最後に思うこと!

マンドリンに出会って55年いろいろありました。

マンドリン友の会

2018年08月07日 | 思い出


<お知らせ>

マンドリン アンサンブル ポプリ第20回定期演奏会 
9月2日(日 )14時開演





門下生発表会 10月6日(土) 13時開演



★深谷明弘マンドリンリサイタル
 マンドリン 深谷明弘 ピアノ 赤石千穂
 大阪公演
 10月27日(土)15:00 開演 入場料:2500円
 大阪南YMCA 2F ライブラリー

  大阪市天王寺区南川堀町9-52
   JR/地下鉄「天王寺」駅下車徒歩5分
 チケット取り扱い
  フレット楽器ヤマサキ TEL06-6948-8239
  (株)サロット TEL075-746-6813
 主催:マンドリン友の会 072-206-0338 kava-333@sakai.zaq.ne.jp


川口雅行 古希記念リサイタル 
12月13日(木)19時開演
チケットは9月1日から発売します。
300席ですので満員の時はご容赦ください。
クリアーファイルのおまけ付きです。






カンティーナ・クリスマスパーティ
12月22日(土)13時開宴


マンドリーノ・エレガンテ 第19回定期演奏会 
2019年3月3日(日) 14時開演
京都コンサートホール 小ホール



クラーラ・マンドリーノ 第13回演奏会
2019年4月27日(土) 14時開演
大和郡山城ホール 小ホール

ナーシャムジカ演奏会
2019年5月3日(金・祝)14時開演 静岡AOI
ゲスト:KaVa san Trio

ながおかマンドリーノ 第38回定期演奏会
2019年5月25日(土) 14時開演
京都コンサートホール 小ホール



暑中お見舞い申し上げます!

2018年08月06日 | 思い出
暑中お見舞い申し上げます!
ブログは終了しました。
これからはマンドリン友の会のホームページ代わりにしますので、
興味のある方は時々チェックして下さい。

最後に。

2018年07月29日 | 思い出
これでブログは終わりです。
長らくお付き合いくださいましてありがとうございました。
この3ヶ月、なぜか急に終活をしたくなり、You Tube に動画をアップしたり、ブログで自分史もどきを書いてみました。
70年間を振り返りながら、思い出したくないことには蓋をしました。
時に、思い切ってしたな ~ とか、周りの人のことなど考えずに進んでしまったかもしれない・・・とか。
今更、反省をしても遅きに失しています。もう先の見えてる人生です、お許しください。

So ist das Leben(人生なんてそんなものさ)、
C’est la vie(これが人生さ)
Whatever Will Be, Will Be(なるようになるさ)

どこの言葉で言っても、結局は「ケセラ セラ」。


誕生日にいただいたフィギアの髪の毛が多すぎるとか???

マンドリン・アンサンブル・カワグチアーナ

2018年07月28日 | 思い出
私と一緒にアンサンブルをしたいなぁ(指揮でなく)と言う、キトクな あるお弟子さんの言葉がきっかけとなり、2014年「マンドリン アンサンブル カワグチアーナ」という団体を結成しました。
さかのぼること20年程前、「大学を卒業したけれどもう少しマンドリンを続けたい!」という若い人達と「イプシロン」というアンサンブルを作り、3回演奏会をしました。〜なぜ3回かというと「3年間はお嫁に行かずにマンドリンを続けます♡」と言う女性がいたからです。
カワグチアーナも3回完結、ということで始めました。今度は、「3年間は老体に鞭打って頑張ろう!」という私の決意です。
音楽が、マンドリンが、ギターが…大好きなんだ!という思いが皆様に伝われば嬉しいです。というような挨拶で始めました。

第1回目は2015年6月、大阪のザ・フェニックスホールで開催しました。
この時はアンサンブルが中心の選曲をしました。
毎回ラテン語の標語を設けていました。(きっかけは、オースン・スコット・カードの無伴奏ソナタというSF本の巻頭に、ベン・ホーヴァが書いた作者への励ましの言葉が「アド・アストラ」星を目指そう、であったからです。)

1回目は「per aspera ad astra」(苦難を通して星々へ、困難を克服して栄光を獲得しよう)






2回目は2016年6月、京都コンサートホール・ムラタで開催しました。
この時は協奏曲をテーマに選曲しました。
「Lunae radiosi non maturescit botrus」(月の光で葡萄は熟さない)





3回目は2018年3月、大阪いずみホールで開催しました。この時はカワグチアーナのメンバー以外に「Gran Partita Mandolin Quartetto」「KaVa san Trio」の皆さんにも出演して頂きました。
「Sol crescentes decedens duplicat umbras」(夕日は影を2倍にする)









KaVa san Trio


Gran Partita Mandolin Quartetto


演奏会の後には、ホテル ニューオータニで古希記念音楽パーティもして頂きました。



ステージマネージャーの巣之内さん、お世話係をしてくださった長峯さんには心から感謝しています。


ガラス工芸家の岡田親彦さんに作って頂いた カワグチアーナ の記念の品。

猫も欲しいようです。


根岸さんが書いてくれた素晴らしい<プログラムノート>より抜粋させて頂きます。

 朝より囘りて 日日春衣を典し
 毎日江頭 醉を盡して歸る
 酒債尋常 行く處に有り
 人生七十 古來稀なり
 花を穿つ蛺蝶 深深として見え
 水に點ずる蜻蜓 款款として飛ぶ
 傳語す風光 共に流轉し
 暫時相賞して 相違ふこと莫れと

 「古稀」という語の由来となった杜甫の『曲江(二首其二)』は、「どうせ七十までなんて生きられっこない(だから今のうちにせいぜい楽しんでおきたいものだ)」という心境を映しているとのこと。この詩を詠んだころの彼は、苦労の末ようやく中央で官職を得たものの、あることで皇帝の怒りを買って地方に左遷され、自棄酒を煽る毎日だったそうです(「酒債尋常行く處に有り」=酒代のツケだけはどこに行っても残っている)。はたして彼は、古稀はおろか還暦を迎えることもなく(そして都に戻ることも叶わず)その生涯を閉じています。
 本日のプログラムに並んでいる作曲家たちに目を向けますと、ドミトリイ・ショスタコーヴィチは68歳で、アントニン・ドヴォルザークは62歳で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはわずか35歳で、それぞれ旅立っています。ショスタコーヴィチは20世紀に、ドヴォルザークは19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、モーツァルトは18世紀後半に生きた人たちですから、もちろん現代とはあらゆる条件が違ってはいるのですが、それでも彼らの享年を知ると、史上前例のない長寿社会に生きる我々がともすれば忘れてしまいがちな「人生七十古來稀なり」という感覚が、蘇ります。
 さて、70歳といえば、古来より稀なだけでなく、心のままに行動しても道を踏み外すことがなくなる年齢「従心」でもあります。そんな先生と、先生を慕う出演者一同がひとつとなって、心のままに奏でる(道を踏み外していないかどうかは、さておき)大作曲家たちの残した名曲を、どうぞお楽しみください。

 子曰く
 吾 十有五にして學に志す
 三十にして立つ
 四十にして惑わず
 五十にして天命を知る
 六十にして耳順う
 七十にして心の欲する所に從いて、矩を踰えず

GoGoマンドリン 〜 ありがとうCD!

