最後に思うこと!

マンドリンに出会って55年いろいろありました。

マンドリン友の会

2020年09月01日 | 思い出


<コンサート・お知らせ>


門下生発表会  
2021年2月6日(土) 13時開演
天王寺YMCA


ナーシャムジカ 第30回演奏会 
2021年4月18日(日) 14時開演
静岡AOIホール


ながおかマンドリーノ 第40回定期演奏会 
2021年5月15日(土) 14時開演
京都コンサートホール ムラタホール



クラーラ・マンドリーノ 第14回演奏会 
2021年6月13日(土) 14時開演
大和郡山城ホール 小ホール

マンドリーノ・エレガンテ 第20回記念演奏会
2021年7月3日(土) 14時開演
京都府民ホール アルティ


マンドリンアンサンブル ポプリ 第22回演奏会
2021年9月X日(日) 14時開演
大阪狭山市 SAYAKAホール



はるか昔に・・・

2019年08月23日 | 思い出
50年近く前、私がドイツに行く前に今はなき「フレット楽器オザキ」の京都・東山五条の小さなお店で少しだけマンドリンのレッスンをさせてもらっていました。その頃習いに来てくれていた同志社女子高マンドリンクラブ、同志社大学マンドリンクラブに入ったばかりの「タロウちゃん」、女の子ですが、小柄でおかっぱ頭をしていましたので?、私が知った時には、もうそういうアダ名がついていました。彼女の訃報を最近知りまして「はかなき青春」の曲と詩ともに、否応なしに昔を思い出していました。まだ65歳だったそうです。自分より若い人が亡くなるのは、辛いものですね。

青春とは?

2019年08月17日 | 思い出
青春
サムエル・ウルマン 岡田義夫訳
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。
  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。


とは言え?

はかない青春

2019年08月17日 | 思い出
作曲家の壺井一歩さんに「朗読とマンドリン独奏」 ~ ヘルマン・ヘッセの詩句による 12 のスケッチ ~(委嘱初演) を書いていただきました。
以下の12編の詩から緑の部分を朗読してから曲に移ります。

2020年3月7日(土)14時
京都府民ホール アルティ
マンドリーノ・エレガンテ第20回記念演奏会 第2部で演奏します。

はかない青春
~ ヘルマン・ヘッセの詩句による 12 のスケッチ ~
1)告白(Geständnis)

私の友だちは、だれか?──
大洋の上空にまよった渡り鳥、
難破した船のり、羊飼いのいない羊の群れ、
夜、夢、ふるさとを持たぬ風など。

私があとにして来た道ばたに、
こわれた寺院や、荒れ放題で
夏のように茂った蒸し暑い愛の庭がある。
しおれた愛の身振りの女たちがいる。
八重の潮路がある。

それらは、声もなく、跡もなく横たわっている。
沈んでしまったものを、だれも知らない。
王冠も、栄華の時も、
キヅタにからまれた友のひたいも。

それらは私の歌に揺られて横たわり、
夜ごと私の夜の中に青ざめた姿をほのかにあらわす、
私のやせた右手がせわしく
鉛筆で私の命をかきまわすと。

私はついぞ目標に達したことがない。
私のこぶしはついぞ敵を圧倒したことがない。
私の心はついぞ満ちたりた幸福を味わったことがない。




2)エリーザベト(Elizabeth Wie eine weise Wolke …)

高い空に浮かぶ
白い雲のように
あなたは、白く、美しく、遥かです、
エリーザベトよ!


雲は行き、さまようのに、
あなたはほとんど気にとめない。
しかし、暗い夜中に
雲はあなたの夢に通うのです。

行く雲は銀色に輝くので、
その後は絶え間なく
あなたは白い雲に
甘い郷愁を寄せるのです。

3)霧の中 (Im Nebel)

不思議だ、霧の中を歩くのは!
どの茂みも石も孤独だ。
どの木にも他の木は見えない。
みんなひとりぼっちだ。

私の生活がまだ明るかったころ、
私にとって世界は友だちに溢れていた。
いま、霧がおりると、
だれももう見えない。

ほんとうに、自分をすべてのものから
逆らいようもなく、そっとへだてる
暗さを知らないものは、
賢くはないのだ。

不思議だ、霧の中を歩くのは!
人生とは孤独であることだ。
誰も他の人を知らない。
みんなひとりぼっちだ。

4)恋の歌 (Liebeslied)

私は雄ジカ、そなたは小ジカ、
そなたは鳥、私は木、
そなたは太陽、私は雪、
そなたは昼、私は夢。


夜、私の眠っている口から、
金の鳥がそなたのもとへ飛んで行く。
その声はさえ、翼はきらびやかな色。
鳥はそなたに恋の歌を歌う。
鳥はそなたに私の歌を歌う。

5)私は星だ (Ich bin ein Stern)

私は大ぞらの星だ。
世界を見つめ、世界をあなどり、
自分の熱火に焼け失せる。
私は夜ごとに荒れる海だ。
古い罪に新しい罪を積みかさねて、
きびしいいけにえをささげる嘆きの海だ。


私はあなた方の世界から追われ、
誇りに育てられ、誇りにあざむかれた。
私は、国のない王さまだ。

私は無言の情熱だ。
家ではかまどがなく、戦争では剣を持たない。
自分の力のために病んでいる。

6)取消し……(Rücknahme)

私は、あなたを愛する、とは言いませんでした。
私はただ、握手をして下さい、
そして私をゆるして下さい、と言っただけです。

あなたは、私に似ている、
私と同じように若くやさしい、と思われたのです。
−− 私は、あなたを愛するとは言いませんでした。


7)少女がうちですわって歌う(Das Mädchen sitzt daheim und singt…)

白い雪よ、冷たい雪よ、
おまえは遠い国で
わたしの恋人のトビ色の髪の中に、
わたしの恋人のいとしい手の上に落ちる。

白い雪よ、冷たい雪よ、
あの人も寒くはないかしら?
言って、あの人は白い野原に寝ているの?
それとも、暗い森の中に寝ているの?

