日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「学校へ来る学生」。「お兄さんに、連れられてきたスーダン人の若者」。

2011-12-27 10:20:15 | 日本語の授業
 快晴。今日も「洗濯日和」のようです。乾燥警報が出ていました。朝起きると、結露が窓にびっしりとついています。最近の朝の日課は、この結露取りから始まります。

 ホームセンターに行きますと、結露がつかないと銘打たれた新製品が山のように積まれています。その時々の体力や手間暇がかけられるかどうかによって、人は、製品を選んでいくのでしょう。それから、この頃の流行ですが、多少体に負荷を与えるような家庭用品が変われているようです。楽になるように、楽になるようにと、選んで行けば、将来「脳」しか手足についていないような、今の我々から見れば、奇怪至極の生物になってしまうかもしれません。それでなくとも、かつてホモサピエンスにあったと思われる本能さえ、今は失われて久しいのですから。

 危機を察する知覚とか、バランス感覚…エトセトラ。ああ、ヒトという範疇に属する、己を見みてみても、あったはずなのに、あるいはあるはずなのに、どう足掻こうとその片鱗さえ、今は見当たらないといった能力が、数限りなくあるはず…。生まれた時からもう既になかった、というか、休眠状態であったというか。ヒトは、地球上で、危機に直面する度に、様々な能力を進化させている、またさせつつある他の生物に比べ、(ヒトのその方面での能力は)衰える一方のような気がしてなりません。

 便利さを追求していけば、それは当然のことです。例えば、力がない、けれどもものを持ち上げなければならない。ではどうするか、それならばと、ロボットスーツの開発です。本来は「点」が便利になるためのものであったのでしょうが、しかしながら、飽くなき「開発欲」は、あっという間に、(それを安価に利用できる術を開発し)下々の生活まで便利にしていきます。そして、それがまた「利」を生んでいくのです。

 そのうちに、行き過ぎに気づいたヒトは、次に、その便利さとも戦わねばならなくなってしまうのです、ヒトがヒトであるために。矛盾に満ちた生き方ですが、そうやって螺旋を描きながら、ヒトはヒトなりの進化を遂げてきたのでしょう。

 さて、「結露」の話に戻ります。実は、私も、少々、体に負荷を与えるという、「便利な」製品を選びました。まあ、ほんの少しです、負荷は。本当はそんなものを使わずに、エッサカホッサカ拭いた方がいいのでしょう…けれども。

 ところで、学校です。学生たちが忘れた頃にやってきます。中には、ドアの向こうから(寒いのに、開けて入ってこようとせず)、ニコリと笑って、私たちが気づいてから、やおら入ってくる学生もいます。「お元気ですか」面白いですね。この一言が言いたいがために、そんなことをしているような、学生もいるのです。

 そのほかにも、いつもは来ようとせぬくせに、「戻ったら、一人だった。いつもは学校があるから寂しいとは感じないけれども、学校が休みとなると、やけに寂しい…」というわけで、用事もないのに、メールで「学校へ行きます」なんてのを寄越す学生もいます。

 それから、昨日、いざ帰ろうというころ、スーダンから来たという在日の方が、弟さんを連れて来ました(紹介者は、以前この学校で学んだことのある、在日のスーダン人女性です)。この、弟さんというのは、二ヶ月ほど前に、一度日本語を学びたいと彼の知り合いと一緒に来たことがあるのです。その時には、既に十月生の「ひらがな」「カタカナ」が終わっていたので、(彼が)尻込みをしてしまって、「いやだ。一月開講のクラスのほうににする」と言っていたのです。

 連絡なしでしたので、お兄さんの顔(初対面です)を見た時には、だれだろう、何しに来たのかな(だいたい、ドアを開けながらも、そして靴を脱ぎながらも、携帯電話での話をやめようとしなかったのです。当然、そこに出た私とは目で合図するしかありません)くらいだったのですが、少し遅れて入ってきた弟さんを見て、「あ、知ってる」で、安心しました。不審な人物ではない…まあ、当然ですけれども。

 お兄さんは二人とも日本にいて仕事をしていて、すでに15年になると言いますから、このお兄さんも、かなり日本語が話せます。けれども、系統的に学んだというわけではなさそうです。彼の話す日本語の文型が、どうも基礎的なもので、複文や重文を混ぜると、意味がくみ取れなくなるように見受けましたから。

 私は、その時、この二ヶ月を無駄にしないようにと、いくつかやり方を教えていたのですが、どうも、パソコン漬け(大学ではコンピューター専攻)の毎日を、彼の地にいる時と同じようにしていたそうです。

 お兄さんの方は、今、休暇でスーダンに帰っているもう一人のお兄さんと電話で話し続けています。ということは、彼が電話をしている間、私も、日本語を学ぶという弟さんも、暇なのです。彼らは、完全に二人の世界で話し合っているのですから。でも、わかったことがあります。スーダン人も大声で電話で話すのです。しかも、早口だは、興奮しているように見えるはで、最初は面白かったので、まねして弟さんに言って見せたりして笑いをとっていたのですが(失礼)、そのうちに飽きて、「はい、君、『あいうえお』を言ってごらん」と発音のチェックをしてしまいました。

 そのうちに、(電話での話をやめたお兄さんは)「先生、彼は大丈夫だろうか」と私に訊きにかかります。「彼の気持ち次第である。わかっているでしょう」というと、少しも困ったような顔をせずに、弟にガがガガガーッとものすごい勢いで文句を言います(いえ、叱りつけていると言った方がいいのかもしれません)。弟は、気弱げに、助けを求めるような目で、私を見ます。

 けれども、私だって、(お兄さん)同じです。アラビア語で、「頑張る」という言葉をお兄さんに聞いて、彼に言います。「ん、わかりますか。『シッドヘラ』でしょう」。最後はこれしかないのです。最初さえ頑張って、ある程度話せるようになりさえすれば、あとは面白くなるものなのです。どの民族の言葉であっても、同じです。

 言葉のわからない国で、一人、ぽつねんとコンピューターだけを友としてというのは、あまり美しい光景ではありません。それならば、話したい時に、だれかと語れる国へ行った方がいい。そう思うのは、一人私だけではありますまい。

 ヒトというのは、コミュニケーションなしには存在し得ない、またこれがうまくいかなかったら、生き続ける意思を失うかもしれない、そんなか弱い動物であるのですから。

日々是好日
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ソーユーモーの花」。 | トップ | 「大掃除」。「異文化とは」。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本語の授業」カテゴリの最新記事