しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

池普請団地子唄

2023年02月27日 | 民謡

昭和14年の西日本大旱ばつで、翌昭和15年には
多くのため池が新たに造られた。
笠岡市では新山の奥山池の作業者から直接聞いたことがあるが、
野々浜の森池の話と内容がほぼ同じだった。

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

池普請団地子唄

第二次大戦後まではほとんど手による作業で、機械は使われず

池を築く—堤防を築くのは人海戦術で行われた。

土を固める作業—築堤の中心作業であるが、

これは団地子(だんじこ)と呼ばれる女性の力によった。

溜め池作りは冬の仕事で、

赤い腰巻、赤だすきの腰からげ、

頭は手拭であねさんかぶり、手甲掛けという姿の団地子が、

音頭取りが上下に動かすザイヒあわせて囃しながら杵を打つ作業が続けられる。

10~30人くらいまでが一つの集団となって作業する。

 

ショコ踏み唄

朝も早よからよー コーラショ

弁当箱下げて

工事通いのいきのよさ

ショコイヨイショ

ホーイホイ

 

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「野々浜むかし語り」 野々浜公民館  1991年発行

森池

森池の造成は、昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人ぐらいの地元の者が、朝の8時から晩の5時まで働く。
成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、
つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、
土を積んではつき固め、また土を積む、という作業を繰り返して段々に築いていく。

 

この地固めには、松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固めた。
これには柄の4本ある二人用もある。
また「亥の子」も地固めに使った。
これは丸い石に鉄の輪をはめてそれに紐をつけ、紐を一斉に引っ張ると石は上がり、
緩めると落下するという仕組みだ。
15.16本も紐のついた亥の子をその当時3つも4つも使っていた。

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コメント (1)
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