【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

テレサ・テン

2015-07-31 | 映画・演劇・ミュージック・コンサート
テレサ・テンさんが42歳の若さでこの世を去ったのは1995年(平成7年)5月8日のことでした。もう20年が経ってます。今年は日本だけでなくアジアの各地で彼女を偲ぶイベントが開催されています、日本と台湾では3Dやフォトグラフの技術を使って、在りし日の彼女を見事に再現していたそうです。テレサ・テンさんが日本で発表した曲はおよそ260曲でしたが自国語の北京語やその他の言葉でリリースされた曲は分かっているだけで、軽く1000曲を超えています。レコード、CDの総売上といいますと、控えめに見積もっても1億枚、没後20年ということもあって再びCDが売れているっということやそうです。カラオケで彼女の歌をレパートリーにされてる方も多いでしょうね。

テレサ・テンさんが日本にやって来て初のヒット曲となった
 ♪空港  1974年(昭和49年)


台湾出身のテレサ・テンさんは、1970年昭和45年に初来日をする前にすでに香港で絶大な人気を誇っておりました、ですから、わざわざ遠い日本でデビューすることには本人も両親も乗り気ではなかったということですが、後に日本のお父さんとまで呼ばれるようになった当時のレコード会社の制作部長さんが粘り強く説得をしまして契約を実現させたそうです。この日本のお父さんがいなかったらアジアの歌姫は生まれなかったでしょう。ところが日本でのデビュー曲はアイドル路線⇒♪今夜かしら明日かしら だったこともあって、不発に終わってしまいました。そこで次に出す曲は思い切ってイメージを変えて演歌で勝負することにしました。
♪空港 演歌というには、どこか渇いた感じがあって今こうやって耳にしても新鮮な感じがします。こうして日本でもスターの仲間入りを果たしたテレサ・テンさんは香港を拠点に台湾、日本その他のアジアの各国を行き来する国際的な活躍をしていましたが、1979年(昭和54年)に突然の旅券法違反に問われて日本を国外退去処分になってしまいました。どうして?法律違反になってしまったのでしょう・・・
当時の日本、中国、台湾の複雑な関係がもたらした、実に不幸な出来事でした。その後、5年もの間彼女は日本にやってくることができませんでした。その間のファンによる熱心な運動もあって1984年(昭和59年)に再来日が許されます。日本の芸能界への復帰第一弾として発売されたのが♪つぐない でした。

~つぐない・愛人・別れの予感~


「つぐない」はその年の日本有線大賞と全日本有線放送大賞とダブルで受賞。
テレサ・テンさんは、その翌年そしてそのまた翌年3年連続で東西二つの有線放送大賞を総ナメにしてますね。

~愛人~ 1985年


~時の流れに身をまかせ~ 1986年


こうして日本でも大成功を収めたテレサ・テンさんでしたが一方で彼女は台湾の国民党の軍人を父親に持ったこともあって旅券法違反に巻き込まれたような中国大陸と台湾の対立に翻弄され続けてきました。結局彼女は中国の本土で歌うことはできなかったそうです。本土で歌声を披露するどころか曲自体が長いあいだ放送禁止になっていました。彼女はいつか本土でコンサートを実現させることが夢だったそうです。
1990年平成2年天安門事件の影響もあって、結局そののぞみは叶わず次第に表舞台から距離を置くようになって5年後静養先のタイのチェンマイでひっそりとこの世を去りました。
どうしてここまで彼女の歌が日本人の心を揺さぶるのでしょう。テレサ・テンさんが再来日を果たしてから歌った「♪つぐない」「♪愛人」「♪時の流れに身を任せ」は不倫三部作と呼ばれてるそうです。不倫というドロドロとした世界を本当は品があって美しい言葉を紡ぎ出す彼女があえて歌うことで奥底に潜んでいる人間が持つ本当の優しさに世の男性も女性も惹かれてしまうのではないか・・・彼女に関わってきたみなさんは誰もがそうおっしゃってます。






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