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山里の日々の生活と自然、そして稼業の木工の話

木工修業(回顧 その3)

2013年04月15日 | 木工
上野村に住んで木工屋になるための修業の準備が始まりました。



まず、職人仕事を覚えるための最低限の道具を揃えてくるように言われました。
具体的には鉋、鑿、玄能、鋸、電動ドリル、定規などです。
ほとんど貯金のようなものがなかったので、卒論を書きながらアルバイトをしてお金を作りました。
中学生の時に買って大切にしていた楽器も後輩に買ってもらいました。
後輩にもその楽器が必要だろうと思ったことと、それまでの自分と決別する意味もありました。
その楽器を手放したことは、全く違う世界に入ってゆく覚悟の象徴でした。
半端な気持ちでは大成できないだろうという恐れがありました。
最初に買った道具類は金額にして10万円ほどです。

住む場所は研修施設の2階で、ありがたいことに家賃などはなし。
でも風呂もなし、湯沸かし器もなし。電話も遠慮して使いにくい。
生活してゆくための最低限の手当ては頂くことができ、
節約して残ったお金でこつこつと道具を買うようにしました。

援助はしないとした親も、山暮らしでは車だけは必要だろうと、軽のワンボックス車を買ってくれました。
この車には13年間乗りました。
その車に少しだけの家財を積んで引っ越しをして、上野村での生活が始まりました。



研修施設は集落からだいぶ離れた一軒家で、
そこにいるのは先生の職人さんと同世代の漆塗り職人さんと私の3人だけでした。
しかも夜は私一人だけになってします。
修業はまずはとにかく道具の使い方から始まりました。
先生は昭和一桁生まれの方で、中学を出て東京の和家具職人のところに丁稚に出された人です。
多分、まだほとんど機械が無く手道具だけで物を作っていた最後の世代の職人だと思います。
戦後すぐくらいの浅草あたりの職人話など、面白い話をずいぶんお聞きしました。
在りし日の木工作業の様子がわかって参考になりました。
訓練校で変な癖を付けてくるより、私のようなまるきり素人の方が教えやすいと言われました。

鉋などの刃物でどのように木が削れるのかというようなことは、実際に見ないとわからないものです。
そのような作業の手元を見ることが出来たのは本当に幸運でした。
見た目だけでなく、音や感触でも仕事の良し悪しが分かるものだと知りました。
手鉋は特に難しい道具ですが木工作業の要になるもので、
少しはまともに使えるかな、と思えるようになるには2年ほどかかりました。
刃物を研ぐのだけは最初から上手かったと思います。

その先生がよく言ったのは、高い機械などそう買えるのもではないからとにかく手道具を習得しろと。
また、下請けに出せば工賃を払わなければならないのだから、
なんでも自分で出来るようになるべきだ、ということでした。
そこで、そばにいた漆塗りの職人から漆塗りも教わって自分で塗るようになりました。
その後、座面張り、塗装などもみな覚えて自分でするようになりました。

木のこともゼロから学びました。
いろいろな樹種を使って物を作りながら木を覚えていきました。
日本には様々な樹が育ち、それぞれに特有の性質と美しさがあります。
何をどう使うかは長い間の先人の知恵があることを知りました。
木の使い方を間違えれば出来た物に不具合が生じます。
失敗もしながら、木で物を作ることの奥深さを学んでゆきました。
何も知らないで入った世界でしたが、木の魅力にどんどんはまっていきました。

周りの人たちが気をかけてくれて、勉強中にもかかわらず何か作ってくれという話を頂きました。
拙いながらもいろんな物を作る機会に恵まれました。
先生とも相談しながら、自分のアイデアを取り入れて実際に物をを作りながら仕事を覚えてゆきました。

この頃から独立した初期の頃は、休みの日には同じような仕事をしている人を訪ねたり、
良い家具を置いている店、有名な作家の展示会などをよく見に行きました。
その頃にお会いした人達に聞いた話はその後の仕事の道しるべになりました。

インテリアや木工関係の本や雑誌を買いあさって勉強もしました。
なにしろそれまで、建築や美術やインテリア関係のことを学んだことがありませんでした。
まだその頃はインターネットなどもありませんでしたので書籍だけが頼りでした。
たまたま覗いた洋書店で海外の本に出会い、大きく視野が広がりました。
日本に比べて海外、とくにアメリカでは木工の趣味が盛んらしく、出版物が多いのには驚きました。
作品集、雑誌、技法書などが実に多く発行されれいて、随分参考にさせてもらいました。
もちろんAMAZONなどはなく、そんな本は見つけにくく、まだだいぶ高価な時代でした。



山の生活にもだんだん慣れてゆきました。

上野村はコンビニもなく、水田もなく、信号もありませんでした。
信号だけは最近になって小学校の前にできました。
学生時代はにぎやかな男子寮生活だったので、
村に来た最初のころ、夜になってひとりぽつんと取り残されると大変さびしい思いをしました。
人の多くいるところに行って、人の流れをただ眺めたりしたことがあります。
山は夜になるとあたりは真っ暗で、夜中に獣の足音や鳴き声が聞こえておびえました。
山間の夜空に煌々と満月が上ってきたのを仰いで身が震えました。
そのうち消防団や青年団に誘っていただき、付き合いができましたが、
お酒の弱い私にはそれはそれで大変でした。

田舎に住みたくて移り住んだわけではありませんでしたが、
そのうちに、自然の豊かな山の中で暮らすことは無上の喜びになりました。
特に季節の変わり目は素晴らしです。
風景は一日一日変わり、そしてまた一年一年が違った表情を見せてくれます。

山に暮らす人たちは畑仕事を愛し、狩猟や漁労を楽しみ、
人付き合いを大切にし、身の周りのことを上手くこなす人たちです。
町の人よりも大地に足がついた生き方をしています。
それを面白く頼もしいと思いました。




そんなふうに2年がたち、私はいよいよ自分で仕事を始めることにしました。



(つづく)








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