2018年07月28日 | 思い出
2003年、55歳の誕生日に憧れの大阪・ザ・フェニックスホールで弦楽四重奏と一緒に演奏会をしました。


この時はまだ自称「ゴーゴーガールズ!」


その時のプログラムの挨拶です。

「誕生日に演奏会を開くなんて恥ずかしい気持ちもあるのですが、昨年歩いている時にふと思ったのが今日、2003年3月13日、私は昭和23年3月13日生まれ、ゼロをとれば全く同じ数の並びになります。これはこの日に何かしなくてはと言う実に下らない理由でした。その上に55歳になるからGO!GO!マンドリン!とか大阪ならではのダジャレ演奏会になってしまいました。とは言え演奏会自体は決してふざけたつもりはありません。短調の曲ばかりになってしまいましたが、ひと時「哀愁、叫び」を感じていただければ幸いです。振り返ることの増えた今日この頃ですが、もう一度前を見て上を見て残りの人生を過ごしたいと言う気持ちもくんでいただけたらと思います。」      

<この時は、思い出を語りながらもまだ、将来があるような口ぶりです。>

この5年後にまたもやダジャレコンサートをしてしまいました。(還暦記念コンサート 全員集合!は 翌年1月25日にシンフォニーホールにて開催。)


この時のプログラムの挨拶です。

「還暦!感激!コンサート」にお越し頂きありがとうございます。5年前にこの会場で「Go!Go!マンドリン!」を開催してから本当にあっという間に還暦という日を迎えてしまいました。ありきたりの言葉ですが・・・思えば遠くまで来たものです。この道を志した時、猛反対した父は昨年他界。その陰でずっと応援してくれた母とは、高校の時以来初めて近くで生活するようになり、親孝行の真似事を始めました。あとどれくらい弾けるか判りませんが、バッタリ逝く時もマンドリンを片手に持っていられたら好いな、と思う今日この頃です。

<ここに書いた「親孝行」を少しもできていない古希までの10年でありました。>
最近は杉本真人(すぎもとまさと)の「吾亦紅」にある母の言葉「親のことを気遣う暇に、悔いのない自分を生きろ」を都合よく解釈して生きている次第です。

この時の演奏会では、来て頂いたお客様にクッキーをお土産としてお渡ししました。


2013年、65歳の時にしました「マンドリンでバッハ!」のコンサートの時から演奏会の度にお客さんにお持ち帰り頂く、「ありがとうCD」を思いつき、毎年作るのが楽しみになりました。

2013年、「昭和の歌謡曲」を 松本吉夫さんのギターと。


2015年、スペインの「情熱」的な曲を KaVa san Trio で。


2016年、東欧の「哀愁」を KaVa san Trio で。


2017年、石村隆行さんとの二重奏「絆」


2018年、「思い出」の曲を集めました。

還暦記念コンサート 全員集合!

2018年07月27日 | 思い出


2009年1月25日に大阪シンフォニーホールで還暦コンサートをさせて頂きました。


「丸太や」さんの記念品。

その当時、私は4つのクラブを指導していて、他にもフィオレンティーノというアンサンブルに参加していました。

ながおかマンドリーノ:1980年に帰国して、当初は京都府長岡京市に住んでいました。そこに「マンドリンのアンサンブルをしているのですが、指導をお願いできませんか?」と突然二人のご婦人が訪ねて来られたのです。「どうして、私がいることを知ったのですか?」と聞くと、大阪にササヤ書店という楽譜屋さんがあり、マンドリンの楽譜を探している時、マンドリン連盟の九州支部長だった児玉さんという方に出会い、話をしていたら長岡京市に住み着いた私を紹介してくれた、との事でした。以来、「日本で一番よく練習する合奏団」と自負していますが、毎週金曜日に集まり、今年(2018年5月)は37回目の定期演奏会でした。このクラブの特徴は毎年、第2部にゲストを呼んで共演するのです。37回ですから、もうほとんどの楽器(弦楽器、ピアノ、歌はもちろん、珍しいツィンバロン、胡弓、マリンバ、津軽三味線、ハープ、リコーダーなど)を制覇して、次はどの楽器の方にお願いするか頭を悩ませています。ちなみに2019年はチェロの予定です。


マンドリーノ・エレガンテ:長らく京都の音楽教室「十字屋」でマンドリンのグループレッスンをしていた方が高齢になられ、私が引き継いでレッスンを始めました。その頃は10数人で、ボランティアで病院などに演奏に行くくらいでしたが、そのうち定期演奏会をしようということになり、その時に「マンドリーノ・エレガンテ」と命名。始めは京都市内の教会や小さなホールで、そしてだんだん、アンサンブルホールムラタやアルティで開催するようになり、今年(2018年4月)は第18回の定期演奏会でした。その名の通り、エレガントな?方ばかりですが、近年は少し若い人(50代)も入部して来て張り切っています。ちなみに最高齢は90歳の男性です。

http://mandolino-elegante.music.coocan.jp/index.html

クラーラ・マンドリーノ:奈良の「十字屋」で数人で集まってマンドリンアンサンブルの練習をしていた方が、京都の十字屋で練習を始めたばかりの私たちを見学に来て、依頼を受けました。このアンサンブルは、ずっと10数人で活動していますが、少人数は少人数でそれなりの良さがあり、バロックの曲が好きで、1年半ごとの演奏会には必ず1曲は入れています。咋年(2017年11月)に第12回演奏会をいつもの大和郡山城ホールで開催しました。

http://www.klara-mandolino.com/index.html

アンサンブル・ポプリ:私が現在住んでいる堺市の隣、大阪狭山市を拠点として活動しています。「この南の地域にマンドリンの団体がないね〜」とお弟子さんと話していたのがきっかけで、1997年に地元の情報誌に募集記事を出して7名が集まり、アンサンブルを始めました。公民館祭りなどに出ていましたが、だんだんとメンバーが増え1999年に第1回定期、それから毎年9月の初めに行う演奏会も今年(2018年)で第20回目を迎えます。今では20代から70代まで、50人を超える大所帯となりました(いまだに「アンサンブル」という名前ですが・・・)。学生時代にマンドリンクラブを経験していた人が大半を占めるので、難易度の高い曲も結構こなしています。

http://soleil.music.coocan.jp/m-e-ppr.htm

チルコロ・マンドリニスティコ・フィオレンティーノ:私が西ドイツに行く前にアンサンブルに参加させて頂いていました。帰国した時も大変お世話になりましたが、アンサンブルの主催者が亡くなり、その後を継いでいた方も亡くなって、この還暦コンサートの数年前にふたたび参加したご縁で還暦の時、出演して頂きました。残念ながら今は活動を休止しています。


これらのクラブの皆さんと、以前教えた生徒(プロで活躍している方も)の皆さんにも参加してもらい、写真で見ていただけるような素晴らしい演奏会ができました。

第2部 選抜メンバーのアンサンブル


全員での圧巻の大合奏。ステージマネージャーの「夜も眠れない程の」心労がわかります。


指揮:石村隆行


指揮:吉田剛士(直前に転んで左手骨折)


指揮:川口雅行

赤いちゃんちゃんこ


司会:大槻温子さん(ステージのセッティング替えの度に、ベテランの機転でつないで下さいました)


この演奏会に際し、裏方で尽力していただいた方々に心より御礼申し上げます。

グラン・パルティータ・マンドリン・カルテット 〜 G.P.M.Q.

