日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

特別授業「一日目」を終わって

2008-08-13 13:11:42 | 日本語の授業
 今朝は曇り空。天気予報では夕立があるやに言っていましたが、さてどうなりますことやら。

 東京と千葉のお天気を見比べながらの推量では、「おそらく雨が降るでしょう」とふんだのですが。

 さて、昨日の女学生は、『みんなの日本語』の14課から、25課までを一応やることが出来ました。朝は10時から12時まで、昼は1時から4時過ぎまで、「一対一で」です。この時間、同じ状態で勉強を続けることが出来ましたから、たいしたものです。

 本心を言いますと、途中で、疲れて「休む」と言い出すのではないかと、危惧していたのです。そうすると、四日間では、41課までいけません。しかし、それも杞憂に終わりました。集中力は途切れることがありませんでしたから。

 さすが、親御さんが「どうしてもいい大学に入れたい」。本人も「勉強したい(学問したい、の方でしょうか)」と望んで、日本に来ただけのことはあります。

 もちろん、大学入試というのは、何が起こるか解らない一発勝負の試験ですから、「絶対」とは言えませんが、「人事を尽くして」の部分だけは、この学校にいるときに、どうにかなりそうです。

 前から、聡明な女性であることは解っていたのですが、来校時の印象は「暗い」「無口」でしたから、なかなか自分の心を開かないのだろうと思っていました。ところが、一対一の五時間を通して、随分「無邪気な」子であることがわかりました。「素直」に教師の言う通りにできるから、上達していけるのでしょう。

 「学ぶ」という上では、「言語」も「芸事」に通じるところがあります。教える人間を、信じることが出来なければ、上達することは出来ません。天才でない限り、普通の人間には「自力」でやれる部分には限度があります。しかも、時間もかかります。

 この子のように、「学びたいこと」が他にある場合、「日本語」はそのための「道具」でしかありません。一刻も早く「その求める道」へ進んでいくためには、いかに効率よく日本語を習得していけるかが、鍵になります。

 この分で行けば、来年の初めには「中級」が終わっているでしょう。そして「上級」が始まり、それと並行して、「留学生試験」の準備をすることが出来るようになるでしょう。「上級」さえ終わっていれば、後は「新聞」の記事や「文学」、「古典」などを授業で入れることも出来ます。そうすれば、大学に入っても、他の日本人学生に、大きな引け目を感じることもないでしょう。

 「留学生対策」をとる場合、「大学に入学するまで」だけではなく、「入学後一年か、二年」までを視野に入れておかねばなりません。

 大学に入ろう、がんばろうと思って日本に来た就学生でも、日本に来ると、母国ではなかなか手にできないお金を(アルバイトレベルでも)、手に入れることができます。意志が強く、目的がはっきりしている学生であれば、それでもがんばれるのですが、そうではない学生の場合、それだけで舞い上がってしまって、勉強どころではなくなってしまい、稼ぐことに夢中になってしまうのです。
 
 そうなると、学校というものは、ただ彼らが日本にいられるための道具(ビザをもらえますから)になってしまいます。こうなった学生に、いくら勉強のことを言っても無駄でしょう。もしかしたら、彼らに子供が出来、大学受験などを考え始める頃にでもならなければ、私たちの言葉の意味なんて、わからないのかもしれません。

 確かに今まで、少なからぬ外国人に日本語の「授業」をしてきましたが、「教えた」と言えるのは、そのうちのどれほどの学生でしょう。

 この学校も、日本語教育振興協会の認可を受けてから、もう五年になりました。「この学校に在籍していただけ(教室に座っていただけ)」の学生だけでなく、ポツポツと「教えた」と言うことができる学生も巣立ち始めています。こうなってくると、私も楽しいし(私だけでなく教員はみんな楽しい)、やりがいも出てきます。学生にしても、「結果」が目に見える形で出てきますので、挫けそうになっても、踏ん張ることができるのでしょう。

 もちろん、アルバイトをしなければ、進学できない学生もいます。けれど、目的さえあれば、勉学に励んでさえいれば、「大学に入ってから」ではなく、「日本語学校に在籍中」であっても、奨学金を得ることができます。

 「いい循環」が始まれば、すべてがよくなります。身近な学生達が「悪い循環」に呑み込まれてしまわないよう見守るのも、そして呑み込まれそうになったら、引きずり上げてやるのも、こういう仕事をしている教師達の務めの一部でしょう。

