今日の視点 (伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1128 不機嫌な職場と生産性

2018年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム


 引き続き、明治大学教授の齋藤孝氏の近著『不機嫌は罪である』(角川新書)において指摘されている、「社会のナイーブ化」について追っていきます。

 氏によれば、「若者の傷つきやすさの」話に関連してもう一つ強調しておきたいのが、この10年で言葉の「負の破壊力」が格段に増大しているということです。

 例えば、これまでの職場では、部下が仕事で簡単な失敗をしたとき、上司が「先週、指示をしておいたよね」とか「何でやっていないの?」など、「好ましくない」ということを強調して「説教」するのは当たり前の光景だったかもしれません。

 しかし今の時代、「説教」ほど危険なものはないと齋藤氏は解説しています。相手が傷つくのみでこちらの真意は伝わらず、その後の関係性がギクシャクしてしまううえ、最悪、保護者などが出てきて周囲を巻き込む問題に発展したりするケースが後を絶たないということです。

 リクルートが2012年にアメリカとアジア8カ国(日本、中国、インド、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム)で行った調査では、「仕事をする上で大切だと思うもの」として、日本を除く8か国では「高い賃金、充実した福利厚生」がトップになったということです。

 それに対し、日本でトップの回答になったのは、「職場の良好な人間関係」だった。日本(の特に職場)では、それほどメンバー間の「機嫌の良さ」が求められ、快適な人間関係の価値が(相対的に)高いということでしょう。

 さて、一般に、人間関係が良好でない職場には、大きく2種類あるというのが齋藤氏の見解です。

 一つは、労働のシステム自体のせいでギスギスしている職場。要求される仕事量は多いのに人員は少なくてつねに残業を強いられていたり、毎月のノルマが厳しくてつねにお互いが競争しあっているとかいった性質の職場だということです。

 無論、これは個人個人の心がけではなく、システムを改善してどうにかすべき問題であり、仕事の量ややり方から見直す必要があるのは言うまでもありません。

 一方、齋藤氏がここ問題視しているのがもう一つの職場、つまり、慢性的な不機嫌によって支配されている職場です。上司や社内メンバー(の一人)があまりにも慢性的不機嫌なので、なんだか空気が悪い…こうした(ありがちな)職場の存在です。

 教室における教師が場のインフルエンサーであるように、職場における上司もまた場の支配者だと氏はここで説明しています。

 上司の不機嫌を部下のほうで治すのは容易なことではなく、場全体が不機嫌なままに仕事が回っていく。上司が「なんでこんなこともできないんだ」「もういい、俺がやる」といった物言いをする職場では、部下はたちまち萎縮するということです。

 当然、不機嫌をこれ以上刺激しないように、部下たちは報告・連絡・相談に尻込みするようになり、アイデアも提案も上司と共有されることはない。ストレスフルであるがゆえに集中力が落ちて、仕事の効率も下がっていく事例は後を絶たないと氏は説明しています。

 勿論これまでは、例えそうした上司であっても部下の方が何とかついてきたかもしれません。また、職場を体育会系的な服従関係で覆うことで動かしてきた職場も(きっと)あったことでしょう。

 しかし、働き方改革やハラスメントが問題となる昨今では、仕事の生産性を上げていくためにも、もはやそのような上司による一方的な支配を受け入れる余地は残されていないと言っても過言ではありません。

 これからの上司は、まずもって不機嫌でいてはいけないと氏はこの著書に(重ねて)記しています。仕事中の自分自身から、ひいては職場のメンバー全員から不機嫌を排除していくことも(もはや)ビジネスパーソンに求められる能力だという指摘です。

 そう、不機嫌な空気が流れる職場は、それだけで生産性を大きく損なうということ。いずれ、不機嫌な顔をしているだけで「管理職として失格だ」とか、「パワハラだ」とか言われる時代が来るかもしれません。

 (上司の前ばかりでなく、部下の前でまでも)「そんないつでもニコニコしていられるか!」とお怒りの中間管理職の皆さんもいるかもしれませんが、今の時代「機嫌よくいること」はそれほど重要なことだと心に決めるほか無いということでしょう。

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♯1127 社会のナイーブ化が止まらない

2018年07月30日 | 社会・経済


 現代の若者は「傷つきやすい」とよく言われます。

 先日、企業の人事部に勤める知人から、社員の中にも(いわゆる)「アラサー」から下の年代の若者の中には、傷つきやすくて仕事はできないのにプライドだけは高い人がかなりの割合でいて、多くの職場のお荷物になっているという話を聞きました。

 (まるでテレビドラマのようですが)中には上司や先輩から怒られただけで次の日から職場に出てこれなくなったり、パワハラだと親が人事部に訴えてきたり、簡単に辞めると言い出したりする若者もいるのだそうです。

 「意識高い系」という言葉をよく耳にします。wikipediaによれば、自分を(デキる人間だと)過剰に演出する中身が伴っていない若者や、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを指す(割とネガティブな意味で使用されることの多い)俗称だということです。

 我々の感覚からいえば、特に雰囲気が悪かったり上下関係が厳しかったりするわけでもないのですが、それでもナイーブな「意識高い系」の若者にはビジネスライクな職場の環境が受け入れられず、日常的な緊張感から体調を壊す者もいると聞きました。

 知人によれば、こうしたことから現在では、多くの職場で(昔のように)個人の営業成績を強調することもしていないし、体育会系の上司による叱咤激励なども(時代遅れとして)行っていないということです。

 彼によれば、こうした若者たちは、「優秀な自分を職場が(ホスピタリティを持って)受け入れてくれるのは当たり前」と考えている節があって、自分から周囲に受け入れられるよう働きかける考えは(はなから)ないということです。

 なので、上司が自分の言葉に少し眉を寄せたり不機嫌そうな顔を見せたりしただけで、「自分は(不当に)嫌われている」と思い距離を置くようになる。こうして若い平社員たちは、上司に細かく気を使われながら(当然、伸びる者は伸びるのだけれど、ダメなものはダメなまま)中堅社員になっていくのだということです。

 益々「ナイーブ」というか「デリケート」というか、傷つきやすくなっていく若者の変化にどのように対応していくべきなのか。ジェネレーションギャップに悩む中堅社会人の間で、明治大学教授の齋藤孝氏の近著『不機嫌は罪である』(角川新書)が話題になっているようです。

 齋藤氏はこの著書において、現代の日本では、不機嫌な個人が多大な損害をこうむる傾向が強まってきている指摘しています。

 これには二つの大きな要因があって、その一つは、私たちの社会では「快適に暮らしたい」という、つまり「快適(confort)」の価値が上がり続けているということだと氏は言います。

 現在の日本は世界随一の良質なサービスを提供する国として知られており、今ではコーヒー一杯200円レベルのカフェチェーンのアルバイトにすら高級ホテル並みのサービスが要求されるようになっている。

 店員の機嫌が悪いところはどんどん淘汰され、サービス業ばかりではなくどんな会社の社員であっても、例えばSNSなどで取引先や部下に対する不機嫌な対応が話題になれば、そのイメージに致命的なダメージを受ける時代になっているということです。

 それは各個人が快楽を求めあった結果であって、各人が働く側にまわったときにはその要求に対応しないといけないという、とかく「不機嫌」に厳しい時代訪れているというのが齋藤氏の認識です。

 そしてもう一つ、現代において重要なのが(とりわけ)若い人たちが「傷つきやすく」なっていることだと氏は説明しています。

 核家族化が進んで、周囲からきつい言葉を言われることが少なくなったせいか、誰かの不機嫌を感知するとすぐに萎縮してしまうという人が増えている。確かに、不機嫌パワーに支配されずに育った人が増えているのは健全なことだが、傷つきやすさも高じると(社会生活上の)支障も生じるという指摘です。

 例えば、相手の間違いを止めるためについ情報伝達手段として不機嫌を利用するときもあると氏は言います。例えば取引先で部下が少し思い切った発言を行ったとき、「君っ!」とむっとした顔をするというような「方便」を使うこともあるでしょう。しかし、部下がそれを必要以上に重く受け止めてしまっては、そういう手段は使えません。

 部下のミスを指摘するときにも、不機嫌な顔を見せて「それじゃ全然ダメ」と言えば(NO!の意思が)簡単に通じるとしても、次の日から来なくなってしまうリスクを考えればそうも言っていられないでしょう。

 そうした状況を鑑みれば、むしろ自分にとって不機嫌がいかに「損」になるかを十分に理解し、上機嫌を目指すほうがはるかに実利的ではないかと齋藤氏はしています。

 さて、勿論、昨今傷つきやすくなっているのは、若い人に限った話ではないのかもしれません。

 キレる高齢者が増えているとか、モンスターペアレント、モンスタークレーマーが増えてきたとかいう話は、昨今ではよく耳にするところです。

 ちょっとした相手の態度に(「気に入らない」と)激高したり、次々と訳の分からない苦情を寄せて閉口されたりと、空気に敏感で攻撃性の高い人が増えているという指摘です。

 「正義は自分にある」「自分は不当に扱われている」…アメリカのトランプ氏大統領ではありませんが、非は常に相手にあるという強い主観に溺れてしまうのは、見方を変えれば(「意識高い系」と同じ)自分の弱さや不安の裏返しなのかもしれません。

 一定の「不快」はお互いさまと飲み込んで、相手の立場や他者との「共存」に思いを馳せる余裕のない時代、不寛容な時代の背景には、自分に固執する傷つきやすくナイーブな個人の増加があるのではないかと、私も改めて考えさせられたところです。


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♯1126 どのように死にたいか?

