熟柿祭行事を終えていた名張・大屋戸杉谷神社。
出逢った宮司のご厚意で拝見した御供さげの熟した柿を収めていた竹籠状態。
初めて見た里の稔りの形態に感動を覚えた。
そのときに伺った立ち話に話してくださった宮司の生活拠点でもある三重県名張市布生(ふのう)地区。
その地に鎮座する国津神社の位置だけでも、と思って足を伸ばした現地踏査。
はじめて入る地区だけに、カーナビゲーションは必須道具。
広域マップでおおよその位置をみれば、名勝の青蓮寺川・湖に香落渓。
さらに南下すれば奈良県内の曽爾村の小太郎岩・曽爾高原に繋がる。
そうか、そういえば、これらは昔に走ったことがある。
紅葉真っ只中の走行路に家族も喜んでいた。
布生(ふのう)地区は、青蓮寺湖の上流であった。
折戸支流の渓流に沿って遡上していけば、たぶんに着くはず。
車を停めて拝見した布生(ふのう)の道路マップ。
しかも国津地区の道路マップとあるから、自然と見つかるだろう、と思ったが、いかんせん目的地の国津神社が・・・。
番号が①番の位置。
鳥居の印地は奈垣。
たぶんに小字であろう。
ただ、国津神社は①の奈垣だけでなく、②の布生下出にもあるし③の長瀬、④の上長瀬の4地区それぞれに鎮座する国津神社。
いやはや、これではカーナビゲーションがきちんと誘導してくれるだろうか。
区域名から推定した布生の中心地。
その地区名がある布生上出・布生下出が考えられる。
現在地から尤も近い地区。
道は、急激に変化した急な坂道。
なるほど、川から離れた瞬間に、ここら一帯が山なんだ。
道なりに走った布生。
なんとなく民家でなく公共的使用目的の会所のような建物が見つかった。
停車してわかった、その建物は「布生上出区集会所」であったが、人影のない公共の建物。
で、あればお近く、近隣の民家を探す。
屋外にたまたまおられたご婦人に声をかけた。
生まれも育ちも名張市布生(ふのう)旧家住まい、という女性に地域行事などを尋ねたが、詳しくは存じていないようだ。
ただ、下出に鎮座する国津神社の所在地を教えてくださった。
宮司がいわれた国津神社であるのか、それは行ってみなきゃわからない。
聴き取りにひとつ尋ねたいお盆のトビウオ。
今は、食べることもないトビウオ。
そのトビウオは、両親が健在であれば食べられるが、片親の場合は、食べないといってくれた。
これまで聴き取りしてきた人たちそろって一様にいわれる、片親なら食べられない習俗。
話してくれた中年女性は、そうそうテレビか、なんかで聞いた奈良・葛城にある當麻寺。
近年までは、寺でなく當麻神社で覚えていたわ・・と。
當麻の地にある神社といえば、當麻山口神社であろう。
そんな会話を済ませて、近辺をめぐってみる。
ここ高台から見下ろしたそこに柿の実に黄色い柑橘の実。
12月の8日は、まだ寒くないが、そぼろ降ってきた小雨に濡れたら身体も冷たくなる。
高台下まで動いたが、それ以上には民俗はなくUターン。
聴き取りさせていただいた民家まで戻ってきたその正面に見つけた石組みの常夜燈に石仏(※推定)のような構造物。
可能性として考えられるのが、庚申石塔。
たしかであれば、庚申講が建てた、と推定するのだが・・・
ここから道なりに下って見つかった布生の国津神社。
で、あれば、最初にみた国津地区の道路マップからいえば、ここが布生下出に鎮座する国津神社であろう。
由緒によれば、平安朝時代末期のころ、すでにこの地に国津祠を建てていた、と東大寺文書に記録があるらしく「この地は、旧くより六箇山(むこやま」に属し、伊勢神宮領にあり、布を献上したことから“布乃布”と記し、“ふのう”と、呼ばれるようになった」そうだ。
秋の祭りに奉納される本格的な獅子の神楽舞や子ども相撲がある。
