前回からのつづき
夷王山の中腹にはかつて勝山館がありました。
勝山館は武田信広が15世紀後半に築いた山城です。
入り口を入りますと、中央に幅3.6メートルの通路が走っております。
両脇には住居や倉庫などが建てられ、
その周りを取り囲むようにして、堀や物見櫓が築かれました。
さらには館を守る兵士が集まる小屋なんかもあったようで、
厳重な守りがしかれていたようです。
こちらは館の裏手にある搦手。
館の両側は深い沢があって、天然の要害となっているも、
こちらはそうした地形ではないので、
空堀を掘った上に土塁を築き、そこに柵を設けたのだそうです。
搦手を抜けて、林の中をさらに進んで行きますと、
斜面に多くの白い墓標が立っておりました。
600以上もある墓は当時の人々のものだそうです。
武田信広もまた1494年にここで亡くなります。
やがて、後継者の蠣崎光広が拠点を松前に移しますが、
その間、ここが中世北海道の交易・行政・軍事の
重要な拠点となっていたのです。
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(北海道部門150位あたりにおりましたが、今日はどうでしょう?)
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