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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

雑穀町元藩医家の先祖迎え

2015年03月11日 07時33分53秒 | 大和郡山市へ
大晦日の三宝飾りや正月のサンニンサンを取材させていただいた大和郡山市雑穀町の元藩医家。

冬至の日にシンノウサンの掛軸を掲げる元藩医家は、昭和47年に柳澤文庫専門委員会が編集・発刊された『大和郡山市史』に掲載されている由緒ある城下町・旧家である。

当初、柳澤家に仕えた御殿医と聞いていたが、実際は柳澤城主が甲府から転封される前から住んでおられ、郡山藩の町医者だった。

享保九年(1724)のころの城下町には59人の町医者が開業していたそうだ。

内町・外町合せて内科が30人、外科が7人、針医者は17人、目医者は4人、歯医者は1人だった。

貞享(じょうきょう)三年(1686)・『雑穀町間数帳』に、“楠本玄東 本道医師”が見られ、つまり内科のお医者さんとして開業していたようである。

寛政十年(1798)の町割図のほか、柳澤家が入封した享保九年(1724)の『町鑑』にも、楠本玄東の名が記されている。

御目見町医師として藩医を勤めた旧家は、明治時代前半に医師を廃業されて現在に至る。

そもそもの元藩医家は、聖武天皇を補佐した政治家の橘の諸兄(たちばなのもろえ)(684~757)の後裔(こうえい)となる南朝の武将の楠木正成(~1336)の末裔になる楠本静斎のようだ。

