マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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鹿路天一神社綱懸祭

2015年10月15日 08時54分58秒 | 桜井市へ
遅い昼食を終えてから綱懸祭神事が行われる桜井市鹿路(ろくろ)の天一神社。

時間は午後3時をとうに過ぎていた。

区長預かりの享保二年(1717)書・天保七年(1836)書写の『天一神結鎮祭文』が運ばれた。

祭文は祭壇に置く。

神前に拝礼される禰宜さん。

これより綱懸祭を斎行される。



始めに修祓だ。

祓えの詞を奏上する際には一同が頭を下げる。

次に古い箱を開けて結鎮祭文を取り出す。



神前に向かって結鎮祭文を朗々と詠みあげる。

およそ10分間。

全文を奏上された。

祝詞は祭文詠みであったのだ。

次は玉串奉奠。

代表の区長が神前に捧げる。

そして斎庭で行われる弓初めの儀式に移る。

ハゼウルシの木で作った弓を手にする禰宜さん。

女竹で作った矢も持つ。



初めに矢を射る方向は天に向かってだ。



次は地。東・南・西・北に向けて矢を射った最後は的に書いた蛇の眼の黒丸めがけて矢を射る。



的近くまで寄って矢を射ることもあれば、距離を遠ざけて射ることもあった。



禰宜さんが射る神事的要素をもった弓初めの儀式を終えたら射者は村人に替わる。

狙いを定めて弓をひく。



指を離せば矢が飛ぶ。

入れ代わり立ち代わり交替して矢を射った。



この日に訪れていた葛城忍海の母娘たちも矢を射った。

ありがたいことに取材者の私たちにも矢を射った時間帯は16時30分ころ。

供えた餅はススンボの先に挿して、トンドの火で焼いていただく。

そうして新鹿路トンネルを抜けた綱掛橋の上に綱を掛けるが、この日の私は夕方までに自宅へ戻らなければならない。

長時間に亘って鹿路で滞在した綱懸祭の調査は翌年に持越しである。

お礼を伝えて引きあげた。

天一神社綱懸祭は昭和32年発刊の『桜井町史 続 民俗編』によれば、かつて結鎮祭とも呼ばれていたそうだ。

元々は大字鹿路の本家筋が組織した宮講が祭祀していた。

ところが明治時代に入って村から出る講員が続出したそうだ。

宮講は明治35年ころに解散されて講が所有する田や宅地を天一神社に奉献、大字全戸による村行事に移った。

そのときの区長が一老として継承してきたとある。

宮講が存在していた時代は綱結いする7日前に斎戒沐浴していたようだ。

明治初年までの結鎮祭文は談山妙楽寺護国院(現在の談山神社)の僧侶による祭文詠みであった。



矢は8本。

黄幡(おうばん)が初めにあると史料にあったが、この年は確認できなかった。

黄幡とは軍陣の守り神。

弓初めの際に黄幡神がいる方角に向かって矢を射れば吉とされる。

(H27. 1. 4 EOS40D撮影)


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