日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「クラス作り」。「『常勤』と『非常勤』の差」。

2009-04-27 08:02:47 | 日本語の授業
 今朝も、晴れです。
 昨日の大風が嘘のように凪いでいます。昨日のような大風が、もし北京なんぞであったなら、もうそれだけで、服は真っ黒、顔も煤で汚したようになるでしょうが、東京は楽です。外出して戻ってきても、「ああ、風が強かった」で、別にどうということもないのです。
 運悪く、公園や幼稚園、小学校のそばなどが、そばにありますと、(「砂場」が遊び場にありますから、その砂が飛んできて)悲惨なことになりますが、そうでない限りは、まあ、洗濯物も風に吹き飛ばされないようにしっかりとつけるのは面倒ですが、別にいつもとは変わりません。

 ただ、海岸沿いにある「東西線」だけは、だめです。「これくらいの風で、根性なしが」と呟きたくなるほど、風に弱いのです。(直ぐ海に注ぐ)川の上を走っているからでしょう、それも一つというわけではありません。少し風が吹くと直ぐに「徐行運転」に早変わりです。

 私も、ここ(行徳)に来て初めて、「風による徐行運転」なるものがあることを知りました。「葛西」あたりで地下に潜ってしまうので、風は関係なくなってしまうのですが、地上に出てくると、途端に風の強さに左右されてしまいます。科学技術がいくら進んでいると言っても、所詮、こんなものです。

 さて、学校です。
 新入生が多く入ったクラスでも、新入生だけのクラスでも、それぞれ少しずつ「クラスらしく」なって来ています。あともう少しといったところでしょう。

 これらのクラスに属している人達、つまり、「就学生」と「在日生」ですが、このうち、新しく入った「就学生」は、(四月に来たので、「四月生」と呼ばれます)は、これから、二年間、ここで勉強することになります。別のビザで日本にいる人には、この(「就学生」ゆえの)期間の制限というものはありません。

 ただ、在日の方であろうと、ここは、「学校」ですから、「○○教室」と言われる所とは、違うということをわかってもらわなくてはなりません。
 「○○教室」のように、「行きたい時に行く。お金を払っているのだから、遅れようとどうしようと、それは私の勝手でしょう」は通じないのです。ルールは守ってもらいます。

 「○○教室」ならば、教師は決められた時間に講義ないし、技術の実演を見せたりしているわけで、遅れたら、それだけ勉強できないだけのことです。遅れようが、不熱心であろうが、「互いに関知しない。よそ様のことだから」で済みます。「みんな頑張ろうよ」など言う気のいい人がいるかもしれませんが、それだけのことです。

 教師にしても、「クラス作り」などという面倒なことはしません。彼らは「専門家」であって、「教育者」ではないのですから。まず、「教えていくためには、どうしなければならないか」とか、「環境(これは抽象的な意味です)作り」とかを考えたりしません。専門に関する知識や技能がありさえすれば、それで事足りるのです。また、そこへ通う人もそれだけを必要としているわけで、あとはそれぞれの教師のお人柄というところでしょうか。それさえ十分であれば、人は集まります。散っていくのも早いでしょうが。

 ところが、「学校」と称される所に常勤している教師は、「それ」だけでは、いけないのです(「非常勤『教師』」は別です。その人達には、別に責任はありません。なぜなら、私がこれから言う意味での、期待はされていないからです。まず、条件は「毎日いて、学生を知っている」ということなのです)。

 「非常勤『教師』」は教室に行って、言うべきこと為すべきことをすれば、それでも十分なのです。それ以上は、学校側も要求すべきではないのです。毎日いて、学生指導まで担当しているわけではないのですから。彼ら(学生)の進路までの責任はないのです。与えられた「部分」を、そつなく教えることが出来ればそれでいいのです。
(本来、それはとても難しいことなのです。この場合、その教科書全体の流れは、自分のものではないのです。他者の流れの一部分とならねばならぬのです。私でも、その流れを自分のものとして引き戻すのに、10分くらい、時として、30分ほどもかかることがあります)。

 そういう「非常勤」という立場の教師でも、楽に授業が進められるように「クラス作り」をしておかなければならないのです。それをするのが、学校に常勤している教師の最初の仕事でもあるのです。

 今、「最初の」と言いましたが、ある意味では、これは「上がり」でもあるのです。
 なぜなら、これが一番難しいからなのです。「最後」に、また「ここ」へ帰ってくるのです。「クラス作り」が出来るほどの教師であれば、まずは「上がり」のレベルにいると言ってもいいでしょう。そういう人には、こちらといたしましても、何も文句は言えません。こういう業界では、それができない人が大半なのですから。
「(自分の知っている日本語の知識を)しゃべっていれば、それでいいのだ」と勘違いしている人が、多くを占めていると言っても過言ではないでしょうから。

 勿論、人生、明日、何が起こるかわかりません。しかし、どのような事があろうとも、「人事」は尽くしておかねばなりません。「天の力」をそれによって引き寄せることができる場合だって、ないわけではないのですから。

 ただ、この尽くせる「人事」も、教師によって、「天と地」ほどの開きがあります。その人の能力によって見える「高さ」が違いますから、当然、出来ることも違ってくるのです。それに、問題なのは、それに対する教師の理解力です。それらの能力がないか、まだ備わっていない人には、能力がある人の行動というものが、普通、理解できないものだからです。

日々是好日
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