足利時代の永正年間(1504~21)のころから医業をしていた旧家は近年に於いて建て替えられた。

当時の面影は見られないが、いまなお、神農さんの掛軸を掲げてお供えをされているのである。

神農さんを祭る神社行事は、薬に関係する大阪道修町の少名彦神社や奈良県高取町の土佐恵比寿神社の神農さん(明治40年より)があるが、いずれも11月22日だ。

新暦、旧暦の違いであるかも知れないが、雑穀町の旧家では12月22日の冬至の日にされている。

この日は同家のお盆。

お供えは、お頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに洗い米を二杯。

毎年このように供えていると云う。

お供えはされているが、手を合わすことも、祝詞を奏上することはない。

「単に供えるだけだ」と云うのだ。

檀家寺の龍厳寺住職が来られる前にお供えやオショウライサン迎えをしておく。

お供えはソーメンに葡萄。

決まっているお供えにはお菓子もある。

ハスの葉に包みこんだお供えはナスビ、シマウリ、ナシ、モモ、渋の青いカキ。

これらは決まっている同家のお供えである。

ハスの葉で包みこんでいるのでまるでキャベツのように見える。

お茶は仏さん前に三つ。

他にお盆に置いた九つの椀がある。

合計で12杯だ。



お供えはもう一品。

ムカエダンゴと呼ぶ白い玉団子だ。

それには米粉を振りかけていた。



奥の方に錫の容器がある。

一枚のシキビの葉っぱを添えた水容器だ。

お店で買ってきたシキビの葉を一枚ずつ千切って「水つき」をする。

葉の枚数分を分けて一枚ずつ。

二日半に切り分けて行う「水つき」である。

「水つき」の容器の水は毎回捨てて新しく水を入れ替える。

入れ替えてからシキビの葉で浸した水をぱっぱと仏さんにかけるのだ。

買ったシキビが60枚の葉であれば、二日半に分けるとしても60回の水つき。

その都度、お茶も入れ替えるで、立ったり、座ったりで落ち着く暇もないぐらい。

おばあさんの負担も軽減しなければと考えて、最近は20枚ぐらいの葉がついたシキビを買うようにしたと云う。

「そろそろ始めよか」と云った息子さんは前庭に下りた。



その場でオガラを燃やす息子さん。

ライターライではなくマッチ棒を擦って火を点けた。

オガラが燃え上がれば2本のローソクに火を移す。



風にあたって消えないように手で保護した。



火が点いたローソクを受け取ったおばあさんは仏壇に立てる。

前に座って手を合わすおばあさんだ。



「なむあみだぶつ」を小さく唱えて、「今日はお帰りなさい」と声をかけた。

先祖さんを迎えたこの日。

取材のためにということで早めてもらった晩のお供え。



先祖さんのおかずはサトイモ、カボチャ、ひも結びのカンピョウ。

三品のお供えは12皿もある。

先祖さんの十二仏に供えるのであろうか。

尋ねてみたが「判らない」と云う三品のお供え。

味付けは鰹ではなく昆布と決まっている。

「仏さんは動物性を嫌うので精進料理になります」と云うお供え。

「しょうゆやのかどをヒコーキでとおるくらいに薄味にしますんや」とおばあさんは云う。

面白いたとえであるが、なぜに飛行機なのか、意味は判らない。

飛行機が通るぐらいの早さの味付けが薄味ということであるのか・・・さっぱり判らない。

オガラは適当な長さに折った12本の箸。

一膳の箸とすれば6人分の箸の本数。これもまた判らない本数である。

白ご飯は中段に3杯。

下段に9杯。合計で12杯だ。

数は決まっていると云う。



住職の法要が終わったことを踏まえてハスの葉に包んでいた中身を拝見させてもらう。

20年ほど前までは小さなハスだった。

包むこともなく、葉を広げて載せていたと云う。

ハスは花屋で注文したものだ。

今では包むようになったことから大きな葉のハスを注文している。

毎年、そうしているが手に入りにくくなったようだ。

同家付近の何軒かはハス池をもっているそうだ。

その家に頼んで貰う場合もあると話す。

その家が所有するハス池はそれほど広くない。

家族が食べる分量ぐらいしか作らないので小さめの池のようだ。

ハスの葉を手に入れることも難しくなり、ドロイモの葉に替えている家が増えつつあると云う。



ハスの葉に包みこんだお供えはナスビ、シマウリ、ナシ、モモ、渋の青いカキだった。

これも決まっていると云う。

翌朝14日のお供えはオハギになる。

住職が来られる昼前に供えていると云う。

陰膳の呼び名があるオハギは大が5個。

ガラス容器に盛る。

仏さんのオハギは小皿に小オハギを9皿。

おかずのウリ・ナスの朝漬け小皿は12皿。

オガラの箸も添える。

同家の神さんとされるサンニンサンにもオハギ、漬物、それぞれ三皿供える。

昼は白ご飯と奈良漬。

夜は白ご飯とゼンマイ・ウスアゲの煮物を供える。

15日の朝はセキハンとも呼ぶアカゴハンにウリ・ナスの朝漬けになる。

昼は白ご飯と奈良漬。

午後3時ごろには醤油・砂糖で煮たウスアゲ・ソーメンになる。

夕方は20個のオクリダンゴ供える。

晩は白ご飯にズイキの「たいたん」だ。

ズイキが手に入らない場合は「ひふ奈」若しくはナスビの胡麻和えにする。

聞き慣れない「ひふ奈」は「ヒユ」である。

どうやら「ヒユナ」が訛って「ひふ奈」と呼んでいたようだ。

「ヒユナ」の別称はジャワホウレンソウとかアマランサスの名がある。

ご主人曰く、「ヒユ」は東南アジアからの輸入もの。

最近は日本でも栽培されているようだと話すが、調べてみれば中国南方の雲南省が原産地だった。

こうして先祖さんを迎えたお盆の三が日。

15日晩には仏壇に灯したローソクの火をもって迎えと同じ前庭でオガラを燃やして「また、来年も帰ってくださいと送りますねん」と話していた。

3日間のおばあさんのお勤めは鉦を打ちながら西国三十三番のご詠歌を唱える。

「番外もあげるのでたいへんですわ」と話していた。

寛文(1661)、宝永(1704)、享保(1716)、元文(1736)、延享(1744)、寛延(1748)、宝暦(1751)、明和(1764)、寛政(1789)、文化(1804)、文政(1818)、天保(1830)などを記した楠本家歴代の位牌や経木を並べられた元藩医家。

貞享(じょうきょう)三年(1686)、『雑穀町間数帳』には楠本医として開業していた元藩医家。

位牌の年代はそれより古い寛文(1661)であった。

位牌も歴史を知る貴重な物品なのである。

お盆の仏壇に供える仏さんの「食」の在り方は各家まちまちであろう。

位牌や経木を並べられた元藩医家の先祖迎えの在り方を拝見させていただき感謝申し上げる次第だ。

(H26. 8.13 EOS40D撮影)