2018年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム


 公益財団法人日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団が、本年5月、日本人の「死に方」に関する意識調査の結果を公表しています。

 この調査は、昨年12月、全国からサンプル抽出した20歳から79歳までの男女1,000名を対象にインターネットを介して実施したものです。緩和ケアや死生観などについてアンケート方式により聞いており、1994年に実施した第1回調査から今年で4回目を数えます。

 財団のHPに掲載されていた調査結果の概要を追っていきましょう。

 まず、「あの世はある(と思う)か?」との質問に対して、最も多かったのは「どちらとも決めかねる」の42.4%で、「信じていない」の35.6%を数ポイント上回ったとされています。

 性別でみると、「信じていない」と回答した人は男性で46.8%と半数近くいる反面、女性では24.7%にとどまるなど、女性の方が死後の世界への信憑が高い状況がうかがえます。

 また、年齢層別では、(意外なことに)50代以下では「どちらとも決めかねる」と回答した人が多い中、60 代以上では「信じてはいない」人が半数近くもおり、年齢が高くなるほどあの世の存在を信じない人が増える傾向が見られます。

 「幸せな死」を迎えるための「緩和ケア」にはスピリチュアルな素養が欠かせないという話をよく聞きますが、日本人場合、(戦争体験などがあったり、死を身近に感じることの多い)高齢な人ほどドライな死生観を持っているということでしょうか。

 次に、自らの「死に方」についてどう考えているかです。

 自分で死に方を決められるとしたら、いわゆる「ぽっくり死」と「ゆっくり死」のどちらが理想だと思うかを尋ねたところ、「ある日、心臓病などで突然死ぬ」(「ぽっくり死」)が 77.7%、「(寝込んでもいいので)病気などで徐々に弱って死ぬ」(「ゆっくり死」)が22.3%と大きな差が付いています。

 「ぽっくり死」が理想だと回答した人の割合は、過去の調査結果と比較すると、2008年73.9%→2012 年70.9%→今回調査77.7%と微妙に変化しており、今回の調査結果が最も高かったということです。

 これを性別で比較すると、「ぽっくり死」が理想だと考える人は男性の方がやや多く、年齢層別に比較すると60代、70代では8割を超えるなど、高齢者ほど「ぽっくり死」願望が高いことがうかがえます。

 一方、パートナーなど「大切な人にはどういう死に方を選んでほしいか」と尋ねたところ、「ぽっくり死」と回答した人は60.5%と20ポイントほど少なく、自身は「ぽっくり」死にたいがパートナーには「ゆっくり」死を選んでほしいと考える人も意外と多いようです。

 性別でみると、大切な人の「ぽっくり死」を望む人は男性が66.0%なのに対し、女性では55.1%と10ポイント以上の開きがあったとされています。年齢層別では、60代、70代では大切な人の「ぽっくり死」を望む人が7割を超えていますが、若い世代では「ゆっくり死」と「ぽっくり死」はほぼ半々で、20代では「ぽっくり死」の方が少なかったとされています。

 さて、今回の調査では調査対象のうち既婚者684人に(パートナーよりも)「自分が先に死にたいか、後に死にたいか」についても質問を行っています。

 その結果、男性ではどの年齢層でも「自分が先に」が多かったのは(ある意味)予想通りと言えるでしょう。一方、女性で50代までは男性と同様に「自分が先に」が多いものの、60代以上になるとそれが逆転。「自分が後に」が多くなり70代では実に67%を占めています。

 「自分が先に」と答えた435人にその理由を聞いたところでは、男性を中心に「パートナーを失う悲しみに耐えられない」が最多で、「死ぬときにそばにいて欲しい」「パートナーがいないと生活が難しい」が続き、男性の精神的な弱さや生活力のなさが象徴しているような気がします。

 一方、「葬儀や墓について考えたくない」や「パートナーの介護をしたくない」を選んだ割合は女性に多く、男性より10ポイント以上高かったとされています。

 また、「自分が後に」を選んだ男女259人に理由を聞いたところでは、男女ともに6割が「パートナーの最期を看取ってあげたい」を挙げており、「パートナーの生活が心配」との回答は男性では3割でしたが、女性では5割に上ったということです。

 なお、調査では、(もしも)パートナーが先に死んでしまった場合に「どんなことが心配か?」についても複数回答で答えてもらっています。

 その結果、最も多かったのは「悲しみから立ち直ることができるかということ」で4分の1以上(28.4%)が挙げています。

 性別ごとの特徴をみると、男性で最も多かったのは「家事をきちんと行うことができるか」が31.9%。次いで「自分の健康管理をきちんと行うことができるか」が25.6%で、妻に先立たれた自分の日常生活への不安が大きいことが示されています。

 参考までに、実際に配偶者と死別した人(31人)に、死別した後に(実際に)難しく感じたことを挙げてもらったところ、最も多かったのは「自分なりの生きがいをみつけること」で35.5%。次いで「悲しみから立ち直ること」が29.0%であったとされています。

 さて、人は(生き物であればこそ)最終的には必ず死を迎えます。例え(ある程度の)早い・遅いはあったとしても、誰もそこから逃れることはできないのは自明です。

 つまり、「死に方」は誰もが考えておかなければならない一生の課題であり、「幸せな死」のためには(パートナーも含め)「心残り」が少ないに越したことはありません。

 とは言え、いつどのように死ぬかはなかなか思い通りになるわけもなく、だからこそ、幸せに生き幸せに死ぬための片づけを、常に怠るわけにはいかないのでしょう。

 流行りの「断舎利」ではありませんが、年齢を重ねるとともに不要なものを捨て去り、(心残りの少ない「死」に向けて)生活に平和と調和をもたらすことが求められているのかもしれないと、調査の結果から考えさせられたところです。


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♯1125 人生100年時代の労働意識

2018年07月27日 | 社会・経済


 5月29日に発表された労働力調査(2018年4月分:内閣府)によると、日本の就業者数は6671万人で前年同月に比べて171万人増えています。同時に、雇用者数も5916万人と同159万人増えており、いずれも64ヵ月連続の増加となっています。

 これに伴い、完全失業者数は180万人と前年同月に比べ17万人減少しており、こちらは実に95ヵ月連続して減少中です。完全失業率(季節調整値)も2.5%と、ほぼ完全雇用の状態が続いています。

 一方、1995年に8716万人でピークを打った日本の生産年齢人口(15~65歳人口)は、2000年に8638万人、2005年に8509万人、2010年に8103万人、2015年には7592万人(いずれも国勢調査)と減少傾向にあります。今後も少子高齢化の影響を大きく受け、推計によれば2040年には5800万人を割り込む水準にまで落ち込む可能性が高いとされています。

 そうした中、ざっくりと見ると、2001年当時の就業者数は概ね6300万人で現在(2018年4月)は前述のとおり6671万人ですから、日本の就業者数はこの17年間で(生産年齢人口が105万人近く減少しているにもかかわらず)約370万人も増加している計算です。

 その理由としては、2007年までの戦後最長の景気拡大と、リーマンショックを乗り越えて以降の長期的な拡大傾向の影響が当然考えられますが、具体的な議論のためにはもう少し詳しく見ていった方がよさそうです。

 5月17日の「日経ビジネスon line」に掲載されていた「数字で見る日本の労働力の現状」から引くと、この間、最も増えているのが「医療、福祉」の分野で、332万人の増加を見ています。社会の高齢化に対応し、医療や介護に関するサービスへのニーズが大きく拡大してきたことがうかがえるところです。

 一方で、公共事業の減少や産業構造の転換、生産技術の機械化などに伴い、建設業は127万人、製造業は157万人減少となっています。建設業も製造業も現在人手不足と言われていますが、就業者数の推移を見る限り従事者数自体が大幅に縮小しているのが実態のようです。

 それでは、誰が(医療福祉などのサービス業を中心に)拡大する雇用を支えているかと言えば、それはどうやら「女性」と「高齢者」だと言えそうです。

 例えば、全国の雇用者数全体では、第2次安倍内閣発足時の2012年12月の5501万人から直近まで約370万人増加していますが、(政権が「女性活躍」政策などにより女性の労働市場への参加を推進してきたこともあり)そのうちの279万人が女性とされています。

 また、労働力調査によると、2016年の高齢者(65歳以上)の就業者数は前年から38万人増の770万人に達しています。2017年はさらに37万人増の807万人と過去最多を記録しており、就業者全体に占める割合も12.3%と過去最高を更新しています。

 特に高齢者に関しては、少子化で労働力人口(15~64歳)が減少基調にあることに加え「働き方改革」の推進で長時間労働の是正ムードが強まる中、企業の側に働き手不足が深刻化していることがその活用につながっていると考えられるところです。

 さて、こうして雇用の担い手として益々その重みを増している高齢者ですが、これからの高齢者の雇用環境を考える際にどうしても考慮しなければいけないのが、日本(と韓国)に固有の労働慣行と言われる「定年制」の存在と言えるでしょう。

 一部の役職などを除き、一定の年齢になったということのみを理由に(一方的に)雇用関係を打ち切ることのできるこの制度は、見方を変えれば使用者(企業側)に非常に有利な制度と考えられます。

 労働市場に新たな働き手としてさらに高齢者を参入させ、経済的に自立した高齢者を増やしていくために、この「定年制」の問題をどう取り扱ったらよいのか。

 こうした問題に対し、「週刊東洋経済」の4月14日号のコラム「少数意見」に、「人生100年時代 定年制に求められる諦念」と題する一文が掲載されています。

 日本の組織は概ね「閉鎖系」としできているため、企業の内と外を峻別し、中の人には優しいが外の人には遠慮がないとこの記事は説明しています。

 なので、その中間となる「派遣」という制度を広めたら(案の定)ややこしい問題があれこれと生じてしまった。これは、長い歴史によって培われた労働慣行がそう簡単に変えられるものではないことの、何よりの証左だということです。

 それだけに、長年働いた組織から追い出される定年を迎えることは、組織人にとって時に「楽園追放」を意味していると記事はしています。

 ましてや今は余命も長く、天下りも限定的となっている。再雇用で給与とポジションの大幅ダウンを甘受するしかなく、それが嫌ならゼロから職探しをしなければならない。そして、一旦、組織を離れてしまえば(何十年と築いてきた)自分のキャリアは無に帰してしまうのが(日本では)普通だということです。

 他方、組織にとって定年は、使えない社員、お荷物だった社員を(その歳になれば)遠慮なく切っていいという安全弁のような制度だと記事は言います。

 このため、定年延長は(仕方なく)受け入れられても、定年をなくせと言われると企業は困ってしまう。解雇規制の緩和と抱き合わせなら考える余地はあっても、それを始めると今度は40歳代くらいの社員までが動揺することになるという指摘もあります。

 いずれにしても、結局、本格的な人生100年時代を迎えると、「いつまで働くか」「どのように働くか」は優れてプライベートな問題となる(だろう)というのが記事の認識です。

