卒業式です。
今は雨が止んでいますけれども、今日は一日中、雨だそうです。
こういう「式」の日に、雨が降ると、「遣らずの雨」だのと、すぐ風流なことを考えてしまうのは困ったこと。どうも日本人はいけません。もとより学生達はそんなこと、全く考えていないようです。
彼らを見ていると、日本人は、(何ごとによらず)区切ることが好きな民族であるような気がしてきます。それは楽しいからとか、規則だからとか、何かそんなこととは関係なく、一年が過ぎると去年のことをすべて水に流して(忘れ)「新しい人生」が始められるような気になってしまうような、そんな気分に近いようなものかもしれません。
だから「去年今年貫く棒のごときもの」とか、去年も今年も、そして来年も繋がっているんだよとわざわざ言わなくてはならないのでしょう。
一区切りごとに「新生」するような、人間が新しくなるような、そんな思い込みが生まれてしまうのはどうしてでしょうね。
そこへ行きますと、南国から来ている学生達、1月でも8月でも同じような暑さという国から来た人たちは何を区切りに生きているのか、どこか掴みかねるところがあります。
季節には頼れないとなると、そこは無理をしても、宗教的なものとか、年齢で区切らざるを得ないのでしょう。
日本なんて「年齢」で区切らなくとも、季節の移り変わりで、区切れてしまうのです。花が咲き、散り、木の葉が芽吹き、散っていく。しかも途絶えることなく、わずかずつ、ズレるように陽は移ろい、季節は変わっていく。儚さも、逞しさも、自然の移ろいの中にすべての答えがあるような。それ故に見ずとも良いものさえ、自然の中に見いだそうとし、見つけてしまう(ごり押しのような振る舞いかもしれませんが)のかもしれません。
卒業式も、学生達にとってみれば、単なる「パーティ」に過ぎぬのかもしれません。お「引っ越し」なのです。それに意気がって意味をつけているように見えるかもしれません。
しかしながら、(彼らは)日本で、あと数年は生活するわけですし、うまく大学を卒業できれば、片足は日本、もう一方は自分の国ということになるかもしれません。
「『入学式』や『卒業式』は、『幼稚園』でも、『小中高(学校)』でもあるよ。もちろん『大学』でも。そして『会社』に卒業式もあるよ」というのは、彼らにとって、どこか不思議な気がすることなのかもしれません。
しかしながら、こういう、「区切る」ことで、いくつもの人生を生きていこうとする日本のやり方に少しずつ慣れていってもらわなくてはね。
その一つが、「卒業式」なのです。
日々是好日
今は雨が止んでいますけれども、今日は一日中、雨だそうです。
こういう「式」の日に、雨が降ると、「遣らずの雨」だのと、すぐ風流なことを考えてしまうのは困ったこと。どうも日本人はいけません。もとより学生達はそんなこと、全く考えていないようです。
彼らを見ていると、日本人は、(何ごとによらず)区切ることが好きな民族であるような気がしてきます。それは楽しいからとか、規則だからとか、何かそんなこととは関係なく、一年が過ぎると去年のことをすべて水に流して(忘れ)「新しい人生」が始められるような気になってしまうような、そんな気分に近いようなものかもしれません。
だから「去年今年貫く棒のごときもの」とか、去年も今年も、そして来年も繋がっているんだよとわざわざ言わなくてはならないのでしょう。
一区切りごとに「新生」するような、人間が新しくなるような、そんな思い込みが生まれてしまうのはどうしてでしょうね。
そこへ行きますと、南国から来ている学生達、1月でも8月でも同じような暑さという国から来た人たちは何を区切りに生きているのか、どこか掴みかねるところがあります。
季節には頼れないとなると、そこは無理をしても、宗教的なものとか、年齢で区切らざるを得ないのでしょう。
日本なんて「年齢」で区切らなくとも、季節の移り変わりで、区切れてしまうのです。花が咲き、散り、木の葉が芽吹き、散っていく。しかも途絶えることなく、わずかずつ、ズレるように陽は移ろい、季節は変わっていく。儚さも、逞しさも、自然の移ろいの中にすべての答えがあるような。それ故に見ずとも良いものさえ、自然の中に見いだそうとし、見つけてしまう(ごり押しのような振る舞いかもしれませんが)のかもしれません。
卒業式も、学生達にとってみれば、単なる「パーティ」に過ぎぬのかもしれません。お「引っ越し」なのです。それに意気がって意味をつけているように見えるかもしれません。
しかしながら、(彼らは)日本で、あと数年は生活するわけですし、うまく大学を卒業できれば、片足は日本、もう一方は自分の国ということになるかもしれません。
「『入学式』や『卒業式』は、『幼稚園』でも、『小中高(学校)』でもあるよ。もちろん『大学』でも。そして『会社』に卒業式もあるよ」というのは、彼らにとって、どこか不思議な気がすることなのかもしれません。
しかしながら、こういう、「区切る」ことで、いくつもの人生を生きていこうとする日本のやり方に少しずつ慣れていってもらわなくてはね。
その一つが、「卒業式」なのです。
日々是好日