大和郡山市番条町集落一帯で祭られるお大師さんの日は4月21日。
江戸時代末のころに始まったと伝えられている。
昭和八年(1933)に残された由来書によれば文政十三年(1830)に村で流行病いのコレラが広く発症したという。
世界的に大流行したコレラ病い。
日本に及んだ最初の流行は文政五年(1822)だったそうだ。
感染経路は定かでないが、海を越えて九州長崎に上陸して東海道へと移って西日本に蔓延したが、箱根の関所でくい止められて江戸までは到達しなかったそうだ。
『西矢田宮座年代記』に閏三月二十八日におかげ参りをしたという文政十三年(1830)の記事がある。
「伊勢へ諸国参詣有、なかなか大まいりで道筋外まで宿いたし。いしょう(衣装)こしらえ矢田村から諸々方々へと出候。人数八百人に弁当拾五六荷もど持出。村々は青田を刈られ」たとある。
その年は京都で毎日大地震があり、「一日二十五六度揺った。十二月末まで揺れ続けた」大地震。
それ故に天保へと年号が代わったというが、コレラの事件は書かれていない。
番条からそれほど遠くない矢田村には流行り病いは伝染しなかったようだ。
それより以前の文化十三年(1816)。
「去る亥六月二十七日夜大雨ふり候 大和国一流大水なかれ」とある。
「なかれた人数不智 大川つつみきれたる者 凡三百江入事」とある。
相当な被害が齎された洪水であったろう。
また、文政二年(1819)の「六月十二日八つ時大地しん あまたの家を甚なん義仕候」や文政六年には「当年夏大ひやけ」とあることから、文化年間の後期から文政年間における期間は自然災害に怖れ、人々を不安にさせた時期であったろう。
コレラの大流行が発端で申し合わせた番条の村人は弘法大師を信仰することになった。
四国八十八カ所巡りをした際に本尊を貰い帰り村に奉納して奉った。
村落は88軒あったことから1軒ずつ弘法大師を祭るようになった。
明治十五年(1882)の村誌によれば95軒が真言宗派と記されているそうだ。
いきさつは判らないが、家で奉っているお大師さんをこの日の朝に厨子ごと門屋や玄関前に移動する。
祭檀は煌びやかで鮮やかな文様のはいった敷物を掛ける家が多々ある。
無地もあるがそれなりに美しい。
5品の椀物の膳はそれぞれの家によって異なる生御膳だ。
今年も番条にやってきたのは課題解決のため。
昨年に見かけた北垣内の集落の一軒にあった造りものの像の正体はいかに、ということだ。
探して見るが記憶は曖昧。
どこへ行ったやら、見つからない。
参拝に来ている婦人に尋ねたところ、それはあっちを曲がった処にあったという。
眼に着く像は同じだったようだ。
尋ねていった一軒の家はU家。
ご主人は不在であったため奥さんに伺った。
その像が置かれているのは当家の裏鬼門。
災いが入ってこないように建てたという。
実はそこは元々正門玄関。
ここから出入りしていた。
家を改築した際に正門の位置を替えて元の位置は裏木戸になった。
それは30年前。
おじいさんが健在な時代だった。
正門を移したことから元の位置は裏鬼門になった。
そういうことから建てたとされる像はどない見ても太閤秀吉の猿顔姿。
烏帽子被りに陣羽織を羽織っている。
日の丸扇を右手にもつ「サルと呼ばれた男」の像だ。
実に精巧な造りの猿姿である。
面妖な姿を見た人たちから尋ねられることが多いがおじいちゃん本人は此の世にいない。
何時、誰に頼んで作ったかも判らないと答えていると話す。
家の守り神だと思った人は賽銭を置いていくこともあるという。
おじいちゃんがおられたころはお大師さんに「ヨゴミ」を作って供えていたそうだ。
「ヨゴミ」は「ヨモギ」が訛った表現でいわゆるヨモギダンゴだ。
今ではお店で買ったモチを供えている。
家で奉っているお大師さんはお正月にモチを供える。
ミカンも供えるときもあるという。
家の守り神は内にお大師さん、外に太閤猿である。
裏鬼門に置かれている威風堂々の猿像は不審者が「去る」という意味があると思われた。
一軒、一軒ずつ手を合わせる集落の八十八か所参り。
この日も朝から訪れる参拝者が多く見られる番条町。