 高齢者は個人差が大きく、(歳をとればとるほど)気力、体力に加え考え方や資産状況まで大きく違ってくる。つまり、これまで年齢でバッサリ輪切りにできていたのは、(あくまで)平均寿命70歳代の時代であったからだろうということです。

 こうしたことを総合して考えれば、老後は各人が(それぞれ自分のペースで能力や経験を活かし)フリーランスで働けるような環境を整えることが現実的な対応になると記事は見ています。

 滅私奉公を旨として過ごしてきた世代には簡単には受け入れがたいかもしれなませんが、副業規制の緩和や企業手続きの簡略化、ノマドワークの普及など、フリーランスへのハードルを下げるための取り組みが求められてくるということでしょう。

 結局のところ、「組織のため」ではなく「自分や家族のため」に働くという当たり前のことを各人が再確認しなければならないと、記事は人生100年時代に生きる日本人の意識変革を求めています。

 皆がそのように考えるようになれば日本の組織は開放系に変わっていく。組織に守られた(それ故に組織に縛られる)労働意識を変え、「楽園から出ていくことを躊躇しない高齢者であれ」と説く記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


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♯1124 「老衰」という逝き方

2018年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム


 日本人の死因を厚生労働省の「人口動態統計」で追うと、平成に入ってからここしばらくの間、「悪性新生物」や「心疾患」「肺炎」「脳血管疾」などの疾病が上位に並んでいることが判ります。

 しかし、その順位については若干の動きがあり、これまで長い間日本の三大死因と呼ばれてきた「悪性新生物」「心疾患」「脳血管疾患」のうち、脳血管疾患による死亡数が年々減少する一方で肺炎による死亡数が徐々に増加。2011年には順位が逆転し(僅差ではありますが)以降、肺炎が第3位に浮上していることが見て取れます。

 思えば、脳血管疾患は、かつて日本人の死因のダントツ1位に君臨する「死の病」として知られていました。しかし、その後の医療技術の進歩などにより1970年ころをピークに減少を続けています。

 1981年には、悪性新生物がこれを追い抜き第2位に、1985年には心疾患と入れ替わる形で第3位に、そして2011年には肺炎に代わって第4位へと、着実に順位を下げてきているのが現状です。

 そしてその一方で、(地味ではありますが)年々着実に増加し存在感を増しているのが「肺炎」と言えるでしょう。

 その背景には高齢化率の上昇が背景にあるとされており、高齢者は肺炎にかかりやすいこと、また高齢者は肺炎が重症化しやすく死に至りやすい点などが専らその理由に挙げられています。

 勿論、今後、高齢化がさらに加速すれば、第1位「悪性新生物」、第2位「心疾患」、第3位「肺炎」の順位はこのまま推移するか、心疾患の治療技術がさらに向上すれば、肺炎が日本人の死因の2位となる可能性も否定できないと考えられているようです。

 さて、日本の出生数は大正から昭和一桁世代(1920~30年代)にかけて、概ね年間200万人程度で推移してきましたが、戦争をはさんだ1947~49年に第1次ベビーブームが起き、一気に270万人ほどにまで増加しました。

 しかし、政府の人口抑制策などもあってその後は減少傾向をたどり、1960年ごろに170万人程度で底を打った後、日本の出生数は(出産期人口の拡大などにより)再び増加に転じます。

 さらに、1971年から74年には(団塊ジュニアによる)第2次ベビーブームが到来。出生数は再び200万人台を回復しましたが、その後は少子化傾向が続き2016年には初めて100万人を割り込むに至っています。

 一方、(戦後の)1950年代から80年代にかけて80万人を切る水準で推移していた死亡者数は、その後の高齢化の影響で徐々に増え、2003年に100万人を突破。2007年には110万人、2011年には120万人を軽々と超え、2017年には134万4000人に達しています。

 もとより、現在75歳前後にある団塊の世代は年間に270万人も産まれていたのですから、これから先、1年に現在の2倍近い人が亡くなることになっても計算上はおかしくはないはずです。

 一方、現在約94万人の出生数は、出産年齢人口の減少によりさらに減少の勢いを増していくことが予想されています。そして、このことが、日本が世界でも歴史上類を見ない究極の「少産多死社会」になるとされる所以ということです。

 ニッセイ基礎研究所の土堤内昭雄(どてうち・あきお)主任研究員は、5月18日のYshoo newsに寄せたレポート(長寿化で増える「老衰死」)において、今後予想されるスーパー多死社会における「死に方」に触れています。

 氏はこのレポートにおいて、2015年、日本人の死因の第5位に(ついに)「老衰」が浮上してきたことに注目しています。

 老衰死は、75歳以上の後期高齢者に限れば男性死因の第4位、女性死因の第3位まで増えています。「老衰」という死に方自体は、医療や検査技術の進歩により(何らかの診断が下されるようになったことで)低下傾向にありましたが、2000年以降は再び上昇に転じているのが実態です。

 もちろん、その背景には「長寿化」があり、高齢者の自然死とも言える老衰による死亡数が増加しているのも当然と言えば当然と言えるかもしれません。

 一方、長寿化の結果として、自然死ともいえる老衰で亡くなる高齢者が増加している背景には、本人や家族が延命治療を望まないこともあると土堤内氏は見ています。病院死が減り、在宅死や福祉施設での施設死が増えることで、老衰死も増えていく傾向がうかがえるということです。

 高齢社会に必要な医療の役割の変化は、急性期医療に対して慢性期医療の需要が大きくなっていることにある。今では高齢者の慢性疾患にきめ細かく対処するための「かかりつけ医」や、在宅診療を担う地域医療機関の重要性が一層増していると氏はしています。

 もとより、医療機関における死亡が5割程度である欧米諸国に比べると、75%を超える日本の「病院死」の割合はきわめて高いと土堤内氏は指摘しています。

 日本で「病院死」の割合が高い背景に、戦後の医療の発展および国民皆保険制度により、誰もが過大な負担なく終末期医療を享受できる環境があるのは言うまでもありません。また、核家族化の進展でひとり暮らし高齢者が増え、在宅での看取りが難しくなったことなどもあるでしょう。

 そんな折、高齢化の進展に伴い(延命治療などを行わない)自然な衰弱を経て自宅で最期を迎えたいと願う高齢者が増えているのも事実のようです。歳を取ったら衰弱するのは当たり前で、そのまま無理せず安らかに逝きたいということでしょう。

 しかしその一方で、高齢者が在宅における(安定した)老衰死を迎えるためには、訪問医療と訪問看護の充実および医療と介護の切れ目ない連携が必要です。特に加齢により通院も難しくなる中で、高齢者が自宅で最期を迎えるためには在宅医療の充実が求められます。

 こうした状況を踏まえ、土堤内氏は、終末期医療という人生の最終段階における医療には、緩和ケアなども含めた本来の生活の質(QOL)を維持・回復する「支える医療」が欠かせないと説明しています。

 日本社会は、こうして長寿化を実現する一方で、「老衰」という徐々に身体機能を低下させながら「死」に向かう自然のプロセスに向き合っていると氏は言います。

 人によって理想とする「逝き方」は確かに異なるのでしょうが、安楽で幸せな最期を求める人の心の行きつく先なあるものは、やはり「自然の摂理」というものなのかもしれません。


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♯1123 いよいよ始まる自治体の消滅

2018年07月18日 | 社会・経済


 今からちょうど4年前の2014年5月、元岩手県知事で元総務大臣の増田寛也氏を代表とする民間有識者団体「日本創成会議」が、「成長を続ける21世紀のために『ストップ少子化・地方元気戦略』」と題する報告書を発表しメディアから大きく取り上げられました。

 レポートの要諦は、日本の地方自治体の約半数にあたる896自治体が2040年までに消滅する可能性があるとの指摘にありましたが、そこで「消滅可能性都市」と名指しされた自治体がいずれも対応に大慌てとなったのは記憶に新しいところです。

 一方、政府はこの報告書を受けて同年9月に「まち・ひと・しごと創生本部」を発足、11月には「まち・ひと・しごと創生法」ほか地方創生関連二法案を国会で成立させ、いわゆる「地方創生」の動きを本格化させていきます。

 さらに、年末には「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」や「同総合戦略」を閣議決定し、補正予算で地方創生推進交付金を積み上げるなど、11月21日の衆議院解散、12月14日の総選挙に向け第2次安倍政権はスピーディーに足元の自治体の支持を固めていったと言えるでしょう。

 さて、それから4年。特に地方部において先行的に具体化している超高齢化や少子化、そして大都市への人口集中の動きの中で、地方自治体はどのように人口減少に向き合っていけばよいのか。

 5月20日の産経新聞では、『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』(講談社現代新書)の著者として知られる論説委員の河合雅史氏が、「7割国家と地方」と題する興味深い論考を掲載しています。

 河合氏はこの記事に、半世紀後の日本の姿は「7割国家」となると記しています。

 国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2065年の日本の総人口は現在から3割減の8800万人と予測しており、鳥取県(44万9千人)と高知県(49万8千人)は50万人を切るとされています。

 特に高知県の場合は、高知市に27万1千人が集中するとされ、県下の他の自治体の人口はかなり少なくなることが予想されている。つまり「7割国家」では、持続が困難となる自治体が相当に増えてくるだろうというのが河合氏の認識です。

 総務省が有識者会議「自治体戦略2040構想研究会」に示した資料には、こうした人口減少により自治体職員および税収の確保が難しくなる状況が示されているということです。

 例えば、職員数については、「人口1万人未満の町村」では2013年の62人に対し2040年には47人への24.2%の減となる。「人口10万人未満の一般市」は、286人が237人となり17.0%の減。中核市や「人口1万人以上の町村」、「人口10万人以上の一般市」なども13%台の下落が見込まれるということです。

 そもそも地方公務員は、行政改革によって(国よりも大幅に)職員数を絞り込んできたと河合氏は指摘しています。2016年の総職員数は273万7千人で、ピークだった1994年の328万2千人と比べると50万人以上も少ないということです。

 氏によれば、近年とりわけ採用数を減らしたことで(40代半ばの)団塊ジュニア世代が相対的な山となっており、彼らが退職期を迎える2030年代には定数を大きく割り込む自治体が相次ぐことが懸念されるということです。