墓参りの日

2015年03月10日 08時54分45秒 | 食事が主な周辺をお散歩
我が家もこの日は墓参り。

「よってって」の大和小泉店で仏さんの花を前日に買っておいた。

東大阪市の枚岡に向かう。

一つは正興禅寺。

寺南の地下に走っている近鉄けいはんな線。走っている姿は見られない。

そこから僅か50m。その下にもあるトンネルは第二阪奈有料道路だ。

一つ目の墓参りを済ませて1km先にあるお寺。五百羅漢の呼び名がある妙徳寺である。

妙徳寺は黄檗宗萬福寺末寺。昭和2年までは大阪市の福島にあったが都市計画によって解体移築したそうだ。



江戸時代に五百羅漢を安置したことから羅漢寺と呼ばれていたようだ。

お花を飾って線香を灯す。

息子にとっては久しぶりの墓参り。

私も数年ぶりだ。

行事取材は年中行事。お盆もお彼岸も取材対象で我が家の墓参りはとてもじゃないが参拝できる余裕もなかった。

かーさんがぽつりと云った。

亡くなるまでに仕掛けておきたい墓の整備。

弔いはいつやってくるか判らないが、大大おばあちゃん、大おばあちゃんになんとかつてあった呉服屋の手代さんも眠っている墓にいずれ同居することになるであろう。

息子たちが所帯をもてば、同居することもないが、独身のままであれば同居することになるであろうと伝えた息子はきょとんとしていた。

私自身は天王寺の一心さんでもと思っていたが・・・。

墓参りを済ませてご無沙汰していたもやもや心が落ち着く。

その足で向かった先は大阪市の住之江。

おふくろが一人で住んでいる。

大ばあちゃんの仏壇・位牌に「よってって」で買ってきた御供の葡萄を供えて線香を灯す。

いつまでも見守ってやと手を合わせる。

お参りを済ませておふくろが難儀していた掃除機の調査。

数週間前に電話があった。

いつも使っている掃除機はゴミを吸い込まずにジャバラがぐっしゃとなるねんと云う。

そんな現象は聞いたことがない。

掃除機は吸いこみ口と別に排気口がある。

ホースをつけ替えたら逆に風を吹き出す。

もしかとすれば逆転するスイッチを操作したのではと思ったがそうではないようだ。

後日に近くの電気屋さんに来てもらって症状をみてもらった。

内部にあるゴミ袋の装填に不備があったと伝えてきた。

しばらく経った数日前。

またもや同じ現象が発生したという。

掃除機現物をみるしかない。

そう思っていた。

試しにスイッチを入れた掃除機は見事にジャバラがぐしゃっとなる。

なんじゃこれは・・。

確かに吸い込まない掃除機の現象。

メーカー指定の紙パックゴミ袋を装填せずに確かめてみたが同じだ。

こりゃ掃除機の不備ではないか。



そう思ってメーカー名、製品番号、型式番号を控えた。

なんらかの情報がメーカーHPにあるかもしてないと思ったのである。

さっぱりわけが判らない奇妙な現象にあたまを抱える。

ジャバラホースに何かが詰まっていると思って覗いてみたが、向こうに見えるのはかーさんの眼だ。

掃除機の吸い込み口の先っぽに取り付けたブラシ。

これも覗いてみた。

短いのに向こうが見えない。

何かがあると思って指を突っ込んだら丸い。

これが原因のもと。



ぐいと押せばポロリと出てきた。

スーパーボールだ。

おふくろが云った。

ついこの前まではあったはずなんだが、どこを探しても見当たらないと云う。

それがスーパーボール。掃除機にひょいと吸いこまれていたのである。

笑うしかない原因究明の結果は電気屋さんに報告しておきたい。

おふくろが一人で住んでいる市営住宅。

わけが判らなくなれば緊急電話がかかる。

もう一つの原因究明はエアコンだ。

作動させていたら寒くなる。

冷たい風を室内に吹き下ろす羽根が動かないと云う。

スイッチを入れて作動確認をした。

順調に動いているではないか。

リモコンをみれば「おまかせ」がある。

表示も出ている。

そうであれば羽根は自動的に動く。

問題なしであるが、普段の設定温度は28度にしている。

寒くなればそれを25度にしていた。

そりゃ寒いはずだ。

室内温度の設定を逆にしていたのである。

冷蔵庫の温度を例に解説したが、そんなことは気にもかけなかったと云うおふくろは88歳。

携帯電話もときおりかかってくるが押したことはないと云い張る。

年寄り向きに表示・操作が簡便な器械を作ってほしいと思うのである。

おふくろがもうひとつ困っていたことがある。

リビングの電灯である。

二管式のサークライン蛍光灯の一つが点灯しないのである。

グローランプ点灯管は問題なく働くし、ソケットも外れていないが、空白の部分がある。

眼を凝らして見れば電気接点部がある。

何かの器具が抜けているのだ。

3畳の間にも二管式のサークライン蛍光灯がある。

それと比較してみた。

点灯管らしきものの一つを取り外した。

底面をみれば接点部分がある。

挿しこんで回す方式だ。

たぶん合うであろうと思って入れ替えてスイットを引っぱった。

難なく点いた蛍光灯。

その器具はどうやらグロースターター電子点灯管のようだ。

照明器具は簡単なようだが、そのような違いがあることを初めて知った。

ちなみに3畳の間の二管式のサークライン蛍光灯は一つになったが、昔に外したままだと云う。

明るさは特に問題なく生活できる範囲。

これでいいかっとようやく終えた時間は丁度昼どき。

予約しておいた海鮮れすとらんの「魚輝(うおてる)」住之江店は歩いて10分ほど。

団地からすぐ近くだが、車で出かけた。