お賽銭を添えて手を合わせる。
接待のモチは一つ減り、二つ減りと少しずつ底が見えてくる。
北垣内の集落を巡る。
自転車で来ていた婦人は隣町の西町在住。
2月に文殊堂文殊会式でお世話になった町だ。
ぐるりと集落を一周した時間は2時間。
ゆったりとした時の流れを気が向くまま巡拝する。
出合う人たちとお大師さんのことを話す時間もついつい長くなる。
隣町の発志院町のお二人もそうだった。
発志院の行事取材は数年前。
大晦日の日にはここでも砂を撒く風習があった。
八王子神社から道にも撒いて。
それを繋ぐような形で家々の玄関まで撒いていた。
その神社で掲げられる簾型の注連縄を取材したこともある発志院町。
かつて神社の秋祭りに大神楽が来ていた。
新米を収穫したころに回って来たという大神楽。
一杯の米を渡したら舞ってくれたという。
夏祭りにも来ていたというが娘が子供の頃。
20年前だったろうかと話す。
そんな話をしていたときだ。
向いの家のOさんが顔を出した。
お名前は市民交流館時代から存知しているお方だがお会いしたのは初めてだ。
買った『奈良大和路の年中行事』を家から持ってきてサインを頼まれる。
その光景を見ていた参拝者の男性も同じようにねだられる。
記念撮影もあったありがたいハプニングである。
O氏はこの番条のお大師さんを伝えたくて『ならリビング』の「私のすてきな奈良の道」に読者投稿されたお方だ。
それを見てお参りに来る人が多くなったという。
その記事は平成17年4月8日に紹介された。
そうこうして中谷酒造へ向かった。
なにかとお世話になっている酒屋の屋号は「中屋」。
北城垣内にある。
南も酒造りがあったことから南に対して「中」と呼ばれていたと会長が話す大師堂。
毎月のお勤めをされている大師講の一員でもある。
今日は朝から一時間交替で参拝者を待つ。
次から次へと訪れる参拝者。
またたくまになくなってしまう。
継ぎ足すモチは精いっぱい。
「モチたばりの親子連れや団体が来たら追いつかん」と話す。
(H24. 4.21 EOS40D撮影)
江戸時代末のころに始まったと伝えられている。
昭和八年(1933)に残された由来書によれば文政十三年(1830)に村で流行病いのコレラが広く発症したという。
世界的に大流行したコレラ病い。
日本に及んだ最初の流行は文政五年(1822)だったそうだ。
感染経路は定かでないが、海を越えて九州長崎に上陸して東海道へと移って西日本に蔓延したが、箱根の関所でくい止められて江戸までは到達しなかったそうだ。
『西矢田宮座年代記』に閏三月二十八日におかげ参りをしたという文政十三年(1830)の記事がある。
「伊勢へ諸国参詣有、なかなか大まいりで道筋外まで宿いたし。いしょう(衣装)こしらえ矢田村から諸々方々へと出候。人数八百人に弁当拾五六荷もど持出。村々は青田を刈られ」たとある。
その年は京都で毎日大地震があり、「一日二十五六度揺った。十二月末まで揺れ続けた」大地震。
それ故に天保へと年号が代わったというが、コレラの事件は書かれていない。
番条からそれほど遠くない矢田村には流行り病いは伝染しなかったようだ。
それより以前の文化十三年(1816)。
「去る亥六月二十七日夜大雨ふり候 大和国一流大水なかれ」とある。
「なかれた人数不智 大川つつみきれたる者 凡三百江入事」とある。
相当な被害が齎された洪水であったろう。
また、文政二年(1819)の「六月十二日八つ時大地しん あまたの家を甚なん義仕候」や文政六年には「当年夏大ひやけ」とあることから、文化年間の後期から文政年間における期間は自然災害に怖れ、人々を不安にさせた時期であったろう。
コレラの大流行が発端で申し合わせた番条の村人は弘法大師を信仰することになった。
四国八十八カ所巡りをした際に本尊を貰い帰り村に奉納して奉った。
村落は88軒あったことから1軒ずつ弘法大師を祭るようになった。
明治十五年(1882)の村誌によれば95軒が真言宗派と記されているそうだ。
いきさつは判らないが、家で奉っているお大師さんをこの日の朝に厨子ごと門屋や玄関前に移動する。