日々是好日

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夏休み中の「特訓」

2008-08-12 12:49:46 | 日本語の授業
 さて、昨日、ふと携帯電話を見ると、学生から…かかっていました。普段、あまり使わないので、確認が遅れてしまったのです。慌てて連絡をすると、「今朝、いつものように、学校へ行ったのに、学校が閉まっていました。だれもいません。先生、どうしたの」という女子学生の不安げな声。「今日から休みです。忘れたの」と、笑って答えてしまいましたが、実際の所、心細かったでしょうね。

 しっかりしているように見えても、一応、7月に来たばかり。その上、高校を卒業して一年ほどしか経っていないのですから。「危ないな」と思われる学生には、個人的に「チェック」をしましたが、「大丈夫だろう」と思われる、しっかり者には、教室だけの注意で終わってしまいましたから。

 ところで、今日から「サバイバルクラス」を四日間、します。

 今年は、「初級(1)」と「初級(2)」のクラスの夏休みが、1週間しか設けていませんので、四日しかできないのです。

 普通の「クラス」は、どうしても一斉授業になってしまいますから、中には、「それでも追いつけない」という学生もいれば、「力が余ってしまって、ぼんやりしているうちに、ナマケモノになってしまいそう」という学生もいます。

 速度や内容の濃さは、「『上から三分の一か、二(これも、その時々の学生のレベルによって決まります。砂に水がしみこんでいくように、何事もスーッと容れることができる学生が多い時もありますし、速度をいくら落としても、二回三回と繰り返さなければ理解できないという学生が多い場合もあります)がわかる』を目安にするのですが、クラスによっては「この人が解ったくらいで」と、その「だいたい」を人によって決める場合もあります。

 この「サバイバルクラス」というのは、「能力はあるけれども、途中で入ってきたので、今ひとつ『一貫したモノ』が見えていない」学生や、今回の学生のように「『他の学生より、もっとがんばれる』と思われる」学生などが対象となります。

 つまり、我々が、「この学生は、できるのではないか」、或いは「必要だ」と、判断した時に、開くのです。
 
 当然のことながら、「やる気がある」というのが、必要十分条件で、遅刻したり、怠けたりすれば、即、停止します。

 本人に「やろう」という意志ががなければ、開講しても本当に意味がないのです。小学生や中学生だったら、「説得」したり、「遊び」をもっと取り入れたりと、当方がいろいろな工夫をしなければならないところでしょうが、がんばると言ってきている人達なので、その前提が崩れてしまえば、もう「おしまい」です。

 今回は一人だけですが、それでも、手を抜きません。たった一人であろうと、十人いようと同じです。もっとも、学生の方は大変ですね。二人か三人いれば、「ほっ」と息を抜ける…時もあるでしょうが、一対一ですから、緊張し続けなければなりません。かなり「知的体力」がないと、へばってしまうのです、学生のほうが。

 こういう場合、教師にとって大切なのは、「学生の疲れ具合」や「知的体力の様子」などの見極めです。これの見極めができない教師に、任せるのは難しい。特に我々の方で、「サバイバル」してもいいというほどの学生であれば、必ず教師を「値踏み」しますから。「何時間も、こいつのために割いてもいいのか」と。休み中のことでもありますし。

 教師にとっても、今、手元にいる学生が、こちらの要求通りにすべてやり遂げ、それ以上のものを要求できるレベルになってくれば、「荷」はドンドン重くなっていきます。どこまで「耐える」ことが出来るでしょう。

 というわけで、教師と学生とは、ある意味では「同志」でありますが、また、ある意味では、「敵対関係」にあるとも申せましょう。

 けれども、今回の学生は、まだまだ、「初級レベル」で、それほど肩肘を張る必要もないのです。ただ、どれほど、速く進めるかが問題になるだけです。なんといっても、七月に来て、しかも、「イロハ」からの学生ですから、急がなければ、来年、再来年の「大学入試」に間に合いません。九月の中旬からは、数学と英語も入れていかなければなりませんから、どうあっても、この期に、上の「四月生」のクラスには入れておきたいのです。

 国立をめざすなら、「英語」と「数学(1)」は必要になりますし、その中の理系をめざすなら、「数学(1)」でなく、「数学(2)」を、そして「生物/物理/化学(のうち、二教科)」を選択しておかねばなりません。