「魚輝(うおてる)」は平成24年8月に開店していたが知らなかった。

「魚輝(うおてる)」を知ったのは昨年の10月4日だ。

大阪都島の病院におふくろが入院した。

手術を終えて病室に戻って状態を見届けて近場の昼食処にでかけた。

そのときに入店したのが「串かつうおてる」都島店だった。

豊富なメニューの中から選んだ780円の海鮮丼と480円の串かつだった。

どちらも美味しくいただいた。



同店をネットで調べたら住之江にもあると知ったのである。

予約席に案内されて席についた4人。



店内はけっこうな広さで大家族であっても入店しやすい。

サラリーマンの人たちや家族連れが食べていた。

メニューが豊富なので選ぶのに困るぐらいだ。

私が選んだのは450円のふわとろ鉄板焼き。

息子は480円の絶品7種の漁師丼定食、かーさんは780円の単品海鮮丼。

都島で食べたメニューと同じだ。

おふくろはにぎり寿司。

280円の赤身本マグロに180円の紋甲ゲソ・タコだ。



いち早くテーブルに運ばれたのはふわとろ鉄板焼き。

何故かスプーンがついている。

細切れ海苔、ネギにカツオブシを振り掛けたふわとろ鉄板焼きはどうやって食べたらいいのだろうか。

ついていたスプーンで掬うようにするのだが、底まで取ってくれない。

オコゲでへばりついているのである。

フワフワ食感は面白いが、味はどちらかといえば薄め。

飽きる。

キュウリのキュウちゃん漬けと思われる香物もついている。



漁師丼定食に海鮮丼も運ばれた。

海鮮丼にはカルピスソーダがサービスについていた。

丼よりも大き目の赤だし汁椀。

どでんとブリ身が入浴中、ではなく赤だしがきいた汁椀だ。

ネタは当然ながら780円の海鮮丼に軍配があがった。

息子はイクラを食べない。

ひと粒ずつ取り出す。

おふくろが注文したにぎり寿司も運ばれた。



赤身マグロはとても美味しいという。

茹でと思われる紋甲イカゲソ。

コリコリ感がたまらない。

一方の茹でタコは新鮮なのか、ぐにゅぐにゃ。

何度噛んでも喉が通らないという。老人向きではなかった。

くるくる寿司に行けば必ずといっていいほどナスの漬物を注文するおふくろ。



メニューにはなかったが、280円の漬けもの2品の盛り合わせがある。



一品ならこれだと思って注文した380円のだし巻き。

これは美味い。

ふわとろ鉄板焼きの味は薄めだが、だし巻きも薄め。

ところが出汁がきいているので美味いのである。

メニューにおやっさん直伝とあるが、おやっさんとは誰だろうか。

丼をたいらげたかーさん、息子。

おふくろも言いだした「もっと食べたい」。

それならにぎり寿司選ぶに決まっている。

マグロをもっぺん食べたいと言ったおふくろの声で決まったマグロ屋のまぐろは180円。



ついでに頼んだサーモンも180円。

運ばれたマグロは先ほどの赤身本マグロとは色が違う。

おかしいなと思いながら食べたら味が違う。

誰がどうみてもこれはカジキマグロ。

淡白な色で味も淡白。



こりゃいかんと思って赤身本マグロを再注文。

分厚く握ってくれたマグロはやはり美味しい。



にぎり寿司はこれ以外にねぎとろ軍艦巻き、つぶ貝、平アジ。

いずれも180円だ。

なんせ魚輝はメニューが多い。

どれを選びか迷うぐらいに多いのだ。

野菜が食べたいと申し出たおふくろ。



サラダよりもこっちがいいと思って頼んだ野菜の天ぷら盛りは480円。

大葉、オクラ、イモ、レンコン、シイタケに生姜天もある。

サクサク、パリパリ感の天ぷらはどれを食べても美味しい。

ふとここで思ったビール。

忘れていた。

飲めば息子の運転に任すと決めていたが、あまりにも美味しかったのですっかり忘れていたのだ。

〆はデザート。



200円のバニラアイスでお口なおし。

さっぱり感で爽やかになった身体で店をでた。

支払いはクレジットカード。

これも助かる魚輝は4人で6232円。

美味くて安いお店は住之江に行く度に訪れたいと思った。

(H26. 8.12 SB932SH撮影)

小南神社十日盆の住吉祭り

2015年03月09日 21時28分18秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市小南町に鎮座する小南神社は古くから雨乞いの神として崇められ、元治元年(1864)、大正2年の干ばつにききめがあったと伝えられている。

かつて小南神社の年中行事を祭祀する宮座があった。

座は二つ。八幡座と天王座で、それぞれの座の本殿は北側に八幡宮、南側は天王宮社を祀る両宮である。

八幡大菩薩と称される源氏の氏神で知られる誉田別命、牛頭天王こと素盞鳴命を祀る神社は平成14年に本殿を塗り替えた。

本殿前に建之された2基の燈籠は正徳元年(1712)の刻印がみられる。

古座(こざ)である北座の八幡座と新座とする南座は天王座であった。

座の人たちは特に集落の北側とか南側とかで分けることなく、両座とも一老、二老、三老の三人。

亡くなる、或いは引退されるまで勤める終身制の座は、拝殿の北と南に分かれて座っていたという。

時代は不明だが、神社の北側に新池を造った際に天王社を移設して両座にしたという。

奈良県図書情報館が所有する奈良県庁文書『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば、小南に「左八幡座、右天皇 一老、二老」とあるようだ。

