マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

第12回ふるさと大岩の歴史を語る会

2018年07月26日 09時11分51秒 | 民俗を観る
何回も続けてこられた「ふるさと大岩の歴史を語る会」。

次の開催日は6月21日。

当日のテーマは各家が持ち寄る神農図である。

前月の5月31日に大日さんの雨乞い井戸の場を引導してくださった昭和18年生まれのMさんも所有する神農さんの掛図を持ち込むという。

また、さまざまな版木もあるらしく、各家が持ち寄る現物の品々。

もしよろしければと、区長のお誘いに甘えさせてもらう。

今回で12回目の開催になる「ふるさと大岩の歴史を語る会」。

前回の11回目は4月19日に行われたらしくそのときのテーマであった幕末の薬業『奈良県薬業史』の一部纏めに大字大岩に遺されていた明治初年の売薬業古文書などの配布資料をいただく。

纏め並びに古文書の解説は本日の講師を務める大淀町教育委員会・主任技師の松田度さん。

大淀町のみならず幅広く活動をされている専門家である。

詳しいことはここでは省くが大字大岩は昔も今も売薬業を営む社業が存在する。

その人たちがこの日に持ち寄った神農図は3幅。



松田さんや区長らとともに床の間に置いて見比べてみた。

三者三様というか、同じものは一枚もない。

これまで私が拝見してきた神農図ともまた違う。

絵師が違えば図柄も異なるということだろうが、いずれであっても共通するのは神農さんが葉っぱを銜えて噛んでいる姿である。

姿は同じであるが、噛んでいる葉っぱの様相に若干の違いがある。

二幅の掛図は細い葉であるが、笹の葉のような幅が広い葉もある。

品種の違いであろうか。

葉っぱを持つ手は左手、或いは右手。

これもまた絵師の絵心でまったく違う。

また、神農さんに角があることは知られているが、これもまた異なる。

角は二本もあれば一本姿も、ある。

空いた片手にもつ道具も違う。

一つは鍬のような道具。

もう一つは錆びた鎌にように見える道具である。

細かいことを云えばまだまだ有りそうだが、ここらで止めておく。

三幅それぞれの神農図は村に住まいする3人が持ってこられた。

一枚(左)は中上天心堂薬房主人が持参された一幅。

ご主人の話しによれば年中において飾っているそうだ。

子供のときから床の間に飾っていたという神農図である。

正月と思われる日に火を灯した蝋燭を立てていた。

ただ、ユニークなのはその蝋燭の燭台がなんと、輪切りした大根であった。

お酒に塩を供えていたというから、特別な日に供えるお神酒であったろう。

もう一枚(中央)は美吉野製薬家の一幅。

製作舎と思われる掛図に折り込んだ札がある。



ひょうたん印しに印判文字が「柗浦柗野堂謹製(※柗は松の異体字)」とある。

手がかりはそれだけ。

掛図の裏面、或いは納めている図箱など、どこにも年代を示す表記がない。

昔はお餅を供えて飾っていた。

神農図を掲げた前で飲酒の会を設けていたと話す。

現在は11月22日。

掲げた床の間に生の鯛を供えて蝋燭に火を灯すという。

もう一枚は売薬家のMさんがお持ちの一幅。

年末年始、正月は床の間に飾って鏡餅を供えているという。

その期間は12月31日の大晦日から小正月前日の1月14日まで。

正月迎えと同じようにされているようだ。

興味深いのは11月22日の祭り日である。

これまで私が調査した範囲であるが、数例を揚げる神農図を掲げて祭る神社行事がある。

奈良県では高取町・下土佐神農社で行われる神農祭は11月22日。

都合で多少前後しているが、本来は22日である。

御所市・神農社の薬祖神祭はかつて冬至の12月22日にしていた。

大阪・道修町の少彦名神社の神農祭は11月22日、23日。

また、神社でなく薬業に関係する医師の家もしていることがわかった。

一つは大和郡山市額田部町に住む元往診医師家は11月22日を中心にほぼ1カ月間も掲げていた。