白い雪よ、偽りの雪よ、
私の恋人を憩わしておくれ!
一体なぜおまえはあの人の髪をおおい、
あの人の目をふさぐの?

偽りの雪よ、白い雲よ、
あの人は死んではいない、
きっと捕らえられて、
水を飲み、パンをたべているに違いない。

きっと、まもなくあの人はもどってくる、
もう家の外に立っているかも知れない。
私は涙をふかなくてはならない、
でないと、あの人を見ることができないから。

8)はかない青春 (Jugendflucht)

疲れた夏が頭を垂れて、
湖に映った自分の色あせた姿を見る。
私は疲れ、誇りにまみれて歩く、
並木道の影の中を。

ポプラの間をおどおどした風が吹く。
私の後ろの空は赤い。
私の前には、夕べの不安と、
−−−− たそがれと −−−− 死とが。

私は疲れ、ほこりにまみれて歩く。
私の後ろには、青春がためらいがちに立ちどまり、
美しい頭をかかげ、
これから先はもう私と一緒に行こうとしない。


9)病気 (Krankheit)

夜よ、ようこそ!昼よ、ようこそ!
私は眠りにこがれる。私はもう起きていられない。
もう考えることも、泣くことも、笑うこともできない。
ただ眠りたい。
百年も千年も眠りたい。
頭上を星が移って行く。
私がどんなに疲れているか、母は知っている。
母はほほえみながらかがむ。髪の中に星が光っている。

母よ、もう夜を明けさせないで下さい。
もう昼が私の中にはいってこないようにして下さい。

白日の光はひどく意地悪で敵意を持っています。
私にはそれを言うことができません。
私は長い熱い道を歩きました。
私の胸はすっかり燃えてしまいました—
夜よ、開け、そして私を死の国に導け!
他に願いはない。
もう一歩も歩けない。
母なる死よ、手をかして、
あなたの無限な目をのぞかして下さい!

10)わが母に(Meiner Mutter)

お話ししたいことが、たくさん、たくさんありました。
私は随分と長いあいだ異郷に暮らしましたが、
いつの日にも終始私をいちばんよく
理解してくれたのは、あなたでした。

長いあいだあなたに差し上げようと思っていた
最初の贈りものを、私が
おどおどする子供の手に持つ今
あなたは目を閉じておしまいになりました。

それでもやはり、これを読むと、
自分の悲しみが不思議と忘れられるのを感じます。
言いようもなくやさしいあなたというものが
千もの糸で私を取り巻いているのですから。

11)回想 (Rückgedenken)

斜面にエーリカが咲いている。
エニシダが茶色のほうきのように見つめている。
五月の森がどんなに柔らかい緑だったか、
今日まだだれが覚えていよう?

どんなにツグミの歌とカッコウの叫びが
ひびいたか、今日まだだれが覚えていよう?
あんなに魅惑的にひびいていたものが、
もう忘れられ、歌いつくされた。

森の中の夏の夕べの祭り、
かなたの山の上の満月、
だれがそれを書きとめ記憶にとどめているか。
何もかももう散りぢりになってしまった。

間もなく君のことも、ぼくのことも、
知る人も語る人もなくなるだろう。
ここには他の人々が住み、
私たちはだれにも惜しまれないだろう。

私たちはよいの明星と
初霧を待とう。
神さまの知ろしめす広い庭で
私たちは喜んで咲き、しぼもう。




12)平和に向かって (Dem Frieden entgegen)

憎しみの夢と血の乱酔から目ざめたばかりで、
まだ戦争の電光と殺人の騒音に
目は見えず、耳は聞こえず、
身の毛のよだつようなあらゆることになずんでいるが、
疲れはてた戦士は
恐ろしい日々の営みをやめて、
武器から離れる。「平和!」とひびく、
おとぎ話の中からのように、子供の夢の中からのように。
「平和!」だが、心は敢えて喜ぼうとしない。
心には涙のほうがずっと近いのだ。


私たち哀れな人間は
善いことも悪いこともできる。
動物であると同時に神々なのだ!
苦しみと恥とが、きょうはまだ
私たちをなんと地面におしつけることだろう!

だが、私たちは希望する。私たちの胸の中には
愛の軌跡の
燃える予感が生きている。
兄弟よ!私たちにとっては、
精神に向かって、愛に向かって、帰る道が、
すべての失われた天国に向かって、通じる門が開かれている。

欲せよ!望めよ!愛せよ!
世界は再び君たちのものになった。

死んだ男の残したものは、ふと頭に浮かんだが?

2019年05月20日 | 思い出
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

2.
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

3.
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

4.
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

5.
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

6.
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない

7.
死んだマンドリン弾きが残したものは?


日本マンドリン 連盟

2019年01月27日 | 未来へ
本日、日本マンドリン 連盟・関西支部の総会があり、そこにおいて私が支部長に選出されましたので報告します。
これからは支部の活動にとどまらず、積極的に連盟に関わって行こうと思っていますので、
ご協力よろしくお願いします。

最後に。

2018年07月29日 | 思い出
これでブログは終わりです。
長らくお付き合いくださいましてありがとうございました。
この3ヶ月、なぜか急に終活をしたくなり、You Tube に動画をアップしたり、ブログで自分史もどきを書いてみました。
70年間を振り返りながら、思い出したくないことには蓋をしました。
時に、思い切ってしたな ~ とか、周りの人のことなど考えずに進んでしまったかもしれない・・・とか。
今更、反省をしても遅きに失しています。もう先の見えてる人生です、お許しください。

So ist das Leben(人生なんてそんなものさ)、
C’est la vie(これが人生さ)
Whatever Will Be, Will Be(なるようになるさ)

どこの言葉で言っても、結局は「ケセラ セラ」。


誕生日にいただいたフィギアの髪の毛が多すぎるとか???