 何事をするにせよ、「本人のやる気」が肝心です。今日の朝の授業では、まず「本人の大学に対する意志」を確認し、そのための勉強、及び計画を説明しました。本人もがんばらざるをえないということがわかったようです。

 さて、彼女の場合は、今日どれほど進めるでしょうか。そして、明日はどうでしょう。すべては「本人次第」なのです。「本人の状況」に応じて、私が加減していくだけなのですから。

 しかし、「夢は叶えられる」ものです。その信念だけは、誰であろうと失って欲しくはありません。

 日々是好日 
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ああ、もうオリンピック大会開会か

2008-08-08 19:15:15 | 学生から
 待てと暮らせとというようなものでは、けっしてなく、あのオリンピック大会は、やはり期日通りに始まりました。

 今朝、いつものように目をさめ、時計をのぞいてみたら、なんと7時を過ぎてしまいました。睡眠が軽い故、いつも6時ごろにもう窓外の散歩者のざわめきに目をさめています。

 ああ、よく寝たと思い、窓を開け、顔を洗い、おゆを一杯入れてPCの前に座りました。

 あへん、あへん、窓の下からはいつもの気管支炎の爺の咳声が聞こえてきました。ああ、あの爺、又朝早くアパートの入り口の手前に門番のようにじっと座っているな、と分かりました。

 あの爺とは、同じアパートの1階に住んでいるものであり、1年ほど前に他所から引っ越してきたのです。年が随分取っている上、気管支炎という持病も抱えているため、周りの爺や婆からは敬遠されているらしい。咳を絶えないその話し声は、いつもからからで余計に甲高くと聞こえています。朝の涼しいうちは、いつも外に座って近所の通行人と話を交わしています。

 「おっ、、お早う。。通勤だねえ。」
 「いや、今日は休みだ。」
 「ああ、そうか。それは、それは。」
 「オリンピック大会じゃないか、今日は。」
 「おっ、、そうね」
 「会社は休みだ。今日から3連休。」
 「いいねえ。。」
 「みんな休みだよ。北京市政府の命令だ。企業、事業体は3連休、役所は1日休みだよ...」

 そうか、爺の会話を聞いて、初めて分かりました。オリンピック大会開会のため、今日からは3連休です。道理で今朝簡単に7時まで寝すぎてしまいました。窓外の通行人は少なかったからです。

 でも、すごいですね。スポーツ大会のために3連休。最近、地方では、爆発や殺人事件等所謂テロが頻発しています。北京市政府も神経をぴりぴりさせながら警戒しています。地下鉄の入り口では、汽車ターミナルや空港ターミナルの中でしか見れない物々しい安全検査措置が取られています。ボディチェックこそないですが、ちょっとでも大きいカバンやバックでも持ち込むと、必ず機械に入れるように要求されています。尤も、地元に住む住民ならよほどのことがない限り、そんなでっかい荷物を車内に持ち込むわけはないですから、結局引っかかったのは大体地方からの上京者及び出稼ぎ労働者です。又、一ヶ月ほど前からは、プレートナンバーの尾数を日数の奇偶に合うのを条件に自動車の車出をその日その日に制限をしています。

 それでも、人口が多いから、車の数は減ったようにはなかなか見えないのです。3連休。市民が不意の事件に巻き込まれないように、又は所謂テロリストが騒乱を起こす機会を最小限に抑えるために、この措置を講じたのでしょう。

 でも、そうしただけで根本的な問題は解決することが出来るのでしょうか、はなはだ疑わしいです。別に大混乱の発生を期待しているわけではないですが、大会が始まっている以上、ゆっくり様子を見守っていくほかはないのです。何といっても、世界中の注目を集めていると、いうスポーツ大会ですから()。