 さらに深刻なのが、自治体の税収不足だと氏は言います。

 地方自治体では住民税および固定資産税が基幹的な税目となっており、半数以上の市町村で住民税(所得割)と固定資産税が税収の80%以上を占めています。

 一方、各年齢層の人口の変化を2015年と2040年で比べると、年金受給世代である70歳以上が30%増加するのに対し、平均給与額が全年齢層の中で最も高い50~54歳は約20%減少することがわかります。

 これ以外にも45~49歳が約30%の減、40~44歳が約37%の減、35~39歳が約30%の減など、働き盛り、稼ぎ盛り(そして納税盛り)世代の人口に軒並み30%台の大幅減が見込まれているということです。

 さらに地価についても、1992年以降、下落傾向にあると氏は説明しています。このまま推移したならば、固定資産税収入に関しても大幅な減少が避けられないというのが河合氏の認識です。

 もしもそれが現実ならば、こうした状況にどう対応すればよいのか。

 勿論、住民が大きく減り職員数や税収を思ったように確保できない状況に陥る前に、行政サービスや公的サービスの在り方を根本から考え直さざるを得ないのは自明だと河合氏はしています。

 そこで、この論考で氏が提案しているのが、都道府県と基礎自治体(市区町村)の二層制を見直し、都道府県が基礎自治体の役割を担うようにすること。基礎自治体を都道府県圏域まで広域化し、持続可能性を高めようとするものです。

 また、河合氏は、住民に対し、「集住エリア」を定めて地域内移住を求めることを提案しています。そして、行政サービスや公的サービスは最低限こうした「集住エリア」まで届ければよいことにするということです。

 人口減少時代には「行政に多くを頼むことはできない」との覚悟が必要だと、氏はこのレポートに綴っています。そこにあるのは、提供されるべき行政サービスの質自体を限定するなどかなり柔軟な発想で臨まなければ、社会は続かなくなるだろうという強い懸念です。

 さて、実施のところ、(日本は社会主義国家ではないのですから)住居の自由を有している住民に、今居住している場所を捨て他の場所に移住しろというのはなかなか無理のあることでしょう。

 また、自治体運営に関しては、現在の市区町村をなくし都道府県を基礎自治体とするよりも、まずは市区町村合併などにより基礎自治体の広域化を進め、都道府県を道州でまとめてそれぞれの分権体制を強化する方が現実的かもしれません。

 いずれにしても、(河合氏も指摘するように)現在の体制のままで地方がこの難局を乗り越えるのはかなり困難だと言えるでしょう。(たぶん必ず訪れることになる)生き残りをかけた地方自治体のドラスティックな改革の行方を、私もしっかり見守っていきたいと思います。


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♯1122 反抗しない子供たち

2018年07月17日 | 社会・経済


 警視庁の統計などを見る限り、暴走族が流行った1980年前後、そしてガングロの女子高生が街を闊歩していた2000年前後をピークに、警察に補導される青少年の数は顕著に減り続けているようです。

 そう言われてみれば、確かに以前はコンビニの前などによくグループでたむろしていた(いかにも)「ヤンキー」といった容姿の10代を、最近ではあまり見かけなくなりました。

 現代の若者は随分「おとなしくなった」と言えば言えるのでしょうが、そもそもなぜ、1980年代や2000年代の子どもたちはワルかったのか?

 博報堂生活総合研究所上席研究員の酒井崇匡氏は、昨年12月8日の「PRESIDENT Online」への寄稿(「なぜ"不良の中学生"はモテなくなったのか」)の中で、その理由を読み解く視点の一つとして「子どもと大人の関係性の変化」を挙げています。

 少なくとも21世紀の初頭まで、日本の大人は子どもにとって、自分たちが反抗すべき相手だったと酒井氏は指摘しています。

 尾崎豊の別の大ヒット曲『卒業』では、自分たちを支配しようとする大人への不信感や、彼らに対する反抗心が明確に歌われています。1993年のドラマ「高校教師」は、父親に性的虐待を受けている女子高校生が、担任教師と道ならぬ恋に走るという衝撃的な内容が話題となりました。

 既存の価値観に基づき自分たちを力づくで押さえつけようとする親や教師に対して、思春期を迎えた子どもが抵抗するという図式が、当時は典型的だったというのが酒井氏の認識です。

 それでは、翻って現在の子どもたちにとって、大人はどのような存在として映っているのか?

 前述の「子ども調査」によれば、(今ではあまり想像できませんが)1997年時点では、まだ子どもの約2割、1クラス35人の中で6~7人は(1年間のうちに)先生に殴られた経験があると答えていたということです。

 また、両親にぶたれたことがある子も、20年前は母親からは8割、父親からは7割を数えたということですが、2017年の調査では半数を下回っているということです。

 一方、「自分の話を、お父さんやお母さんはよく聞いてくれる」と回答した子どもは一貫して増加しており、今回の調査で8割を超えたとされています。

 子どもを力で押さえつけそれ故に反発されていた大人は、少子化が進む中で子どもを手厚くケアするようになった。多くの大人が、よほどのことがない限り子どもに手を上げたりせず、その代わりにしっかり対話するようになっているということです。

 もちろん、子どもが非行に走る要因は一つではないけれど、不良が世の中から姿を消した背景には、敵だった大人がソフト化した結果、子どもは逆らい続ける必要がなくなった影響が大きいと酒井氏は見ています。

 大人のソフト化と連動して、子どものソフト化も進んでいる。反抗する相手がいなくなった子どもたちは総じて丸く、優しくなり、周囲の人たちと(様々な面で角の立たない)穏やかな人間関係を求めるようになっているということです。

 確かにそういう時代になれば、不良がモテなくなり、絶滅の危機に瀕しているのも当然と言えば当然でしょう。

 こうして、「乱暴者」は次第に淘汰され姿を消していくわけですが、一方で、周囲との意見の対立や諍いを恐れる(極端に)ナイーブな「空気を読む」若者が増えているのも事実のようです。

 「やさしくて、頭がよくて、清潔な」“逃げ恥”の(星野源演じる)津崎平匡氏は、その一方で、小さなことで悩み決断できない(ある意味)「頼りない」気弱な高齢童貞男子として描かれています。

 思えば、一昔前昔「元気なツッパリ」であった現在の40~50歳代は、ちょうど彼らの親世代です。もの分かりよ良い親たちとなった彼らは、(自らの経験を踏まえ)現在の子供たちの状況をどのように評価しているのか。

 1950年代のハリウッド映画「理由なき反抗」では、大人でも子供でもない思春期独特の焦燥感や理解のない大人への反発を在りし日の若きジェームス・ディーンが熱演し、同じ時代に生きる若者世代の大きな共感を誘いました。

 少年の犯罪や非行は、なくなるに越したことはありません。しかし、若者の世代から「大人への反発」や「不良行為」がなくなることにちょっとした寂しさを感じるのを、「ノスタルジー」の一言で片づけてしまってよいのかは(正直)よく判りません。
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♯1121 不良がモテない時代

2018年07月16日 | 社会・経済


 警察庁の統計によれば、刑法犯として検挙された少年(14~19歳)の数は1980年代前半をピークに減少傾向にあって、最新の2016年統計では戦後最少を記録しているのだそうです。

 メディアなどで少年による凶悪な犯罪などが報道されるたびに少年犯罪の増加や凶悪化が話題になるため、未成年の犯罪が減っているというのはなんだか意外な感じもしますが、実際のところそれは単なる印象にすぎないことをデータは示しています。

 勿論、最近の少年犯罪の減少には少子化の影響があることは言うまでもありませんが、実は少年1000人当たりの検挙者数で見ても2016年は4.5人に過ぎません。

 この割合は、戦後最多だった1982年や1983年の18.8人(←確かに当時は暴走族や校内暴力が大きな社会問題となっていて、中学・高校も異様な姿の学生服を着た不良少年でいっぱいだった記憶があります)の実に4分の1以下に過ぎないことがわかります。

 その一方、ここ数年で少年犯罪への「厳罰化」は着実に進んでいるようです。

 2014年の少年法改正では、18歳未に対する懲役または禁錮の有期刑の上限が15年から20年に引き上げられました。また2016年には、裁判員裁判で初めての少年事件での死刑判決が最高裁で確定しています。

 さらに、法務大臣の諮問機関である法制審議会では、(成人年齢の見直し議論と相まって)少年法の適用年齢を現行の20歳未満から18歳未満へ引き下げる議論も始まっているということです。

 喧嘩や恐喝、酒、煙草など、巷で「悪さ」をしてきた(いわゆる)「非行少年」も、ここに来ていよいよ生きづらくなっています。また、たとえ悪さをしなくても、不良として生きていくこと自体「肩身が狭い」時代がやってきていると言えるかもしれません。

 そうしたこともあってか、かつては「ツッパリ」や「ヤンキー」と呼ばれて親しまれた不良少年も、最近では街であまり見かけなくなりました。もとより「非行少年」と「不良少年」は確かに異なる存在ですが、(昨今の若者の間では)彼らはもはや流行らない、「残念」な存在として認識されているということでしょうか。

 そうした中、昨年の12月8日の「PRESIDENT Online」には、博報堂生活総合研究所上席研究員の酒井崇匡氏が、「なぜ"不良の中学生"はモテなくなったのか」と題する興味深いレポートを寄せています。

 酒井氏はこのレポートに、まずもって最近の中学校では「不良」が女子にモテなくなったと特筆しています。

 博報堂生活総研が昨年、子ども(小4~中2)を対象に行った「子ども調査2017」によると、最近のモテ男子の主流はあくまで「やさしくて、清潔で、頭の良い子」というもので、例えば“逃げ恥”の星野源のような存在だということです。

 つまり、その対極にある「乱暴で、不潔で、頭の悪そうな不良」は女子に不人気だということ。昔流行った(例えば)『スラムダンク』や『幽遊白書』などにみられる「不良でも男気があって本当は優しい」というようなキャラクターは、もはや(あまり)女子たちに受け入れられないということでしょう。

 さて、「不良」がプレゼンスを発揮し、刑法犯少年が戦後最も多かった1980年代前半に10代だった世代は、現在40代後半から50代前半を迎えています。つまり、今や中年となり、日本の社会を支えている40代後半~50代前半のいわゆる「新人類世代」は、実は「戦後史上最もワルい10代」を過ごした世代と言うことになります。