マンドリン・アンサンブル・カワグチアーナ

2018年07月28日 | 思い出
私と一緒にアンサンブルをしたいなぁ(指揮でなく)と言う、キトクな あるお弟子さんの言葉がきっかけとなり、2014年「マンドリン アンサンブル カワグチアーナ」という団体を結成しました。
さかのぼること20年程前、「大学を卒業したけれどもう少しマンドリンを続けたい!」という若い人達と「イプシロン」というアンサンブルを作り、3回演奏会をしました。〜なぜ3回かというと「3年間はお嫁に行かずにマンドリンを続けます♡」と言う女性がいたからです。
カワグチアーナも3回完結、ということで始めました。今度は、「3年間は老体に鞭打って頑張ろう!」という私の決意です。
音楽が、マンドリンが、ギターが…大好きなんだ!という思いが皆様に伝われば嬉しいです。というような挨拶で始めました。

第1回目は2015年6月、大阪のザ・フェニックスホールで開催しました。
この時はアンサンブルが中心の選曲をしました。
毎回ラテン語の標語を設けていました。(きっかけは、オースン・スコット・カードの無伴奏ソナタというSF本の巻頭に、ベン・ホーヴァが書いた作者への励ましの言葉が「アド・アストラ」星を目指そう、であったからです。)

1回目は「per aspera ad astra」(苦難を通して星々へ、困難を克服して栄光を獲得しよう)






2回目は2016年6月、京都コンサートホール・ムラタで開催しました。
この時は協奏曲をテーマに選曲しました。
「Lunae radiosi non maturescit botrus」(月の光で葡萄は熟さない)





3回目は2018年3月、大阪いずみホールで開催しました。この時はカワグチアーナのメンバー以外に「Gran Partita Mandolin Quartetto」「KaVa san Trio」の皆さんにも出演して頂きました。
「Sol crescentes decedens duplicat umbras」(夕日は影を2倍にする)









KaVa san Trio


Gran Partita Mandolin Quartetto


演奏会の後には、ホテル ニューオータニで古希記念音楽パーティもして頂きました。



ステージマネージャーの巣之内さん、お世話係をしてくださった長峯さんには心から感謝しています。


ガラス工芸家の岡田親彦さんに作って頂いた カワグチアーナ の記念の品。

猫も欲しいようです。


根岸さんが書いてくれた素晴らしい<プログラムノート>より抜粋させて頂きます。

 朝より囘りて 日日春衣を典し
 毎日江頭 醉を盡して歸る
 酒債尋常 行く處に有り
 人生七十 古來稀なり
 花を穿つ蛺蝶 深深として見え
 水に點ずる蜻蜓 款款として飛ぶ
 傳語す風光 共に流轉し
 暫時相賞して 相違ふこと莫れと

 「古稀」という語の由来となった杜甫の『曲江(二首其二)』は、「どうせ七十までなんて生きられっこない(だから今のうちにせいぜい楽しんでおきたいものだ)」という心境を映しているとのこと。この詩を詠んだころの彼は、苦労の末ようやく中央で官職を得たものの、あることで皇帝の怒りを買って地方に左遷され、自棄酒を煽る毎日だったそうです(「酒債尋常行く處に有り」=酒代のツケだけはどこに行っても残っている)。はたして彼は、古稀はおろか還暦を迎えることもなく(そして都に戻ることも叶わず)その生涯を閉じています。
 本日のプログラムに並んでいる作曲家たちに目を向けますと、ドミトリイ・ショスタコーヴィチは68歳で、アントニン・ドヴォルザークは62歳で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはわずか35歳で、それぞれ旅立っています。ショスタコーヴィチは20世紀に、ドヴォルザークは19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、モーツァルトは18世紀後半に生きた人たちですから、もちろん現代とはあらゆる条件が違ってはいるのですが、それでも彼らの享年を知ると、史上前例のない長寿社会に生きる我々がともすれば忘れてしまいがちな「人生七十古來稀なり」という感覚が、蘇ります。
 さて、70歳といえば、古来より稀なだけでなく、心のままに行動しても道を踏み外すことがなくなる年齢「従心」でもあります。そんな先生と、先生を慕う出演者一同がひとつとなって、心のままに奏でる(道を踏み外していないかどうかは、さておき)大作曲家たちの残した名曲を、どうぞお楽しみください。

 子曰く
 吾 十有五にして學に志す
 三十にして立つ
 四十にして惑わず
 五十にして天命を知る
 六十にして耳順う
 七十にして心の欲する所に從いて、矩を踰えず

GoGoマンドリン 〜 ありがとうCD!

2018年07月28日 | 思い出
2003年、55歳の誕生日に憧れの大阪・ザ・フェニックスホールで弦楽四重奏と一緒に演奏会をしました。


この時はまだ自称「ゴーゴーガールズ!」


その時のプログラムの挨拶です。

「誕生日に演奏会を開くなんて恥ずかしい気持ちもあるのですが、昨年歩いている時にふと思ったのが今日、2003年3月13日、私は昭和23年3月13日生まれ、ゼロをとれば全く同じ数の並びになります。これはこの日に何かしなくてはと言う実に下らない理由でした。その上に55歳になるからGO!GO!マンドリン!とか大阪ならではのダジャレ演奏会になってしまいました。とは言え演奏会自体は決してふざけたつもりはありません。短調の曲ばかりになってしまいましたが、ひと時「哀愁、叫び」を感じていただければ幸いです。振り返ることの増えた今日この頃ですが、もう一度前を見て上を見て残りの人生を過ごしたいと言う気持ちもくんでいただけたらと思います。」      

