだ。
唄は伊予の石工の流れに沿って瀬戸内海の島々 で歌い継がれ、そして今、消えようとしている。
機械が導入された1960年代には、丁場から唄は完全に消えた。

唄の文句は即興。
嫁さん自慢があり、沖を行く 船やカモメも飛び出した。
歌声で丁場は活気づき仕事もはかどった。
伯方島出身の桧垣さんは、北木、神戸御影、倉橋、黒髪、姫島と瀬戸内の丁場を渡り歩き、北木島に落ち着いた。
「黒髪も北木も、いや瀬戸内海の丁場の唄のほとんどは伊予の島の流れじゃないか」と言う。 


・・・

 

(金風呂)

 

北木石は大ピンチ。
島の石が一割を切る状況では打つ手がないんですわ」とぼやく。
なぜ輸入石なのか。桧垣さんの答えは明解だっ た。
北木島では100万円近くする墓石が、
中国産など20万円で字を彫り、据え付けまでできるというのだ。
北木で職人の日当一万三千円のところが中国ならわずか三百円で済む。
石も露天掘りで無尽蔵。 掘り出すコストもかからない。勝負にはなりません」 
輸入先は韓国が多かったが十年ほど前から中国が主流となった。
最初は原石の輸入だったのが、 間もなく加工まで始める。
墓石加工に荒さが目立ったものの、日本の業者が合弁会社を設立するなどして、日本向け墓石の加工技術を教え込んだ。 
品質は飛躍的に向上し、国産とそん色ない墓石が輸入され始めた。
中国材の台頭は、北木など瀬戸内の石産地に打撃を与えていった。
人口の約九割が、石材関係の仕事に就く島にとって、工場移転はそのまま人口流出につながる。 
1975年、4.200人だったのが現在は2.100人余。年間約90人ペースで減少している。

 

撮影日・2022年10月15日  笠岡市北木島町(北木島)

 

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笠岡の大仙様

2023年03月17日 | 暮らし

笠岡の大仙様はずいぶんにぎわっていた。

それは昭和40年代までで、昭和50年代から次第にお参りの人が減っていった。

 

画像・笠岡市笠岡・大仙院 2023年3月15日  

 

・・・

笠岡の大仙様


「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行

大仙参り

葬儀のあくる日(翌日)、
シアゲのあとに笠岡市の大仙院に参る。
経木に戒名を書いてもらい水向け供養をし、
線香を立てて拝む。
また死者の着物を棚に供える。(胡麻屋)

笠岡の大仙様は毎月旧24日が縁日で、市が立つが、
お参りして、苗やタネを買う。
縁日にはお参りの人々で賑やかだが、
ことに正月と盆には、お参りする人々で溢れる。

盆月には、
ご本尊の手に結んだ善の綱が、本堂内さらに、水向け地蔵まで張り渡される。
お参りの人々は、死者への小遣い銭を捻り銭として、この綱に結び付ける。
この銭が死者に届くという。
以前には、死者を呼び出してもらう(口寄せ)人々もだんだんいたという。

大山に参ると死んだ子にあえると言った。
人が死ぬと大山に参る風習は、現在では、消滅したといってよいであろう。
そのかわり、笠岡の大仙参りがさかんだといえよう。

・・・

 

 

・・・
「金光町周辺の民俗」  岡山民族学会調査報告  昭和46年発行


この地方や笠岡市ならびにその周辺では、
笠岡市の大仙院へ参る習俗が顕著に認められる。
初七日もしくはそれ以内に、また七七日(四十九日)または、その月以前に大仙院へ参る習俗は濃厚である。
そして大仙院に詣れば、死者に会えるという信仰は根強い。
ことに、子供の死の場合には、参らねばいけないことのようにさえ考えられている。
また、生前の着物、また玩具や菓子などを持って参ることが注目される。

大山まいり(六条院)

毎月旧の24日に笠岡市の大仙院へ参る。
その中でも、年の暮とはじめが多い。
死後、葬式がすんでから、
濃い者が一週間以内に参る。
参る折には、
死者の生前の所有物を持ってゆく。
新仏の時分には毎月参る。
塔婆を買い、経木を流したりする。


大山まいり(里庄町)
笠岡の大仙さまへ参らにゃならんことにして参る。
埋葬してから大抵七日(シアゲ)につれのうて参る。
四十九日にも、つれのうて参る。

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