 天山来客 
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「富士山」へ、いざ

2008-08-04 05:55:58 | 日本語の授業
 さて、今日は「富士山」へ。

 歌の練習もしたし、「富士山」の勉強もしました。郵便局があることも解ったし、そこから送るためにはどうしなければいけないかもわかったはず。

 ぼんやりしていたら、あっという間に集合時間になって、「何も見ていない」、「お土産って何」、「え!そんなところがあったの」というような具合にならないとも限らない。

 「おさおさ、怠るまじ」ですね。教員側が注意したことは、本当に皆大切なことであると、こういう「小旅行」を通じても、解ってもらいたいもの。

 その一つ一つが、将来、日本で働くにせよ、進学するにせよ、繋がっていくことなのですから。

 さあ、今年の学生の集まり具合はどうですかしらん。私たちの「注意」の「理解度」が問われるところです。

 そして、明日は代休。私はそれから休みに入り、戻ってくるのは8月11日になります。

 おっと。こう書いている途中に「先生」と小さな声。学校から集合場所まで、一緒に行こうという中学生が一人やってきました。

 「お弁当は持ってきましたか」「はい。『私が作った』のです。」

 中国人の学生は、子供の時から(両親が共稼ぎの場合が多いですから)、お父さんにしっかり習って、料理が出来る子が多いのです。この子は八歳の時から、いつも料理は自分でしてきたということ。

 こういう生活力を何とか生かして、日本語の力をつけた後、自活できるような道を拓いてやりたいとも思うのです。

 では、行ってきます。

日々是好日
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「富士山旅行」と「夏休み」を前に

2008-08-02 08:25:57 | 日本語の授業
 昨日、ミンミンゼミの声が、遠くから、か細く聞こえてきました。やはり夏になったのですね。なんといっても、小学校が夏休みに入って、もう一ヶ月ですもの。町が、プール帰りの子供の声で、膨らんで見えます。

 ふと気づいたのですが、これまで静かさで、空気を裁ち切っていた桔梗が、姿を消していました。今そこにあるのは、「静」の桔梗ではなく、濃いピンクのオシロイバナ。あの子供の「おままごと」には欠かせない、オシロイバナです。オシロイバナの色も少なくなりました。白や黄色はあまり見かけません。白い夾竹桃をあまり見かけなくなったのと同じ理由からでしょうか。
 
 お弁当を買いに行く途中、見事な朝顔をフェンスに這わせている駐車場があります。そこの朝顔は、江戸の色、一色。曰く「江戸紫」そのものなのです。ここまで見事だと、植えた人に、何か拘りがあるのかとさえ思ってしまいます。

 さて、「上級」クラスの一学期の授業は、昨日で終わり。次の授業は8月の25日からです。

 「初級(Ⅰ)」と「初級(Ⅱ)」のクラスは、来週月曜日の「富士山旅行」と次の日の「お休み」を挟む、水曜日まで、お休み。本当の夏休みは、8月11日から15日までの1週間。その間も必要のある人には学校で勉強してもらいます。

 何でもそうですが、心の緊張が途切れてしまうと、また続けることが億劫になってしまいがちです。この緊張が途切れないように指導していくのも、こういう学校の「教師の務め」でしょう。

 「上級クラス」は、「ディクテーション」のノートの持ち帰りと、後は、一人一人に、この3週間の休みのうちに、しておかなければならないことを指示(もちろん、指示を出さなくてもいい人には、何も言いません)しました。その中には、「オープンキャンパス」の参加も含まれています。未だにどこか、目的を絞れない人もいるのです。夏休みを挟むこの時期は、教師も授業に追いまくられるということが少なくなり、彼らと最終的に話し合う機会が増えます。やりたいことは何か。教師は相づちを打つだけでいいのです。自分で自分に語らせて、考えさせていきます。

 六月から、新たに参加した二人には、休み中、教科書を借りて、「初級(Ⅱ)」クラスの授業に参加するよう、促しました。「独学」の人や、学校に通ったといっても「独学に等しい状態」の人には、往々にして、「基礎編」が欠けている場合が多いのです。特に中国の人は、「文法を理解した」状態だけの人が多く、「文章の中から文意を読み解く」ことが出来ないという悲惨な状態になっている人もいますし、「読める」が「聞き取れない」し、「話せない」、当然「書けない」状態になってしまっている人も少なくありません。

 その上、困ったことにそういう人に限って、「解る」と言い張って聞かないのです。まじめに通うだけの「根性」があれば、それなりの手は打てますが、「変なプライド(?)」から、出来ていないことを、認められない人には、本当に困ってしまいます。それでいて、「どうすればいい?」「どうすればいい?」と騒ぐのです。その上、こちらが話そうというと、(聞き取れませんから)話させません。すぐに話の腰を折ってしまい、勝手に一人でまくし立てようとします、めちゃくちゃの「助詞」を使って。いっそのこと「助詞」がなければ、こちらも類推できますから、その方がいいのですが、もう「助詞」がめちゃくちゃだと、どうしようもないのです。何を言っているのかわからない。手がつけられません。