祭檀は煌びやかで鮮やかな文様のはいった敷物を掛ける家が多々ある。
無地もあるがそれなりに美しい。
5品の椀物の膳はそれぞれの家によって異なる生御膳だ。
今年も番条にやってきたのは課題解決のため。
昨年に見かけた北垣内の集落の一軒にあった造りものの像の正体はいかに、ということだ。
探して見るが記憶は曖昧。
どこへ行ったやら、見つからない。
参拝に来ている婦人に尋ねたところ、それはあっちを曲がった処にあったという。
眼に着く像は同じだったようだ。
尋ねていった一軒の家はU家。
ご主人は不在であったため奥さんに伺った。
その像が置かれているのは当家の裏鬼門。
災いが入ってこないように建てたという。
実はそこは元々正門玄関。
ここから出入りしていた。
家を改築した際に正門の位置を替えて元の位置は裏木戸になった。
それは30年前。
おじいさんが健在な時代だった。
正門を移したことから元の位置は裏鬼門になった。
そういうことから建てたとされる像はどない見ても太閤秀吉の猿顔姿。
烏帽子被りに陣羽織を羽織っている。
日の丸扇を右手にもつ「サルと呼ばれた男」の像だ。
実に精巧な造りの猿姿である。
面妖な姿を見た人たちから尋ねられることが多いがおじいちゃん本人は此の世にいない。
何時、誰に頼んで作ったかも判らないと答えていると話す。
家の守り神だと思った人は賽銭を置いていくこともあるという。
おじいちゃんがおられたころはお大師さんに「ヨゴミ」を作って供えていたそうだ。
「ヨゴミ」は「ヨモギ」が訛った表現でいわゆるヨモギダンゴだ。
今ではお店で買ったモチを供えている。
家で奉っているお大師さんはお正月にモチを供える。
ミカンも供えるときもあるという。
家の守り神は内にお大師さん、外に太閤猿である。
裏鬼門に置かれている威風堂々の猿像は不審者が「去る」という意味があると思われた。
一軒、一軒ずつ手を合わせる集落の八十八か所参り。
この日も朝から訪れる参拝者が多く見られる番条町。
お賽銭を添えて手を合わせる。
接待のモチは一つ減り、二つ減りと少しずつ底が見えてくる。
北垣内の集落を巡る。
自転車で来ていた婦人は隣町の西町在住。
2月に文殊堂文殊会式でお世話になった町だ。
ぐるりと集落を一周した時間は2時間。
ゆったりとした時の流れを気が向くまま巡拝する。
出合う人たちとお大師さんのことを話す時間もついつい長くなる。
隣町の発志院町のお二人もそうだった。
発志院の行事取材は数年前。
大晦日の日にはここでも砂を撒く風習があった。
八王子神社から道にも撒いて。
それを繋ぐような形で家々の玄関まで撒いていた。
その神社で掲げられる簾型の注連縄を取材したこともある発志院町。
かつて神社の秋祭りに大神楽が来ていた。
新米を収穫したころに回って来たという大神楽。
一杯の米を渡したら舞ってくれたという。
夏祭りにも来ていたというが娘が子供の頃。
20年前だったろうかと話す。
そんな話をしていたときだ。
向いの家のOさんが顔を出した。
お名前は市民交流館時代から存知しているお方だがお会いしたのは初めてだ。
買った『奈良大和路の年中行事』を家から持ってきてサインを頼まれる。
その光景を見ていた参拝者の男性も同じようにねだられる。
記念撮影もあったありがたいハプニングである。
O氏はこの番条のお大師さんを伝えたくて『ならリビング』の「私のすてきな奈良の道」に読者投稿されたお方だ。
それを見てお参りに来る人が多くなったという。
その記事は平成17年4月8日に紹介された。
そうこうして中谷酒造へ向かった。
なにかとお世話になっている酒屋の屋号は「中屋」。
北城垣内にある。
南も酒造りがあったことから南に対して「中」と呼ばれていたと会長が話す大師堂。
毎月のお勤めをされている大師講の一員でもある。
今日は朝から一時間交替で参拝者を待つ。
次から次へと訪れる参拝者。
またたくまになくなってしまう。
継ぎ足すモチは精いっぱい。
「モチたばりの親子連れや団体が来たら追いつかん」と話す。
(H24. 4.21 EOS40D撮影)