日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『クラス』作りがまだできない」。「母国からの習慣、カンニング」。

2011-10-19 10:28:19 | 日本語の授業
 今朝は寒い。窓を開けるやいなや、冷たい風が入ってきて、イヌの子のようにぶるっとしてしまいました。全く、秋という季節は…予測がつきません。天気予報を、毎日、見るには見ているのですが、どうも右の目は開けて、左の目を閉じるというふうにしか、見ていないようで、すぐに、あしたはどうなる予定(?)なのか忘れてしまいます。そして翌日は、「おおっ」とばかりに、寒さ暑さに驚き、この驚くという新鮮さにまた感動したりしています。

 今、空は厚い雲に覆われています。けれども黒ではなく、やさしげな色をしています。子供の時、図画工作の時間に、失敗して散らしてしまったような、青味を帯びた水彩の灰色の空です。こういう空には、確かに、ほのかに赤味や黄味を帯びた、近頃の木の葉が似合うようです。

 さて、学校です。
「テスト」や「ディクテーション」の時に、「隣の人に聞くな」とか、「隣の人のノートや解答用紙をのぞき込むな」とか言わなければならない…ということに、大きな疲れを感じています。

 しかも、相手は、子供ではなくて、大人です。母国で高校を出ている人たちです。学校で何をしていけないかぐらいかは学んでいるはずだと日本人が思ってもいい年齢に、既に達しています。「そういうことは、してはいけない」という考え方ができないことに、よけいにイライラしてしまいます。

 私の方では、こういう理由でイライラしているのですが、向こうは向こうで、「どうして、こんな、瑣末なことに、つまり、どうでもいいことに文句を言われなければならぬのか」と不満に思っているらしく、その様子がうかがえますから、それはそれで、またカチンときてしまいます。

 彼らの言い分というのはこうです。
「見たっていいじゃないか。双方が、損をするわけじゃあるまいし。それでいい点を取れば、教師の方だって、その場がしのげるし、文句はないはずだ」

で、それを聞いたこちらが、
「そうではない。皆も自分がどこがわかっていないかがわかるし、私たちも皆の問題点がどこにあるかがわかる。そうすれば、そこを強化すべく授業構成や内容を変えていける」

ところが、向こうは、
「そんなこと、関係ない。だいたいそれがどうして必要なのだ。いい点さえとっていれば、つまり形がでていれば、それでいいじゃないか」

「それでいいのではない。表面を糊塗したところで、本当の試験の時にはどうするのだ。そんなことは何の役にも立たない」

 そう言っても、相手は(本番試験でも)どうにかなるとしか思っていないようなのです。ただ、どうも、彼らは非常に無邪気で、いい点を取ったと言って喜びたいがために、そうしているとしか思えないようなところもあるのです。それが証拠に、悪い点を取るのは嫌だから、進学に必要であろうとも、「日本語能力試験」や「留学生試験」を受けない人もいるのです。多分、だれかが教えてくれていい点が取れるなら、受けるでしょうが、これは進学に有利とか不利とかに関係なく。

 実際、彼らの国ではそういうやり方でどうにかなる、そういうやりかたでなければ動かないような社会システム(?)なのかもしれません。あるいは、いわゆる「慣例」というやつなのかもしれませんが。

 だいたい、彼らの国には「カンニング」というくらい響きを持った概念自体がないのかもしれません。そうすることが当然であって、みんなそれをしていれば、「そんなことをするのは卑怯だ」とか、「そんなことをしたら、わざわざテストをする意味がない」などと考える人がいないでしょうから。

 というわけで、お互いに不愉快になって終わりです。幾度繰り返しても、平行線です。何が大丈夫かはわかりませんが、最後には必ず
「先生、大丈夫だから」と言います。

 私にしてみれば、敗北感に包まれたような徒労感を味わって終わりです。こういうのは疲れます。とても疲れます。大海に石を投げ込み、陸地にしようとするようなもの、あるいは、ひしゃくで大海の水を汲み上げ、海を干し上げようとするようなもの。

 去年から、あの国の学生が、入ってきていますから、一年前から、彼の国の学生たちと、延々と繰り返してきた「会話」を、今年も、またしているという勘定になります。無益ですかね。愚かしいと判っていてもしなければならぬことはありますし、言わなければならないこともあるのです。もしかしたら、100人いるうちの、一人でも判って変わってくれるかもしれませんから。

 ただ、そうは言いましても、同じことを毎日繰り返しているのは、互いに辛い。で、時々休みます。昨日は、カッカカッカと来てしまい、「これはいけない」、で、今日はやめるつもりです、よほどのことがない限り。

