アッパレじゃ!

大好物は舞台観劇♪ようござんすか?ようござんすね。”私見”バリバリ入りますっ!ネタばれアリアリ~。

長崎県佐世保市 楠本端山旧宅

2012年04月08日 | プチ旅

佐世保・西海の旅 その6

この日の目的地”西海橋”も観れたことだし、
法事と唐津の旅でお疲れモードだから、
そろそろ佐世保市内へ帰ろっか…な…
「次はここへ行くけん」
伯母の明るい声がっ!

楠本端山旧宅
長崎県指定文化財
長崎県佐世保市針尾中町

へ?ここは…
”行きたいリスト”には入れてなかったよね。
「この間下見したけん、場所は任しときんしゃい」
え、あ、有難う。
おっきな道路を左に曲がって暫くすると…
ちっこい道に出たぞぉ。

ここから母と私は歩くことに…。
とっても静かなんですけどぉ…。
ど、ど、何処にあるとでしょうか…。

周りは民家だらけ!!
石垣が続く細い道をテクテク歩いて…
この道であっとうと?…ドキドキ。
オオ!ここではあるまいか。

”くすもとたんざん”…この読み方であってる?
で、何をやった人なの?
教えてぇえええ。

へぇぇえ。儒学者なのか。
とにかく先に進んでみよう!
人気がなくって探検気分だ♪ドキドキ
竹藪もあり~の。千両もあり~の。





あ!西海橋で見たのとは違う椿が。



オオ!ここが入口ではなかろうか。
なんだか時代劇に出てくる門構えっぽい。
シ~~ン…。
ここ勝手に上がっていいのかな?
お邪魔しま~す。

これが端山先生のお顔だね。きっと。

旧宅は武家屋敷に儒教の祀堂を備えた珍しい造りで、
建坪87坪 、一部中二階、14室からなる本屋のほか、
冠木門、祠堂、納屋などがあります。
この建物は端山の父養斉が天保3年(1832)建築したもので,
門は平戸の楠本屋敷より明治初年移築しました。
邸内の祠堂や座敷,台所などには当時の儒家の生活を
しのばせるものがあります。

こんな素晴らしい所だとは露知らず…。
古いなぁああ!!
ヒアァ!廊下の床が落ちそう。
残念、2階へは上がられへんわぁ。
縁側に座ってみ~よおっと。
好き勝手に歩き回る母と娘…。





部屋がぎょうさんあるなぁ。
襖絵がステキ♪
衝立もあるで♪



畳は汚れてないし。
掃除してる人がいるんだよね。
大変やろうなあ。この広さ。
ウォ、囲炉裏やっ!

部屋を巡っているうちに台所に到着。
かまどっっ!!ヒエェェエエ!
ますます時代劇に出てきそうだ。

アレ?こっちが玄関だ。
変なとこから入っても~たんやぁ。
さてさて、もと来た所は…
グワァア!迷ってしも~たぁあ。
家の中をグルグルグルグルぅぅぅ。
靴は何処やぁ。何処に脱いだんやぁ。
ようやく見つけて、
今度は正面からちゃんと玄関を見ようと…。

ア!やっぱりお掃除してる人がいてはる。
近所の人かなぁ。美しい人やわぁ♪
「こんにちわ。覗かせてもらいました」
そうしてちょこっと、端山先生についてレクチャーを…
「平戸に行って教えてたんですよ」
ってことは!松浦藩
3年前に行ったなぁ。平戸城

弟の碩水と共に門弟を教えた『鳳鳴書院』も再建されている。
鳳鳴書院は、復元を望む声が強かったことから、残された写真や
資料をもとに、綿密な工事が行われ昭和50年(1975)端山旧宅
敷地内に再現されました。
その書院は当時、厳しい規則や試験を課さず、悠々と自由に学ば
せるのが特長で、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・三重・
新潟、さらに青森など東北地方からも集まってきたといいます。

フエェエエ!広いっっ。
剣道の道場とか開けそう。
地元の人が集会所とかに使えばいいのに。
ミニコンサートが出来るねぇ。
ピ~チクパ~チク騒ぐ母と娘ぇ。

凄い!木の枝で支えてるっ。
嗚呼、やっぱり時代劇に出てきそう♪

思いがけずステキな場所を発見出来て、
ご機嫌さ~ん♪

楠本端山 (くすもと・たんざん)
文政11年(1828年)~明治16年(1883年)
幕末明治期の儒学者。
名は後覚,字は伯暁,端山または悔堂と号した。
平戸藩の在郷藩士楠本忠次右衛門の長男として肥前国彼杵郡
針尾島葉山(現長崎県佐世保市針尾中町)に生まれる。

15歳の時に平戸の藩校維新館に留学した。
1851年(嘉永4年)に江戸に上り佐藤一斎門下に学んだ。
2年間の江戸留学の後維新館の教授となった。
ほどなく藩校の教育内容
の改革を巡り藩校内や藩上層部と対立
したため教授を辞し帰郷した。

約8年間を針尾島で過ごした後、藩主松浦詮からの度々の懇請
により再び平
戸に出て藩主に教授をし、藩政にも参画するようになった。
1867年(慶応3年)に大阪にて松浦詮が明治天皇に大学を進講
した際好評を
得たことから、その教授である端山の名も全国に知
られるようになった。

廃藩置県で平戸藩から平戸県、ついで長崎県と改まる中で、端山
の意見が
容れられなくなるようになり、また健康状態もすぐれなか
ったことから、
1881年(明治14年)に官を辞して再び針尾島に帰った。
その地に「鳳鳴書院」を開設して、端山の令名を聞き教えを乞おう
と集まった
子弟らを教育した。
弟は儒学者の楠本碩水。
 
旅はもちょっとつづく → こっち

幕末の儒学者楠本端山とその旧宅
楠本端山、碩水と鳳鳴書院
旅する長崎学



唐津の旅 
佐賀に来たー!  レッツ!唐津  名護屋城跡と陣跡
呼子のイカ活き造り 玄海 唐津のお土産 
佐世保・西海の旅
レッツ!佐世保市 針尾無線塔 大島大橋 西海橋
あらかぶ定食と新西海橋 楠本端山旧宅 浦頭引揚記念平和公園
ちゃんぽんとじゃんぼ餃子 本土最西端の地 呼子イカキティ