 1983年には、尾崎豊が18歳でデビューし、『15の夜』の盗んだバイクで走り出す若者の姿が共感を呼びました。同じ年、チェッカーズは「ギザギザハートの子守歌」で、「ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれた」ことを「わかっちゃくれとは言わないがそんなに俺が悪いのか」と歌い人気を博しています。

 一方、その後の推移に目を向けると、15年後の1997年あたりからもう一度、非行少年が増加した山が見られると酒井氏は指摘しています。この頃にはテレビドラマ(←木村拓哉の「ギフト」でしょうか?懐かしいですね。)の影響でバタフライナイフが中高生に大流行し、社会問題として大きく取り上げられていたということです。

 しかし、その後非行少年は一貫して減少し、現在は毎年、戦後最低を更新し続けている状況にあるのは先に述べたとおりです。

 犯罪に手を染めるような「非行少年」がここまで減少しているとなると、「不良」と呼ばれる子どもの数全体も以前と比べてかなり減っているはずだと酒井氏はこのレポートで説明しています。それでは、一体、不良はどこに行ってしまったというのでしょうか。

 15年かそこらの間に、人間の本質が「いい人」から「悪い人」に簡単に変化するとは思えません。つまり、彼らの生育の過程で、彼らの粗暴化を押しとどめる何らかの変化が社会の中に生じたということでしょう。


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♯1120 眉毛がある理由

2018年07月15日 | うんちく・小ネタ


 4月9日にアメリカの科学雑誌「Nature Ecology & Evolution」に掲載された、人間の眉毛に関する論文が話題になっているようです。

 これは、英国のヨーク大学などの研究者による仮説で、進化の過程で脳容量の増大により頭蓋骨の眉上弓の突起を失った人間は、一方で、社会性が強まる中で友好的な人間関係を維持するためのコミュニケーションを補完させる必要から(眉上弓の代わりに)眉毛を残したというものです。

 ヒトは進化の過程で「おでこ」が張り出したことで「のっぺり」した顔になり、表情が乏しくなったと考えられます。そこで、眉毛による感情表現の重要度が増したということでしょう。

 確かに、眉毛はヒトという生物の特徴の一つで、他の多くの哺乳類では額や顔の毛と紛れてしまうため眉毛を区別することはできません。顔に毛がないゴリラやチンパンジーですら、(頭骨の眉状の突起は目立ちますが)額まで毛に覆われているため特に眉毛を特定するのは難しそうです。

 そう言えば、ディズニーランドで愛嬌をふりまいているミッキーマウスのキャラクターにはくっきりとした眉毛がありますし、アニメ「サザエさん」に出てくる磯野家のタマにも、PEANUTSのスヌーピーにも眉毛がしっかり描かれています。

 これらは、洋の東西を問わず人が親しみを感じて感情移入するためには、(アイコンとしての)眉毛はどうしても欠かせない存在となっていることの証左と言えるかもしれません。

 この論文に関連して、4月20日のYahoo newsではライターの石田雅彦氏が「なぜ人類は眉毛を残したのか」と題する興味深いレポートを掲載しています。

 氏によれば、英国の動物行動学者デズモンド・モリスはその著書『裸のサル(The Naked Ape)』(1967)の中で、眉毛の役割について汗や頭髪が目に入ったりするのを防ぐためという俗説を否定し、女性より男性のほうが眉毛が濃いという性差から男性の感情表現に使われたのではないかと指摘しているということです。

 日本にも「柳眉を逆立てる」「眉をひそめる」「眉唾」など眉毛に関する表現は多く、英語でも怒りの表現に「bristling eyebrow」があり「意味ありげに片眉を上げる」「cock(angle、raise) an eyebrow」などが用いられるように、眉毛に関する表現は人類の様々な文化の下できわめてポピュラ-だということです。

 また、4歳児を対象にした認知発達の研究により、大人の眉毛の上下動に対し、幼児の脳は敏感に反応することが知られていると氏はこのレポートで説明しています。彼らは、視線との連動や眉毛の動き方で笑顔かどうかなどの表情を判断しているらしいということです。

 無論、眉を上げるのは驚きの表現だし、眉尻を下げるのは喜びや笑いを、眉を寄せるのは不快を示すものだということは、幼児にもすぐにわかるようです。

 「目は口ほどにものを言う」という言葉がありますが、実際、ヒトという動物の特徴である眉毛は、思っている以上に我々の役に立ってきたのかもしれません。何かの拍子で眉を剃った人の顔を見たときに思わず「ギョッ」としてしまうもの、私たちがそれだけ眉毛からの情報に依存していることの表れだと言ってもよいでしょう。

 さて、石田氏によれば、江戸期の既婚女性は、引き眉をして眉毛を抜いたり剃ったりしたまま、白粉を塗って真っ白な顔をしていたということです。

 眉毛は表情と感情表現にとって重要な役割を担っていることを思えば、そうした慣習は当の女性たちが社会の中で生きていくのに不利に働いていたことは想像に難くありません。

 つまり、それは男性社会の要請に基づくものだったと考えるべきと氏はしています。既婚女性で眉を描かないということは、儒教と封建制に支配されていた当時の既婚女性にとって、眉毛による友好的なコミュニケーション機能はむしろ不要と考えられていたからではないかということです。

 さて、確かに言われてみればバブル経済華やかなりし時代、ボディコンシャスに包まれて(六本木辺りでブイブイ言わせて)いた女性の眉は、これまでないほど「はっきり」「くっきり」と描かれていたことを思い出します。

 女性の感情が押し殺されていた時代と、女性が自信を持って自己の個性や存在を強く主張していた時代。女性の眉の細い時代と太い時代ではどちらが幸せかは、改めて指摘する必要もないでしょう。


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♯1119 児童虐待を防ぐには

2018年07月14日 | 社会・経済


 東京都目黒区の女児の虐待死を受け、虐待問題を扱う児童相談所に改めて注目が集まっています。

 東京都の小池百合子知事は今回の事件を受け、都が運営する児童相談所(児童相談センターを含め11か所)への100人規模の人員増強や、子供を24時間見守る体制整備などの対応力強化を打ち出しています。

 また、都内の23区の多くでは、東京都からの権限の委譲を受け、各区が独自の児童相談所の開設準備を進めているという話もあるようです。

 一般の人にはあまりピンとこないかもしれませんが、児童相談所は(基本的には都道府県が設置する)子供に関するさまざまな相談に応じたり、場合によっては虐待を受けている子供を一時保護したりするための施設です。

 そこには、児童福祉司、児童心理士、保育士などの専門技能を持った職員が常駐し、子育ての相談に関する業務や虐待事案への対応、受け入れた子供のメンタルケアなどを行っています。

 実際、全国各都道府県において児童相談所の機能強化は急務とされており、厚生労働省の調査では、2017年度に全国210か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は全国で12万2,578件と、過去最多数を更新したとされています。

 増加の要因としては、(夫婦喧嘩、暴言などによる)心理的虐待にかかわる相談対応件数が前年度より1万4,487件増の6万3,187件で、背景には児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(いわゆる「面前DV」)に関する警察からの通告が増えたことがあげられます。

 また、このほかにも、児童相談所全国共通ダイヤル189(いち・はや・く)の普及やメディアの報道などで児童虐待への意識が高まり、通告の増加につながっているという報告もあるようです。

 記録によれば、2015年度の1年間に発生または表面化した子どもの虐待死事例は、72例84人に及び、このうち「心中」以外の虐待死は48例52人で、0歳児が30人(57.7%)ともっとも多く、虐待の種類では身体的虐待が35人(67.3%)、ネグレクト12人(23.1%)の順に多かったということです。

 今回の目黒区で虐待死した女児の一家は、香川県から転居してきたことがわかっています。同県の児童相談所は虐待を認識しており、「継続支援が必要」と都の相談所に伝えたものが(数多くの事案の中で)うまく引き継がれていかなかったとされています。

 虐待防止に関しては、このようにどれだけ早期の段階から「情報」を得ていくかがカギを握っているとされています。

 (今回の事案のような)「転居」などに伴う情報や、学校、警察、市役所、児童相談所間での情報の共有などが円滑に行われれば、抵抗できない子供の虐待死などの悲惨な結果を回避することが可能なケースが増えてくることは(恐らく)間違いないでしょう。

 こうしたことから、東京都の小池百合子知事は児童相談所(児相)が把握した児童虐待の恐れのある事案のうち、子供との面会を保護者に拒否されるなど、リスクが高いと考えられるケースは全て警視庁と情報共有する方針を示しました。

 また、埼玉県の上田清司知事は県議会本会議で、児童相談所に情報が寄せられた虐待が疑われる「全て」の事案について、8月1日から児童の氏名、住所、生年月日といった情報を毎月県が集約し県警が閲覧できるようにすることを明らかにしました。加えて、児相と県警が一元的に児童虐待の情報を管理するシステムの開発を、今後検討することとしています。

 ご近所や親せきなどの市民から寄せられた情報の全てを警察と共有できれば、確かに虐待事案への素早い(かつ強制力のある)対応が可能になるかもしれませんし、それに期待する児童福祉団体などからの声も大きいようです。

 しかし、そこには(当然ながら)個人情報としてのプライバシーの壁もあります。

 児童相談所は、そもそも市民の子供の養育に関する相談に応じる児童福祉施設です。しかし、相談内容がすぐに警察に通報されてしまうようでは、誰が(そこに)相談に行こうと思うでしょうか。

 また、ちょっとした夫婦喧嘩や躾けのつもりで子供を玄関の外に出したような事案が、いちいち警察に通報されるような「相互監視社会」が生活環境として暮らしやすいとも思えません。

 さらに警察としても、警察への提供情報が多くなればなるほど、(限られた現場対応力の中で)緊急案件の対応が日常の雑多な通報によって疎かになってしまうことへの懸念を抱えているようです。

 そうした中、作家の橘玲(たちなば・あきら)氏が、7月9日の「週刊プレイボーイ」誌への寄稿「女児虐待死事件でメディアがぜったいいわないこと」において、少し違った視点を提供しているので、ここで紹介しておきたいと思います。

 この事件に関し大量の報道が溢れるメディアにおいて、意図的に触れられていないことが2つあると橘氏はこの論評に記しています。

 ひとつは、女児を虐待したのは義父で、母親とのあいだには1歳の実子がいたこと。そして、このパターンは特に虐待が起こりやすいハイリスクな家族構成だということです。

 (誤解を恐れずに言えば)この家族構成においては、しばしば父親は自分の子どもをかわいがり、血のつながらない連れ子を疎ましく思う。自分の子供を守る立場にある母親は新しい夫に見捨てられることを恐れ、夫に同調して子どもを責めるようになると橘氏はしています。