<この時は、思い出を語りながらもまだ、将来があるような口ぶりです。>

この5年後にまたもやダジャレコンサートをしてしまいました。(還暦記念コンサート 全員集合!は 翌年1月25日にシンフォニーホールにて開催。)


この時のプログラムの挨拶です。

「還暦!感激!コンサート」にお越し頂きありがとうございます。5年前にこの会場で「Go!Go!マンドリン!」を開催してから本当にあっという間に還暦という日を迎えてしまいました。ありきたりの言葉ですが・・・思えば遠くまで来たものです。この道を志した時、猛反対した父は昨年他界。その陰でずっと応援してくれた母とは、高校の時以来初めて近くで生活するようになり、親孝行の真似事を始めました。あとどれくらい弾けるか判りませんが、バッタリ逝く時もマンドリンを片手に持っていられたら好いな、と思う今日この頃です。

<ここに書いた「親孝行」を少しもできていない古希までの10年でありました。>
最近は杉本真人(すぎもとまさと)の「吾亦紅」にある母の言葉「親のことを気遣う暇に、悔いのない自分を生きろ」を都合よく解釈して生きている次第です。

この時の演奏会では、来て頂いたお客様にクッキーをお土産としてお渡ししました。


2013年、65歳の時にしました「マンドリンでバッハ!」のコンサートの時から演奏会の度にお客さんにお持ち帰り頂く、「ありがとうCD」を思いつき、毎年作るのが楽しみになりました。

2013年、「昭和の歌謡曲」を 松本吉夫さんのギターと。


2015年、スペインの「情熱」的な曲を KaVa san Trio で。


2016年、東欧の「哀愁」を KaVa san Trio で。


2017年、石村隆行さんとの二重奏「絆」


2018年、「思い出」の曲を集めました。

還暦記念コンサート 全員集合!

2018年07月27日 | 思い出


2009年1月25日に大阪シンフォニーホールで還暦コンサートをさせて頂きました。


「丸太や」さんの記念品。

その当時、私は4つのクラブを指導していて、他にもフィオレンティーノというアンサンブルに参加していました。

ながおかマンドリーノ:1980年に帰国して、当初は京都府長岡京市に住んでいました。そこに「マンドリンのアンサンブルをしているのですが、指導をお願いできませんか?」と突然二人のご婦人が訪ねて来られたのです。「どうして、私がいることを知ったのですか?」と聞くと、大阪にササヤ書店という楽譜屋さんがあり、マンドリンの楽譜を探している時、マンドリン連盟の九州支部長だった児玉さんという方に出会い、話をしていたら長岡京市に住み着いた私を紹介してくれた、との事でした。以来、「日本で一番よく練習する合奏団」と自負していますが、毎週金曜日に集まり、今年(2018年5月)は37回目の定期演奏会でした。このクラブの特徴は毎年、第2部にゲストを呼んで共演するのです。37回ですから、もうほとんどの楽器(弦楽器、ピアノ、歌はもちろん、珍しいツィンバロン、胡弓、マリンバ、津軽三味線、ハープ、リコーダーなど)を制覇して、次はどの楽器の方にお願いするか頭を悩ませています。ちなみに2019年はチェロの予定です。


マンドリーノ・エレガンテ:長らく京都の音楽教室「十字屋」でマンドリンのグループレッスンをしていた方が高齢になられ、私が引き継いでレッスンを始めました。その頃は10数人で、ボランティアで病院などに演奏に行くくらいでしたが、そのうち定期演奏会をしようということになり、その時に「マンドリーノ・エレガンテ」と命名。始めは京都市内の教会や小さなホールで、そしてだんだん、アンサンブルホールムラタやアルティで開催するようになり、今年(2018年4月)は第18回の定期演奏会でした。その名の通り、エレガントな?方ばかりですが、近年は少し若い人(50代)も入部して来て張り切っています。ちなみに最高齢は90歳の男性です。

http://mandolino-elegante.music.coocan.jp/index.html

クラーラ・マンドリーノ:奈良の「十字屋」で数人で集まってマンドリンアンサンブルの練習をしていた方が、京都の十字屋で練習を始めたばかりの私たちを見学に来て、依頼を受けました。このアンサンブルは、ずっと10数人で活動していますが、少人数は少人数でそれなりの良さがあり、バロックの曲が好きで、1年半ごとの演奏会には必ず1曲は入れています。咋年(2017年11月)に第12回演奏会をいつもの大和郡山城ホールで開催しました。

http://www.klara-mandolino.com/index.html

アンサンブル・ポプリ:私が現在住んでいる堺市の隣、大阪狭山市を拠点として活動しています。「この南の地域にマンドリンの団体がないね〜」とお弟子さんと話していたのがきっかけで、1997年に地元の情報誌に募集記事を出して7名が集まり、アンサンブルを始めました。公民館祭りなどに出ていましたが、だんだんとメンバーが増え1999年に第1回定期、それから毎年9月の初めに行う演奏会も今年(2018年)で第20回目を迎えます。今では20代から70代まで、50人を超える大所帯となりました(いまだに「アンサンブル」という名前ですが・・・)。学生時代にマンドリンクラブを経験していた人が大半を占めるので、難易度の高い曲も結構こなしています。

http://soleil.music.coocan.jp/m-e-ppr.htm

チルコロ・マンドリニスティコ・フィオレンティーノ:私が西ドイツに行く前にアンサンブルに参加させて頂いていました。帰国した時も大変お世話になりましたが、アンサンブルの主催者が亡くなり、その後を継いでいた方も亡くなって、この還暦コンサートの数年前にふたたび参加したご縁で還暦の時、出演して頂きました。残念ながら今は活動を休止しています。


これらのクラブの皆さんと、以前教えた生徒(プロで活躍している方も)の皆さんにも参加してもらい、写真で見ていただけるような素晴らしい演奏会ができました。

第2部 選抜メンバーのアンサンブル


全員での圧巻の大合奏。ステージマネージャーの「夜も眠れない程の」心労がわかります。


指揮:石村隆行


指揮:吉田剛士(直前に転んで左手骨折)


指揮:川口雅行

赤いちゃんちゃんこ


司会:大槻温子さん(ステージのセッティング替えの度に、ベテランの機転でつないで下さいました)


この演奏会に際し、裏方で尽力していただいた方々に心より御礼申し上げます。

グラン・パルティータ・マンドリン・カルテット 〜 G.P.M.Q.