2018年07月26日 | 思い出
2005年にちょっとしたきっかけからこのカルテットを結成する事になりました。高松から訪れていた宮武くんに、大阪市内のマンドリン専門店でばったり会い久しぶりだなあ、と話をしている時、彼がヴィナッチャのマンドラをそれも「ブレヴェタート」を持っているのを知りました。今までマンドリンのブレヴェタートは私も持っていましたが、マンドラは初めて見ました。これは貴重な事だ、有効に使えないかと考え、思わず「カルテットやらない?」と誘っていました。あとの二人はすでに頭に浮かんでいました。高橋くん(マンドリン)と石村くん(マンドリュート)です。
初めて京都に集まって練習した後、呑みに行った先で、石村くんが「グラン・パルティータ」という言葉を口にして、カルテットの名前をそれにしよう!とその場で決定しました。このカルテットの問題点は各自が遠距離に住んでいるという事。基本的には京都の石村くんの家で練習させてもらいましたが、4人が集まれる日程を決めるのが大変でした。それでも合宿と称して冬の有馬温泉でコテージを借りて練習したり、デビュー演奏会に向けて着々と準備をしました。演奏曲では野田雅巳さんに委嘱した「アルクイユの巨匠」がとても難しく京都在住の野田さんに来て頂きアドヴァイスをしてもらいました。

2006年6月に京都の府民ホールアルティと東京の市ケ谷ルーテル教会でグラン・パルティータ、デビュー演奏会をしました。
京都のチラシ。

市ケ谷ルーテル教会でのリハーサル。ちょうど東京にいた吉田くんがリハーサルを聴きに来てくれました。

演奏会の衣装。

演奏会は自分で言うのもなんですが、好評だったと思います。
熱心なファンは京都、東京とハシゴをしてくれました。

2008年には福岡のマンドリン・ギター専門店「フォレストヒル」の森岡社長の応援でCDを作って頂きました。録音も福岡でしましたので、いつもと反対の方向へ移動し、なんとかCDが出来上がり、今度はCD発売記念コンサートです。

CD用に本格的に写真撮影もしたのでチラシの写真もかっこいいでしょ。

真面目バージョン。

少しおふざけバージョン。

記念コンサートも無事に終わりましたが、録音と演奏会の疲れで休憩。遠距離恋愛はなかなか難しく、メンバーそれぞれの活動も忙しくなり、休業状態になってしまいました。2018年3月の「マンドリン アンサンブル カワグチアーナ」のラストコンサートで久しぶりに演奏しました。

ここで余談。
宮武省吾君との出会い:彼が高校1年の時、私が高松で演奏会をした時にマンドリンクラブの顧問の先生と初めて聴きに来てくれていたようです。
私がドイツから帰って来た頃に、彼がちょうど大学生で京都に来たので個人レッスンを受けに訪ねてくれました。大学を卒業してからは、ドイツ・ヴッパータールの音大のマンドリン科に留学して研鑽を積みました。彼は音楽性が豊かで、指揮も上手で、とても良い性格。お仲間もたくさんいます。欲を言えば、もうひといき、テクニックをもっと詰めていってほしい?今からでも、期待しています。

高橋和彦君との出会い:ギタリストの中野義久さんと九州演奏旅行で鹿児島に行った時に初めて聴きに来てくれて、その時はまだ大学で獣医学を学んでいたようです。でもその後マンドリンを生業にしよう、と京都に出て来て、バイトをしながら1年間個人レッスンを受けて、マンドリンの独奏コンクールで第2位「銀賞」を獲得しました。その後、素晴らしいピアニストも(公私ともに♡)獲得。お弟子さんにもコンクールの優勝者を出しています。

石村隆行君との出会い:彼は早くから音楽の素養があったので、音楽大学に進んでもよかったくらいの人でした。中学の時はギター、高校の時はマンドリンクラブの指揮者として活躍、大学からマンドリンを本格的に始めたのですが、レッスンでは真面目に練習をして来て、与えられた課題をクリアしなかったことはありませんでした(ただレッスンの時に必ず缶コーヒーを持参して、飲んでから始めました)。その後、イタリアのパドワに留学してマンドリンの研究(イタリアの先生に習いに行ったのですが、きっと彼の方が技術は上なのでそんなにレッスンは必要なかったでしょう)を続け、知識も豊富、今も多くの合奏曲の編曲を次々と行なっています。私の希望としてはもっと全国各地で演奏会をしてくれたらなあ、と思います。そうそう、とても若い方と結婚して二人の可愛いお嬢さんに恵まれる(ディズニーランドに行ったりする)なんて、失礼ながら想像もできませんでした。

東北のマンドリン関係者に感謝!とペースメーカーの話。

2018年07月25日 | 思い出
子供の時代の項に、静岡を離れるまでずっとおばあちゃん子だった、と書きました。そのせいかどうか分かりませんが、挨拶が苦手で「ありがとう、おはよう、ただいま、ごちそうさま・・・」などがなんか照れ臭いというか言えない人になってしまい、いろんなところに不義理をして来たように思います。

初めて東北の地に足を踏み入れたのは1977年、私がまだドイツにいた時代ですが、夏休暇で日本に帰ってきた時でした。山本ミュージックのご主人と平山英三郎先生に誘って頂いて、東京のオルケストラ・シンフォニカ・タケイと青森公演に行きました。青森には松緑神道大和山(しょうろくしんとうやまとやま)という宗教団体が運営する「松風塾」という全寮制の高等学校あり、そこではなんと、マンドリンとギターが必修科目だったのです。この時はタケイの楽団と松風塾高校のジョイント・コンサートでした。演奏会の前の日は、ちょうど「ねぶた祭り」で私たちは皆、はっぴに着替え、ねぶたの後ろについてお祭りに参加しました。演奏会の後の打ち上げは松風塾に帰って来て、大和山の皆さんが畑で作った物や海の幸、特に帆立貝づくしは後にも先にも見た事のない程、圧巻の歓待をして頂きました。もう30年以上前の事ですが、ありがとうございました。

