日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「日本語学校における英語教育、『漢字圏』の学生と『非漢字圏』の学生の、互いの長所を生かして」。

2009-03-17 07:45:30 | 日本語の授業
 今朝は風も凪いで、いいお日和になりそうです。聞こえてくるのは、ブ~ンブ~ンと電線を唸らせる激しい風の音ではなく、小鳥の囀りなのですから、素敵な夜明けです。時折ヒヨドリの声が空気を切り裂くように響いてくるのですが、もう慣れました。何ほどのこともない。なんと言っても、お馴染みさんですから。
 自転車を走らせていますと、公園にある木の梢から、何かを転がしてでもいるかのような小鳥の囀りが、聞こえてきます。渡りの鳥が、はや到着したのでしょうか、久しぶりに聞く声です。

 こうやって、毎日のようにこの公園のそばを通っていますと、ここを塒にしているカラスたちとも、もうお友達という感じです。賢いカラスたちも、きっとそう思ってくれているのではないでしょうか。彼らが真上を飛ぼうが、大声で叫ぼうが、全く気にはなりません。今朝も電線の上に、おそらくは一家でしょうが、5頭ほどが並んで止まっていました。見たところ、大きくて重そうですのに、大丈夫なのですかね。

 さて、学校の話です。
 今、英語の授業を受けているのは、「Bクラス」のおしゃまさんたち、3人だけなのですが、それに、「C・D合併クラス」の8人ほどが加わることになりました。昨日は、様子見と言ったところ、最後にちょっとだけ、参加させてもらいました。
 勿論、授業のペースは緩められませんので、おしゃまさんたちの流れに乗るという形になります。英語も、母国で、どれだけ勉強したことがあるかによって、違ってきますから、それぞれのレベルに合わせるわけにはいきません。

 この学校では、あくまで、大学受験ために、「英語の授業」を組んでいるのであって、別にこれによって、お金を取ろうというのではありません。ただ、日本語の他に、英語がある程度出来ると、「大学選択の幅」が拡がるのです。、ただそれだけのためですから、「日本語」のレベルが低い学生や、話せるけれども、「漢字」がかけないという学生には、「英語の授業」は遠慮してもらっています。

 それから、「アルファベット」も分からないという学生を、参加させるつもりも、全くありません。「日本語」も満足にできないのに、その「日本語」で「英語の一」から学んで、どうするのでしょう。それくらいなら、「チンプンカンプンの日本語」を通して、英語を学ぶよりも、「融通無碍の自国語」で、英語を講じてもらった方がずっと役に立つ。ここは、あくまでも、日本語を教える学校なのですから。

 また、そうでなければ、英語の授業が進めていけないのです。目的は、今年の末、ないしは来年の初めにある大学入試のためです。時間も限られています。10人ほどのすべてに、違うカリキュラムで、授業を進めていくというのには、骨が折れます。もちろん、もし、この学校が、英語学校であったなら、それも、致し方ないことでしょう。日本語教育においては、かつて、そう言う場面も存在しましたから。教員にしても、そういう情況に対応できるようであってもらわなくてはなりません。

 しかし、こういう日本語学校で、英語を教えるというのは、上の教育機関に進むための便宜を考えてのことですから、まず、勉強の大本は「日本語」です。これは譲ることができません。

 今年になってから、英語の授業に参加している三人も、それを嫌と言うほど判っていることでしょう。「日本語の勉強ができなければ、英語の授業に参加させてもらえない」ということを。もっとも、この三人には、それを言う必要がありませんでした。何事に拠らず、学ぶということに抵抗がないのです。出来るか出来ないかは別にしても。

 Lさんに、「(英語の授業を)受けてみる?」と聞けば、Lさんは、「はあ、受けた方がいいな」と言って、まず、三人の中でも、一番勉強するでしょう。それに、中国でも英語はかなり勉強していたようですから。

 また、Gさんに、「(英語の授業を)受けてみる?」と聞けば、「はあ、大丈夫ですか。日本語の勉強も大変でしょう」と言いながら、身体は今にも走り出しそうな前傾姿勢。いえ、それどころか、既に立ち上がっているかもしれません。聞いたら、直ぐにその方向へ向かって走り出すタイプなんですから。押さえておかなければ、考えずに飛び出してしまいます。全くもって、危ない、危ない。しかし、今は、もう一生懸命です。

 このGさんは、今年の1月でしたか、
「先生、まだですか。タンザニアから来るはずの学生は、まだ来ませんか」
と、Fさんのことを首を長くして待っていました。(Fさんは、事情があって、来るのが二週間あまり遅れたのです。)

 初めは、何か問題があるのかなと、思っていたのですが、豈図らんや、全くの逆で、英語で話が出来るだろうと思って待ちわびていたのです。Fさんが来てからも、
「だめです。私は発音が悪いのかな。Fさんは、私の話すことを判ってくれません」
とがっかりしていたのですが、今では、英語と日本語を交えながら、度胸よく話しています。「言葉」は、使えば「通りがよくなる」というのは、本当ですね。「使わなければ、通りが悪くなる」と言うのも、本当ですが。

 三人の中で、私たちが、一番心配していたのは、Cさんでした。引っ込み思案で、どこか、「石橋を叩いたり、ひっかいたりしても、結局は渡らない」といったふうなところもありますから。けれども、彼女も、他の二人に引きずられるようにして、勉強を始め、
「私は、ちょっとね…。単語もあまり知らないし…ね。二人はよく知っているもの。だめかなあ」
などと、最初の頃は、自信なさそうによく呟いていましたが、今(二ヶ月経過)では、あまりそう言う言葉も聞かなくなっていますから、多分、少しずつ自信がついてきたのでしょう。自信がついたと言うよりも、苦手意識が薄らいだといった方がいいのかもしれませんが。

 勿論、英語を「公用語」とする国から来た人(イギリス人やアメリカ人ではありません)の中には、相手(「非英語圏」の学生)が、一言でも英語を使おうものなら、途端に、小馬鹿にしたような態度を取る人もいます。けれども、だいたい、こういうタイプの人間は、漢字が書けませんので、日本語を学んでいる限り、いくらでもやり込める機会はあります。そうして、そういう人を黙らせていけばいいのです。そういう国の人間は、「英語が母国語ではない」のにも拘わらず、「英語信仰」、「英語中華思想」というものがあって、英語を話すことが出来ない人間を、一等級下のレベルの「人間(人格までも含めて)」と見なす傾向がなきにしもあらずなのです。

 もっとも、これは、仕方のないことなのかもしれませんから。旧植民地国では、英語が話せないと職もなかったことでしょうし、まず、第一、教育も受けられなかったでしょうから。ただ、今のところ、一人を除いて、そう言うタイプの学生はいませんから、和気藹々と、漢字の出来る中国人学生とも、教え、教えられを繰り返し、互いに切磋琢磨しているといったところです。そして、これが、互いの長所を活かせる、一番いい学び方なのかもしれません。

日々是好日
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