ひと月遅れの12月22日に神農図を掲げていたのは大和郡山市の城下町。

雑穀町に住む元藩医家はその日に掲げてお供えをしていた。

22日というのはどういう意味があるのかわかっていないが、神農図を掲げて祭りをしているということである。

また、本日に聞かせてもらった人たちは22日以外の正月飾りに準じていた。

高取町・丹生谷に住む知人は、正月とお盆にであった。

本日の会場である公民館に運ばれた数々の品物。



いずれも薬業に関係するモノモノばかり。



神農図の他、ずらり並べた道具類を広げた。

その道具類は版木に携行用簡易天秤、薬箱、薬製造道具(薬研)、看板、台帳文書、売薬を詰めて販売していた柳行李である。

版木は9種類もある。

一枚、一枚を判読している時間はない。



自宅に戻ってから撮った版木を反転画像に置き換えて判読してみた。

左右反転、上下反転の版木の入り混じりだったから、反転したものの更なる手間のかかること。

ある程度までわかればいいと思って一部をピックアップしてみた。

「腹痛 下痢の薬 赤玉一神丸」に「大人小児四季風薬 解熱散」。

架線で走る1両編成のチンチン電車をデザインした登録商標の「四季感冒諸熱醒 熱病 ヘブリン丸」に上部に同じく登録商標のチンチン電車を配置した「正セメン圓」もある。

次も4枚の版木を拝見する。



利用の仕方がわからないが、薬の袋を模したようにも見えるそれに「生活効能 感冒 流行皮膚 頭痛・・諸々効アリ」。

裏面と思われるそこに「用法用量 大人ハ一日一包 拾五歳以下・・・白湯又ハ■水ニテ用ユ」とある。

「大人小児 はらのいたみ 下り・・良剤 健胃整腸丸」とか、ひと目でわかる大きな文字で彫った「大人小児四季風薬 保証 解熱散」がある。

もう一枚は「大人小児蛔虫下し 正セメン圓」だった。

登録商標は天狗自動車に乗ってハンドル操作をする姿の赤顔の天狗。

装束はどことなく修験道の行者さんのように見える。



「健心丸」は四季風薬のトンプクが額に収めて大切に保管。

その横に置いた版木に「四季風薬 健心丸」とあったからセットもんであろう。



おもむろに蓋を開けて道具を取り出したMさん。



この道具で薬の目方を量っていたという。



同じ道具は中上天心堂家にもある。

我が家にもあった配置薬の薬箱である。

取引先が違えば薬箱も違う。

記憶に残る我が家の薬箱の色は赤色だった。



会場に持ち込まれた薬箱は青色。

医薬品配置販売業・県営業許可番号を得て販売していたMさんの名前がある薬箱。

上面に登録商標の赤塗りチンチン電車がある。

パンタグラフ式電車はどことなく京都市街地を走っていたような雰囲気をもっている。



他にもいろいろあるが、本日の大岩の歴史を語る会の本題は前回に続く明治時代後期から大正時代の売薬の隆盛と大淀町の製薬会社。

『奈良県薬業史』ならびに『大淀町史』から「おおよどの偉人たち」を探る「おおよど100年史」の中の売薬業である。

ここでは誌面の都合で詳細を省いて、語りが終わってからも続いて大岩の薬業文化の道具を拝見する。

なかでも興味深く拝見させてもらったのが配置薬の行商道具である柳行李。



平成28年の11月16日に拝見した高取町丹生谷に住むN家の柳行李である。

N家もまた配置薬行商をしていたが、現在は廃業。

行李内部には何もなかった。

ここ大岩の会場で拝見した柳行李は配置薬がリアルに残っていた。

詰め方が参考になるが、じっくり拝見する時間がない。



そのままの状態で撮らしてもらっていたら所有者のMさんが担ぎ方の実演をしてくださった。

こういう具合に大きな行李を下に順に積んでいく行李。

皮製の柳行李を蓋してベルトで止める。



それを肩に、こうかけて歩いていたと見せてくれた。

こうして拝見させてもらった大岩の薬業関係所有物は、2017年度のおおよど遺産(大淀町選定地域遺産)に指定された。

(H29. 6.21 EOS40D撮影)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。