日本に帰国してから、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの人とバロックアンサンブルを編成して、東北を回りました。演目はドイツで集めたバロックの数々。その頃できたばかりだった仙台郊外の「バッハホール」で演奏させて頂きましたが、その折には、高橋五郎先生に大変お世話になり、改めて御礼申し上げます。

山本譲二の「みちのくひとり旅」に引っ掛けて、マンドリン1本で東北一周の演奏会をしたときには本当に各地のマンドリンクラブにお世話になりました。
チラシに使ったイラスト画。


KaVa san Trioでも演奏会をさせて頂きましたが、その時は青森や山形で思いがけず、さくらんぼの収穫期で、さくらんぼ街道や打ち上げの席で甘くて美味しい赤い宝石を一生分ほど堪能しました。盛岡では、生まれて初めて盛岡冷麺を食べましたが、ゴムのようで噛み切れず飲み込めず、なんだこれは?と思いましたが、美味しかったです。

1994年には再び、マンドリン・ソロの演奏会を企画して東北を何箇所か回る事になりました。各地の会場の準備をして頂きチラシも出来て集客も始まっていたと思われます。しかし、その前から心臓の脈拍が少しづつ遅くなって来ている事は気づいていて、時々貧血のような症状が出て倒れかけたりしていたので、ビタミン剤でももらうつもりで近所の藪医者に行ったら、「年のせいですね。少しジョギングでもしたらどうですか」と言われました。でもお弟子さんの勧めもあって、演奏会の前に治しておこうと、堺市でも大きな病院に見てもらったのですが、まず若い先生の診察の段階では特別に何も言われなくて、次に心電図をとってもらったらその担当の看護婦さんが慌てて部屋を出て、偉い先生に報告しに行きました。するとその先生がすぐに来て、「心臓の何とかいう病気だから、今日はこのまま入院してください」と言われてしまいました。これは大変な事になったと青くなりながら、しかし、来週に迫っていたツアーの主催者の方々に一刻も早くに連絡しないといけないので、「明日入院します」と看護婦さんに言い残して、勝手に帰宅しましたら、それを知った医師から家に電話があり、「警告したのにご主人が帰ってしまいました。命の保証はいたしかねます‼︎」と叱られたそうです。その日のうちに演奏会をキャンセルすることを伝えましたが、皆さん事情をわかって快く了解して下さったのです。本当にあの時は多大なご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。次の日入院しましたが、病名は心臓の「完全房室ブロック」。初めて耳にしましたが、心臓が弱ったわけではなく器官の故障みたいなものです。ペースメーカーを埋め込めば普通に生活できるようになるとのことでした。(それから今日まで4回電池交換でペーメーカーを替える手術をしました。)手術は、なりたてホヤホヤの若いお医者さんの練習台みたいなものでした。部分麻酔なので会話は丸聞こえです。初回はまず体外ペースメーカー取り付ける為、首から心臓までリード線を通すのですが、若い医者が3回失敗すると監督していた教授が「はい、お前、スリーアウト!チェンジ、交代!」と言って自分でやり始めるのです。私は3回も首に痛い針を通されて、初めからお前がやれよ〜。と言いたかった。
2回目の時は、やはり大学を出たての先生が部分麻酔をしてくれたのですが、すぐにメスを持って切り出し、ものすごく痛くて思わず「痛い!」叫んだら、医者は「あれえ、まだ麻酔効いてなかったんだ」それだけか、少しは謝ってくれよと言いたかった。
6〜7年間、体内にペースメーカーが入っているとその周りに自然と肉がくっついてしまいペースメーカーを交換する時にくっついた肉をメスで削ぎ落とすのですが、3回目の時、難しいその処置の時にメスでリード線の皮膜を傷つけてしまい、2本ある線の1本しか使えなくなって、そのためにせっかく選んだ最新のペースメーカーの機能が使えなくなってしまいました。でもその事は全ての手術が終わって確認の検査でわかった後なので、もう一度手術し直してもう1本新しいリード線を入れるのもかなわんので「まあ、いいか。これでも動く。」で終わってしまいました。でもその事に関しては医者は何も言わず。少しは失敗を認めろよ、と言いたかった。
次回は「ドクターX」に頼みたい。
こうして立派な「身体障害者」になり、周りからは「メカ カヴァさん」と言われ、でもいいもんね。JRの乗車券半額、などの特典?もあるし、医療費も安いから。


台湾、余談。

2018年07月22日 | 思い出
初めて台湾を訪れた時の衝撃!
(これらの体験は1995年当時のもですから、今は改善されています。)

初めて奇美実業の8階建ての立派な本社に行った時に、トイレは水洗なのに、「使用済みの紙を流してはいけません。横に置いてあるバケツに捨ててください。」とありました。トイレットペーパーの品質がよくないから詰まってしまうのかな?台南市の下水処理施設がまだ整っていないからとのことでした。
この数年前に中国の上海や蘇州に行った時に入った穴あきトイレのことを思ったらだいぶマシかな、とも思いましたが。

台湾では日本のお寿司もよく食べましたが、煮魚、焼き魚もあります。魚には骨があるので、よく喉に骨が刺さって4〜5回は耳鼻咽喉科に行った事のある私は苦手なのですが、こちらの方は魚を食べると、お皿に向かって、ぺっぺっと器用に骨を吐き出します。日本人だったら骨をお箸でつまむか、指で掴んで口から皿に持っていくか、少し隠すようにすると思うのですが。それが庶民だけでなく皆さんそうしているので、驚きました。

街中にはバイクが多く走っていました。排ガスと土ぼこりを避けるために皆、色とりどりのマスクを付けて、子供をたくさん乗せて(時に1台のバイクに5人くらい乗せて‼︎)怖くないのかと思いますが、子供達も慣れているのか平気なようでした。またその間を走る乗用車も大変だと思いますが、あまり事故もなく過ぎているのなぜかなと思ったら、「早い者勝ち」というルールが徹底しているようです。石さんもそうでしたが(台湾では、車は右側通行)、たとえば2車線で左を走っていて次に右折しようと思ったら、あらかじめ右車線に移ってから右に曲がるのが普通ですが、石さんの場合、曲がりたいと思ったら、左車線のまま突然右へのウインカーを出し、右車線を走っていたバイクや車を全部止めさせて、自分は当たり前のように右折していきます。助手席に乗っていた私はもうヒヤヒヤでした。それでも石さんは事故を起こしたことがないと自慢していました。
いわく「早い者勝ちです」。でも路線バスやタクシーの車体が、キズや凹みだらけだったのにも舌を巻きました。