ここ布生下出に鎮座する国津神社の奥。
山の斜面に並べた十体の山ノ神。
その真上に勧請縄らしき綱や、樹木に架けているウツギの木のカギヒキ様相を伝えているブログ「愛しきものたち」がある。
本日の臨時調査では、裏側にまでは行き届かず、そこまで知ることができなかった山ノ神民俗は、再び足を運びたい。
また、その際には、隣接する長瀬地区にも同等のカギヒキや藁づとつくりも。
現在も、尚されているのか見ておきたい貴重な民俗史料である。
なお、長瀬は木場ごとに行われているらしく、場はそれぞれのあり方。
距離も離れていそうなだけに、調査は多くの村の人たちに聴き取りが欠かせない。
平成14年1月から3月にかけて、民俗儀礼調査員の3人が遺した調査史・14頁によれば、ほぼ名張市全域にわたって山ノ神信仰されていることから、その存在は百を超えるかな、と推定したが実際に調査した山ノ神碑は78カ所。
カギヒキの場だけでも65カ所。
一日では、到底調査しきれない、圧倒的に多い山ノ神である。
国津神社の下見に見た橋。
こちら側は折戸川。
反対側をみれば上流側に標した宮前橋プレート。
つまりは、この橋は国津神社前に架けた宮前橋。
折戸川に架けた宮前橋であった。
この場を離れて再び走った道にあった「国津の杜 くにつふるさと館」。
布生・国津の史料があれば、観たいと思って入館したが・・・
調査はここまで。
帰り道に撮っていた布生・国津の景観に一時停車。
小雨降る村の景色、特に落柿の風情に見惚れていた。
白い景色に包まれた時季にも訪れたい布生の景観であるが、中間山間地。
急激な坂道に急な曲がり道に苦戦するだろう。
おそらくスタッドレスタイヤでも困難な坂道。
1月7日(※地区によっては11月7日の場合もあるらしい)の山ノ神行事にも出かけてみたいが・・・
(R3.12. 8 EOS7D/SB805SH 撮影)
出逢った宮司のご厚意で拝見した御供さげの熟した柿を収めていた竹籠状態。
初めて見た里の稔りの形態に感動を覚えた。
そのときに伺った立ち話に話してくださった宮司の生活拠点でもある三重県名張市布生(ふのう)地区。
その地に鎮座する国津神社の位置だけでも、と思って足を伸ばした現地踏査。
はじめて入る地区だけに、カーナビゲーションは必須道具。
広域マップでおおよその位置をみれば、名勝の青蓮寺川・湖に香落渓。
さらに南下すれば奈良県内の曽爾村の小太郎岩・曽爾高原に繋がる。
そうか、そういえば、これらは昔に走ったことがある。
紅葉真っ只中の走行路に家族も喜んでいた。
布生(ふのう)地区は、青蓮寺湖の上流であった。
折戸支流の渓流に沿って遡上していけば、たぶんに着くはず。
車を停めて拝見した布生(ふのう)の道路マップ。
しかも国津地区の道路マップとあるから、自然と見つかるだろう、と思ったが、いかんせん目的地の国津神社が・・・。
番号が①番の位置。
鳥居の印地は奈垣。
たぶんに小字であろう。
ただ、国津神社は①の奈垣だけでなく、②の布生下出にもあるし③の長瀬、④の上長瀬の4地区それぞれに鎮座する国津神社。
いやはや、これではカーナビゲーションがきちんと誘導してくれるだろうか。
区域名から推定した布生の中心地。
その地区名がある布生上出・布生下出が考えられる。
現在地から尤も近い地区。
道は、急激に変化した急な坂道。
なるほど、川から離れた瞬間に、ここら一帯が山なんだ。
道なりに走った布生。
なんとなく民家でなく公共的使用目的の会所のような建物が見つかった。
停車してわかった、その建物は「布生上出区集会所」であったが、人影のない公共の建物。
で、あればお近く、近隣の民家を探す。
屋外にたまたまおられたご婦人に声をかけた。
