日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

今年は例年に比べ…、もう、耳胼胝になっています。

2015-09-15 14:31:20 | 日本語学校
 晴れ。

 すっかり秋になりました。朝、夕は虫たちの大合唱。涼しげに聞こえます。

 今日も、気温は20度から25度くらいでだそうですし、湿度も、朝が84%、日中お日様が出てからは62%くらいに下がるそうですから、秋らしい爽やかな一日と言えるでしょう。

 とはいえ、教室も窓やドアを閉め切ると、蒸し暑くなってしまいます(何せ、初級のクラスは大きな声を出すのが仕事ですから、閉め切らざるを得ないのです)。ところが、タイの女子学生は、冷房をつけるのに、大反対。ベトナム、スリランカの男子学生は、暑いのをひたすら堪えていたようで、私が教室に入って、「ムッとする。暑くないですか」と問いかけると、途端に「暑いです」。「じゃあ、エアコンをつけましょう」とつけようとすると、タイの女子学生が「寒い~」と抗います。

 それで、男子学生の声が、ピタッと止まるからおかしい。二割の声が全体を制するというのも面白い。もちろん、暑いですから、「つけます。あなたたちは後ろ(冷房の風が至らず、日が当たるところ)に行きなさい」と、席替えをさせます。

 タイの女子学生は、セーターや上着を着ているのに、寒いようです。同じような気温なのに、他のクラスのフィリピンの女子学生は、「暑い、暑い」と言って、真っ先にエアコンをつけようとするのに。もとより、個人的な感じ方の相違は当然ですが、総じて、タイの学生は冷房を嫌い、他の国の人たちは、どちらでもいいという感じです。

 日本人は頭で冷房を拒む人はいても、やはり暑いとつけたくなる。

 オリンピックで競技場のエアコン等で、ものすごい電気使用量の話などを聞くと、東日本大震災のあと、ちまちまとエアコンを使っている私たちが馬鹿みたいに思えてきます。国家的行事だから、人民は我慢せいとなるのでしょうか。それはちょっと違うぜと言いたくなる。「みんなの一票があったから、あなたたちは月給をもらえているんでしょう。電気を使いたかったら、太陽光なり、地熱なり、風力なり、自分たちで作ってね。私たちの邪魔をしないでね」と言いたくなってしまいます。

 あのときは、避難所で苦しい思いをしている人もいるからと、夏場の、あの、蒸し暑い中、エアコンを使わずに病院に運ばれたお年寄りもいました。私たちにしても、できるだけ、電気を使わないようにしたり、堪らないときでも、エアコンの設定を二度か三度くらいあげて、電気使用量をどうにか減らそうと努力したりしていました。

 あれはどうなったんでしょうかね。使わないようにしなければというのが習慣になっているかにも思われる、一般庶民に比べて、あまりにも安直に考えているのではないでしょうか。のど元過ぎれば、なのでしょうか。

 国民のこういう努力が活かせるようなそういう政策を、知恵を絞って考えてほしいのに、中央では無駄遣いばかりしているような気がして、どうもいけません。

 どうしてこう乖離してしまったのでしょうね。数十年前には、普通の人の生活が、まだ判る政治家が多かったと思うのに。もっとも、その人たちも、自分の子や孫を同じように仕事に就けているわけですから、大したことはないのかもしれませんが。二世、三世になると、下々の者は知らねえとなってしまうのでしょうか。もう国民の生活と乖離した政治家はお蔵入りしてもらって、そろそろ新しい血がほしくなってきます。

 エネルギーにしても、「地産地消でやろう」という声が一時活発でしたよね。実際にそれを実行しているところもあると聞いています。海のそばなら、潮力や波力。風の強いところなら風力。温泉のあるところなら地熱、急流のあるところなら水車と、多彩な自然にとむ日本なら、同じように多彩なエネルギーがどうにかできそうな気がするのですけれども。

 そのための我慢なら、日本人ならだれでもできると思うのですけれども、また、爆発でもして、今度はどこかでまたたくさんの人が住処を追われ、生活の糧を失い、一家離散なんて状況でも起こったら、政治家はどの面下げて、100年後の人々に対せるのでしょうね。

 堤防決壊と言われた鬼怒川も、国の管轄下にあったと聞きます。避難所にまだいる老人が「我慢しなきゃね。こういう状況だから」と言っていた姿や、「うちは流されたけれども、皆、無事だった。感謝しなければね」と肩を寄せ合っていた人々を見るにつけ、国を守る、人々を守るというのは、どういうことなのかを考えさせられてしまいます。

 自衛隊って、災害から人々を守ってくれるから、人々は感謝しているんですよ。そして、助けられた子供たちは、自分も大きくなったら自衛隊に入って人々を助けたいって思っているんですよ。

 もちろん、日本だけが平和であることなんてできはしないことだけれども、この学校に来ている留学生たちを見ていると、彼らの皆が、日本の治安の良さを感じているのがよくわかります。

 戦争がないから、好きな勉強ができるのだし、テレテレと歩くこともできるのです。特別なお金持ちなどではない、ごくごく普通の人が、外国旅行に行ったり、年取っていても、仲間と山登りをしたりできるのです。

 平和を守るための努力というのは、何も戦いの準備をすることだけではない。人に脅威を感じさせ、手を引かせることだけではない。もちろん、世界には常識が通じない人たちもいます。人は皆平等だとか、誰の命も大切だとか、この日本にいても、それが分からない人もいます。でも、それとはちょっと話が違うなという気がするのです。

 外国から来た人たちを身近なものとして見、共に時間を過ごしたりしていますと、いつまでもこういう関係でいたいなあと思います。

 多分、日本が中国や東南アジアを侵略し、戦争を始めたときも、アメリカとぶつかったときも、その前は、こうやって、あっちへ行ったり、こっちへ来たりした人たちが、現地の人たちとごく普通の交友関係を築いていたことでしょう。

 戦いはそれまであったものを根こそぎ壊してしまいます。それはなにも、目に見えるものだけではありません。一番怖いのは、見えないもの、心にあるものを壊してしまうこと。

 仲良くしようと言い、本当にそうしたいと思っていても、その国の100人のうちの99人までが反対を叫んでいたら、人は思っていたことも口に出せなくなってしまいます。

 だからそのような世の中にしないこと。それしかないですよね。人とは弱いものなのですから。

日々是好日
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