曇り。また、お日様は、お顔を隠してしまいました。今日、一日中、列島は、大きな白い雲に覆われてしまいそうです。
最近、朝、涼しげな「キキョウ(桔梗)」の花を見かけることが多くなったので、すでにそういう時期になったかと感じ入っていたところ、学校の鉢植えにも、一輪、咲いているのに気がつきました。
日本は平野が少ないこともあり、山を崩して平らにし、その残土で、また、海や湖を埋めるということを繰り返してきました。こういう形でやると、100年単位で自然の姿は徐々に変わっていくのでしょうが、しかし、直ぐには変われない部分というのが残っています。
「ほんの30年ほど前までは、この辺りは山だった」という所を、ぐるりと歩いてみると、空き地の奥に、小さな「ナンバンギセル(南蛮煙管)」を見かけたり、時には、春など、「ツクシ(土筆)」や、今は既に、伝説のようになってしまった濃い紫の「スミレ(菫)」などがワンサカ生えていたりするのですから。
ただ、この辺り(行徳)は、海のそばで、それ故にか、大樹はないのです。それが何より寂しいことなのですが。けれども、もし大樹があったらあったで、渡りの鳥や水鳥などに占拠され、呼吸ができずに大変なことになっていたかもしれません。
さて、学校です。
最近、「Dクラス」で、学生が時々中座をするので、聞いてみると、母親からの℡だと言います。「授業のある時間には電話をかけてこないように頼みなさい」と言っておいたのですが、またその翌日の昨日も授業中に(教室から外へ)出たのだそうです。
これは、難しいところです。学生達は、見たところ、それぞれ、「個」よりも、「家」を中心とする社会で育っているようですし。
日本ならば、「外国で勉強したいと家を出た子に(同意して送り出したにもかかわらず)、未練がましく勉強している最中に℡までしてくるなんて」と非難されて終わりでしょうが、彼らの世界ではそうはいかないようです。まず、何よりも、「子」の方ができないのです。そういう「親」に、「それをやめてくれ」と頼める立場がないようなのです。
それで、勉強中であろうが、直ぐに席を立って、毎日電話してくる「親」の相手をしてしまうのでしょう。大切な文法事項などを説明している時など、「それはないだろう。困るのは君だぜ。親は、いったい、何を考えているのだ」などと、私たちはムカッとくるのですが、そうすることが当然であると思っている国の人達にとっては、問題でも何でもないのです(そうしなければ、親不孝だと、反対に責められるのかもしれません。日本では、授業中に何かすると、他の人の迷惑になると、他者のことを先に考えるよう教育されるのですが、ほとんどの国ではそういうことは考えないようです、)。
で、彼なのですが、彼は四月に来てから、随分痩せました。アルバイトが辛いのでしょう。(家で勉強する習慣がついているようには見えませんから、学校に来て座っているのが、せいぜいなのかもしれません。それなのに)やっと学校に来て、勉強しているのに、それが電話でしょっちゅう呼び出されるとしたら、勉強どころではなくなってしまいます。
実は、学生達(特に来日後、まだ日本の習慣に慣れていない新入生)には、「辛かったら、学校で日本語を聞くだけでもいい。宿題ができなかったら、できる時にすればいいから」と言ってあるのです。学校で復習を繰り返していますから、毎日遅れずに来て、きちんと授業に参加してさえいれば、スリランカ人学生であれば、話せない、聞き取れないと言うことはないでしょう。もちろん、書く分野(漢字、ひらがな、カタカナ)は別ですが。
「大学に入りたい、レベルの高い専門学校に行きたい」というのであれば、復習を兼ねての宿題はやった方がいいのです。毎日手を動かさなければ、「カタカナ」と「ひらがな」の区別が、まず、つかなくなってしまうでしょうし、せっかく覚えた「ひらがな」も、彼らの母語の文字と一体になって、何が何だかわからないような文字になってしまうのです。
その上、既に、以前の「四級漢字」も終わろうとしているわけですから、漢字まで加わって、それこそ、「書ける云々どころか、読むことすらできない」になってしまいます。
けれども、こういう心配をしているのは、教師連だけ。学生の方は至って暢気で、どうにかなると考えているのはまだましも、大したことはないと考えているのが半分くらいはいそうなので、「ちょっと」どころか、それが「大いに」気がかりなのです。