氏子が云う宮座とは若干の違いがみられる。

ここら辺りは富雄川が氾濫することが度々あった。

その影響で神社が高地などに遷った処が多いという。

隣町の田中町、池之内町、満願寺町がそうだった。

富雄川より流れる川は井堰によって新木町、杉町、丹後庄町から筒井へ抜けたそうだ。

それは今でも流れているという。

小南町は平城京を造宮する際に飛鳥から来た人たちが住み着いた町。

元の地の小山田と南浦から来たことから合わせてその名を小南と名付けた小村である。

東隣の豊浦町も同じように人が移ってきたと話す。

平成元年に座を休止され、今では自治会運営となったが、宮座を踏襲する宮守の六人衆が任を勤める。

現在の六人衆は年齢順で構成されている。

六人衆の任期は6年間。

一老が引退するにつれ二老が一老に、三老は二老へと繰り上がる。

そして新しく六人衆が加わる。

一年ごとに繰り上がる6年間をお勤めするということだ。

6年間は神社の祭祀を守り勤めるが、任期中に服忌ともなれば一年間は勤めない。

年忌が過ぎれば復帰する。

その間は次の年齢の人が入って代行を勤める。

そのようなことで服忌の場合は5年。繰上げれば7年間となるのである。

祭典の準備、祭祀執行・直会の世話方もするし、後片付けもしている六人衆だ。

神饌御供や御湯の斎場を設えて氏子たちを待つ。

六人衆、自治会長や氏子らは拝殿に座って始まった。

この日の行事名は住吉祭りであるという宮司に対して、氏子たちは十日盆と呼んでいた。

隣村の田中町に鎮座する甲斐神社がある。

ここでは8月7日に行われる行事に祖霊祭がある。

今では直近日曜になったが、かつては7日。

これをもって七日盆の祖霊祭と呼んでいる。

さらに西に向かえば満願寺町に鎮座する古田神社がある。

ここでも7日に行われている住吉祭があり、氏子たちはお盆まつりと呼んでいる。

7日にお盆といえば七日盆である。

古田神社の祭神は誉田別命・素盞男命だ。

先に挙げた奈良県庁文書『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に記載して満願寺町の宮座は「左座・右座 一老~四老」である。

ちなみに田中町では「座」のみで老中の詳細は書かれていないが、現在は一老から五老までの宮守五人衆が勤めている。

祭事日の日から七日盆或いは十日盆と呼んでいる地域は大和郡山だけでなく、田原本町佐味にもある。

7日に行われていた天神社の行事にヤマモリがある。

7日にされていたことから七日盆のヤマモリと呼んでいる。

それはともかく小南神社、古田神社ともに大阪住吉にある住吉大社の大神は祀られていないが、住吉祭りと呼んでいるのである。

住吉大社の神さんは三柱。底筒男命・中筒男命・表筒男命であるが、摂社に若宮八幡宮がある。

住吉大社の第四本宮で誉田別命を祭神とする。

誉田別命を祀る小南神社、古田神社の共通点はここにある。

両神社で行われる住吉祭りは住吉大社の若宮八幡宮であったと推定されるのである。

大和郡山市池之内町に鎮座する八幡神社の末社に住吉神社がある。

祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神に誉田別命を祀る。

池之内町の住吉祭りは7月30日。

大阪住吉大社の夏祭り(宵宮)と同じ日である。

長々と記した大和郡山市の住吉祭りの関係性はともかく小南神社の住吉祭りが始まった。

宮司による祓えの儀、祝詞奏上。

六人衆や氏子たちは拝殿で正座をして神事を見守る。

厳かな神事だけにいつもそうされている。

玉串奉奠は代表の六人衆ならびに氏子である。

奉奠には揃って拝礼し手を合わせる。

玉串奉奠を終えて御湯神事が始まった。

斎場は本殿と拝殿の間の神座である。

藁蓆を敷いた場に座って神事をされる巫女は三郷町の坂本さんだ。

初めにキリヌサを湯釜に撒く。

小幣を左右に振ってポン、ポンと柏手を打つ。

一礼されて、・・・今日のはらえたまえ、きよめたまえと申す・・・と祝詞を奏上される。



「まきちらす・・・」と申しながらキリヌサを撒きお神酒を湯釜に注ぐ。

寄進の刻銘は見られないがそうとう古い湯釜のように思えた。

大御幣を手にして左右に振る。

その御幣を湯釜に浸けてゆっくりとかき混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。

勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。

2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき・・・天より降りたもう」と告げる。



湯に浸けて上下に動かす笹の葉。

もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。



再び笹束を湯に浸けて上下に動かす。

一礼されて四神それぞれに向かって「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。

そして笹束、大御幣を左手に、右手は鈴をもってシャンシャンと神楽を舞う。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する。

履物を履いて本殿に登ってシャンシャンシャン。

同じように神楽を舞う。

そのときには宮司も本殿横に移動する。



これより作法されるのはお祓いだ。

「家内安全、水難盗難、交通安全、身体健勝、どうか守りたまえ、祓えたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。

宮司の次は拝殿に座っていた六人衆、氏子一人ずつ祓ってくださる。



この日の一般参拝は親子連れなど7人。

御湯の神事など、始めて見たのであろうか子どもたちは神妙な眼差しで固唾をのんで参拝していた。

巫女の湯祓いの間に幣を持つ宮司も祓ってくださる。

拝殿におられた全員の祓えが終われば一般参拝者にも「祓えたまえ 清めたまえ」と御湯神事に所作された幣と鈴で祓ってもらう。



小さな子供にも祓ってくださる。

両親にされるときには、その様子を伺って下から見上げていた。

いつもより多いと云う一般参拝もありがたく受けたのであった。

拝見する坂本さんの祓えはどこでもあってもお一人ずつされる。

ありがたいことに私までしてくださった。

こうして十日盆の住吉祭りの神事を終えた六人衆、氏子らは拝殿で直会。



氏神さんに供えた神饌御供を下げる六人衆。

ひとつずつ丁寧に撤饌される。

座の配膳は御供下がりの2個のモチ、均等割りしたスルメとコンブに夏の果物の葡萄やバナナだ。

座が調えば上座に宮司と巫女が座る。



席にはお猪口。六老がお酒を次ぎ回る。

一老の挨拶を経て乾杯した直会。

しばらくは歓談の場に移る。

およそ一時間余りで終える直会であるが、お神酒一本を飲み干すことには終わらないそうだ。

(H26. 8.10 EOS40D撮影)