 残酷な話ですが、アメリカやカナダの研究では、両親ともに実親だった場合に比べ一方が義理の親だったケースでは、虐待数で10倍程度、幼い子どもが殺される危険性は数百倍に達することがわかっているということです。

 そして、メディアが触れないもうひとつの事実は、この女児にはどこかに実の父親がいるということだと橘氏は指摘しています。

 日本は、夫婦が離婚するとどちらか一方に親権を委ねる「単独親権」制を採る(先進国では)数少ない国のひとつとされています。しかし考えてみれば、離婚によって親子関係がなくなるわけではありませんから、この制度には合理的な理由がないと橘氏は言います。

 欧米諸国が採用している共同親権では、子どもが母親と暮らしていても、別れた父親に子どもと面会する権利が保障されると同時に、養育費を支払う義務が課せられます。ところが単独親権の日本では、ほとんどのケースで父親が親権を失うので、義務感までなくなって2割弱しか養育費を払わないという異常事態となっているというのが(離婚後の子供の養育状況に関する)氏の認識です。

 橘氏は、(現実を振り返って)虐待への対処でむずかしいのは、公権力はプライベートな空間にむやみに介入できない点にあるとしています。

 子どもが家で泣いていたら近所の人に通報され、いきなり警察がやってくるような社会では、誰も子育てしたいとは思わない。しかし実の父親なら、面会を通じて子どもの状態を確認できるし、子育てにも介入できると氏は言います。

 無論、子どもが危険にさらされていると判断すれば、(母親から引き離し)保護したうえで公的機関に訴えることも可能だということです。

 また、両親それぞれが親権を持って、養育費用も双方で負担していたならば、母親も新しい父親に(物心両面で)それほど大きく依存する必要はなかったとも考えられるところです。

 橘氏はこの論評の最後に、今回のような悲劇をなくそうとするのなら、いたずらに行政をバッシングするのではなく、「子どものことを真剣に考えるのは親である」という原点に立ち返る必要があると綴っています。

 確かに、児童虐待を防ぐには、いくつのもセーフティネットが必要です。子育てがプライベートなものとして扱われている以上、行政による強制介入によって解決できるケースは限られているということでしょう。

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♯1118 文部科学省と裏口入学

2018年07月13日 | 社会・経済


 文部科学省の私立大学支援事業をめぐり、同省の科学技術・学術政策局長が東京地検特捜部に受託収賄の疑いで逮捕されました。

 事件の一報を聞いて、これは「医大からみだな」とすぐに感じたのは、昨今の学生たちの医大人気の一方で生き残りをかけた競争が苛烈化する私立医大の経営の難しさを聞いていたからでした。

 果たしてその内容は、事業認定を行う見返りで息子の裏口入学を依頼するという、まるで「いつの時代の話だよ?」と言いたくなるような、露骨で古典的な手口のものでした。

 報道によれば、容疑者は私立医大を経営する東京医科大学から「私立大学研究ブランディング事業」の支援対象選定で便宜を図るよう依頼された見返りに、今年2月、息子を同大に不正合格させてもらったとされています。

 特捜部の任意の事情聴取に対し、東京医科大の理事長や学長は概ね経緯を認めているということですが、検察関係者からは元局長本人は容疑自体を否認しているという話も伝えられているようです。

 改めて指摘するまでもなく、昭和の昔から、私立医大では多額の寄付金を出せば入学させてもらえるという(いわゆる)「裏口入学」の話を聞くのは普通のことだったと言っても過言ではありません。(実際、今回の事件の捜査の過程で「裏口入学者リスト」なるものが見つかったのとの報道もありました。)

 東京医科大学に限ったことではありませんが、私立医大の入試に関しては、「裏口」とまでは言わなくても「補欠合格」の名のもとに一定の寄付金を納付できるかどうかで合否を判断したり、同窓会組織などによる「OB推薦枠」があるなどといった話もそれほど違和感なく受け止められてきたところです。

 勿論、医師の養成や医大の経営には(普通の大学とは一ケタ違う単位の)お金がかかるので、(病院の経営などで利益を得にくくなっている現在)大学自身でそれなりのお金を集めなければならないのも判ります。

 だからこそ、(大学の経営サイドとしても)文部科学省が牛耳る国の補助金を獲得することで大学の名声や評価を高めていく必要があり、頼りとする医療系企業などからの資金や学生の(親たちの)寄付金の増額などにつなげていく必要があったということでしょう。

 事件の背景にある医科大学が置かれているこうした構造的な問題について、7月11日の日本経済新聞(コラム「大機小機」)は「大学と文科省」と題する興味深い記事を掲載しています。

 国立大学法人運営費交付金や私立大学への助成金など、高等教育には現在、約1.5兆円の国費が投じられていると記事はまず説明しています。

 大学に渡される資金の配分について、かつては、学生数など外形標準に基づいて機械的に算定された。しかし、国立大学が独立行政法人に改組した時期から、限られた予算の配分上「競争的な資金」の比率が徐々に拡大してきたのだということです。

 大学が評価され、評価に応じて好成績の大学に重点的に予算配分するという考え方自体は否定するものではない。しかし、そこに深刻な副作用が生じると記事はここで指摘しています。

 ひと口に「評価」といっても、基準はスポーツ競技のように単純ではないと記事は言います。当然そこには「裁量」の余地が大きくなり、結局、何をすれば評価されるのかを一番よく知っているのは「ルールをつくる」文科省になるというのが記事の認識です。

 大学としては生き残りをかけて資金獲得に力を入れざるを得ないから、何はともあれ文科省に相談し、指南を仰ぎたいと考えるのが自然な流れとなるでしょう。

 学部・学科の新設といった大学の将来を大きく左右する事業でも、文科省の許認可は不可欠だと記事は記しています。

 そう言えば、以前、私もとある大学の「学科」の新設のお手伝いをした際、ちょっとした新しい考え方を30歳代とおぼしき担当の係長だか課長補佐だかに理解してもらうために、様々な資料を求められ1カ月以上にわたって日参させられたのを覚えています。

 何の意味があって、個別の大学の運営にここまで細かく(そして権威的に)関与するのかが(正直)良くわからなかったのですが、恐らく彼らにも(それは)よくわかっていなかったのではないでしょうか。

 いずれにしても、こうした状況では大学がこぞって文科省とのパイプを求め、大学と文科省の関係を密にしようとするのは仕方のないことかもしれません。

 昨年、文部科学省では早稲田大学をはじめとした私立大学へのOBの組織的な天下りあっせんが問題となったばかりですが、実際のところ、全国の国公私立大学に在籍している文科省OBや現役職員は、一体に何人になるのか想像もできないと記事は指摘しています。

 かつて問題となったものに、旧大蔵省や日銀からの金融機関への天下りがありましたが、記事は(規制・指導をする側の)大蔵省・日銀と(される側の)金融機関との関係は、現在の文科省と大学とのそれとほぼ同じだと説明しています

 (にもかかわらず)金融機関への天下りは跡を絶った現在でも、どういうわけか文科省から大学への人の流れは実質的に今でもフリーパスに近いというのが、天下り問題に関する記事の見解です。

 そもそも、文科省が旗を振る「改革」はおおむね的外れではないだろうかと記事はしています。

 今回問題になった「私立大学研究ブランディング事業」は1校あたりわずか年3000万円ほどで、その効果には疑問符が付く。18歳人口の減少が分かっているのに、大学の数も大幅に増やしてきた。大学改革の前に必要なのは、高等教育行政の大改革ではないかということです。

 (なすべき改革はたくさんあるのに)そんな中で起こった今回の受託収賄事件。お金の授受ならまだしも(それも決して褒められたものではありませんが)、教育をつかさどる文部科学省が最も信用とその権威を失うのが、この手の裏口入学であることは間違いありません。

 文部科学省の猛省を促すとともに、この際、あるべき姿に立ち返り省の体質を変えていくべき時と考えますがいかがなものでしょうか。

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♯1117 日銀も満腹

2018年07月12日 | 社会・経済


 日銀が保有する資産の残高は昨年の6月に史上初めて500兆円の大台を突破し、今年3月末には前年比7.8%増の528兆2000億円に達しています。このうち国債が448兆円と全体の85%余りを占め、さらにETF(上場投資信託)が約19兆円を占めている現状にあります。

 勿論その原因は、(広く知られているように)日銀がデフレ脱却に向けてお札を大量に刷って国債などの巨額買い入れを続けているところにあり、買い入れ額は2013年4月にQQE(Quantitative-Qualitative Easing量的・質的金融緩和)を始めた時点の約3倍に達し、国債発行残高の実に4割を超えています。

 このため、日銀の資産の膨張は国の経済規模を示すGDP(国内総生産)に匹敵する規模に及び、2018年度にはこれを超える見込みとされています。これは、同じ中央銀行のアメリカ・FRB(連邦準備制度理事会)の23%、ECB(ヨーロッパ中央銀行)の38%と比べても突出して高い水準です。

 他に類を見ない規模に膨張し続ける日銀の総資産に関し、6月6日の日本経済新聞は「膨らむ日銀総資産、世界最大も視野」と題する記事を掲載しています。

 黒田日銀総裁は就任以来、安倍首相が進める経済政策アベノミクスの「第一の矢」(異次元の金融緩和)の一環としてデフレ脱却に向け国債を大量に買い入れ、市中にお金を供給してきました。

 一方、それから5年余りの歳月が流れた現在、(結局のところ)いまだ肝心の物価上昇率2%の目標達成からは遠く、市中の「金余り」ばかりが目立つ状況が続いています。

 日銀の資産は、昨年FRBの資産総額(3月末で482兆円)を超え、来年には規模縮小が続いているECBの資産総額(581兆円)をも抜き去って、世界最大の資産を持つ中央銀行になる見込みだということです。

 一方、そうした中でも日銀に路線変更の兆しはないというのが現状に関する記事の認識です。若田部昌澄副総裁は6月5日の参議院財政金融委員会で、「直ちに保有国債の売却を念頭に置いているわけではない」と国債買い入れ余地がまだあるとの考えを示したということです。