石さんと車で街中を走っていると、突然スピードがゆっくりなる時がありました。なぜ?と聞くと「私に三点式を見せたい」というのです。三点式とは水着の「ビキニ」のことですが(私が若いオネエさんを好きなのを見透かされていたか)、車の往来の激しい場所で、露出度の高い格好で檳榔(ビンロウ)を売りさばいている色っぽい看板娘を私に見せようとしていたのですね。(ビンロウは、ヤシ科の植物で、この実に石灰をまぜたものが台湾ではタバコのような嗜好品として親しまれていて、作用としては覚醒効果があり、ドライバーの眠気覚ましとして使用されていたようです)。ビンロウは食べるのでなく、噛んで味わって、あとは捨ててしまうのですが、唾と一緒に吐きだすので、赤い唾の跡が道路のそこかしこに有りました。
セクシーな看板娘さんが、わき見運転、事故の原因になりかねないとして、最近は規制になったとのこと、残念な気がします。
写真のような小屋が道端にたくさん出ていました。


奇美曼陀林樂団との10年、その2

2018年07月20日 | 思い出
奇美マンドリンクラブがどのようなものか全く予備知識なしで行く事になりました。向こうに着いて話を聞くと3つのグループに分けてあって、奇美マンドリンA団(上手な人の選抜チーム)、B団、奇美病院、全部合わせて200人以上いると聞きビックリしました。奇美の会社の、以前の敷地に社員の為のプールや練習施設が作られていて、そこで週1回A団の練習はありました。初めて練習を聴きに行った時、石さんに教わったばかりの中国語で「ターチャー、ハオ!(こんにちは)」あとはメモを見ながら少しだけ喋りましたが、大喝采。練習を聴いてびっくりしたことは、一応、マンドリン、マンドラ、マンドチェロ、ギター、ベース、打楽器と揃っていたのですが、使っている楽譜が合奏用の譜面ではなく歌とピアノ伴奏みたいなもので、メロディをマンドリンが弾き、マンドラはピアノ伴奏の部分を適当に、ギターは書いてあるコードを見てある人は指でクラシックギターのように弾き、ある人はフォークギターのようにかき鳴らし、打楽器は適当に入ると言う大変自由な?状態だったのです。なので、第1回目の訪問の時は、まずマンドリン系の楽器の奏法についてのレッスンのみ。一人のレッスンをしていても、周りを皆が取り囲んで覗き込みそれはそれは熱心に学ぼう、という姿勢に非常に好感を持ちました。使っている楽器も様々でイタリア製のカラーチェ、日本のSUZUKI、ベトナムや韓国製のものまでありましたし、楽器の調整をする人がいなくて、そのままの状態で弾くと手を痛めそうな状態でした。

許 富吉・団長さん。


そこで会長さんやクラブの団長の許 富吉さん(彼は語学の才能があって、英語、ドイツ語、ロシア語などを話し、また音楽の方でも楽譜なしで聞き覚えのある曲の伴奏をピアノやアコーディオンで自由自在に弾いていました)と相談して、まともな楽器と楽譜をなんとかしましょう、という事になりました。団長さんは奇美基金会に勤めていて楽器などの調達などもしていましたので、マンドリンをイタリアや日本から輸入することなど朝飯前、楽譜は初めは私が送ったりしていましたが、そのうちに自分たちで日本の楽器屋さん等を通じて集めることができて来ました。しかし、演奏する曲はポピュラーか、誰でも知ってる軽クラシックの域から出ようとしないのです。いくら勧めても日本で一般的なイタリアのマンドリン合奏曲は取り上げようとしませんでした。その当時は台湾のマンドリンクラブはこの奇美のクラブだけでした。その後何年かして台北の方にもマンドリンクラブやソリストも出て来ました。台北のクラブではイタリアの合奏曲も取り上げていますが、なぜか今だに奇美の合奏団が変わらないのは団長さんの意見が強く反映されているからでしょう。

お月見コンサート(2001年10月18日)。


私が行っている頃の指揮者は歌も上手な蔡さんという女性でした。

私は2005年の奇美マンドリンクラブ創立10周年記念コンサートツアーを最後にレッスンを締めくくりました。
写真のエンベルガー・マンドリンはその当時会長さんが手に入れたべっ甲細工が施された最高級品で、今は博物館に展示されています。


満員の客席!


その後、台南の地にはA団から育った人が新たにいくつかクラブを作ったり、若い指導者が何人か現れ、以前よりもマンドリン愛好家が増えました。最近はウィーンの音大で勉強して来た方がA団の指揮者になったり、と確実に発展しています。

台南には7年制の国立台南文化芸術大学があり、そこの音楽科(声楽、管楽器以外の楽器が学べる)に2001年より副科でマンドリンが必須になりました。

正門前で。


レッスン風景。

これも奇美の会長さんの働きかけでマンドリン合奏に必要な楽器(マンドリン、マンドラ、マンドチェロ)を全て奇美基金会が寄贈したからです。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ベースなどを専門としてプロを目指している人がマンドリンを一生懸命に習うことになりました。

双子さんのチェリスト。



ピアニスト(演奏会ではピアノで私の伴奏をしてくれました)。


チェリスト。彼女は今、どんな活躍をしているだろうか。


レッスン生の皆さん。

生徒の皆さんは熱心で素直で、もともと音楽の才能のある方ばかりですからすぐに習得し、たちまちちゃんとした合奏になりました。奇美の楽団と大学の生徒たちが共演するコンサートも何回かありましたが、ベテランになりつつあるA団の方達も驚きと喜びをもって生徒達を尊敬して演奏しているのがよくわかりました。
その当時の学生が、今はきっとプロとして自分の専門の楽器で活躍していると思いますが、マンドリンを体験した事を少しでも覚えていてくれたら良いなあ!と思います。

2015年9月 「MKマンドリン」チームを結成し、新しくできた奇美博物館で演奏させて頂きました。許 文龍会長さんも聴きに来てくださいました。






台湾良いとこ、一度はおいで!奇美曼陀林樂団との10年

2018年07月20日 | 思い出
1995年、台湾のギタリスト・葉登民さんの紹介で、台湾の台南市にある「奇美(Chi Mei)曼陀林樂団(マンドリンクラブ)」の指導を頼まれました。私には初めての台湾で興味半分、怖さ半分でした。まず、公用語である北京語は全くできないし、英語も自由に使えるほどではないし、ドイツ語だと何とかなるけれども・・・?
「奇美曼陀林樂団」は奇美実業の会長である許 文龍氏(1928-)によって創設されました。会長さんは(周りの方は敬意を持って「会長さん」と呼んでいました。)ヴァイオリンを趣味で弾かれていましたが、日本から実業団のマンドリンクラブが表敬訪問された時に「これだ!」自身の会社にもマンドリンクラブを作ろうと思われたそうです。
しかし、当時の台湾にはマンドリンの指導者がいなかったので私が紹介されて行くことになったわけです。
世界最大のABS樹脂の生産を誇る、奇美実業と会長さんの事をまずご説明しましょう。奇美実業は会長が一代で築き上げた、台湾でも指折りの大企業です。他にも病院、食品、液晶事業も手掛けています。そしてそれらの事業収益の何%かを当てて「奇美文化基金会」を作り、子供の時からの夢だった博物館を作る計画を立てました。本社の中に作られた博物館は狭くて、収集したもののほんの一部しか展示できませんでしたが、2015年についに念願を叶えて、台南郊外に公園に囲まれたテーマパークのような立派な博物館ができました。なんと台南市民は無料、市外の方も格安で入れます。世界中から収集した(美術の教科書で見た事のあるような)絵画、彫刻は必見です。また世界一のヴァイオリン収集としても有名です。

https://www.chimeimuseum.org/ml/日本語/4

成川さんは行く度に博物館所蔵の何億円もするストラディバリウスのチェロを貸してもらい演奏していました(保管は厳重にされていましたが)。


博物館の剥製の前で。(本社の中に、剥製などと同じフロアに楽器が展示されていた頃)