石川町十日盆の観音講

2015年03月08日 09時06分15秒 | 大和郡山市へ
午前6時過ぎに高知県安芸市付近に上陸し、10時過ぎに兵庫県赤穂市付近に再上陸した台風11号。

前日も大雨でこの日も雨だった。

年寄り講ともいえる婦人たちは雨にも拘わらず大和郡山市の石川町公民館に集まっていた。

この年の3月に涅槃さんを終えたばかりの観音講中は8月の10日ごろは念仏を唱えていると話していた。

その様相を聞いて取材願いをしていた。

台風の日になってしまったが再訪した石川町。

訪れた公民館には涅槃のときに迎えてくれた婦人だった。

「まぁ上がってや」と云われて公民館併設の観音堂を拝見する。

観音講中は20人と云っていたが、実際は11人になるそうだ。

講中全員が揃うまでは少し時間がある。

その間の話題はやはりお盆である。

仏壇の位牌も奇麗にしたが、並べ方が判らんとか話していた。

家によっては位牌の並べ方がどうも違うようだが、一人の婦人は「古い方から奥にしますんや」と云っていた。

先日は墓で事件があったと話される。

水さしとか花立てを盗られたという事件である。

「アカ」と呼ぶ花立ては真鍮製。

「これを盗っていきよったんや」と云うのだ。

一つだけでなく、隣近所の花立ても盗られたそうで、プラスチック製に替えたと話す。

石川町の北、奈良市でも墓地にあった花立てを盗られたという話しはすべてが金属製だった。

バチがあたりそうな泥棒の行為が横行する難儀な時代になったものだと思った。

まだ来られていない人もおられたが、先に始めましょうと云って本尊や弘法大師など数々の仏像を安置した前に蝋燭・線香を灯された。

お供えは特別なものでもなくお菓子である。



導師が前に座って鉦を打ちながら般若心経を三巻唱える。

鉦は涅槃のときに拝見した三本足をもつ伏鉦だ。

それには「文化八辛未年(1811)十二月 石川村惣中」の刻印があった。

生前おられた安寿さんはこの小さな伏鉦を持って、村の北にあるオイナリサンに参って寒行をしていたとKさんが話す。

もしかとすれば寒の入りの寒行であるかも知れない。

十日盆のお勤めを終えた講中は公民館の食堂でパック詰め料理をいただいく。

しばらくはおしゃべり時間を過ごしていた。

前日は近くの中城町の南側で水ツキが発生した。

隣村の番条町は大丈夫だったと云って胸をなで下ろしていた。

台風は過ぎ去ったものの、「今日はゆっくりでけん。大雨になっては帰りがたいへんになる。食べずに弁当を持って帰ろうか」というような意見も出る日。

「今日は早めに切り上げますわ」と話していた。

9月は彼岸の入り、12月は一年を感謝するお礼念仏をしている観音講中の在り方は毎回同じだと伝えられたが、再訪してみたいと思った。

(H26. 8.10 EOS40D撮影)

橿原法花寺町福順園台湾ラーメン

2015年03月03日 07時56分23秒 | 食事が主な周辺をお散歩
行事の話題が沸騰して、倉橋の聞取り調査が長くなった。

お昼の時間はとっくに過ぎていた。

昼飯はどこにするか。

道すがらにお店があるかもと思って西に向かって車を走らせた165号線。

「まいどおおきに食堂」は通り過ごした。

阿部のガストは入店したことがない。

ビッグボーイも入ったことがない。

天下一品も入らない。

さらに西に向かって走る。

信号左に目に入った建物。

どこかで見かけたような派手で真赤な色で塗ったお店。

これは間違いなく台湾料理店。

そう思って停まった駐車場はわりあい広い。

ここはどこなのか。



カーナビが示した住所は橿原市の法花寺町。

建物も駐車場もどことなくコンビニっぽい作りだ。

同じような作りのお店は大和郡山市池沢町にコンビニ跡地を再利用の改装中だ。

もしかとすれば法花寺町福順園も同じく改装して開店したのであろう。

目立つ赤い色は台湾料理のトレードマークなのか、同じ柄で決めた。

というのも建築中の台湾料理店に書いてあった台湾ラーメンが380円。

これがあるのか判らないがドアを開けた。

席には何人かが食べてはった。

私といえば席につくなり「台湾ラーメン一杯」を注文する。

首をかしげる女性店員。

大きなメニューを広げて指を挿す。

「これっ」だと云えば、頷く。

カタコトの言葉は日本語。

どことなく日本人とは思えない言葉の遣い方。

厨房にいた調理師さんに声を揚げたが判らない言葉。

どうやら店員さんすべてが台湾の人らしい。

首をかしげたのは判る。

というのも席にあったメニューは680円のラーメンセットメニュー。



ラーメン・塩ラーメン・台湾ラーメン・台湾豚骨ラーメン・豚骨ラーメン・坦々麺のいずれか選んでプラスセットの炒飯・麻婆飯・回鍋飯・天津飯・中華飯・麻婆天津飯のどれかを選ぶ。

