MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1259 現代社会はなぜ居心地が悪いのか

2018年12月30日 | 社会・経済


 元外交官で作家の佐藤優氏が、米コロンビア大学教授のマーク・リラ氏の近著『リベラル再生宣言』を踏まえ、週刊文春の1月22日号に『「私たち」という観念を持てなくなったアメリカ社会の危うさ』と題する一文を寄せています。

 佐藤氏によれば、リラ氏は最近40年間の米国は国民の分断を加速する常軌を逸した状態になっていると指摘しているということです。

 米国の政治は、この40年にわたって市民の消滅を助長しそれを喜びさえする二つのイデオロギーに支配されてきた。米国民はかつてないほど多様になり、個人主義の奨励とともに全て包括する民主社会や「私たち」という概念に疑いの目を向けるようになったということです。

 保守派(共和党)では、新自由主義の浸透によって政府は個人に干渉すべきでないという言説が主流となり、一方のリベラル派(民主党)も少数派のアイデンティティを強調するあまり「私たち」という観念を持てなくなった。

 こうして多くの国民がばらばらなアトム(原子)のようになってしまったところに、民主党、共和党の枠組みをも壊す危険なトランプ大統領が登場したとリラ氏は説明しているということです。

 そして、現実にその後のトランプは、(「アメリカファースト」の言葉通り)政治、軍事、経済の様々な手法を使って合衆国と国際社会との分断を図った。人々を性別や人種や階層などの様々な要素に分断し対立をあおることで、自身の価値を生み出しているように見えるということです。

 佐藤氏はここで、このような分断を助長する社会を打破するためには、リベラルの政治に「私たち」という感覚を取り戻さなければならないと指摘しています。それは、私たちは皆同様に市民であり、お互いに助け合って生きているという(共同体的な)感覚だということです。

 米国ほど激しくはないけれど、日本でも「個人がすべて」というアトム的世界観が21世紀に入って急速に社会を覆っているというのがこの論考における佐藤氏の見解です。

 このような状況で社会を束ねていくには、国民統合のシンボルが重要になる。来年5月には改元が行われ日本の社会は新しい時代を迎えるが、その後新天皇の下で「国民統合」を求める動きが強まる予感がすると、佐藤氏はこの論考を結んでいます。

 さて、戦後の言論界に大きな影響を与えた吉本隆明は1968年に刊行した『共同幻想論』において、国家とは構成員が共同で作り出した虚構によって結び付けられた幻想だと看破しています。

 それまでの国家論は、集団生活を成立させるために国家を作ったという社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であるという(マルクスレーニン主義の)考え方など、国家の機能面に焦点を当てたものが主流でした。

 そんな中で吉本は、(国民)国家は人々が創り出したフィクションであると説き、その存在が不安定な共同幻想であるか故、人々は時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖をそこに覚えると説明しています。

 果たして、極めて不安定な現代社会における「私」とはどんなもので、「私たち」とは誰と誰のことを指し、「私たちではない人」とはどんな人たちのことを言うのか。

 共通の利害によって結ばれているという(ある種の)幻想がなければ安心できない「私」がいるからこそ繋がっていたい(幻想上の)「私たち」がいて、そこに「私たち以外の人」の存在を仮想する事で結びつきを強めているということでしょうか。

 若しくは、(反対に)生活実感の中で「私」への信憑が持てなくなったことで俯瞰的な視点を失い、多くの現代人が「私たち」という広がりの観念(フィクション)を持てなくなった。

 人々は自らの不安定さが故に不信感を募らせ、小さな違いの下に分断されお互いに助け合って生きているという(共同体的な)感覚を失ったということかもしれません。

 共通点を探すよりも、違いを意識することでしか自己のアイデンティティを確立できなくなった現代社会にどんな未来が待っているのか。

 少なくとも「私たち」の範囲が狭まれば狭まるほど、社会は恐怖と隣り合わせの(極めて居心地の良くない)脆弱なものになると言わざるを得ないでしょう。




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