日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

花のテーマパークが花盛りです。

2018-06-22 09:32:50 | 日本語学校

晴れ。

梅雨時には「稀な」晴れということで、今日はあちこちで洗濯物の花が咲くことでしょう。

昨今は、日本でも花のテーマパークが広がり、「スイセン(水仙)」「ウメ(梅)」、「ツバキ(椿)」、「サクラ(桜)」、「フジ(藤)」、「アジサイ(紫陽花)などの伝統的なものから、「シバザクラ(芝桜)」、「ネモフィラ」、「ツツジ(躑躅)」、「ユリ(百合)」、「バラ(薔薇)」、「ヒマワリ(向日葵)」などを集め、辺りを一色で染め上げ、何千、何万もの花が、一望できるというそんな景色を作り上げ、それを皆で楽しむというやり方が増えてきました。

そういう美しさに感動するにつけ、どこかしら不自然さを感じてしまうのも自然の一部分たるヒト故のことでしょうか。一色に染め上げられてるというのは、本来、無理な景色なのです、美しいことは美しいけれども…。

これは、有名になった途端、川沿いに咲いていり、畦に咲いていた花が、そのままの姿を保てなくなるというのと似ています。観光資源として公園化された中にその存在をおしこめられてしまうのです。もう完全な人工の産物と化してしまうのです。花は集められ、人々が歩きやすいように、歩道が整地され、設計された景色となってしまうのです。

人は、かつて、自然を模倣して「庭」を作ろうとしたのではなかったのかしらん。「山居」を求めて街中に作ろうとしたのではなかったのかしらん。それが、反対に、「山」や「丘」に、人工の「自然」を作ろうとしている。

不思議な気がします。開発される地が増えれば増えるほど、もしかしたら、人は「人工的な自然」を求めるようになるのかもしれません。…まあ、自然というものは、確かに怖いものですから、人工化されれば「いいとこ取り」したような気にもなったりする…。

とはいえ、山野を歩いている時、ふと目に入った景色、その中に「色(花)」があれば、それだけで、その場が特別なものになるのもヒト。雨が似つかわしい花、断崖絶壁に咲いてこその花もあることですし。

やはり、「野におけ 蓮華草」という考え方の方が、日本人には親しいような気がします。

さて、学校です。

昨年の「四月生」も一年を過ぎ、もうすぐ「日本語能力試験」を迎えようとしています。漢字圏の学生達の場合は、『初級』さえ、無事に通過できたら、あと「読解」なんて、本人の「母語の読解力」の有無によるなどと軽く考えることができていたのですが、「2級(N2相当)」以上のものでは。

ところが、非漢字圏の、そして途上国から来た人達に関しては、それが、なかなか、できません。できる人は本当に稀で、この学校に関して言えば、数人いたかどうかというところ。その数人も、母国で大学入試に成功しているか、あるいは在学中にこちらへ来たということで、高卒者と同列に論じることはできません。

「指示語」まではどうにかなっても、「接続詞」の理解がなかなか進まないのです。「これは母国のあれだな」という置き換えが、捗らないということが主な原因であるような気もすぐのですが。それから、文構造の問題で、「主語」が掴めないのです。文末の「動詞」から行くのが一番簡単なので、「だれが」と問いかけていけば、だいたいは分かります。しかしながら、次の「だれに」や、あるいは「主語」や「目的語」に修飾部分が係っていたりすると、もう混乱してしまいます。

この指導のための、いい問題集が、やっと出てきたので、今回、それを少し使ってみました。7月からは、下のクラスで本格的に入れることになっているのですが、使ってみると、「Aクラス」の学生にしてからが、だんだん声が小さくなっていきます。考えれば考えるほど分からなくなっていく…。

教師から見れば、この、「来日後、一年以上たっている。アルバイトでも基本的には困ることがそれほどない。日本人の話がだいたい聞き取れているつもりになっている」という人達が、一番の難物なのです。

「話す・聞く」時には、「相手の身振りや表情」が見えますから、馴れると、それで判断しているに過ぎないのですが、それがわからない。授業中、いくらそれを言っても、あるいは注意しても、おかしな自信は揺るがないのです。「テストの時に、いい点数が取れなければ分かるはず」と思えるのに、漢字が書けなくても、彼等の自信は覆ることがないのです。

おそらくは、外国語(この場合は英語)が話せる、聞き取れるとは言っても、彼等自身が、勉強して身につけたものではなく、子供のときから、映画を見て覚えたとか、観光客に話しかける周りの英語を聞いて育って耳が馴れたというような身につけ方だからでしょう。

外国語は、きちんと「勉強しなければ、だめだ」ということが分からないのです(悪い言い方ですが、努力も必要です)。遊びながら覚えた英語と同じように、聞いて話せれば、十分だと思ってしまう。「これでは、アルバイトができる程度の日本語でしかない」と言っても、わからない。彼等のレベルを測る物差しには、「読む・書く」が土台無いのです。

それが、本当に困ります。話せるだけの人なのに(初級レベルかせいぜいN3レベルでしかない)、本人も、その人を取り巻いている人もそれで満足しています。

問題集を通して、その都度その都度、分からせていくしか術はない(普通の人には)ような気がします。

まあ、レベルは低いくせに、「私は日本語が上手だ」と自惚れたまま、この地で生活していけるなら、それが一番幸せなのかもしれませんが、時々そういう卒業生が、日本人社員とうまくやれない(責任は日本人社員にある)と愚痴をこぼしに来ることがあるのです。

私たちから見れば、「日本人の話す言葉が正確に理解できないくせに、判っているふりをしているのが相手に分かるからだよ(それが度重なれば、若い社員は我慢できません)」なのですが、それを言っても、「わからない」ふう。

日本人でも年配者やもう退職している人は、「外国人が頑張っているなあ」と、かなり日本語レベルの低い人でも受け入れてくれるのでしょうが、若い日本人で、しかも同じ会社の社員であれば、(自分よりも10歳以上も上で日本語の下手な外国人が、いかにも何でも判っているふうに偉そうなことを言えば)反感を持たれてしまいます。

まずは、自分のレベルを知ること、そして努力をすること(それが謙虚さにもつながります)、これが大切になるのでしょうね。他に特別な技術や知識があるなら別ですが。

日々是好日
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 日曜日に、救急車で運ばれた... | トップ | 「『夏至』が過ぎると、途端... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本語学校」カテゴリの最新記事