組み合わせは自由だ。

ラーメン・飯の量がミニかどうかは書いていないから同量であろうと思ったお買い得のセットメニュー。

台湾ラーメンだけを注文することに戸惑ったのであったろう。

3分後に持ってきた。

素早いできあがりだ。



湯気が立ちあがる台湾ラーメン。

スープは濃い目。

中央に豚ミンチを盛って、赤トウガラシが添えてあった。

いや違ったタカノツメだ。

周りはパラパラと刻んだニラが浮いている。

まずはスープを吸ってみる。

コクがあるスープが美味いのである。

麺もよばれた。

やや堅めの麺がするすると喉を通っていく。

とにかく美味い台湾ラーメン。

心地よく喉をつるつる通る。

これで一杯が380円とは驚き価格。

味は本物だと思った。

ちなみに福順園には唐揚・サラダ・スープがついた丼セットがある。

生姜焼き丼・コマ焼き丼・中華丼・麻婆丼・天津丼のいずれかを選ぶ丼セットは580円はお得なセット。

次回来店はどれにするか迷ってしまう。

美味しくいただいて料金を支払う。

なぜか注文シートに「いっうー」と書いてあった。

暗号のよう表記が何を意味しているのか判らないが、料金は税込みの380円だった。

お腹がいっぱいになって帰路につく。

八木街道曲がり路から北進する。

近鉄百貨店を抜けたすぐ近くにも同じような赤いトレードマークの台湾料理店があった。

たぶん同一系列店であろう。

(H26. 8. 7 SB932SH撮影)

倉橋のむさいなを尋ねる

2015年03月02日 07時21分55秒 | 桜井市へ
平成18年9月に行われた倉橋のお仮屋建てでお世話になったN家を訪ねた。

ご主人は不在だったが奥さんに「むさいな」の件を伺った。

昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」行事のことが書かれていた。

旧暦の7月14日に村の11、12歳の男の子や女の子が太鼓を打ちながら「むさいな」と囃して金福寺から出屋敷にある行者堂まで巡っていたという記事であった。

今でもその行事があるのか、ないのか・・・話しはとにかく聞いてみなければ思って訪れたのだ。

N家は平成18年に宮講のマツリコ(祭り講)を勤めた。

この日は七日盆で、ご主人はラントバサンと呼ぶ墓地の清掃に出かけていた。

奥さんが話してくれた墓地。

倉橋にはもう一つの墓があり、そこはカザリバカと呼んでいる。

カザリバカは仏さんを埋めていないからカラバカ。

お骨はないそうだ。

別にノバカと呼ぶ埋葬墓もあるようだ。

ラントバサンはかつて山の上にあったが、行くのも困難な地であるため下に降ろしたと云う。

倉橋は浄土宗もあれば平野大念仏宗派もあるそうだ。

宗派とは関係なく、13日はオショウライサン迎えをしている。

辻向こうの川に出かけてムギワラの松明に火を点けていたが38年前にやめたと云う。

今では線香に火を点けて家に戻る。

その行為を見た子供は「ケムリのタクシー」やと云ったそうだ。

奥さんは「むさいな」の件はご存じでなく「80歳以上の長老なら覚えているかも・・」と云われて、平成19年10月にマツリコを勤めたH家に向かう。



現役の井戸があるH家では前庭に新聞紙を広げた箕にカンピョウを干していた。

後日の14日に伺った奥さんの話しによれば今年最後のカンピョウ干しだったそうだ。

布団干しのような藁を撒きつけた竿で干していたと云う。

カンピョウの皮剥きは小刀のような小さな道具。

おそらく山田で拝見した道具と同じ形であろう。

盆入りのこの日は仏壇を清掃されていた。

金属製の杯などを奇麗にされていた作業を一時中断された話しを伺う。

数年ぶりにお会いした長老は83歳。

倉橋は60戸の集落であるが、マツリコを勤める講中家は5軒。

子供のころには12軒もあったそうだ。

さて、本日の聞取りは「むさいな」の件だ。

話しを伺えば戦前辺りに途絶えたと話す。

当時は8月14日の新暦にしていた。

金福寺にある太鼓をオーコで担いでいった。

子供は小学生で、上は今の中学二年生にあたる高等科の子供まで。

大将らは太鼓担ぎ、横から太鼓打ちの3人構成だったようだ。

「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていた。

蒸しあがって喜ぶ表現が「むっさいな」と云われる。

長老が小学6年生だった戦時中に「男の子の仕事やから」と云われて経験した記憶があると云う。

「町史」によれば村中巡って行者堂があったとされる出屋敷まで行ったと書いてあったが、経験ではそこまで行かなかったようだ。

稀に小さな子供も太鼓担ぎした思い出話。

そのころはまだ小さかった長老は太鼓が打たれたら担ぎ手が振られたと回想する。

倉橋のイノコは12月5日であった。

藁束を濡らして各家の門口で叩いていた経験もあるそうで、下(しも)との境界線に出かけてお互いの子供らは石の投げ合いをしていたと思い出された。

宮さんに行って棒で叩きあいをして喧嘩もしていたそうだが、「なんで喧嘩したのか判らない。それ以上は思い出せない」と話す。

その様相を私は拝見していないが、どことなく吉野町千股の「ささいわ」行事のような悪態つく感じに思えた。

石投げは民俗行事の印地撃ちとも呼ばれる石合戦は二手に分かれて行っていた子供が競い合う行事。

悪態言葉も発したようだが、県内事例では見当たらない。

その日帰宅してからH長老から電話があった。

現在はしていないが「むさいな」の記憶をもつ長老らが語る思い出話の場を設けるというのである。

(H26. 8. 7 SB932SH撮影)