2018年07月26日 | 思い出
2005年にちょっとしたきっかけからこのカルテットを結成する事になりました。高松から訪れていた宮武くんに、大阪市内のマンドリン専門店でばったり会い久しぶりだなあ、と話をしている時、彼がヴィナッチャのマンドラをそれも「ブレヴェタート」を持っているのを知りました。今までマンドリンのブレヴェタートは私も持っていましたが、マンドラは初めて見ました。これは貴重な事だ、有効に使えないかと考え、思わず「カルテットやらない?」と誘っていました。あとの二人はすでに頭に浮かんでいました。高橋くん(マンドリン)と石村くん(マンドリュート)です。
初めて京都に集まって練習した後、呑みに行った先で、石村くんが「グラン・パルティータ」という言葉を口にして、カルテットの名前をそれにしよう!とその場で決定しました。このカルテットの問題点は各自が遠距離に住んでいるという事。基本的には京都の石村くんの家で練習させてもらいましたが、4人が集まれる日程を決めるのが大変でした。それでも合宿と称して冬の有馬温泉でコテージを借りて練習したり、デビュー演奏会に向けて着々と準備をしました。演奏曲では野田雅巳さんに委嘱した「アルクイユの巨匠」がとても難しく京都在住の野田さんに来て頂きアドヴァイスをしてもらいました。

2006年6月に京都の府民ホールアルティと東京の市ケ谷ルーテル教会でグラン・パルティータ、デビュー演奏会をしました。
京都のチラシ。

市ケ谷ルーテル教会でのリハーサル。ちょうど東京にいた吉田くんがリハーサルを聴きに来てくれました。

演奏会の衣装。

演奏会は自分で言うのもなんですが、好評だったと思います。
熱心なファンは京都、東京とハシゴをしてくれました。

2008年には福岡のマンドリン・ギター専門店「フォレストヒル」の森岡社長の応援でCDを作って頂きました。録音も福岡でしましたので、いつもと反対の方向へ移動し、なんとかCDが出来上がり、今度はCD発売記念コンサートです。

CD用に本格的に写真撮影もしたのでチラシの写真もかっこいいでしょ。

真面目バージョン。

少しおふざけバージョン。

記念コンサートも無事に終わりましたが、録音と演奏会の疲れで休憩。遠距離恋愛はなかなか難しく、メンバーそれぞれの活動も忙しくなり、休業状態になってしまいました。2018年3月の「マンドリン アンサンブル カワグチアーナ」のラストコンサートで久しぶりに演奏しました。

ここで余談。
宮武省吾君との出会い:彼が高校1年の時、私が高松で演奏会をした時にマンドリンクラブの顧問の先生と初めて聴きに来てくれていたようです。
私がドイツから帰って来た頃に、彼がちょうど大学生で京都に来たので個人レッスンを受けに訪ねてくれました。大学を卒業してからは、ドイツ・ヴッパータールの音大のマンドリン科に留学して研鑽を積みました。彼は音楽性が豊かで、指揮も上手で、とても良い性格。お仲間もたくさんいます。欲を言えば、もうひといき、テクニックをもっと詰めていってほしい?今からでも、期待しています。

高橋和彦君との出会い:ギタリストの中野義久さんと九州演奏旅行で鹿児島に行った時に初めて聴きに来てくれて、その時はまだ大学で獣医学を学んでいたようです。でもその後マンドリンを生業にしよう、と京都に出て来て、バイトをしながら1年間個人レッスンを受けて、マンドリンの独奏コンクールで第2位「銀賞」を獲得しました。その後、素晴らしいピアニストも(公私ともに♡)獲得。お弟子さんにもコンクールの優勝者を出しています。

石村隆行君との出会い:彼は早くから音楽の素養があったので、音楽大学に進んでもよかったくらいの人でした。中学の時はギター、高校の時はマンドリンクラブの指揮者として活躍、大学からマンドリンを本格的に始めたのですが、レッスンでは真面目に練習をして来て、与えられた課題をクリアしなかったことはありませんでした(ただレッスンの時に必ず缶コーヒーを持参して、飲んでから始めました)。その後、イタリアのパドワに留学してマンドリンの研究(イタリアの先生に習いに行ったのですが、きっと彼の方が技術は上なのでそんなにレッスンは必要なかったでしょう)を続け、知識も豊富、今も多くの合奏曲の編曲を次々と行なっています。私の希望としてはもっと全国各地で演奏会をしてくれたらなあ、と思います。そうそう、とても若い方と結婚して二人の可愛いお嬢さんに恵まれる(ディズニーランドに行ったりする)なんて、失礼ながら想像もできませんでした。

東北のマンドリン関係者に感謝!とペースメーカーの話。

2018年07月25日 | 思い出
子供の時代の項に、静岡を離れるまでずっとおばあちゃん子だった、と書きました。そのせいかどうか分かりませんが、挨拶が苦手で「ありがとう、おはよう、ただいま、ごちそうさま・・・」などがなんか照れ臭いというか言えない人になってしまい、いろんなところに不義理をして来たように思います。

