晴れ。
雲一つないと言いたいところですが、真っ白な薄い雲が青い空をゆっくりと流れています。
昨日は朝から雨でした。しかも本格的な雨で、自転車で来た学生も、歩いて来た学生もあちらこちらが濡れていました。
そして、11時過ぎごろ、教員二人で、見送りの女子学生一人を連れ、ある学生を送りに羽田へ行ってきました。
「頑張ったね、さようなら。元気でね」というような別れではなかったので、どうも気が重かったのですが、彼女の説得もあり、本人はどうにかあきらめがついたよう。羽田に着いた時には、もう、以前の表情に戻っていました。
それから、大学の授業が終わってからすぐに駆けつけたという二人も加わって、四人で楽しそうにベトナム語でおしゃべりをしていました。日が暮れる頃、雲が切れ、富士山の輪郭がくっきりと浮かび上がって見えました。
日本に来る時も、三人一緒だったという男三人。多分、ベトナムに帰ってしまえば、いつも一緒にいられるはずもなきことながら、異国で共に年を重ねたというのは、曰く言い難い「因縁」めいたものが感じられるのでしょう、そこはそれ、特別な仲になっています。それで、取るものもとりあえず駆けつけたというわけ。
そして、見送りが終わり、羽田を出たのは、夜の10時半を過ぎていました。
疲れたことは疲れたけれども、もうこんな別れは嫌だというのが、実感。やはり、別れは涙が伴うものであれ、一方が、なにかしら不条理を感じたままというのは、どこか割り切れなさが残ってしまうのです。
国が違えば、物事に対する感性も違うし、また罪の意識も違ってくる。(日本では)こうなってしまったら、もう外国人がここで発展していくことはできない相談であると、日本人である私たちには、言わずもがなのことであるのに、彼等にはそう思えないのです。
大したことではないのに、どうして私はこんな目に遭うのかと、自分の不幸ばかりが目の前にちらつき、「申し訳ない」もなければ、だから新しくどうしたらいいのかも見えないのです。
こういうことになっても、今まで通りにできると、なかったことに出来ると思っているようにしか思われないのです。
とはいえ、「(だから)再起を期すには、国に帰るしかない。ここにいても何も出来ない」が、頭で理解できなくとも、(これは時間がかかります。こういう国の人は、もしかしたら、一生わからないことなのかもしれません)まずは、そういう状況に身を置かせるしかないのです。「(そんなこと)大したことじゃない…」という思いが、彼らの国ですでに養われている習慣から拭いきれないのです。
再起を期すには戻るしかない。もちろん、(これがわからないのは)言語の問題もあるでしょう。けれども、その前に、どうしても、「大したことじゃない、そんなこと」という考え方が、確固としてあるのです。だから、腹に落ちていかない…。
こればかりは、変えられない。すでに二十数年を、それが、当たり前の、彼等の国、母国で育って来ているわけですから。これは、彼らの国の問題であって、日本の学校の問題でも、日本の国の問題でもないのです。
ただ、難しいですね。私たちの方では、現時点で、彼にとって一番いいであろうと思われるやり方を、彼に勧めているわけですが、果たしてどこまで理解できたものやら。
彼が、羽田への車中で、語っていたとおり、コンピューターと日本語の勉強を真剣にやり、大学を卒業して戻ってきた彼女と新しい生活をやっていけるようになれればいいのですが。
さて、そんなわけで、2日間、「四月生」のクラスを見ていませんでした。「Aクラス」なんぞは、勉強する人はする、そうでない人は今まで通りと、この「今まで通り」というのがあるので、どこか心に余裕があるのですが、この「四月生」、来日後1か月が過ぎ、そろそろ「地」が頭を擡げはじめる頃。擡げだした人も既に三人ほどいるので、油断大敵なのです。
擡げたなと思ったら、コツンと一叩き。どうにかなる人はそれで、一度引っ込みます。けれども、どうにもならない人はそれくらいのものでは屁とも思っちゃいません。ただ擡げの角度、高さはしばらくは「心持ち遠慮」が続くでしょう。
擡げたと思ったら、コツン。ちょっと鎮まって、また擡げた時、コツン。これの「繰り返し」なのです。
ただ、異国人同士、そうは言っても、見えないところも多いのです。時には勘違いしていて、その手を緩めすぎていたり、コツンやらずに待った方が良かったのに、コツンとやってしまったりと、毎日が、本当に、初めてのことが重なっていきます。
100年生きていようと、1000年生きていようと、新しい日は、だれにとっても初めてのことばかりとはよく言ったもの。
皆、その中で右往左往しているのですから、1000年には遠く及ばない洟垂れ小僧程度の私が、時にはにっちもさっちもいかなくなるのも理。まあ、そう思いながらやっていくしかないのでしょうが。
日々是好日