阿知賀瀬ノ上弘法大師の井戸替え

2015年03月01日 07時28分58秒 | 下市町へ
この日は立秋。暦の上では秋に入ったが、秋の気配を感じるどころか朝から日差しがきつく汗が流れおちる。

立秋の翌日からは残暑となるわけだ。

『大和下市史』によれば、「下市町阿知賀(あちが」には、瀬の上・西中村・上村・野々熊・岡の五垣内に弘法大師が開いたという井戸がある。いずれもきれいな水が湧き出ている。岡以外の四垣内の大師井戸には、かたわらに弘法大師の石像を祭り、毎年四月二十一日のお大師の日にはお祭りをして、握り飯を子供たちに喜捨(きしゃ)する。瀬の上の井戸は、どういうわけか、水につかった石は赤く色がついている」とあった。

大和郡山市天井町の弘法井戸の井戸替えとともに、下市阿知賀(あちが)の瀬ノ上弘法大師井戸の井戸替えの様相をとらえた映像が奈良県立民俗博物館にビデオ映像で残されている。

大和郡山市天井町の弘法井戸は何度か取材してきたが、阿知賀は初めてである。

昨年は場所だけでも・・と思って探してみた。

阿知賀の弘法大師の井戸は瀬ノ上集落内の湧水場であった。

垣内住民の何人かが、早朝に集まって沈殿する石コロを取り出して洗っていたそうだ。

七品の生御膳を供えて念仏を唱えていたと井戸所有者の奥さんが話してくれた瀬ノ上の様相をあらためて拝見したく再訪した。

朝8時半から始めると話していたが、それより早く集まって作業をされていた。

瀬ノ上集落は45戸であるが、井戸周辺の16戸は毎月21日に弘法大師さんを祭っていると云う。

毎月交替する当番さんは段取りもあるし、生御膳も用意しなくてはならない。

7日は盆入りで清らかな湧水がこんこんと流れ出る井戸の排水栓を開けて溜まった水を流す。

作業初めに塩を撒いて清める。



水を抜いた井戸の底にある石を拾い上げて金属タワシで洗う。

その数はとても多い。

底面にある石は拾い上げることなく、金属タワシで水洗いをする。

水路の蓋も上げてデッキブラシでゴシゴシと水洗いする。

この日に集まったのは男性が3人に女性が8人だ。

女性の指示に従って作業を進めていた男性たち。

気心の知れた集落の人たちであるゆえの和気あいあいの作業である。

一番上の女性は75歳。「いつもこうしていますんや」と云う。

男性も混じっているのは、「定年を迎えたからや」と云われるが、40歳代の男性も加わって作業をしていた。

男性の話しによれば、父親・母親とも亡くしたので、跡を継いで集落の行事は積極的に参加していると伝える。

水を抜いた井戸には鰻が住んでいると云う。

「ついさっき見かけたで」と云われるが、石の隙間に入り込んだようだ。

何やら紐みたいなものも出てきた。

何の紐であろうかと見ていたら、それは動いた。

全長30cmぐらいもあるハリガネムシである。

ハリガネムシは類線形動物で寄生虫。

宿主のハラビロカマキリ(カマドウマの場合もある)に寄生するムシであるが、人間に寄生することはない。

以前、自然観察会でハラビロカマキリを見つけたので、お尻を水に浸けたらニョロニョロで出てきた様子を観察したことがある。

ピンと張った状態から一転して、くねくねするハリガネムシの動き。

初めて見た人はたいがいが「キャー」と云ってその場を離れる。

見慣れていた婦人は手にしたハリガネムシをそっと水路に捨てられた。

「やまとの名水」に指定された弘法大師の湧水は山から湧き出る奇麗な水。

ありがたい湧水であると所有家の先代祖父が弘法大師さんを祀ったと云う。



やや朽ちかけていることから水を濡らした布で汚れをふき取る。

「こすったら壊れるさかい、丁寧にしてや」と声がかかる。

手早い水洗い作業は30分間で終えた。

例年の作業は実に手慣れている。



祭壇の石板に花を飾って御膳を供える。

お供えの三方は2年ほど前に新調した。椀も朱塗りで美しい。



一つはシイタケ・コーヤドーフ・ヤマイモ・インゲンマメ・ニンジンを水引で括った立て御膳だ。

昨年に拝見した立て御膳はナス、アスパラガス、ニンジン、オクラ、シイタケにコーヤドーフだった。

特に決まりはないと話す。



洗い米や煮た小豆の椀もあれば梨1個の盛りもある。

画像では判り難いが、ミツバと麩を入れた汁椀もある。

かつてはハスの葉に供えていたというからお盆御供の在り方であったのだろう。

ハスの葉はなかったが、飾った花にはハスの蕾や実が見られる。



ローソク・線香に火を灯して導師が前に就く。

ご真言、一巻の般若心経を唱えて「なーむだいしへんじょうこんごう」を5回繰り返して終わった。

9時前に終わった集落の人たちはひとまず解散する。

何人かが残って次の観音講の営み日程や御供をどうするか相談されていた。

おばあさんが云うには、「お大師さんの行事以外に17日に行われる十七夜講とか、光明寺で営む地蔵盆、カキ(柿)の観音さんもしてますんや」と話す。

機会があれば、是非とも再訪したいものである。

(H26. 8. 7 EOS40D撮影)