初めて東北の地に足を踏み入れたのは1977年、私がまだドイツにいた時代ですが、夏休暇で日本に帰ってきた時でした。山本ミュージックのご主人と平山英三郎先生に誘って頂いて、東京のオルケストラ・シンフォニカ・タケイと青森公演に行きました。青森には松緑神道大和山(しょうろくしんとうやまとやま)という宗教団体が運営する「松風塾」という全寮制の高等学校あり、そこではなんと、マンドリンとギターが必修科目だったのです。この時はタケイの楽団と松風塾高校のジョイント・コンサートでした。演奏会の前の日は、ちょうど「ねぶた祭り」で私たちは皆、はっぴに着替え、ねぶたの後ろについてお祭りに参加しました。演奏会の後の打ち上げは松風塾に帰って来て、大和山の皆さんが畑で作った物や海の幸、特に帆立貝づくしは後にも先にも見た事のない程、圧巻の歓待をして頂きました。もう30年以上前の事ですが、ありがとうございました。

日本に帰国してから、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの人とバロックアンサンブルを編成して、東北を回りました。演目はドイツで集めたバロックの数々。その頃できたばかりだった仙台郊外の「バッハホール」で演奏させて頂きましたが、その折には、高橋五郎先生に大変お世話になり、改めて御礼申し上げます。

山本譲二の「みちのくひとり旅」に引っ掛けて、マンドリン1本で東北一周の演奏会をしたときには本当に各地のマンドリンクラブにお世話になりました。
チラシに使ったイラスト画。


KaVa san Trioでも演奏会をさせて頂きましたが、その時は青森や山形で思いがけず、さくらんぼの収穫期で、さくらんぼ街道や打ち上げの席で甘くて美味しい赤い宝石を一生分ほど堪能しました。盛岡では、生まれて初めて盛岡冷麺を食べましたが、ゴムのようで噛み切れず飲み込めず、なんだこれは?と思いましたが、美味しかったです。

1994年には再び、マンドリン・ソロの演奏会を企画して東北を何箇所か回る事になりました。各地の会場の準備をして頂きチラシも出来て集客も始まっていたと思われます。しかし、その前から心臓の脈拍が少しづつ遅くなって来ている事は気づいていて、時々貧血のような症状が出て倒れかけたりしていたので、ビタミン剤でももらうつもりで近所の藪医者に行ったら、「年のせいですね。少しジョギングでもしたらどうですか」と言われました。でもお弟子さんの勧めもあって、演奏会の前に治しておこうと、堺市でも大きな病院に見てもらったのですが、まず若い先生の診察の段階では特別に何も言われなくて、次に心電図をとってもらったらその担当の看護婦さんが慌てて部屋を出て、偉い先生に報告しに行きました。するとその先生がすぐに来て、「心臓の何とかいう病気だから、今日はこのまま入院してください」と言われてしまいました。これは大変な事になったと青くなりながら、しかし、来週に迫っていたツアーの主催者の方々に一刻も早くに連絡しないといけないので、「明日入院します」と看護婦さんに言い残して、勝手に帰宅しましたら、それを知った医師から家に電話があり、「警告したのにご主人が帰ってしまいました。命の保証はいたしかねます‼︎」と叱られたそうです。その日のうちに演奏会をキャンセルすることを伝えましたが、皆さん事情をわかって快く了解して下さったのです。本当にあの時は多大なご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。次の日入院しましたが、病名は心臓の「完全房室ブロック」。初めて耳にしましたが、心臓が弱ったわけではなく器官の故障みたいなものです。ペースメーカーを埋め込めば普通に生活できるようになるとのことでした。(それから今日まで4回電池交換でペーメーカーを替える手術をしました。)手術は、なりたてホヤホヤの若いお医者さんの練習台みたいなものでした。部分麻酔なので会話は丸聞こえです。初回はまず体外ペースメーカー取り付ける為、首から心臓までリード線を通すのですが、若い医者が3回失敗すると監督していた教授が「はい、お前、スリーアウト!チェンジ、交代!」と言って自分でやり始めるのです。私は3回も首に痛い針を通されて、初めからお前がやれよ〜。と言いたかった。
2回目の時は、やはり大学を出たての先生が部分麻酔をしてくれたのですが、すぐにメスを持って切り出し、ものすごく痛くて思わず「痛い!」叫んだら、医者は「あれえ、まだ麻酔効いてなかったんだ」それだけか、少しは謝ってくれよと言いたかった。
6〜7年間、体内にペースメーカーが入っているとその周りに自然と肉がくっついてしまいペースメーカーを交換する時にくっついた肉をメスで削ぎ落とすのですが、3回目の時、難しいその処置の時にメスでリード線の皮膜を傷つけてしまい、2本ある線の1本しか使えなくなって、そのためにせっかく選んだ最新のペースメーカーの機能が使えなくなってしまいました。でもその事は全ての手術が終わって確認の検査でわかった後なので、もう一度手術し直してもう1本新しいリード線を入れるのもかなわんので「まあ、いいか。これでも動く。」で終わってしまいました。でもその事に関しては医者は何も言わず。少しは失敗を認めろよ、と言いたかった。
次回は「ドクターX」に頼みたい。
こうして立派な「身体障害者」になり、周りからは「メカ カヴァさん」と言われ、でもいいもんね。JRの乗車券半額、などの特典?もあるし、医療費も安いから。


台湾、余談。

2018年07月22日 | 思い出
初めて台湾を訪れた時の衝撃!
(これらの体験は1995年当時のもですから、今は改善されています。)

初めて奇美実業の8階建ての立派な本社に行った時に、トイレは水洗なのに、「使用済みの紙を流してはいけません。横に置いてあるバケツに捨ててください。」とありました。トイレットペーパーの品質がよくないから詰まってしまうのかな?台南市の下水処理施設がまだ整っていないからとのことでした。
この数年前に中国の上海や蘇州に行った時に入った穴あきトイレのことを思ったらだいぶマシかな、とも思いましたが。

