前回からのつづき
白老で立ち寄りましたのは仙台藩陣屋跡。
幕末期、列強の圧力に屈する形で開国に踏み切った江戸幕府は、
ロシアの南下政策を警戒し、蝦夷地の警備を奥羽諸藩に命じます。
そのうちの一つ、仙台藩は白老からえりも岬、
さらには国後島や択捉島までと、非常に広範囲なエリアを担当します。
その本拠地となったのが、ここ白老なのです。
この地に陣屋が設置されたのが1856年のこと。
さらには広尾、厚岸、根室、国後島泊、択捉島振別にも
出張(でばり)陣屋が設置されたそうです。
白老の陣屋の面積は66,000平方メートルと道内最大級。
周りを堀と土塁で囲み、
内曲輪(うちくるわ)と外曲輪(そとくるわ)とがありました。
内曲輪には本陣や勘定所、兵具庫、穀蔵などが置かれました。
↑これが本陣の跡。
ここが中枢機能を担っていたのですね。
また、外曲輪にはいくつかの長屋や稽古場があり、
交替で120名の藩兵が駐屯していたそうです。
彼らはここで日々、弓や剣術、火縄銃や大砲の稽古にはげみます。
しかしながら、1868年の大政奉還により、江戸幕府は倒れてしまいます。
現在のように、情報網が発達していない時代のことですから、
幕府が無くなった後も、それを知らないまま、
警備を続けていたことでしょう。
やがて、戊辰戦争が勃発。
箱館より攻め込んできた新政府軍に追われるようにして、
彼らはこの地を去ることになります。
こうして、陣屋はわずか12年の歴史に幕を閉じます。
その後、陣屋は取り壊されてしまい、建物自体の痕跡は残っていません。
残った柱の跡をもとに、かろうじて間取りが復元されるにとどまっております。
こちらはそばにある資料館です。
当時の地図や陣屋を再現したジオラマ、武具などが展示されており、
陣屋の歴史を詳しく知ることが出来ますよ。
歴史が好きな方におすすめです。
↓資料館について詳しくはこちらで
仙台藩白老元陣屋資料館ホームページ
<この日の走行距離>恵庭からここまで101キロ(三階滝公園から28キロ)
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(北海道部門60位あたりにおりましたが、今日はどうでしょう?)
白老で立ち寄りましたのは仙台藩陣屋跡。
幕末期、列強の圧力に屈する形で開国に踏み切った江戸幕府は、
ロシアの南下政策を警戒し、蝦夷地の警備を奥羽諸藩に命じます。
そのうちの一つ、仙台藩は白老からえりも岬、
さらには国後島や択捉島までと、非常に広範囲なエリアを担当します。
その本拠地となったのが、ここ白老なのです。
この地に陣屋が設置されたのが1856年のこと。
さらには広尾、厚岸、根室、国後島泊、択捉島振別にも
出張(でばり)陣屋が設置されたそうです。
白老の陣屋の面積は66,000平方メートルと道内最大級。
周りを堀と土塁で囲み、
内曲輪(うちくるわ)と外曲輪(そとくるわ)とがありました。
内曲輪には本陣や勘定所、兵具庫、穀蔵などが置かれました。
↑これが本陣の跡。
ここが中枢機能を担っていたのですね。
また、外曲輪にはいくつかの長屋や稽古場があり、
交替で120名の藩兵が駐屯していたそうです。
彼らはここで日々、弓や剣術、火縄銃や大砲の稽古にはげみます。
しかしながら、1868年の大政奉還により、江戸幕府は倒れてしまいます。
現在のように、情報網が発達していない時代のことですから、
幕府が無くなった後も、それを知らないまま、
警備を続けていたことでしょう。
やがて、戊辰戦争が勃発。
箱館より攻め込んできた新政府軍に追われるようにして、
彼らはこの地を去ることになります。
こうして、陣屋はわずか12年の歴史に幕を閉じます。
その後、陣屋は取り壊されてしまい、建物自体の痕跡は残っていません。
残った柱の跡をもとに、かろうじて間取りが復元されるにとどまっております。
こちらはそばにある資料館です。
当時の地図や陣屋を再現したジオラマ、武具などが展示されており、
陣屋の歴史を詳しく知ることが出来ますよ。
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仙台藩白老元陣屋資料館ホームページ
<この日の走行距離>恵庭からここまで101キロ(三階滝公園から28キロ)
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(北海道部門60位あたりにおりましたが、今日はどうでしょう?)