生まれも育ちも名張市布生(ふのう)旧家住まい、という女性に地域行事などを尋ねたが、詳しくは存じていないようだ。
ただ、下出に鎮座する国津神社の所在地を教えてくださった。
宮司がいわれた国津神社であるのか、それは行ってみなきゃわからない。
聴き取りにひとつ尋ねたいお盆のトビウオ。
今は、食べることもないトビウオ。
そのトビウオは、両親が健在であれば食べられるが、片親の場合は、食べないといってくれた。
これまで聴き取りしてきた人たちそろって一様にいわれる、片親なら食べられない習俗。
話してくれた中年女性は、そうそうテレビか、なんかで聞いた奈良・葛城にある當麻寺。
近年までは、寺でなく當麻神社で覚えていたわ・・と。
當麻の地にある神社といえば、當麻山口神社であろう。
そんな会話を済ませて、近辺をめぐってみる。
ここ高台から見下ろしたそこに柿の実に黄色い柑橘の実。
12月の8日は、まだ寒くないが、そぼろ降ってきた小雨に濡れたら身体も冷たくなる。
高台下まで動いたが、それ以上には民俗はなくUターン。
聴き取りさせていただいた民家まで戻ってきたその正面に見つけた石組みの常夜燈に石仏(※推定)のような構造物。
可能性として考えられるのが、庚申石塔。
たしかであれば、庚申講が建てた、と推定するのだが・・・
ここから道なりに下って見つかった布生の国津神社。
で、あれば、最初にみた国津地区の道路マップからいえば、ここが布生下出に鎮座する国津神社であろう。
由緒によれば、平安朝時代末期のころ、すでにこの地に国津祠を建てていた、と東大寺文書に記録があるらしく「この地は、旧くより六箇山(むこやま」に属し、伊勢神宮領にあり、布を献上したことから“布乃布”と記し、“ふのう”と、呼ばれるようになった」そうだ。
秋の祭りに奉納される本格的な獅子の神楽舞や子ども相撲がある。
ここ布生下出に鎮座する国津神社の奥。
山の斜面に並べた十体の山ノ神。
その真上に勧請縄らしき綱や、樹木に架けているウツギの木のカギヒキ様相を伝えているブログ「愛しきものたち」がある。
本日の臨時調査では、裏側にまでは行き届かず、そこまで知ることができなかった山ノ神民俗は、再び足を運びたい。
また、その際には、隣接する長瀬地区にも同等のカギヒキや藁づとつくりも。
現在も、尚されているのか見ておきたい貴重な民俗史料である。
なお、長瀬は木場ごとに行われているらしく、場はそれぞれのあり方。
距離も離れていそうなだけに、調査は多くの村の人たちに聴き取りが欠かせない。
平成14年1月から3月にかけて、民俗儀礼調査員の3人が遺した調査史・14頁によれば、ほぼ名張市全域にわたって山ノ神信仰されていることから、その存在は百を超えるかな、と推定したが実際に調査した山ノ神碑は78カ所。
カギヒキの場だけでも65カ所。
一日では、到底調査しきれない、圧倒的に多い山ノ神である。
国津神社の下見に見た橋。
こちら側は折戸川。
反対側をみれば上流側に標した宮前橋プレート。
つまりは、この橋は国津神社前に架けた宮前橋。
折戸川に架けた宮前橋であった。
この場を離れて再び走った道にあった「国津の杜 くにつふるさと館」。
布生・国津の史料があれば、観たいと思って入館したが・・・
調査はここまで。
帰り道に撮っていた布生・国津の景観に一時停車。
小雨降る村の景色、特に落柿の風情に見惚れていた。
白い景色に包まれた時季にも訪れたい布生の景観であるが、中間山間地。
急激な坂道に急な曲がり道に苦戦するだろう。
おそらくスタッドレスタイヤでも困難な坂道。
1月7日(※地区によっては11月7日の場合もあるらしい)の山ノ神行事にも出かけてみたいが・・・
(R3.12. 8 EOS7D/SB805SH 撮影)