台湾では日本のお寿司もよく食べましたが、煮魚、焼き魚もあります。魚には骨があるので、よく喉に骨が刺さって4〜5回は耳鼻咽喉科に行った事のある私は苦手なのですが、こちらの方は魚を食べると、お皿に向かって、ぺっぺっと器用に骨を吐き出します。日本人だったら骨をお箸でつまむか、指で掴んで口から皿に持っていくか、少し隠すようにすると思うのですが。それが庶民だけでなく皆さんそうしているので、驚きました。

街中にはバイクが多く走っていました。排ガスと土ぼこりを避けるために皆、色とりどりのマスクを付けて、子供をたくさん乗せて(時に1台のバイクに5人くらい乗せて‼︎)怖くないのかと思いますが、子供達も慣れているのか平気なようでした。またその間を走る乗用車も大変だと思いますが、あまり事故もなく過ぎているのなぜかなと思ったら、「早い者勝ち」というルールが徹底しているようです。石さんもそうでしたが(台湾では、車は右側通行)、たとえば2車線で左を走っていて次に右折しようと思ったら、あらかじめ右車線に移ってから右に曲がるのが普通ですが、石さんの場合、曲がりたいと思ったら、左車線のまま突然右へのウインカーを出し、右車線を走っていたバイクや車を全部止めさせて、自分は当たり前のように右折していきます。助手席に乗っていた私はもうヒヤヒヤでした。それでも石さんは事故を起こしたことがないと自慢していました。
いわく「早い者勝ちです」。でも路線バスやタクシーの車体が、キズや凹みだらけだったのにも舌を巻きました。

石さんと車で街中を走っていると、突然スピードがゆっくりなる時がありました。なぜ?と聞くと「私に三点式を見せたい」というのです。三点式とは水着の「ビキニ」のことですが(私が若いオネエさんを好きなのを見透かされていたか)、車の往来の激しい場所で、露出度の高い格好で檳榔(ビンロウ)を売りさばいている色っぽい看板娘を私に見せようとしていたのですね。(ビンロウは、ヤシ科の植物で、この実に石灰をまぜたものが台湾ではタバコのような嗜好品として親しまれていて、作用としては覚醒効果があり、ドライバーの眠気覚ましとして使用されていたようです)。ビンロウは食べるのでなく、噛んで味わって、あとは捨ててしまうのですが、唾と一緒に吐きだすので、赤い唾の跡が道路のそこかしこに有りました。
セクシーな看板娘さんが、わき見運転、事故の原因になりかねないとして、最近は規制になったとのこと、残念な気がします。
写真のような小屋が道端にたくさん出ていました。


奇美曼陀林樂団との10年、その2

2018年07月20日 | 思い出
奇美マンドリンクラブがどのようなものか全く予備知識なしで行く事になりました。向こうに着いて話を聞くと3つのグループに分けてあって、奇美マンドリンA団(上手な人の選抜チーム)、B団、奇美病院、全部合わせて200人以上いると聞きビックリしました。奇美の会社の、以前の敷地に社員の為のプールや練習施設が作られていて、そこで週1回A団の練習はありました。初めて練習を聴きに行った時、石さんに教わったばかりの中国語で「ターチャー、ハオ!(こんにちは)」あとはメモを見ながら少しだけ喋りましたが、大喝采。練習を聴いてびっくりしたことは、一応、マンドリン、マンドラ、マンドチェロ、ギター、ベース、打楽器と揃っていたのですが、使っている楽譜が合奏用の譜面ではなく歌とピアノ伴奏みたいなもので、メロディをマンドリンが弾き、マンドラはピアノ伴奏の部分を適当に、ギターは書いてあるコードを見てある人は指でクラシックギターのように弾き、ある人はフォークギターのようにかき鳴らし、打楽器は適当に入ると言う大変自由な?状態だったのです。なので、第1回目の訪問の時は、まずマンドリン系の楽器の奏法についてのレッスンのみ。一人のレッスンをしていても、周りを皆が取り囲んで覗き込みそれはそれは熱心に学ぼう、という姿勢に非常に好感を持ちました。使っている楽器も様々でイタリア製のカラーチェ、日本のSUZUKI、ベトナムや韓国製のものまでありましたし、楽器の調整をする人がいなくて、そのままの状態で弾くと手を痛めそうな状態でした。

許 富吉・団長さん。


そこで会長さんやクラブの団長の許 富吉さん(彼は語学の才能があって、英語、ドイツ語、ロシア語などを話し、また音楽の方でも楽譜なしで聞き覚えのある曲の伴奏をピアノやアコーディオンで自由自在に弾いていました)と相談して、まともな楽器と楽譜をなんとかしましょう、という事になりました。団長さんは奇美基金会に勤めていて楽器などの調達などもしていましたので、マンドリンをイタリアや日本から輸入することなど朝飯前、楽譜は初めは私が送ったりしていましたが、そのうちに自分たちで日本の楽器屋さん等を通じて集めることができて来ました。しかし、演奏する曲はポピュラーか、誰でも知ってる軽クラシックの域から出ようとしないのです。いくら勧めても日本で一般的なイタリアのマンドリン合奏曲は取り上げようとしませんでした。その当時は台湾のマンドリンクラブはこの奇美のクラブだけでした。その後何年かして台北の方にもマンドリンクラブやソリストも出て来ました。台北のクラブではイタリアの合奏曲も取り上げていますが、なぜか今だに奇美の合奏団が変わらないのは団長さんの意見が強く反映されているからでしょう。

お月見コンサート(2001年10月18日)。


私が行っている頃の指揮者は歌も上手な蔡さんという女性でした。

私は2005年の奇美マンドリンクラブ創立10周年記念コンサートツアーを最後にレッスンを締めくくりました。
写真のエンベルガー・マンドリンはその当時会長さんが手に入れたべっ甲細工が施された最高級品で、今は博物館に展示されています。


満員の客席!