言葉は心配でしたが、現地には強い味方が待っていました。戦前は日本海軍の軍人だった石 榮尭さんです。私が行った時は必ず横についていてくれて通訳やすべてのお世話をしてくれました。(今は90歳近いので車の運転はしていないと思いますが)当時は元気で少し荒っぽい台湾流の運転で、ホテルに迎えに来ては、いろんな所に連れて行ってくれました。以前は学校の先生から校長先生まで勤め、退職してから奇美に入り、会長さんの秘書のようなこともしていました。とても博識で、私が知らなかった台湾の歴史や日本との関係を(烏山頭ダムを建設した八田與一の事など…)、ことあるごとに説明してくれました。
台湾へのフライトは夕方着なのですが、ホテルに行く前には必ず、台南で有名な「度小月」という食堂に連れて行ってくれて擔仔麵(担子麺)をご馳走してくれました。

いろいろ珍しい果物もたくさんあって、いつも「これは日本では食べられませんよ」と言っては山のように買って来てくれました。



石さんの大好きな言葉「敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」。
会う度に聞かされました。

会長さんの楽しみは、ご自宅に親しい人を呼んでの会食と音楽会でした。主に金曜日、時には他の日にも気が向いたら「今夜は集まりましょう」の一声で、仲間が集まります。お宅にはピアノ、ギター、パーカッション、コントラバスからハープまで様々な楽器がスタンバイしています。

そこで各自がおもいおもいの席を陣取り、だれかが何か曲を弾き出せば、一斉に周りの人達が合わせて弾いたり歌ったりしていくという趣向です。それが夜中12時近くまで続き、そろそろ眠いかな、お開きかな?となると会長が「じゃ、あと3曲」とか言うと少しホッとするのですが、3曲で終わったことはありませんでした。
会長さんのもう一つの趣味は早朝の釣りでした。運転手兼ガードマンと「ひと釣り」してそれから会社に向かわれたようです。(と言っても週に2回しか会社にはいかない。その方が社員が働きやすいから、とおっしゃっていました)。
私が「釣りをしたことがない」と言うと、石さんが釣り堀に釣れて行ってくれました。生まれて初めての釣りで「大物」をゲット。

マンドリンの指導の話は次回に〜

KaVa san Trio・・・?

2018年07月17日 | 思い出
最初のキャッチフレーズ!「世界で唯一つのマンドリン・ギター・チェロのトリオ!」として1987年に結成。マンドリンとギター(松本吉夫)の組合せはよくありますが、どうしてもピアノに比べると弾く手が一本少ない分、多声を演奏するのには限界があります。でもそこに低音も旋律も弾けるチェロ(成川昭代)が入ると格段にギターの自由度が増して、編曲次第ではオーケストラの曲も弾けるようになりました。
ネーミングは未だに良かったの悪かったのか、結論は出ていません。前にも書きましたが〜私がドイツに居た頃に放送局で録音したものを聴くと、私の名前の発音が「カヴァグチ マザユキ」となるのでそれを面白がった日本人に「カヴァ」とあだなをつけられ、そのままトリオの名前につけてしまいました。
動物のかばとよく間違えられたね。演奏会場に行くと、主催者の手作りポスターがかかげられており、そこにはそれぞれの楽器を持ったカバが3匹。
1990年9月にKBS京都主催【京都 秋の音楽祭】に光栄にも出演させて頂いたが、パンフレットを見てみると「マンドリン トリオ」(確かにそうでしょうけど)。「KaVa san Trio」では何かわからんとの事。あとで触れますが、大阪室内楽コンクール&フェスタに出た時には、たくさんいた通訳の方々の間で、この名前の意味は何だろう?どこの国の言葉だろう?と物議を醸していたとか。

1989年CD「春」デザイン:知部真千(陶芸家)


1991年位から軽自動車に3人乗り込み、ツアーを始める。チェロ、ギターに荷物でぎゅうぎゅう詰めだった。1992年には尼崎で行われた正岡子規没後90年のイベント「わくわくいきいき正岡子規」に出演。(翌年愛媛県・松山の芝居小屋「内子座」にて再演)女義太夫、落語家など異業種の方々と初めてコラボする。
大変だったのは北海道ツアーに行った時、買ったばかりの軽の四輪駆動車に乗って舞鶴からフェリーで小樽へ。しかし、二日目でエンジンのターボが壊れた。直ぐに修理は無理、と言われたが演奏会場に向かわなければならず、エンジンオイルを何時間ごとに足しながら、マフラーからは真っ白な煙を吐きながら、横を通る観光バスの乗客からは指を差されながら、何とか旭川の方を回って、いくつかの演奏会をこなして釧路までたどり着きました。釧路での演奏会では幸運なことに主催者の方が自動車会社に勤めておられ、代車(普通車だったので北海道の長距離にはぴったり)を貸して下さって、私たちの車はトラックで小樽まで運んでくれました。本当にありがたかったです。帰路は、舞鶴から自宅まで、また煙をもくもく吐きながら帰って来たのでした。

1992年CD「冬」デザイン:知部真千(陶芸家)

1993年は特に充実した年でした。4月に開催された第1回大阪国際室内楽フェスタに挑戦。世界各国より参加の108組の中より予選を勝ち抜き、ファイナルステージの8組に残った。その後、その関係でお話を頂き、西村由紀江さんの「日曜はピアノ気分」(よみうりテレビ)にゲスト出演。谷山浩子さん達とも共演した。
1994年のトリオのリサイタルでは、上方落語の重鎮であった故・ 桂文紅師匠の「三十石夢の通い路」に、お囃子の部分をトリオで絡ませて頂く。今や「女道楽」の第1人者、となった内海英華姐さんとも共演。

1996年CD「秋」デザイン:知部真千(陶芸家)

1996年1月に「探偵ナイトスクープ」(朝日放送テレビ)に出演。上岡龍太郎探偵局長の時代で立原啓介探偵、今は残念ながら公には見れませんが(一度、You Tubeにアップしたらすぐに削除されてしまった)。なかなか心温まるお話で、私たちが大阪シンフォニーホールの前で、ばったり立原探偵に会うという場面は打ち合わせてあったのか?と皆に聞かれましたが、そこは、口が裂けても言えません。
おじいさんの作った「森のブランコ」という詩にメロディを付けて、孫たち5人でおじいさんの前で歌ってあげたい、という依頼でした。