 こうした状況について、記事は、歯止めのない膨張ぶりに日銀の財務が将来、悪化する懸念も出始めたと記しています。

 2017年度の経常収益こそ2年連続の増益だったが、価格変動の大きいETFの残高は時価ベースで24兆円に積み上がっている。日銀の自己資本は8兆円で足元の株高で今は5兆円の含み益はあるものの、一旦株安に転じれば巨額の含み損を抱えかねないということです。

 記事によれば、日銀が公表する自己資本比率は3月末時点で8.09%と、日銀自身が財務の健全性の目安としている8%は(かろうじて)超えているということです。ただし、(日銀が歴史的に健全性の目安としてきた)自己資本を銀行券の発行残高で割って求めた数字ではなく総資産で割る一般的な自己資本比率を算出すると、これは2%に満たないと記事は説明しています。

 2017年9月に米FRBが(金融緩和の出口政策として)資産の縮小を決めた際、当時のイエレン議長は物価低迷の理由は謎としながらも「経済の緩やかな拡大」を理由に政策変更に踏み切ったということです。こうして景気の著しい悪化に備えて政策を発動する余地を作るため、早めに早めに手を打ってきた点が日銀とは大きく異なると記事は説明しています。

 2013年に黒田総裁の下でQQEを始める際には、日銀にもそれなりに緊張感があったと記事は言います。それ以前の日銀は、緩和で資産が過度に膨らむのを避けるため、銀行券以上の国債を持たないよう自己規制を設けていたからだということです。

 しかし、QQEの開始に伴い日銀はそのルールを一時的に停止した。そして今、これまで意識して封じ込めようとしていたリスクが、現実のものとなって迫りつつあるとこの記事は結ばれています。

 さて、一般に日銀による国債の「買い取り」と「引き受け」は、(厳密に言えば)違う意味を持っているとされています。

 「買い取り」とは日銀が市場の銀行が保有している国債を買う行為であり、銀行は資金が増え、金利を下げて企業や個人への貸し付けを促進することができる。このため、金利が下がることで個人の購買意欲も増し、景気を回復させる効果が期待できるということです。

 一方、国債の「引き受け」は、日銀が金融市場を通すことなしにお金を刷って国債を買い入れ、政府へ直接資金を渡す行為を指すものです。

 政府はそれを満期が来た国債の支払いに充てたり、公共事業を起こしたりして経済を活性化させようとするのですが、これが、(原資がないのに空からお札を巻くように景気を刺激する)いわゆる「ヘリコプター・マネー政策」と呼ばれる所以とされています。

 しかし、これでは(中央銀行にお金を刷らせれば)政府はいつでも政府は簡単に資金を手にすることができるため、いつの間にか緊張感や節度がなくなり(通貨の増発に)歯止めがかからなくなる恐れがあるのは事実です。

 ハイパーインフレはこうした「禁じ手」を繰り返すことにより引き起こされることが多かったことから、現在では日本銀行による国債の引き受けは財政法第5条により原則として禁止されている(「国債の市中消化の原則」)訳ですが、逆に言えば、一旦市中に出てしまった国債はその(法律で規制されるものの)限りではありません。

 こうして、現在の日本では市中銀行等が買い取った国債を日銀が(そのまま)引き受けるような形で次々と「買い取って」いくことが普通の形になってる。

 このようないびつな手法に関しては「事実上の引き受けである」として、エコノミストばかりでなく(共産党をはじめとした)野党関係者などからも厳しい声も上がっているところです。

 果たして、このような(タコが自分の足を食べるような)状態をいつまで続けていくことができるのか?日銀の総資産がGDPと肩を並べようとしている現在、そろそろ真剣に考えてみる時期に来ていると感じるのは私だけでしょうか。



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♯1116 お腹いっぱいのクジラ

2018年07月11日 | 社会・経済


 6月下旬以降、東京湾の「海ほたる」付近の近海で、悠々と泳ぐ15メートル級のクジラの目撃情報が何度も伝えられています。

 このクジラは、テレビなどにもしばしば登場するザトウクジラで、時にはブリーチングと呼ばれる大ジャンプを繰り返し、見る人を圧倒しているということです。

 イワシなど餌となる小魚を追いかけて東京湾に迷い込んだものと考えられていますが、最近はあまり話にも出ないので、船舶の往来で喧しい東京湾に見切りをつけて外洋に帰って行ったのかもしれません。

 一方、東京で「クジラ」と言えば東京湾ばかりではありません。2015年頃から兜町の証券取引所などにも大きな「クジラ」がしばしば現れるという話をよく耳にするようになりました。

 ここで言う「クジラ」とは、豊富な資金力を基に株式や債券を購入する「公的マネー」を運用する機関投資家のことです。

 普段ははっきりした姿は見せませんが、ときおりその一部が(ぬっと)水面上に出てきては株価の特定銘柄や時には相場全体を押し上げたり押し下げたりする。神出鬼没でその図体(資金力)が大きいことから、市場関係者の間でクジラと呼ばれているということです。

 現在の株式市場では、特に5頭のクジラの存在が知られています。

 1頭目は日本銀行が年6兆円規模で行っている指数連動型上場投資信託(ETF)の買い入れです。累計買入額は既に19.3兆円に達しており、時価ベースの保有額は(2018年3月末現在で)24.4兆円にまで膨らんでいます(2018年3月末時点)。

 そして2頭目はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が挙げられます。保有する日本株は約42.3兆円(2017年12月末)を超えるとされる日本最大の機関投資家です。

 さらに、共済組合、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の積立金においても、貸し出し余力はそれぞれ3.4兆円、10.3兆円、3.4兆円あるといわれており、5頭全部を合わせれば一部上場銘柄の相当な割合がこれらのクジラの影響下にあると考えられます。

 しかしその一方で、市場における(このような)公的資金の拡大が、市場の発展に不健全な影響を与えるのではないかとの懸念も指摘されているところです。

 実際、投資コンサルタントの間には、これら公的資金の売買(パターン)を見越した投資活動を推奨する動きなども広がっているようです。

 巨大な公的資金に翻弄される市場の動きを踏まえ、7月6日の日本経済新聞では「市場のクジラ、お腹いっぱい」と題する興味深い記事を掲載しています。

 2017年度末、約160兆円の公的年金を運用するGPIFでは国内株の運用比率が初めて25%の目安を超えました。大食漢のクジラが日本の株価を上げる構図はここで一旦終わり、これからのクジラは「ESG」(環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance))を切り口に食べ物を選ぶことになると記事はしています。

 2017年度の運用成績を見ると、GPIFは主に国内債、国内株、外国債、外国株の4つに分散して運用しています。(そのうち)国内株の比率は25.14%と2014年に運用改革を始めてから初めて基本ポートフォリオ(資産構成割合)の目安を超え、世界的な株価上昇を受けて2017年度は約10兆800億円の運用益を出しています。

 そもそも、株式市場でGPIFが「クジラ」と呼ばれるようになったきっかけは、安倍晋三政権のもとでの運用改革にあります。デフレ脱却による長期金利の上昇を想定し、巨額の積立資金の国債に偏る運用を見直す必要に迫られた。日本株市場に突然現れ、幅広い銘柄を一気に買うところから市場関係者がクジラと呼んだということです。

 記事によれば、2018年3月末現在、GPIFによる国内株の保有総額は40兆円を超え、保有銘柄も約2300銘柄と東証1部上場企業の多くで大株主になっているということです。

 2014年度以降の累計買越額は推計6兆3696億円と東京証券取引所第1部の時価総額(約630兆円)の約1%に及んでおり、これは日経平均株価を1000円程度押し上げた計算になるということです。

 巨大な体を支えるには、債券も含めたバランスの良い食生活も課題です。満腹になったクジラは、食べ物を選び始めたと記事は記しています。

 最近のGPIFは、東証1部に上場する全企業の株式を同じように買う東証株価指数(TOPIX)に連動した運用を主体としながらも、選別によるグルメ志向を強めているというのが記事の認識です。

 食指を動かすのは環境や社会への配慮、企業統治の「ESG」に優れた企業。2017年度にはESG企業に絞った投資を開始し、既に1.5兆円を投じているということです。

 ESGは持続的な企業の持続的な成長力や安定性を測る指標で、優れた企業は長期で株価上昇や安定した配当が期待できるとされています。GPIFによる投資開始を受け、ESG銘柄とならなかった企業からは「どうしたら入れるのか」と信託銀行などへの問い合わせが相次いだということです。

 一方、基本ポートフォリオで最も配分が大きいとされる「国内債」は、2018年3月末時点で27.5%と目安の35%を大きく下回っています。(記事によれば)その理由は、日銀による大量購入などで(国内債が)品薄となり、「主食」が減ったからだということです。

 資産運用の世界では、規模が大きいほど市場平均を上回る運用成果を上げにくい。クジラの運用も、主食の国内債を確保しながら主菜のリスク資産を成長の力になる中身に変えていく姿が理想で、偏った食事は体調を崩すと記事はしています。

 機関投資家として世界最大規模のGPIFは、既に相場と一体だと記事は指摘しています。

 ならばESGで企業の規律を強めて、市場全体の底上げを図る。グルメになったクジラはこんな青写真も描いていると結ばれた記事の視点を、私も興味深く読み取ったところです。

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♯1115 死刑制度への視線

2018年07月10日 | 社会・経済


 法務省は7月6日、1995年3月の地下鉄サリン事件など合わせて13の事件における殺人罪などに問われ、死刑が確定していたオウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚を含む7人の教団元幹部の死刑を執行したと発表しました。

 戦後日本が初めて経験した(毒ガスなどによる大量殺りくを組織的に企図した)本格的なテロとして国内外に大きな衝撃を与えたこの事件。四半世紀の歳月を過ごした私たちの記憶の中には、バブル経済の崩壊によって社会の混迷を迎えていた時代の日本を象徴するできごととしても強く印象に残っています。

 そして「平成」という時代の幕引きに合わせて、これから彼らは「大事件を引き起こした歴史上の人物」として位置づけられていくということでしょう。

 一方、これらの事件に関与したとされる13人の死刑囚のうち(戦後最大規模となる)7人の死刑を同時に執行した法務省の判断に対しては、死刑制度の廃止を訴える人権団体などから批判の声も上がっているようです。