 なぜかといいますと、こういうことを続けているうちに、自分がどんどん嫌な人間になっていくような気がして、本当に、精神衛生上、悪いのです。しかも立場上、高圧的な態度をとらざるを得ない時もあり、もし、それが習慣になってしまって、普通の日本人に対して、そういうことをしてしまったら、それこそ私の方が友だちを失ってしまいます。

 ただ、また今年になって、一月、四月、七月、十月と学生が来ていますから、またその繰り返しを、飽きることなく続けざるを得ないでしょう。

 この18年以上を過ごしてきた彼らの国の習慣というのは、そんじょそこらの力で変えられるものではないことは、私でもわかっているのですが。どれほど口を酸っぱくして言っても、「そういうことは、いけないのだ」とは思えないようですから。ですから、私が見ているときにはしなくとも、見ていなければ直ぐにしますのです。ばれるようなやり方でしかできないので、直ぐに判ってしまうのです。またばれても平気なのです。それが常識になっている社会というのは、私たちから見れば恐ろしい。

 とはいえ、同じ国で、ご主人の仕事の関係で日本に来ているという大卒の女性が二人、この学校で勉強していたことがあるのですが、その二人とも、そういうことをしませんでしたから、この日本語学校に来ている学生だけがそうなのかもしれません。しかし、彼らだけがして、同国の他の人たちはしないというはずもありません。彼ら曰く、「皆同じ。みんなしているのに、どうして先生は文句を言うのだろう」

 違いは大卒かそうでないかだけなのかもしれません、彼らの言葉から考えますと。もしかして、大学に入れて初めてそういうことを学ぶのかもしれません、これは恥ずべきことで、してはいけないのだと。

 いくら言っても埒が明かないので、結局は、「そんなことをしたら、『留学生試験』も『日本語能力試験』も、採点してもらえない。即、退場で終わりだ」という脅しめいた言葉でしめくくるしかないのです、悲しいことに。

 難しいですね、こういうことは。日本人も彼らの国では皆と同じように、カンニングをしたり、させたりしなければならないのでしょうか。試験中、教えてと言われて拒否できるほどの力を、その国では異国人たる日本人が持てるでしょうか。「いいよ」と、つい、いい人ぶってしまい、そういうことを数年繰り返しているうちに、もう日本では使い物にならないような人間になってしまうのではないでしょうか。怖いですね、こういうことは。

 それからもう一つ。
 机の上のごみを、手で下に払い落とす、その習慣も、説教の対象になるのですが、文句を言われても、その意味が掴めない人がいます。下がゴミだらけになるでしょうと言っても、机の上がそうでなければ、気にならないようで、平気です。そんなことをすれば、アルバイト先でも、進学先でも、日本人から冷ややかな目で見られます。

 おそらくそういう目で見るのは日本人だけではないでしょうが。

 もっとも、こういう生活上のことは、教員達みんなの力で、少しずつ変わってきています。が、学習に関することだけは、なかなか変えられないのです。「宿題」も、「漢字」も書かない、見るだけ。そして、「判った」と言います。「漢字は、いつも書かないと直ぐに忘れる」と言っても、「もう勉強した。できる」と言います。当然のことですが、試験の時には書けません。が、「どうして」とわけがわからないという顔をしています。

 その上、もう一つ。
「Dクラス」では、上のクラスから下りてきた人もいるのですが、教科書の問題を一緒にしているとき、10月生が考えているのに、大声で先に答えを言ってしまうのです。「初めての人がまだ考えているから」と言っても、不満げな顔をしてふくれてしまいます。それで、10月生が判るまで、ヒヤリングなどは繰り返し、聞かせているのですが、「もう判っている」とこれ見よがしに言います。何度か腹に据えかねて(どうして待ってやらなければならないのかという説明はもう先にしてあります。最初は相手のことを考えてあげてねというふうに言っていたものですが。私がそういう態度をとるのは、その後でです)、無視して進めたこともあります。が、そうしてしまったあと、これは私が気が弱いせいもあるでしょうが、どこかいつまでもそんなつまらないことが後を引いてしまうのです。

 こんなことをしていては、いつまでも「互いの立場を思いやりながら学んでいく」というクラス作りができないのです。「Dクラス」では二人以外はみな彼の国の人たちですから、どうしても、そういうやり方は日本では通用しないと言うことがわからないのでしょう。これは、彼の国から来た人達だけの問題ではありません。同国人の、クラスに占める割合が一定以上になりますと、どこの国の人であれ、出てくる問題です。。

 ただ、彼らの、こういう習慣も、彼らが変われる変われないにかかわらず、しつこく言っていくしかありません。この学校に来てしまって、居るのですから。

 まだまだ、精神的な疲れは続きそうです。できることなら、私が、もっとずっと嫌な人間になる前に、変わってもらいたいのですが。

日々是好日
コメント
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