大阪シンフォニーホール前でスカウトされる。



おじいさんの家で。(KaVa san Trioが違う)

おじいさんから孫への返歌。


1997年CD「夏」デザイン:中村美佐子


2001年CD「カヴァ サン トリオ パラダイス!!」デザイン:中村美佐子

このCD製作には若くしてお亡くなりになったギタリスト・佐藤弘和さんにも何曲かカヴァ サン トリオ用に編曲して頂きました。
その他にも日本全国で演奏会をさせて頂きました。お世話してくださった皆様、ご来聴下さった方々に心から感謝申し上げます。

イラスト:市川美紀

清里マンドリン音楽祭

2018年07月15日 | 思い出
ドイツにいた頃は、「長い休暇」には必ずマンドリンとギターの講習会が各地で行われていました。日本に帰ってきて、そういうものが無いことの寂しさというか、日本各地でいろんな人たちがそれぞれマンドリンをしているのに、横のつながりがなくマンドリンの奏法も色々だなあと感じていたので、なんとかお互いが交流して良い方向に持っていけないだろうかと、1986年に第1回の夏の「マンドリン講習会」を企画したのでした。まず、場所をどこにしよう?夏だから涼しい信州が良いのではと、リサーチして長野・北志賀高原の「ロッジ からまつ山荘」で開催することにしました。(現在の写真です。色が以前と違うようです)

マンドリン連盟の機関紙でも募集して頂いて、6名の方が参加されました。

昼間は個人レッスン。夕食後は公開レッスンのような発表会、私ももちろん弾きました。夜はお楽しみの花火大会(線香花火が主でしたが)。

夏の、楽しい特別なひと時でした。第3回目は前回よりも参加者が増え、ドイツの留学から帰ってきた吉田剛士くんにゲストとして来てもらいました。流石に、ちゃんと音楽大学で学んだだけあって、レッスンでアドヴァイスする事も新鮮さがあり、受講生の評判はすこぶる良かったです。夜通し弾き騒いで明け方、外に出て道端に寝そべって吉田くんが語った事?に参加者の女性群はうっとりしていた、との証言もあります。私はもちろん疲れて熟睡していましたが。
問題もありました。簡素なロッジですので高級ホテルとは違い、隣との壁も薄く、ある参加者は隣の部屋の鼾がうるさくて寝られない、と次の日は近くの温泉に寝るために移動した事もありました。また、全員を集めて講義みたいなものをした時に、日本には様々な奏法があり、東京、名古屋、大阪でそれぞれ違い、それぞれどんな特徴があるかを実演しながら話しました。私は、私と違う奏法をけなしたり、良くないと言ったつもりはないのですが、参加者の中に、ある地方の有名な先生のお弟子さんがいて、講習会が終わったあと自分の先生に「先生の悪口を言っていました」と注進され、先生から電話で「名誉毀損で訴えるぞ」と言われた事もありました。この北志賀高原で3回お世話になりましたが、この辺は人通りが少なく、発表会をしても参加者以外の方に聴いてもらうことができません。そこでもう少し賑やかなところでできないかと、5回目はワインで有名な勝沼のワイン民宿を借りて講習会をしました。その時は宮武省吾くんにゲストに来てもらいました。そしてここでもご縁があり、勝沼での発表会に地元・山梨で有名な「山梨貨物自動車株式会社」の石澤社長とお知り合いになりました。社長もマンドリンを嗜まれていて地元で小さなマンドリンクラブに入っていました。その少し前に結成した「KaVa san Trio」を気に入ってくださって、私たちの1枚目のCD「春」を作るための制作費を全額貸してくださるほどの応援を頂き、そのお陰でその後の私たちの活動がある、と心から感謝しています。その後、毎年夏の講習会にはスポンサーになって下さり、講習会が終わると帰りに演奏の機会を作ってくださいました。勝沼で2年開催しましたが、だんだんと欲が出てくるもので、もっと良い環境のところはないかと思った時に、バブルが全盛の頃 流行っていた清里に行ってみようと思い、ギターの方の紹介で「伊予ロッジ」にお世話になりました。発表会用のホールもあって良かったのですが、隣に牛舎があり時折風向きによってなんとも言えない風情のある香りが・・・。
そこで3年後は、清里で一番有名な「清泉寮」にお願いすることになりました。

清里も1990年代になるとバブルが弾け、タレントさんたちのお店が閉店していって寂れつつありましたが、それでも清泉寮の周りは絶品のソフトクリームを求めてくる人で賑わっていました。清泉寮では本館ではなく周りにたくさんある素敵なコテージ(4~5人が泊まれる)を借りて講習会をして、発表会は本館のホールでさせてもらえたので、一般の方も聴きに来てくださいました。
石村先生の指揮で参加者全員での合奏練習風景。

毎年、遠くから講習会の最後の演奏会、参加者の発表会を聴きに来てくださる方々がいらして本当に充実した時を過ごさせて頂きました。毎年、プロのマンドリン奏者の方々(石村隆行さん、遠藤隆己さん、大西功造さん、片岡道子先生、粂井謙三さん、榊原喜三さん、佐々木敏さん、高橋和彦さん、中野薫さん、深谷明弘さん、宮武省吾さん、吉田剛士さん)に申し訳ないほど少ない謝礼でも快く来て頂き本当に感謝しています。20年間続けた夏の講習会でしたが2006年、講習会を始めて20年、最後の年としました。
結成したばかりの「グランパルティータ」のメンバーと吉田剛士さんに来て頂き、華やかに最後を締めくくることができました。

2006年参加者。

朝食。

夜の宴会。

毎年わざわざ神戸から来てお店を開いてくれた呉服屋さんの「丸太や」さんご家族カルテット「減額始終相談」。マンドリン柄の藍染のTシャツ、食器類、アクセサリーなど、この時のボクちゃんも今では跡を継いで立派な若旦那になっています。


コンクールなどの審査・講評

2018年07月14日 | 思い出
コンクールは、時にその人の一生を左右する場合もありますから、受ける人もその関係者(先生や同じ門下生のなど)にとっても真剣勝負の場です。
私が最初に審査員をしたのは、ドイツに住んでいる頃、マンハイムでドイツ青少年コンクールが行われた時でした。各州から一人の審査員と審査員長で子供達(日本と違いますが、小学生、中学生、高校生など年齢で分けられた)の演奏を聴いてその後に別室で審査員がそれぞれ点数をつけ、それを集計して順位を決めます。ある演奏者の時、ひとりの審査員が10点満点のところ0点をつけました。すると審査委員長がそのことを問題にして審査員間で話し合いをしてから、結局もう一度審査をやり直したのです。このように審査委員長の権限で客観的に見ておかしい事への話し合いを提案することは、大事なことだと思いました。