雲一つないと言いたいところですが、真っ白な薄い雲が青い空をゆっくりと流れています。
昨日は朝から雨でした。しかも本格的な雨で、自転車で来た学生も、歩いて来た学生もあちらこちらが濡れていました。
そして、11時過ぎごろ、教員二人で、見送りの女子学生一人を連れ、ある学生を送りに羽田へ行ってきました。
「頑張ったね、さようなら。元気でね」というような別れではなかったので、どうも気が重かったのですが、彼女の説得もあり、本人はどうにかあきらめがついたよう。羽田に着いた時には、もう、以前の表情に戻っていました。
それから、大学の授業が終わってからすぐに駆けつけたという二人も加わって、四人で楽しそうにベトナム語でおしゃべりをしていました。日が暮れる頃、雲が切れ、富士山の輪郭がくっきりと浮かび上がって見えました。
日本に来る時も、三人一緒だったという男三人。多分、ベトナムに帰ってしまえば、いつも一緒にいられるはずもなきことながら、異国で共に年を重ねたというのは、曰く言い難い「因縁」めいたものが感じられるのでしょう、そこはそれ、特別な仲になっています。それで、取るものもとりあえず駆けつけたというわけ。
そして、見送りが終わり、羽田を出たのは、夜の10時半を過ぎていました。
疲れたことは疲れたけれども、もうこんな別れは嫌だというのが、実感。やはり、別れは涙が伴うものであれ、一方が、なにかしら不条理を感じたままというのは、どこか割り切れなさが残ってしまうのです。
国が違えば、物事に対する感性も違うし、また罪の意識も違ってくる。(日本では)こうなってしまったら、もう外国人がここで発展していくことはできない相談であると、日本人である私たちには、言わずもがなのことであるのに、彼等にはそう思えないのです。
大したことではないのに、どうして私はこんな目に遭うのかと、自分の不幸ばかりが目の前にちらつき、「申し訳ない」もなければ、だから新しくどうしたらいいのかも見えないのです。
こういうことになっても、今まで通りにできると、なかったことに出来ると思っているようにしか思われないのです。
とはいえ、「(だから)再起を期すには、国に帰るしかない。ここにいても何も出来ない」が、頭で理解できなくとも、(これは時間がかかります。こういう国の人は、もしかしたら、一生わからないことなのかもしれません)まずは、そういう状況に身を置かせるしかないのです。「(そんなこと)大したことじゃない…」という思いが、彼らの国ですでに養われている習慣から拭いきれないのです。
再起を期すには戻るしかない。もちろん、(これがわからないのは)言語の問題もあるでしょう。けれども、その前に、どうしても、「大したことじゃない、そんなこと」という考え方が、確固としてあるのです。だから、腹に落ちていかない…。
こればかりは、変えられない。すでに二十数年を、それが、当たり前の、彼等の国、母国で育って来ているわけですから。これは、彼らの国の問題であって、日本の学校の問題でも、日本の国の問題でもないのです。
ただ、難しいですね。私たちの方では、現時点で、彼にとって一番いいであろうと思われるやり方を、彼に勧めているわけですが、果たしてどこまで理解できたものやら。
彼が、羽田への車中で、語っていたとおり、コンピューターと日本語の勉強を真剣にやり、大学を卒業して戻ってきた彼女と新しい生活をやっていけるようになれればいいのですが。
さて、そんなわけで、2日間、「四月生」のクラスを見ていませんでした。「Aクラス」なんぞは、勉強する人はする、そうでない人は今まで通りと、この「今まで通り」というのがあるので、どこか心に余裕があるのですが、この「四月生」、来日後1か月が過ぎ、そろそろ「地」が頭を擡げはじめる頃。擡げだした人も既に三人ほどいるので、油断大敵なのです。
擡げたなと思ったら、コツンと一叩き。どうにかなる人はそれで、一度引っ込みます。けれども、どうにもならない人はそれくらいのものでは屁とも思っちゃいません。ただ擡げの角度、高さはしばらくは「心持ち遠慮」が続くでしょう。
擡げたと思ったら、コツン。ちょっと鎮まって、また擡げた時、コツン。これの「繰り返し」なのです。
ただ、異国人同士、そうは言っても、見えないところも多いのです。時には勘違いしていて、その手を緩めすぎていたり、コツンやらずに待った方が良かったのに、コツンとやってしまったりと、毎日が、本当に、初めてのことが重なっていきます。
100年生きていようと、1000年生きていようと、新しい日は、だれにとっても初めてのことばかりとはよく言ったもの。
皆、その中で右往左往しているのですから、1000年には遠く及ばない洟垂れ小僧程度の私が、時にはにっちもさっちもいかなくなるのも理。まあ、そう思いながらやっていくしかないのでしょうが。
日々是好日