日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「花咲か爺さん」。「花盗人」。「『大学院』へ行くことの意味」。

2010-05-10 12:17:12 | 日本語の授業
 今朝は昨日とうって変わり、心地良い風が涼しさを運んでいます。ふと花を散らした「ハナミズキ」の根元に、一輪のスズランが秘やかに揺れているのに気がつきました。いったい、どこの「花咲か爺さん(或いは、花咲かおばさん)」が植えたのでしょう。

 そういえば、子供の頃にも「花咲爺さん」なる集団があちこちに出没していましたっけ。自分の庭に花を植えるだけでは満足できず、散歩がてら、あちこちへ行っては、花の種を植えたり、播いたりしていましたっけ。最近はあまり聞きませんでしたが、やはり、各地に「隠れ花咲か」はいたのですね。

 いくら、花を植えるというのはいいことで、決して悪いことではないと言いましても、その地は他人様の持ち物であったり、公共の地であったりしますから、おおっぴらにできることでもなく、それ故にこそ、秘かな、得も言われぬ愉しみがあったのでしょう。

 秋になると、突然、辺り一帯がコスモスで覆われたり、春になると急に桜草が揺れたりすれば、皆驚いてしまいます。その驚く顔が見たいと、偶然知り合った花咲か爺様は言っていましたが。

 彼らは気づかれていないと思っていたようですが、それでも、隠れて「善事を為す」という、どこか高揚した気分が体全体に満ちあふれていましたから、私たち子供にもすぐに判りました。

 それと同じ頃、よく聞いていたのは「花盗人(はなぬすびと)は、罪には問われぬ」という言葉です。これは、花の好きな善人が、彼らなりの解釈で言ったものでしょう。 盗人(ぬすっと)にも、三分くらいの理(言い訳)はあるようで、特にそれが花盗人であれば、花を盗むのは、花があまりに美しかったからとなるようです。盗まれた方も、自分の植えた花があまりにすばらしかったから、という気持ちからか、三分ほどは盗人に譲るようです。まあ、皆が皆、そうなれるというわけでもありますまいが。

 しかしながら、それは、ある種の常識が通用し、世間一般にゆとりがあった時代のことです。昨今のように、「花咲か爺さん」の数はそれほど増えず、また、たとえ、そういう気があっても、(植えられて)すぐに目くじらを立てる人や公共団体が増えてしまえば、それこそ、花を播くということに、後ろめたい気分になってしまいます。昔話の「花咲か爺さん」のようにはいかなくないのです。おまけに、「花盗人」とは言われぬ「損得尽くのどろぼう」ばかりが目立つようになってしまえば、なおさらのことです。

 「山野草」のブームが起これば、野山に置かねばすぐに枯れてしまうような花まで根こそぎ盗んでいく人まで出現しているのですから。そうなれば、もう「花盗人は…」などと微笑んでなぞいられません。それこそ、「保護しかない」と、監視の目を光らせるしかなくなってしまいます。

「そのままに やはり野に置け 桜草」

 これは、あるときは「桜草」が「蓮華草」になったり、「山野草」になったりするのですが、もう、どれが「元句」であったのかわからなくなってしまいました。「本歌取り」のようにはいきませんが、どの花を置いても「野草」であれば、似合うのです。

 さて、学校では、来年の進学に備えて、去年来日した学生たちにいくつかの調査をしています。進路指導の参考にするためです。

 ふつう、中国人の学生は、「大卒」であれば、「大学院へ行きたい」と言います。そして、当たり前のように、「大学院」では「大学」で専攻したことと別の分野を学びたいと言います。もちろん、その分野について学んだことも、自分なりに勉強したこともありません。多分、中国においては通用するのでしょうが、日本ではそうはいきません。

 しかも、「大学院」と言うのですが、研究するという気持ちはあまりないのです。時々、この人たちは「大学院」というのは、何をするところなのか知らないのではないかと感じることすらあるのですが。もしかしたら、母国の「大学」在学中と同じようなことをしていればいいくらいに思っているのかもしれません。それで、日本にいられると思っているのかもしれません。当然のことですが、それは大きな考え違いで、中国の「大学」にいる時よりも、さらに勉強しなければならないし(しかも、自主的にです)、研究を進めていかなければなりません。

 特に専門分野が違うのに、他の分野の研究生になってしまった学生の場合、大変です。日本の大学院へ入る前の研究生段階で、音を上げてしまう学生が多いのも当然のことです。彼らの多くは、専門に関する知識も足りなければ、研究のやり方も知らないのですから。大学では、どういうレポートを書いてきたのだろうと、大学での「訓練」に疑問を感じることも少なくありません。

 多分、中国では「丸暗記」でどうにかできたのでしょうが、それで、日本の「大学院」でも、どうにかなるだろうと思って、「研究生」になったのでしょうが、なかなかそうは問屋が卸さないのです。一年か二年後の「修士」の試験に合格できないのです。私たちから見れば、「専門」に関する知識がないのに、よく合格できるはずだなんて思えるよなあというところなのですが。

 「大学に合格できる」のと、「大学院に合格できる」のとは、全く違います。「大学」では、ある程度平均的な能力があれば、そして、ある程度努力すれば入れるでしょうが、「大学院」へ入れるかどうかというのは、「大学」へ入ってからのその専門分野に関する勉強如何で決まります。専門分野での勝負なのです。平均的に、何でも「ある程度できていなければならない」ということもないのです。専門分野で、それに勝ち残ってきた人たちが、よりいっそう研究を深めるために行くところなのです。

 もちろん、日本にも様々な「大学」があり、それぞれレベルはかなり違います。「大学院」にしてもそうです。ただ、教授方は、その研究をより深めたり、学際的に幅を広めていこうという人たちがほとんどですから、「適当で」という考え方で来られたら、まず、嫌われます。また、「院生」の大半も、研究したくて来ているわけですから、(「院生」のグループの中でも)浮いてしまいます。

 「大学院」では、研究室の先生や「院生」仲間に嫌われたら、もう逃げ場はありませんから、それを心して大学院へ行きたいと言うべきなのです。

 それでも行きたいというのなら、まずは僥倖を期待しましょう。数打ちゃ当たるかもしれませんし。

 けれども、本当にその分野について勉強したかったら、「大学」に入り直すべきなのです。日本人はそうします。だいたいからして、全く専門的に学んだこともない普通の能力の者が、専門を四年間勉強して来た者と一緒に同レベルで、研究なんてできっこないでしょう。それは、少し考えればわかることだと思うのですが。

 そういうことが、一般的な中国人の大卒者に通じるようになるのは、いつのことでしょう。上海や北京から来た学生には判る人が増えているようですが。社会がもっと平均的に発展して、そういう常識が通用するようになるまでには、まだまだかなり時間がかかりそうです。いまだに、大半の大卒者は、その当たり前の事を説明しても、「でも、私は大学を出ています」で、思考停止になるのです。「いくら大学を出ていても、その専門を学んでいないのでしょうが!」が、通じないのです。

日々是好日
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