日本で2年に一度行われるマンドリン連盟の主催する独奏コンクールの審査員を1988~2002年まで8回させて頂きました。そこでは以前いろいろなことがありました。関西の予選の審査の時、一人の審査員の方のお弟子さんが出ていたのですが、審査の結果が出た時に突然その方が机をガーンと叩いてほかの審査員に向かって「こんな審査結果は困るんだよ!私は有名なピアニストに頼んで伴奏してもらっているのに会わせる顔がないんだよ!」と。かなり怖かったです。まあ、結局審査結果は変わりませんでしたが。
他の大会では自分の生徒に不自然に良い点数をつける方もありました。(その後、自分の生徒は点数をつけられないシステムになったので、逆に自分の生徒以外の点数を極端に低く付ける場合もある。)審査委員長もドイツの時に経験したような方と違い、自分の生徒が入賞できなかった時には「1位無し」を提案したり、結果発表の挨拶で感情的になってしまわれる事もありましたね。さすがに最近のコンクールではこのようなことはないと思いますが。私も審査の講評で言葉足らずの所があり、お叱りを受けたことがありました。

毎年、夏に大阪で行われます「全国高等学校ギター・マンドリンフェスティバル」の講評も20年近くさせて頂きました(最近は名称を変えて「全国高等学校ギター・マンドリン音楽コンクール」になりました)。参加される高校生の皆さんや顧問の先生方はフェスティバル→イコール、コンクールと捉えて、みなさん真剣に良い演奏を目指して頑張っています。その講評者でも色々な方がおられ、いつも「マンドリンやギターのことを全く知らないのですが〜」で講評を始められ〜、マンドリンの合奏曲などをすでにたくさん作曲されているのにへりくだり過ぎではないでしょうか。そうかと思うと別の方は、「〜ですから〜音楽というのはですね・・」と始められ、生徒たちが今弾いた演奏を評価しているのか、一般的な音楽の講義をしているのか判らなくなった時もあります。私もそんなに褒められた立派な講評をしていたわけではありませんが。
20年間の中で一番強烈な印象に残っているのは何と言っても、故・松本譲先生がどこかの高校に言った講評で「僕は君たちの演奏は嫌いだね」だけで終わった時でした。簡潔で分かりやすいのですが、どうでしょう?

川口ピック、マンドレスト

2018年07月10日 | 思い出
1980年に8年ぶりに帰ってきた時は、日本のマンドリン事情が全く分からず、浦島太郎状態でした。マンドリン連盟の伊藤会長から送られてくる「フレット誌」しか情報源がなく、今のせわしない生活と違い、のんびり過ごせたともいえます。
そんな私を見てか、山本ミュージックで知り合った、高崎マンドリンクラブのNさんが久保田孝先生を紹介しようとご自宅に連れて行ってくださいました。(久保田先生がザールブリュッケンにいらしたことは、後に つのだたかしさんに聞いたので、その時は知りませんでした。)まず、奥様が出てこられて「マンドリンをしています、川口です」と自己紹介しましたら奥様が「主人は最近クラシックのオーケストラを指揮するのに忙しく、マンドリンはあまりしていないのですよ」と言われたので、複雑な気持ちになり、そのあと久保田先生とお話しさせていただいたのですが、内容はあまり憶えていません。その後、内藤間善さん(その頃はマンドリンを弾いておられましたが、今はドイツでマイスターとしてマンドリン製作をされています)の紹介で、1981年に久保田さんと内藤さんが1977年に作った「日曜音楽協会合奏団 (Sonntags Konzert Verein、略称SKV)」に客演させて頂く機会を得ました。ベルッティの「ハンガリアの黄昏」のソロです。そのアンサンブルには明治大学マンドリンクラブ出身の和田康雄さんがいて(彼もその後ドイツに留学して、ドイツマンドリンオーケストラと共演するなど活躍。そして現在もドイツに定住してマンドリンを演奏、教えています)彼からマンドリンのピックについて新しい事を教えてもらいました。ほとんどの方と同じく、私は、その時まで、ベッ甲のピックを使っていました。彼からは「ヤマハ製のエレキギター用のナイロンピック」を見せてもらいました。

私もそのピックに魅せられ、それ以来べっ甲は使ったことがありません。ナイロンピックの特徴は何と言っても「材質が常に均一」(べっ甲の場合は1枚1枚微妙に厚さや硬さが違う)「厚さが何種類かあって選べる」「弾いた時の音がまろやか」そして「安い」。欠点は、もともとのピックが少し大きく、自分で紙やすりを何種類も用意して削って大きさを調整しなければならないことでした。それでもその労力に見合った成果はありましたので、今日までかなりの数のピックを削っては使ってきました。そのヤマハのピックが製造中止になると聞いた時は直ぐにヤマハに行って「あるだけのピックをください」と言ったらタイまで問い合わせてくれて、そちらに残っている物も集めてくれたので合わせて900枚くらい買ったでしょうか。しかしそれも、売ったりあげたりして今では数十枚しか手元に残っていません。でも、無くさない限り1枚で数年は持ちますので、もうこれで死ぬまで大丈夫ですが。でも、この自分で削って作ることができない方のためにオリジナルのナイロン製「川口ピック」を作ることにしました。

自分で裏表デザインして材質や硬さも厳選して結構気に入ったものができたと思います。偶然、プラスティックの成型をしてくれるところも大阪で紹介して頂き、最近まで好評でしたが、途中で私がそのピックを作る権利をゆずり、その相手が作るのをやめてしまったので今では廃盤になってしまいました。とても残念です。
私は子供の頃から模型工作やらが好きでしたので家の中でも例えば、楽譜を入れる本棚を作ったりしました。

そんな日曜大工の一環で、楽器の滑り止めと弾く姿勢を良くするための「マンドレスト」なるものも作りました。今ではたくさんの方々に使っていただいていますが、これも完成まではいろいろあって量産するまでは大変でした。四角いウレタンゴムの塊は日曜大工の店で売っているのですが、その片側を太ももの形に丸く削るのに一苦労でした。カッターでは綺麗に削れず、ヤスリでゴシゴシ、なんとも時間のかかることでしたが、ある時私の高校のマンドリンクラブの後輩が務めていた会社で製作を引き受けてくれる事になり、今に至っています。

余談:現在はドイツでマンドリンを製作している内藤さんですが、私がドイツにいる時に日本からお手紙をくれまして「今はマンドリンとは関係ない仕事をしていますが、将来は1)ラファエレ・カラーチェのように楽器が弾けて、2)楽器を作って、3)作曲もできるようになりたい」と言っておられました。とりあえず第1、2の目標は達成できていてあとは作曲です。そろそろ始められるかもしれませんが、美しいドイツ人のマンドリニストの奥さんを獲得しましたから、3つ目の目標はいいにしましょうか。


もう一つ貴重な写真、1986年にギタリストの中野義久さんとヨーロッパ演奏旅行に行った時にドイツ留学中の吉田くん、宮武くん、マンドリン製作家の内藤さんと。