日々是好日
最近、朝、涼しげな「キキョウ(桔梗)」の花を見かけることが多くなったので、すでにそういう時期になったかと感じ入っていたところ、学校の鉢植えにも、一輪、咲いているのに気がつきました。
日本は平野が少ないこともあり、山を崩して平らにし、その残土で、また、海や湖を埋めるということを繰り返してきました。こういう形でやると、100年単位で自然の姿は徐々に変わっていくのでしょうが、しかし、直ぐには変われない部分というのが残っています。
「ほんの30年ほど前までは、この辺りは山だった」という所を、ぐるりと歩いてみると、空き地の奥に、小さな「ナンバンギセル(南蛮煙管)」を見かけたり、時には、春など、「ツクシ(土筆)」や、今は既に、伝説のようになってしまった濃い紫の「スミレ(菫)」などがワンサカ生えていたりするのですから。
ただ、この辺り(行徳)は、海のそばで、それ故にか、大樹はないのです。それが何より寂しいことなのですが。けれども、もし大樹があったらあったで、渡りの鳥や水鳥などに占拠され、呼吸ができずに大変なことになっていたかもしれません。
さて、学校です。
最近、「Dクラス」で、学生が時々中座をするので、聞いてみると、母親からの℡だと言います。「授業のある時間には電話をかけてこないように頼みなさい」と言っておいたのですが、またその翌日の昨日も授業中に(教室から外へ)出たのだそうです。
これは、難しいところです。学生達は、見たところ、それぞれ、「個」よりも、「家」を中心とする社会で育っているようですし。
日本ならば、「外国で勉強したいと家を出た子に(同意して送り出したにもかかわらず)、未練がましく勉強している最中に℡までしてくるなんて」と非難されて終わりでしょうが、彼らの世界ではそうはいかないようです。まず、何よりも、「子」の方ができないのです。そういう「親」に、「それをやめてくれ」と頼める立場がないようなのです。
それで、勉強中であろうが、直ぐに席を立って、毎日電話してくる「親」の相手をしてしまうのでしょう。大切な文法事項などを説明している時など、「それはないだろう。困るのは君だぜ。親は、いったい、何を考えているのだ」などと、私たちはムカッとくるのですが、そうすることが当然であると思っている国の人達にとっては、問題でも何でもないのです(そうしなければ、親不孝だと、反対に責められるのかもしれません。日本では、授業中に何かすると、他の人の迷惑になると、他者のことを先に考えるよう教育されるのですが、ほとんどの国ではそういうことは考えないようです、)。
で、彼なのですが、彼は四月に来てから、随分痩せました。アルバイトが辛いのでしょう。(家で勉強する習慣がついているようには見えませんから、学校に来て座っているのが、せいぜいなのかもしれません。それなのに)やっと学校に来て、勉強しているのに、それが電話でしょっちゅう呼び出されるとしたら、勉強どころではなくなってしまいます。
実は、学生達(特に来日後、まだ日本の習慣に慣れていない新入生)には、「辛かったら、学校で日本語を聞くだけでもいい。宿題ができなかったら、できる時にすればいいから」と言ってあるのです。学校で復習を繰り返していますから、毎日遅れずに来て、きちんと授業に参加してさえいれば、スリランカ人学生であれば、話せない、聞き取れないと言うことはないでしょう。もちろん、書く分野(漢字、ひらがな、カタカナ)は別ですが。
「大学に入りたい、レベルの高い専門学校に行きたい」というのであれば、復習を兼ねての宿題はやった方がいいのです。毎日手を動かさなければ、「カタカナ」と「ひらがな」の区別が、まず、つかなくなってしまうでしょうし、せっかく覚えた「ひらがな」も、彼らの母語の文字と一体になって、何が何だかわからないような文字になってしまうのです。
その上、既に、以前の「四級漢字」も終わろうとしているわけですから、漢字まで加わって、それこそ、「書ける云々どころか、読むことすらできない」になってしまいます。
けれども、こういう心配をしているのは、教師連だけ。学生の方は至って暢気で、どうにかなると考えているのはまだましも、大したことはないと考えているのが半分くらいはいそうなので、「ちょっと」どころか、それが「大いに」気がかりなのです。
日々是好日