日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「知恵とは何だろう」。「『ジコチュウ』はいけません。『ジコチュウ』は」

2014-09-29 09:32:56 | 日本語学校
 晴れ。

 秋晴れです。雲一つありません。

 御嶽山が噴火して死者も出たというのに、ここがこんなに穏やかで、爽やかで、いいのかしら。

 日本は本当に災害の多い国です。

 とはいえ、人が知恵を持ち始めると、できるだけ棲みやすくしたいと考えるようになりました。そこから、肉食獣と闘っていた時の記憶が甦り、「自然と闘う」なんて愚かなことを言い始めるようになったのでしょう。昔は(自然を)畏れ敬い、どうにか人間の棲んでいける処を見つけ、居させてもらうくらいの気持ちしかなかったでしょうに(自然と神とは同一でしたもの、どの民俗においても、太古は)。

 「闘う」のも嫌なら、「征服」なんてのも、嫌な言葉です。「津波がここまで来るから、、皆、ここから下(しも)には住むな」。人は体験を経験に変えて、後世の人達に伝えていったはずなのに、気がついたら、古文書は埋もれ、神社や寺の「津波の印」も苔に覆われて、刻まれた文字さえ判別できなくなっています。

 そして、調べたら、己の住んでいる場所が、昔は津波によく襲われていた処であったり、沼地であったりしたことが判るのです。けれども、もう生活は始まっています。今さら、大枚をはたいて、違う土地に家を建てることも、仕事を変わることもできません。

 始めっから、そこが、そういう土地であることが判っていたらとその時は思っても、「数百年に一度」という言葉に惑わされて、結局はその(危険な)土地に居続けることになるのでしょう。

 時々、「知恵とは何であろう」と思います。「津波はここまで来た。だから、ここより上(かみ)に住め」というのが知恵なのか。高い防波堤を延々と築き続ける技術が知恵の結晶なのか

 最近はよく「粘菌」の知恵(?)を使っての、科学技術の開発を耳にも、目にもするのですが。「粘菌ね…」何かあったとき、どちらの方向に逃げればいいのか、人よりも粘菌の方がずっと良く察知し、行動できる…ならば、人とは何なのだろう。「霊長類」なんて烏滸がましい名前は避けて通った方がいいのではあるまいか…とも思ってしまいます。

 人というのは本当に悩ましい存在です。

 さて、学校です。

 「Aクラス」では、だいたい私たちの言わんとするところが判るようになってきました。先日も、このクラスで、「シッポ」の話をしたのですが。

 日本人もこの地で生まれ、この地の習慣やものの見方、考え方などの「シッポ」を持っています。けれども、異国へ行ったとき、それが通用しないことが多いことも判っています(なぜか、日本人は自分達の考え方、見方が他国の人達とは違うはずだと思っていますから。…変ですけれども)

 ただ、日本も昔は「藩」なんてのがあって、その時はこの藩が「他国」でしたから、「他国者はわからん」なんて言っていました。今は、大半の人達が、小学校、中学校、高校、大学と上がるにつれ、その交際範囲が広がり、人に対する理解も深まっていきます。自分と違う人が多いぞということで、人に対する「既知」が減り、「未知」が増えていくのです。

 世界が拡がるにつれ、違う考え方の人達に出会う機会も増えていきます。急激に他者を理解するのではなく、少しずつ、まずは自分の国の中で、そういう経験を積み重ねていくのです。

 外国へ行っても、最初は、この「しっぽ」は硬く、大きく、色も濃い。しかも、何事かをなそうとするときに、すべて以前のやり方でやれと人に命令する。己の考え方がすべてであると決めつけ、他者の考え方を理解しようともしないし、そういう違う考え方があることを受け入れようともしない。

 それが、その地の言葉に習熟していくにつれ、その「しっぽ」はだんだん柔らかくなり、相手を受け入れられるようになっていく。透明とまでは行かなくとも、「色」も薄れて、形も曖昧になっていくのです。

 その国、その民族の「微妙な」言葉の遣い方がわかり、また使えるようになってくると、の話なのですが。

 これは、話せるだけでは難しい。そう思います。その国の書物が読めるようにならねば、やはりその国のこと、その民族のことはわからないのです。その国の言葉で書かれたものは、その民族の「叡智」であり、「宝」でありますから。それでも、これは相対的に判るだけのことでしょうが。

 10年、その地にいても、20年いても、やはり、生まれたときからの「シッポ」が薄れない人がいます。つまり、「水が欲しい」とかは言えても、相手を感じる言葉は遣えないのです。日本語は「感じる言葉」であり、「考える」と「感じる」は、日本語に於いては同義であるともいわれています。この「感じる」がないと、日本で暮らすことは難しいのです。もっともどこの国でも同じでしょうが。

 多様な歴史、文化・習慣を持つ人達が一緒に住むという考え方には反対ではありません。何事も一色はよくない。いろいろな国の人がいて、互いに尊重し合い、様々な意見を出しあった方が、社会は豊かになり、文化も発展していくと思います。が、ただ、日本人がやっとの思いで築き上げてきたものを、全く理解できない人は困るのです。自分(自国)流のやり方で、この地でも押し通そうとする人は、困るのです。その上、そういう人は日本人とだけではなく、他の国の人達とも摩擦を起こしがちになるものなのです。何事においても、「ジコチュウ」は、いけません。

日々是好日
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