その後、台南の地にはA団から育った人が新たにいくつかクラブを作ったり、若い指導者が何人か現れ、以前よりもマンドリン愛好家が増えました。最近はウィーンの音大で勉強して来た方がA団の指揮者になったり、と確実に発展しています。

台南には7年制の国立台南文化芸術大学があり、そこの音楽科(声楽、管楽器以外の楽器が学べる)に2001年より副科でマンドリンが必須になりました。

正門前で。


レッスン風景。

これも奇美の会長さんの働きかけでマンドリン合奏に必要な楽器(マンドリン、マンドラ、マンドチェロ)を全て奇美基金会が寄贈したからです。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ベースなどを専門としてプロを目指している人がマンドリンを一生懸命に習うことになりました。

双子さんのチェリスト。



ピアニスト(演奏会ではピアノで私の伴奏をしてくれました)。


チェリスト。彼女は今、どんな活躍をしているだろうか。


レッスン生の皆さん。

生徒の皆さんは熱心で素直で、もともと音楽の才能のある方ばかりですからすぐに習得し、たちまちちゃんとした合奏になりました。奇美の楽団と大学の生徒たちが共演するコンサートも何回かありましたが、ベテランになりつつあるA団の方達も驚きと喜びをもって生徒達を尊敬して演奏しているのがよくわかりました。
その当時の学生が、今はきっとプロとして自分の専門の楽器で活躍していると思いますが、マンドリンを体験した事を少しでも覚えていてくれたら良いなあ!と思います。

2015年9月 「MKマンドリン」チームを結成し、新しくできた奇美博物館で演奏させて頂きました。許 文龍会長さんも聴きに来てくださいました。






台湾良いとこ、一度はおいで!奇美曼陀林樂団との10年

2018年07月20日 | 思い出
1995年、台湾のギタリスト・葉登民さんの紹介で、台湾の台南市にある「奇美(Chi Mei)曼陀林樂団(マンドリンクラブ)」の指導を頼まれました。私には初めての台湾で興味半分、怖さ半分でした。まず、公用語である北京語は全くできないし、英語も自由に使えるほどではないし、ドイツ語だと何とかなるけれども・・・?
「奇美曼陀林樂団」は奇美実業の会長である許 文龍氏(1928-)によって創設されました。会長さんは(周りの方は敬意を持って「会長さん」と呼んでいました。)ヴァイオリンを趣味で弾かれていましたが、日本から実業団のマンドリンクラブが表敬訪問された時に「これだ!」自身の会社にもマンドリンクラブを作ろうと思われたそうです。
しかし、当時の台湾にはマンドリンの指導者がいなかったので私が紹介されて行くことになったわけです。
世界最大のABS樹脂の生産を誇る、奇美実業と会長さんの事をまずご説明しましょう。奇美実業は会長が一代で築き上げた、台湾でも指折りの大企業です。他にも病院、食品、液晶事業も手掛けています。そしてそれらの事業収益の何%かを当てて「奇美文化基金会」を作り、子供の時からの夢だった博物館を作る計画を立てました。本社の中に作られた博物館は狭くて、収集したもののほんの一部しか展示できませんでしたが、2015年についに念願を叶えて、台南郊外に公園に囲まれたテーマパークのような立派な博物館ができました。なんと台南市民は無料、市外の方も格安で入れます。世界中から収集した(美術の教科書で見た事のあるような)絵画、彫刻は必見です。また世界一のヴァイオリン収集としても有名です。

https://www.chimeimuseum.org/ml/日本語/4

成川さんは行く度に博物館所蔵の何億円もするストラディバリウスのチェロを貸してもらい演奏していました(保管は厳重にされていましたが)。


博物館の剥製の前で。(本社の中に、剥製などと同じフロアに楽器が展示されていた頃)


言葉は心配でしたが、現地には強い味方が待っていました。戦前は日本海軍の軍人だった石 榮尭さんです。私が行った時は必ず横についていてくれて通訳やすべてのお世話をしてくれました。(今は90歳近いので車の運転はしていないと思いますが)当時は元気で少し荒っぽい台湾流の運転で、ホテルに迎えに来ては、いろんな所に連れて行ってくれました。以前は学校の先生から校長先生まで勤め、退職してから奇美に入り、会長さんの秘書のようなこともしていました。とても博識で、私が知らなかった台湾の歴史や日本との関係を(烏山頭ダムを建設した八田與一の事など…)、ことあるごとに説明してくれました。
台湾へのフライトは夕方着なのですが、ホテルに行く前には必ず、台南で有名な「度小月」という食堂に連れて行ってくれて擔仔麵(担子麺)をご馳走してくれました。

いろいろ珍しい果物もたくさんあって、いつも「これは日本では食べられませんよ」と言っては山のように買って来てくれました。



石さんの大好きな言葉「敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」。
会う度に聞かされました。

会長さんの楽しみは、ご自宅に親しい人を呼んでの会食と音楽会でした。主に金曜日、時には他の日にも気が向いたら「今夜は集まりましょう」の一声で、仲間が集まります。お宅にはピアノ、ギター、パーカッション、コントラバスからハープまで様々な楽器がスタンバイしています。

そこで各自がおもいおもいの席を陣取り、だれかが何か曲を弾き出せば、一斉に周りの人達が合わせて弾いたり歌ったりしていくという趣向です。それが夜中12時近くまで続き、そろそろ眠いかな、お開きかな?となると会長が「じゃ、あと3曲」とか言うと少しホッとするのですが、3曲で終わったことはありませんでした。
会長さんのもう一つの趣味は早朝の釣りでした。運転手兼ガードマンと「ひと釣り」してそれから会社に向かわれたようです。(と言っても週に2回しか会社にはいかない。その方が社員が働きやすいから、とおっしゃっていました)。
私が「釣りをしたことがない」と言うと、石さんが釣り堀に釣れて行ってくれました。生まれて初めての釣りで「大物」をゲット。

マンドリンの指導の話は次回に〜