 そのときは、どうしてこんな状態の人に、「日本語が上手だ」と言う人がいるのだろうと、見ぬ、「良心的な」ボランティアの人を恨みたくさえ、なってしまいます。もう、こういう状態の人には、当方としても手の打ちようがなく、本人も「欲求不満」のまま、引き下がってしまうということになってしまいます。

 習い事をする場合は、まず「自分のレベルを知る」、つまり「現実を認める」ということが、何よりも大切なのですけれど、それを認めるだけの「度胸と知性」がなければ、しょうがありません。本当に、気の毒ですが、それはそれでしょうがないことなのでしょう。子供ではないのですから、自分の人生の責任は自分でとるということになります。できないのは、自分の責任なのです。

 ありがたいことに、今いるお二人は、こちらの言うことを素直に聞いてくれます。もちろん問題点も多く、時間はかかると思います。けれど、教師の言う彼らの「現在のレベル」をそのまま認めるだけの、「心の広さ(そう言いたくなるほど、これが欠けている人が多いのです、最近)」と「素直さ」、多分これも「知性」の一つなのでしょうが、これさえ持ち合わせてくれていれば、あとは何とかなると思います。まじめに休まずに通ってきてくれていますから。

 ところで、「富士山旅行」です。参加者の中に、「中学生の年齢」の者が四人 、「中学校は卒業したけれど、高校を卒業する年齢は至っていない」者が四名います(小学生の二人は親御さんと一緒なので、大丈夫なのですが)。高校さえ卒業していれば、何となく、「放っておいても大丈夫」の感がありますが、「中学生」や「中学生に毛の生えたレベル」では、完全に私たちは「引率者」になってしまいます。

 目を離した隙に、とんでもないところに飛び込んでしまうようなのが、いるんです、この中に。

 というわけで、役割分担で、私はそのうちの二人を「マーク」することになりました。子供は元気に飛び回りますから、こうなると、肉体労働ですね。よく眠って準備しておきます、前日は。

 でも、本当に子供です。「月曜日は早いから、ちゃんと目覚まし時計をかけておくんですよ」と言うと、「大丈夫です。前の日は、夜寝ません」と答えるのです。思わず、「夜寝るんだ。寝なかったら、不機嫌になって、鬱陶しくなるんだ」と心の中で呟いてしまいました。

 高校卒であれば、だいたいの理屈は解りますが、中学生はまだそれが通用しないのです。しかも、いろいろな国から来た外国人同士ですから、言葉による共通理解に幅が出来ています。馬鹿げた行動をとられて初めて、「わかっていなかった」ということが解る場合も多く、本当に要注意。

 日々是好日
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対象となる「学生」と

2008-08-01 08:13:05 | 日本語の授業
 今日から八月です。なぜか、夏の様相を呈していなくても、夏になったと頭が納得するのが八月なのです。

 去年も、一昨年も、このようだったのでしょうか。なぜか、馴染みのある夏の昆虫が少なくなったような気がします。しかしながら、小鳥たちは相変わらず、飛び回っていますから、「虫」たちがいなくなったわけではない…ということは解るのですが。なぜか目につかないのです。

 とはいうものの、一昨日は、「蛾」で一日が始まりました。「トイレに『蛾』がいた」という報告で、早速行ってみると(実は、私は「虫」が嫌いではないのです)、3㎝ほどのきれいな蛾が壁にとまっていました。全体の色は白、縁は黒。きれいですね、オードリー・ヘップバーンのファッションを見ているみたいです。もちろん、すぐにコップと紙を使って、「お引き取り」願いました。

 「虫」といえば、ちょっと違うのですが、先日久しぶりに「ナメクジ」を見つけました。学校の鉢植えの、その、土の上を這っていたのです。例のズルズルとという姿で。思わず、「『ナメクジ』さんだ」と叫んでしまいました、あまりに久しぶりだったので。水をしっかりとかけてやり、ついでに、嫌いな人に見つからないように祈ってやりました。

 「ナメクジ」などの姿を町で見かけなくなって、本当に久しくなります。昔は、梅雨の頃になりますと、柵や塀のところに銀の足跡がついているのをよく見かけたものです。

 北京で日本教師をしているとき、「ナメクジ」が教科書に出てきて困ったことがありました。その時のクラスは、一人を除いて、北京出身者が三分の二ほど、他は内陸部の乾燥地帯の出身者ばかりという構成だったので、水とか湿気とかと関係のある生き物について、みんな本当に何も知らなかったのです。
 