 7月6日のNHKニュースは、今回の松本智津夫死刑囚ら7人への死刑執行について、EU=ヨーロッパ連合の駐日代表部とヨーロッパ各国の駐日大使は「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない」として政府の判断を批判する声明を発表したと報じています。

 EUは死刑を「基本的人権の侵害」と位置づけており、死刑制度の廃止はEU加盟の条件とされています。声明はまた、「どの司法制度でも判断の誤りは完全には避けられず、それが極刑の場合に起きれば取り返しがつかない」として政府に刑の執行停止を求めるとともに、死刑制度そのものの廃止を促したいとしています。

 国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルによると、2017年末現在、106カ国がすべての犯罪で、7カ国が一部の例外的犯罪を除いて死刑を廃止しているということです。

 また、死刑制度はあるものの過去10年以上にわたり執行がない国も29カ国あり、実質的に死刑がない国は142国。一方、死刑制度を維持しているのは日本を含む56カ国に過ぎず、(いわゆる)先進国で死刑制度を維持しているのは米国と日本のみと言っても過言ではありません。

 強権的な印象の強いロシアでも、1996年に当時のエリツィン大統領が人権擁護機関の欧州評議会に加盟するため死刑執行の猶予を宣言し、2009年には憲法裁判所が各裁判所に死刑判決を出すことを禁じているということです。

 お隣の韓国でも、1997年に23人に執行したのを最後に死刑は執行されておらず、2005年には国家人権委員会が死刑制度廃止を勧告したとされています。

 因みに、(実際の件数は公表されていませんが)死刑の執行件数が世界で最も多いとされているのは中国で、アムネスティ・インターナショナルの推計によれば2016年の1年間だけで「数千件」におよぶと見られています。

 また、中国に対しては、死刑囚からの組織的な臓器移植が行われているという指摘がイギリスBBCによってなされており、倫理的、人道的に許されないものとして各国から批判が集まっています。

 こうした中、7月7日の朝日新聞では、今回のオウム真理教教団元幹部の死刑執行に対する海外主要メディアの厳しい視線を紹介しています。

 独シュピーゲル紙の電子版は「日本は死刑を堅持する数少ない先進国だ」と説明したうえで、「アサハラの死は、支持者には殉教と映り、新たな指導者を生みかねない」とする専門家の指摘を示したということです。

 また、今回の死刑執行を伝えた米CNNは日本の死刑執行室の写真をウェブに掲載し、「日本では弁護士や死刑囚の家族に知らせないまま、秘密裏に死刑が執行される」と報じたとされています。

 さらに英ロイター通信では、「主要7カ国(G7)で死刑制度があるのは日本と米国の2カ国だけだ」としたうえで、日本政府の2015年の調査では国民の80.3%が死刑を容認していると伝えたということです。

 さて、EUの指摘にもありましたが、違法行為への厳罰化、特に死刑制度の維持によって(殺人のような)凶悪な犯罪の企図を抑制できるという主張にはエビデンスが確認できないというのが、学術領域における最近の定説となっているようです。

 それではなぜ、我が国では「死刑を廃止する」という合意は難しいのか。

 そもそも「死刑」という制度は、(あくまで)「理性的なものではない」という前提で考える必要があるのかもしれません。

 勿論、矯正不能な犯罪者を一般社会に復して再び害悪が生じることがないようにするために犯罪者の排除を行うというのがその主旨であることは間違いありません。しかし、それ自体は「終身刑」などで代替することも可能ですし、冤罪のリスクなどを考えれば再審の利益をなくす死刑と言う刑罰は相当慎重に下す必要があるでしょう。

 一方、「目には目を」で知られる紀元前18世紀に定められたとされるハンムラビ典や日本の「仇討」制度などでもわかるように、太古の昔から刑罰の基本には「やられたらやりかえす」という応報性がありました。

 近代刑罰はこうした原理的な応報的刑罰を忌避する態度にありますが、実際のところ「死刑」の底流に流れているものは、犯した罪への贖罪による均衡を求める必然的なエピソードとして世論の中に息づいていると言っても過言ではないでしょう。

 また、死んだ者の魂は死をもってのみ鎮められるという「生贄」の恩讐が、私たち日本人に「死による報い」を求めさせているのかもしれません。

 死刑に関しては、人道的な視点からの非難のほかに、「社会の不寛容が固定化し排除の論理が蔓延する」といった、近代社会論的な指摘もしばしば行われています。しかしその反面、死刑制度自体が、「けしからん」「許せない」といった世論の側の不満や反発に支えられているもの間違いないでしょう。

 社会の安定を図るためには、社会そのものの「納得感」が必要となるのは事実です。

 刑罰に霊的な鎮魂を求める日本人が死刑の廃止を受け入れられるようになるのはいつの日のことなのか。四半世紀の時をまたいだオウム真理教元幹部への死刑執行の報に、私も改めて考えさせられたところです。


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♯1114 革新技術を社会に活かす

2018年07月08日 | 社会・経済


 「サンドボックス」という耳慣れない言葉が、経済紙などの紙面をにぎわすようになっています。

 正しく言えばこれは「レギュラトリー・サンドボックス」という仕組みを指しており、直訳すれば「規制の砂場」というもの。子どもが安全が確保された砂場で思うがままに遊ぶように、企業が限られた期間や範囲で自由に新しいサービスを試すことを認める制度を示す言葉です。

 経済産業省では、アベノミクスの成長戦略の一環として金融情報技術を融合したフィンテックや自動車の自動運転、ドローンや人工知能の活用などの分野でこのサンドボックス制度を導入し、産業への新技術導入に当たってのスピードアップを図るとしています。

 「規制緩和」については、今も地域を限定して規制を緩める「特区」という仕組みがありますが、この特区は、どの規制を緩和するかを国があらかじめ決めて設定する制度です。

 一方、技術が日進月歩で進歩するフィンテックなどの新分野では、(特区のような)個別に規制を選ぶ方式では対応が追いつかないため、海外の競合相手に対して後手に回る懸念が生じたということです。

 そこで、いったん規制を凍結して(一定期間)自由にサービスを試したうえで(改めて)規制のあり方を考えるという、使いやすい制度が求められるようになりました。経済産業省によれば、(前例を前提としない)こうしたサンドボックスの仕組みは、それを可能にする画期的な手法だとされています。

 しかし、ここでいう「サンドボックス」は規制緩和に向けた、あくまで「試行」の一端として位置づけられているのも事実です。積極的に実験をしようという企業が現れないと前に進まないし、技術革新を強力に「後押しする」ところまではなかなかたどり着かないという課題もあるようです。

 そうしたこともあり、3月12日の日本経済新聞の「経済教室」では、東京大学教授の柳川範之氏が「一国多制度検討の時 技術革新と多様化に対応」と題する論評を寄せ、そこからさらに一歩進んだ「一国多制度」の必要性に言及しています。

 第4次産業革命といった言葉を持ち出すまでもなく、現代社会が大きな技術革新の波にさらされていることは疑いの余地がないと柳川氏は言います。

 このため、例えば人工知能や自動運転車、仮想通貨やブロックチェーン技術など、新しく生まれた多くの新技術を社会や経済、生活に生かすため、制度や法律、規制をいかに整理していくかが重要な課題となっているということです。

 一方で、新しい技術が、どのように社会や経済活動に影響を与えるのかは十分には予測できない場合も多く、技術革新に応じて適切な制度を設計し、実装させるのは容易なことではないと氏は説明しています。

 実際、このような制度の巧拙が、その国の国際競争力を大きく左右するまでの事態になっている。現代において国際的競争にさらされているのは企業だけではなく、国際的な制度間競争が激しく行われる時代に私たちは暮らしているということです。

 国際競争力を確保する観点からみても、そしてより良い技術を社会に導入するという観点からみても、これからの時代、技術革新に合わせて制度自体も革新させていくという発想が特に重要になると柳川氏は指摘しています。

 そこで採るべき政策のひとつとして、この論評で氏は、自国内にいくつかの制度を並列的に用意する「一国多制度」の具体化を提案しています。

 一国多制度の存在を可能にすることで、自国内で制度間競争が起きより優れた制度が提供される可能性が高まることになる。また、そうして育った技術の一部が海外との競争において優位性を持ち、勝ち抜く可能性も出てくるということです。

 氏はまた、多様な制度を一国内に持つことのもう一つのメリットとして、企業や消費者の多様なニーズに応えられる点を挙げています。

 現代は技術革新の時代でもあるが、多様性の時代でもあると氏は指摘しています。価値観が多様化し、働き方や生活スタイルの多様性に応じた多様な社会制度を構築することができれば、それぞれの人や企業は自分に合った制度の場所を選ぶようになるということです。

 柳川氏は、今までの日本の社会で一つの方向に速く進むことが求められてきたのは、明確な目標があったキャッチアップ(追い上げ)型の社会だったからだと説明しています。

 しかし、現在は既に多様性の確保が重要な時代を迎えている。なので制度の設計も、それに合った様々な可能性や広がりを担保するもの求められているということです。

 そういう意味で言えば、これまで様々に試みられてきた国家戦略特区や先に述べたレギュラトリー・サンドボックスなどの諸制度も、基本的に別の制度体系を構築するという発想では組み立てられていないと氏は指摘しています。これからは、もっと制度を革新させていくという発想で、多様な制度構築を考えていくことが有用となるということです。

 また、日本においても、連邦制の国ほどではないにしろ(これまでの地方分権の動きの中で)地方自治体にある程度の権限は委譲されていて、一定の枠組み作りは現行法制下においても可能だという指摘もあります。

 もとより、「制度」とは、新しい状況が生まれた際に(不都合に合わせて)対処療法的に整備されるものなので、現状との間にタイムラグが生じるのは(原理的に)やむを得ないと見るべきでしょう。

 であればこそ、技術革新のスピードが驚異的に早まった現代では、(これまでとは違ったレベルで)柔軟な運用が必要となることは言うまでもありません。

 新しい道具を上手く使い安全に管理するためには、(確かに)新しいマニュアルや新しい道具箱が必要となります。

 そうした観点から、革新技術を社会に活かす「ルール」や「システム」を的確に用意することで、それらをよりプラスに取り入れられるだけではなくより多様なニーズにも応えられると指摘する柳川氏論評を、私も大変興味深く読んだところです。

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