 わずかに水の多い天津から来た一人が「ああ○○○だ」と言ってくれたのですが、名前を聞いてもだれも知らない。その言葉を聞いたところでは、ちょっと汚いのですが「『青洟』の意である」と解しました。なるほど、そう言われてみれば、そうですね、よく似ています。

 子供の頃は、見つけると、「理科の実験」と騒いで、すぐに塩をもらってきてかけたものです。残酷と言われればそうですが、そうやってみんなで遊んでいたのです。けれども、「御本体」すら知らない中国人の学生にそれを話しても、詮無いことです。「ナメクジ」の写真を見せて、実物がわかったところで、「ナメクジに寄せる『思い』」などというものは伝わりませんもの。

 どの国にも、どの地方にも、そういう「子供の文化」があります。それは、頭で「理解」することは出来ても、「感じる」ことは難しいのです。

 しかし、本当のところ、そういう「子供の頃の『経験』とか、『思い』」とかから、その国の「文化の根っこ」というものはできあがっているのではないのでしょうか。

 学生達の顔を見、この人達とどうやって接し、教え、「希望を達成させていけばいいか」を考える時、彼らの生い立ちやら、家族のことにまで、考えを及ぼしていかざるを得ません。「どうして、こういう反応を示すのだろう」と、何でもないことに強い拒否反応を示したり、頑なだったりすると、おそらく「問題は彼らの『根っこ』にある」と思わないわけにはいかないのです。

 そういうときは、まず、引きます。一歩も二歩も退くのです。攻めても無駄です。逃げるだけです。その記憶が薄らぐのを待つか、気をそらすかして、とにかく待ちます。けれども、多くの場合、私たちの対象となる学生には、長くて一年半、短ければ一年ほどの時間しか、残されていません。

 一番いいのは、目的というか、人生の夢、それも、バラ色の夢を一緒に見ることです。誰にでも夢はあります。けれども、その夢は、それまでの彼らの人生の歩みの中で、いつの間にか、薄れて消えかかっていたり、思い蓋をかぶせられたりして、見える状態にはない場合が多いのです。決して、一度見た夢は完全に消えることはありません。ただ心の片隅か、あるいは底の底に押し込められている場合、見つけるのに苦労するのです。その夢を捜し出し、その夢の実現のためにはどうしたらいいのかを一緒に考えていく必要があります。

 子供の時から、「一流大学」としか言われていなかった人、好きなこと、やりたいことをすべて拒否されて育った人ほど、最初は呆然とするものの、しばらくすると、溢れるように語り始めます。何でも言えばいいのです。言って言って、言い続けているうちに、少しずつやりたいことが見えてきたり、心の中のとっかかりが出来てきたりします。そうすると後は実行するのみになります。

 それとは別の問題は、高等教育を受ける機会の少ない、発達途上国の人達です。

 大学は知っていても、そこは「何をする所か」の具体的なイメージがないのです。決める段になって、「『大学』は何をしますか」と聞いたりするのです。ですから、留学生相手の「オープンキャンパス」というのは、本当にありがたいのです。

 「大学生を大学で見、彼らと話す」というのが、何よりも彼らの励みになるのです。自分が何をしたいのかも、何が好きなのかも解らないのです、具体的なイメージがありませんから。「何でも出来る。何が好きなのか」というと呆然としてしまいます。(「何でも」は語弊があるかもしれません。しかし、彼らの国と比べれば、日本での選択肢は無限大に近いほど多いのです)

 実際の所、こんなに年を食っている自分だって、何をしたかったのかなど、聞かれると困ってしまいます。わずか20歳前後の人に、「何を専攻したいのか」と聞いても、答えられるわけはないでしょう。それは不思議なことでも何でもないことです。人間は、死ぬまで「発達期」なのですから。けれど、彼らには、ある種の決断をしてもらわなくてはなりません。出来るだけ早い時期に。

 七月生が来て、早一ヶ月。彼らの性格も能力も、これまで過ごしてきた環境も少しずつわかり始めました。そろそろ、来年あるいは再来年の受験に向けて、話し合いを始めなければなりません。そのためにも、邪魔になる垣根は少しずつ取り除いていかなければならないでしょう。そして、楽しい大学生活が送れるように準備してやらねばなりません。

 彼らにとって、一度きりのことなのですから。

日々是好日
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